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      国府高校野球部関係者が32年前の熱い夏を語る(2007年6月24日)


          

【東日新聞ホ−ムペ−ジ】

 来月から全国高校野球選手権大会愛知大会が始まる。 甲子園出場をめざし、 今年も熱い戦いが繰り広げられるが、 いまから32年前の1975 (昭和50) 年夏、 東三河の国府高校が甲子園に出場した。 すでに伝説に近い話になりつつあり、 こうしたことに危機感を抱いた当時の野球部部長、 監督、 OB会会長、 OBら7人は2007年6月23日、 豊橋市柱7番町の光島稔監督 (当時) の会社に集い、 甲子園出場のエピソードなどを語り、 「東三河から甲子園への夢よ再び」 と熱いエールを送った。

 出席者は、 甲子園出場当時の野球部長・藤田良彦氏、 監督だった光島稔氏をはじめ、 初代野球部OB会長・竹内一男氏、 元OB会長・伊藤隆康氏、 現OB会長・平根克夫氏、 甲子園出場のエース・青山久人氏、 青山氏の2年先輩・山田浩二氏。

 甲子園出場について、 藤田部長 (当時) は 「国府に来て10年目、 時習館も入れると、 22年目の夏に、 愛知県代表になった。 生徒は地元の子供たちばかりだったが、 そのころの3人はプロに行った。 いい生徒とめぐり会えた。 32年目であるが、 あっという間に過ぎた感じで、 まだそのときの熱はさめていない」 と語った。

 竹内氏は 「OB会を呼びかけ、 結成即甲子園出場となった。 OB会ができたことで、 現役との結びつきも強くなり、 OBがグラウンドで練習の手助けをする機会も増えた。 OB会としては、 甲子園に出たことで、 胸を張って歩けるようになった」 と効用を話した。

 現OB会長の平根氏は 「新入生が入ると、 青山、 市川君 (バッテリー) が入部した時の 『甲子園にいくという夢を持って取り組んでいた』 という話をしている。 甲子園に出たことはすごいことだった」。

 エースとして甲子園のマウンドに立った青山氏は 「高校野球の夢は甲子園で、 これしかないと思ってやってきた。 OBも熱心に練習に参加し、 一緒に野球をやっていた」 と当時を振り返った。 いまの高校生については 「中京が強い、 (愛工大) 名電が強いと、 強いチームのことばかり言う。 だから倒せないと思う」 と戦う強さを持つことを強調した。

 国府高校以来、 東三河から甲子園に出場している高校はない。 しかし、 今春の甲子園大会のように決勝戦で投げ合った両チームのエースはともに東三河出身の選手であり、 「国府高校の記憶があるうちに甲子園出場を」 と出席者は語っていた。

【東愛知新聞ホ−ムペ−ジ】

 後世に「わが甲子園」を伝えたい―。1975(昭和50)年の夏に甲子園出場を果たした国府高校野球部の部長、監督、選手ら7人が23日、当時監督だった豊橋市柱七番町の光島稔さん方に集まり、32年前の「熱い夏」を語り合った。
 「すでに32年。いま語り合わねば、語る機会がなくなるかも」とする光島さん(59)の呼びかけに、当時野球部長だった藤田良彦さん(77)とエースだった青山久人さん(50)が応えた。
 また、青山さんの2学年上で当時、大学に通いながら練習を手伝った山田浩二さん(51)ほか、「甲子園に行かせるぞ」と予選の1カ月前にOB会を結成した竹内一男さん(73)、家業の呉服店を家族にまかせてノックバットを振るった伊藤隆康さん(67)、出場が決まるや寄付集めに奔走した平根克夫さん(69)も駆けつけた。
 気心の知れた間柄だけに和気あいあい。「こいつらを見た瞬間、甲子園に行けると直感した」と藤田さんが口を開くと、「ぼくも絶対に甲子園に行くつもりでしたからね」と青山さん。早朝からノックバットを握った伊藤さんは「練習に熱が入りすぎて、女生徒から『いじめないで』と懇願されたよ」と笑わせた。
 いまもファンの間で語りぐさになっている、青山投手を先発から外しての、対中京(現・中京大中京)戦についても熱い会話が飛び交った。
 藤田さんの「光島監督と相談して市川捕手の先発を決めた。青山は中京戦に不安があったから」の言葉に、青山さんは「部長から聞かされたときカチンときた。それで当日は市川よりも早くブルペンに行き、自分の意気込みをアピールしたんだ」と青春の血をたぎらせるように、熱っぽく語った。
 最後に話題は国府高校以来32年間、春夏あわせると東三河からは連続62期甲子園から遠のいていることに。青山さんは歯がみしながら「ぼくらは『絶対に中京を倒して甲子園へ行く』、その気概で練習に励んだ。ぜひ、いまの球児も大きな夢と強い気概を持ってほしい」と切望した。

【中日新聞ホ−ムペ−ジ】

 一九七五(昭和五十)年夏の甲子園に出場した国府高校(豊川市)の選手や監督、当時のOBら七人が二十三日、豊橋市内で三十二年ぶりに再会し、思い出を語り合った。

 集まったのは、当時の部長の藤田良彦さん(77)、監督の光島稔さん(59)、エースだった元中日ドラゴンズの青山久人さん(50)。スタンドで声をからした当時のOB会長の竹内一男さん(73)はじめ、伊藤隆康さん(67)、平根克夫さん(69)=現OB会長、山田浩二さん(51)ら当時のOBも加わった。集いを呼び掛けた光島さん宅に岡崎や豊川から駆け付けた。

 家業の畳店の傍ら監督を務めた光島さんをはじめ、伊藤さんや山田さんも仕事や大学での学業を抱えながら、早朝から夜までグラウンドで練習につきあい、選手たちを支えた。青山さんは「夢を果たせたのは、サボり気味の自分をOBが熱心に引っ張ってくれたおかげ」とあらためて感謝していた。

 チームは初戦で惜敗したものの、当日は六千人の応援団が最後まで大声援を送った。藤田さんは「あっという間の三十二年だった。あのときの熱はいまだに冷めていない」とほおを紅潮させて話した。



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