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    青山久人投手の近況(2008年6月・・50才)

甲子園で力投する青山投手=1975年8月

あおやま・ひさと 75年、57回大会で県立の国府のエースとして甲子園に出場。下手投げの速球派で、細身の体から「青えんぴつ」の愛称で知られる。76年、中日に入団。85年に南海(現ソフトバンク)に移籍。87年のシーズン限りで現役を引退。現在は、実家の岡崎市で会社員。

●要所で流れをつかめ

 私の時代は私学勢、特に中京(現中京大中京)の強さが抜きんでていました。「打倒中京」が合言葉。甲子園に出た時の愛知大会では、3回戦で中京に勝ったことでチームに勢いが出たと思います。
 試合前日に後輩の先発が決まって、悔しさと勝てるかどうかの不安で眠れなかった。私は3回途中から登板。結果的には4―0で完封リレーです。あの悔しさと不安が、逆に「勝ちたい」という心につながったのではないかな。
 2回戦で享栄、5回戦は名電工(現愛工大名電)、決勝が愛知と、私学の強豪を破った。実力で勝ち得た甲子園だったと今でも思います。
 地元の県立高校の甲子園出場で、国府の街(豊川市)の盛り上がりはすごかった。愛知大会で優勝して、熱田球場からタクシーに分乗して国府の駅へ向かうとすごい人だかり。その後にパレードもしましたが、皆さんが本当に喜んでくれたのを覚えています。
 甲子園では柳井商(現柳井商工・山口)と対戦。前半は国府が押せ押せだったけれど、点が取れなかった。
 8回、相手に好機があって、でも、それを三塁牽(けん)制球で三本間に挟んだのです。ところが、本塁で深追いしすぎてそれが決勝点。試合が終わっても「なんで整列しているの、もう試合やらないの」と思うほどで、悔し涙も出ませんでした。
 宿舎に帰ってからチームメートに「お前、悔しくないのか」と言われて、初めて涙が出てきました。
 1回戦で敗れたのに、大会後の日米親善高校野球のメンバーに選ばれた。球威と制球が評価されたのです。甲子園、そして米国遠征での投球が評価されてその後、プロ入り。甲子園に出たことで人生が変わりました。
 人生でも野球でも、何事にも「流れ」がある。後はその流れをどうつかむか。要所を押さえれば、結果は出るはずです。そんな気持ちで試合に臨んでもらいたいですね。



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