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 昭和50年(1975年)の第57回全国高校野球選手権大会に、時習館高校野球部OB 藤田良彦部長、同 光島稔監督が率いる国府高校が愛知県予選を制し、全国大会に出場した。この甲子園出場を記念して、下記の「出場記念誌」が後援会から発行された。
 当時の野球部長藤田良彦先生(筆者の時習館時代の2年先輩)から、この「出場記念誌」を借用しましたので、紹介することにしました。



               第57回全国高等学校野球選手権大会 出場記念誌

                             愛知県立国府高等学校
                           
                              1975年(昭和50年)

              国府高校を甲子園に導いたのは時習館野球部のOBコンビだった

                             
                   藤田良彦部長(時習館1回生)    光島 稔監督(時習館18回生)

藤田良彦部長の簡単な紹介

 藤田部長は時習館高校の第1回生(昭和24年3月卒業)で筆者の2年先輩である。
 終戦の翌年の、昭和21年には、戦時中中断していた中等野球が復活することとなった。豊橋中学(時習館高校の前身)でも全国に遅れじと野球部が復活し、藤田も早速野球部に入部した。この年の愛知県予選は初戦の起工業に9:4で敗北、9月発足の新チームでは藤田は主将となった。時を同じくして、一宮中学から渥美政雄先生が当校に赴任された。先生は東邦商業で2回、滝川中学で3回、一宮中学で2回と計7回も甲子園に駒を進められた名監督である。
 翌昭和22年夏の愛知県予選は2回戦で豊川中学に 4:2 で敗退したが、渥美監督のもと、めきめき実力をつけ、昭和23年の藤田最後の夏の愛知予選では、津島、南山、愛知商、名文理、千種工を連覇して、決勝戦は享栄商と争ったが健闘空しく 5:1 で敗退、甲子園出場の夢は絶たれた。そして、藤田は名古屋大学へ進学する。
 昭和27年になって、ようやく渥美監督の時習館野球は開花した。翌28年と2年連続して春の選抜大会に出場したのだ。この昭和28年春に藤田は名古屋大学を卒業、母校時習館高校に奉職となった。藤田は就任式を済まさずに、甲子園のベンチに座ったのである。
 選抜大会から戻って、渥美監督は部長に、藤田が監督となって、野球部を指導することになる。渥美先生は昭和31年(1956年)3月まで部長を務められ、県教育委員会に転任された。
 渥美先生が時習館を去った直後の、昭和31年夏の愛知県予選は、碧南、惟信、愛知商、豊川、一宮を連覇して、決勝戦は中京商と争ったが 6:4 で惜敗、甲子園出場の夢は絶たれた。
 それから8年余、母校時習館での監督生活12年が過ぎた昭和40年3月、国府高校への転勤を命じられた。そして、国府高校野球部を率いて 11年目、教え子 光島稔(時習館18回生)とのコンビで、遂に甲子園出場を果たしたのである。

藤田良彦先生の手記から国府高校に関する文の抜粋

 私の高校最後の夏となった昭和二十三年の愛知大会には、初戦の津島高校を再試合で破ると波にのり、享栄との決勝戦まで進むことになった。渥美政雄先生のもとで二年間白球に取り組んだことが今思えば、今日まで私が白球と係わり続ける人生を歩む決定的要因となったと思う。というのは、先生とはここでお別れし、名古屋大学へ進んだわけだが、大学を卒業すると同時に、昭和二十八年四月、母校時習館高校に奉職することになり、先生の下で監督を引き受けることになったからである。先生は昭和三十一年県へ転出されたので、監督修行期間は三年間であった。高校時代の二年間と合わせて、若い時代の五年間に渥美先生から受けた教えは間違いなく私の長い野球人生の核となったのである。

 母校時習館での監督十二年を終えた昭和四十年三月、突然国府高校への転勤を命じられた。当時国府には、豊橋中学の大先輩の筒山吉郎先生(豊中39回卒)がおられた。先生は岡崎高校監督時代の昭和二十四年、二十九年の二度、選抜大会の東海地区代表として甲子園出場を果しておられ、東海地区に名を響かせた名監督であった。上司として仕えた期間はわずかに二年だったが、先生が東高校へ転勤され、昭和四十八年亡くなるまでお付き合いをいただき、多くの事を教えられた。亡くなられた今、先生については伝説的に語られることが多いが、まさに大正、昭和初期の文人墨客はかくあらん、と思われる人柄と風貌であった。一見、野球というモダンなスポーツとのアンバランスは否めないが、三河野球の謂に野武士野球とは良くいわれる。若かりし頃の先生率いる高校野球チームがそれであった。尤も、近くお付き合いをして感じたことは、一見豪放磊落、その実繊細緻密、詩文の才は余人に秀で、酒をこよなく愛し、心弱きものへのやさしさ等、その人間的なところは野球以外にも学ぶところの多い人であった。この人との出会いも又私にとって貴重なものであった。

 更に、表題に掲げた白球に結ばれた縁といえば、いうまでもなく、人生において貴重な高校時代の三年間を私と共に汗と涙と、時には血をも流してくれた教え子諸君のことを語らずにはいられない。一人ひとりに尽きぬ思い出が浮かんでくるが、ここでは時習館時代の最後の教え子の一人である光島稔君(時習18回卒)に絞らせていただく。

 これまでのところで述べたように、私は昭和四十年国府高校に転勤し、以来野球部監督を続けていた。ときに昭和四十八年四月の新入部員はすばらしい素材が集まってきた。私は密かに、この生徒たちの三年後を最後に長年携わってきた高校野球指導の第一線を退こうと決意した。それだけに期待も大きく、この年の秋の一次リーグ戦で負けると、残る夏休みを猛練習で鍛えようとした。その一つとして大学四年のOBに良いバッティングをさせ、現役に見させようと、私がバッティング投手を買って出た。その打球の一発が私の左側頭部を襲い、マウンド上にノックダウンした。結果は救急入院先の医師の診断で四カ月の休職となった。そんな時に情報を聞いて駆けつけてくれた八年前の時習館での教え子の光島稔君が、本業の傍ら国府高校球児の指導にあたってくれることになった。思わぬ助け手を得て選手達はめきめき力をつけ、昭和四十九年夏にはベスト8にまで進んだ。

 彼のボランティアに応えるべく、この年の秋から正式に監督として高校野球連盟に登録した。その直後の秋の県大会に四校リーグ戦に残り、東海大会は逸した(当時は各県二校)ものの、三位となり、更に翌五十年春の県大会は決勝戦で中京に敗れて二位となるなど、前年の夏のベスト8から、大会毎に階段を一段ずつ登ってきた。

 そして迎えた昭和五十年夏の愛知大会では並みいる強豪(名古屋商、享栄、中京、刈谷工、名電工、豊川)を破って決勝に進み、愛知高に勝利し、遂に甲子園出場を果した。私が高校生時代、最後の夏(昭和二十三年)に決勝で負けて涙をのんでから二十七年目、その後昭和三十一年時習館監督として決勝で中京商に敗れてからでは十九年目、やっと三度目の正直で甲子園への夢が実現した。

 優勝の胴上げは光島稔監督と部長の私とが抱き合ったまま宙に突き上げられるというあまり見慣れぬもので、さぞ選手達は戸惑ったことだろうと思うが、私の胸の中では”負うた子に教えられて浅瀬を渡る”の格言が実現した喜びでいっぱいだった。


                           国府高校野球部沿革

【昭和24年】4月野球部創設。部長兼監督徳島年久(豊橋中32回生)。校庭狭く,弘法山広場を使って練習。
【昭和25年】部長徳島年久(豊橋中32回生)、監督中嶋賢(豊橋中41回生)。10月 校庭グランド開き。バックネット完成。
【昭和26年】部長徳島年久(豊橋中32回生)、監督鈴木光。豊川市長杯3校リーグ戦に優勝。
【昭和27年】部長徳島年久(豊橋中32回生)、監督中嶋賢(豊橋中41回生)。現在のバックネットに改造。全国大会愛知大会に始めて3回戦に進出。
【昭和29年】全国大会愛知大会に始めて4回戦に進出。春季オール三河大会に出場。
【昭和34年】全国大会愛知大会に4回戦に進出。
【昭和35年】秋季愛知県大会に出場。
【昭和38年】部長中嶋賢(豊橋中41回生)、監督筒山吉郎(豊橋中39回生)
【昭和39年】春季オール三河大会に決勝戦に進出。
【昭和40年】部長中嶋賢(豊橋中41回生)、監督藤田良彦(時習館1回生)。春季オール三河大会に出場。全国大会愛知大会に4回戦に進出。秋季愛知県大会に出場。
【昭和41年】部長谷山正夫、監督藤田良彦(時習館1回生)。春季愛知県大会準決勝戦に進出。春季中部地区大会に出場。2回戦に進出。秋季愛知県大会に出場。秋季オール三河大会に出場。
【昭和42年】部長金子政美(豊橋中30回生)、監督藤田良彦(時習館1回生)。春、投手上林成行愛知県選抜チームの一員として選ばれフイリッピンに遠征、全勝して帰国。春季愛知県大会に出場。春季オール三河大会に初優勝。全国大会愛知大会4回戦に進出,中京高に惜敗。秋季愛知県大会に出場。
【昭和43年】春季愛知県大会に出場。春季オール三河大会に出場。
【昭和44年】春季愛知県大会に出場。春季オール三河大会に優勝(2回目)。
【昭和45年】秋季愛知県大会に出場。秋季オール三河大会に出場。
【昭和46年】春季愛知県大会に出場。春季オール三河大会に出場。秋季愛知県大会に出場。秋季オール三河大会に出場。
【昭和47年】春季愛知県大会に出場。春季オール三河大会に出場。
【昭和48年】春季愛知県大会に出場。春季オール三河大会に出場。
【昭和49年】第50回オール三河大会に出場。3回戦に進出。全国大会愛知大会に準々決勝に進出。始めてベスト8に残る。8月より部長藤田良彦(時習館1回生)、監督光島稔(時習館18回生)。秋季東三リーグ戦に初優勝。秋季愛知県大会ベスト4に残るも3位に終る。秋季オール三河大会に3回目の優勝。
【昭和50年】部長藤田良彦(時習館1回生)、監督光島稔(時習館18回生)。春季東三リーグ戦に優勝(2回目)。春季愛知県大会に準優勝。5月神奈川県高野連主催招待野球大会に出場。横浜商高(神奈川県1位)と引分け(2:2)。東海大相模高校に快勝(8:4)。春季中部地区大会に出場。静岡商高に敗れる。春季オール三河大会に優勝(4回目)。全国大会愛知大会に優勝(名商高0:6、享栄高0:2、中京高0:4、刈谷工高0:6、名電工3:1、豊川高0:1、愛知高1:4)甲子園出場を決める。甲子園全国大会に出場。柳井商高に1:0にて惜敗。投手青山久人は全日本選抜チームの一員として選ばれ,エースとしてアメリカ・ハワイに遠征4勝1敗(チーム成績8勝1敗)の好成績を収めて9月帰国。
【昭和50年】6月OB会結成,会員162名。


  第57回全国高等学校野球選手権大会出場後援会会長 山本芳雄

 夏の甲子園出場の夢を見事に実現,わが郷土に大きな自信と誇りを高めてくれた国府高校野球部,選手諸君,本当に御苦労様でした。
 また,晴れの甲子園出」場に際し,物心両面にわたり,絶大なるご支援,ご協力をいただいた皆様に会長として心からお礼申し上げます。
 球運に恵まれずり痛恨の一点に泣いたとはいえ,正々堂々健闘したナインのあの一投一打! アルプススタンドを埋めつくした一万余の大応援団・・・。忘れることのできない数々の場面と,あの感動を写真に再現し,後世に残すことは誠に意義深いものであります。
 いつの日か,この写真集を手にするとき,あの日の感動を再び呼び戻してくれるものであり,後輩諸君には無言の励ましになるものと信じます。
 今後一層心身の練磨に励み,再びナインが甲子園に大活躍擢することを期待し,あわせてわが国府高校の隆盛を祈念してやみません。
 終りに,この作成を担当された方々に深く感謝いたします。

  国府高校 学校長 平岩 鈞

 念願の愛知大会優勝,引き続いて甲子園出場という偉業を成し遂げた本校野球部の活躍,さらには,前例のない熱狂的な大声援の一こま一こまが,今も眼前にくっきりと浮かびあがってくる。
 野球の経験者は勿論,およそ野球に関心をもつ誰もが,甲子園にあこがれ,高校野球の魅力にひかれる。そこには,選手,観衆共に一体となっての感動があり,若者の熱と力,汗と涙の結晶が心身の躍動美を発揮して興奮をよび,スポーツの醍醐味を覚えさせるからであろうか。
 しかしながら,甲子園への道は遠く,その境地に至る過程はきびしい。全国大会では,健闘空しく緒戦に敗れたりとはいえ,国府健児の名を天下に馳せたこのたびの快挙は,部創設以来苦節二十六年,先輩の培った伝統を受けつぎ,幾多の困難な試練に耐え抜いて,猛練習に明け暮れた野球部諸君の努力の賜物であり,ご父兄,同窓生を始め,地域の皆様,関係各位から,物心両面にわたって寄せられた熱誠溢れるご支援や絶大なご協力,なお加えて,天の恵みがあったればこそとまことに感謝感激に堪えないところである。
 ここに記念写真集「球譜」が刊行され,国府球児の青春譜が織りなす一編のドラマが貴重な記録として残し伝えられ,本校歴史に一段の光彩を添えノたことはきわめて意義深く,喜ばしいことである。
 これを機縁として,あたたかく深い人の情の美しさ,有難さを銘記し,あの日,あの時の感動をいつまでも色新しく保ち続けてゆきたい。同時にまた,尊い体験を謙虚にかみしめ,緊こん一番,各々そのめざすところに一層の努力を傾け,よりよき校風が維持発展されるよう,心から念じてやまない。

「甲子園出場に際して」 PTA会長 天野元一

 厳寒の候,あわただしい年の瀬もせまった今日,皆様には益々御健勝の御事と御推察申し上げます。
 さて,今夏の第57回全国高校野球選手権大会。本校野球部は県大会に於いて110余校の強豪校を次々と倒し,愛知県代表として夢にまで見た晴れの甲子園出場をなし遂げました。豊川市を中心として隣接関係市町の多勢の方々には,物心共に御後援と御協力を賜わり衷心より有り難く厚く御礼申し上げます。
 昨年は中部大会に出場し惜敗はいたしましたものの,来年度は甲子園へ出場出来るチャンスが到来するではないかと期待しておりました。去る7月29日の県大会決勝戦に於いて愛知高校を破り,晴れの甲子園出場が決定しました。其の喜びと感激,又,多勢の市民の方々の国府駅頭における優勝の熱狂的な歓迎ムードは,今だに昨日のように想いだされます。PTAといたしましても前代未聞の事とて何から手掛けて良いやら,戸惑うばかりでしたが,幸い豊川市長を始め関係各位の暖かい御協力に依り,即座に後援会の組織を作って下さいました。募金に又は応援の方法にと同窓会,OB会,学校の先生方も夏休みを返上しての応援事務など関係者一丸となっての御支援を賜わり,8月8日の開会式に間に合せて戴きましたことは只只有難く御礼を申し上げるのみです。甲子園に於てはバス126台と云う大応援団を操出していただき御声援を賜わりましたが何分にも初出場のこととてもてる力を充分発揮出来ず,御期待にそうことが出来ませんでした。又次期出場に、そなえて準備資金,並びに練習器具其の他部活動等にと多大の御配慮を賜わり校内の特別活動後援の運営に御協力下さいました事も重ねて厚く御礼申し上げます。
 今後共,旧に倍して学校教育に御支援御協力を心からお願い申し上げ御礼の言葉といたします。

「甲子園出場によせて」 同窓会長 近藤時代

 “夏の甲子園出場”それは私達の夢でした。地区戦で野球王国愛知の強豪を次々と薙倒していった時,私達の気持ちはいやがうえにも高まりました。国府の町では毎日軒並み毎の応援でした。そして,優勝!!甲子園へ。
 みんなどんなに喜んだことでしょう。甲子園はじまって以来の大応援団もうなずけることだと思います。選手の皆さん,本当におめでとうごぎいました。私達同窓生も本当にうれしく思いました。それが寄付金にあらわれたと思います。約六千五百名の人がご協力してくださいました。同窓会はじまって以来のことでした。
 同窓生の皆様,ありがとうごぎいました。私は今回程同窓生のつながりと,力強さを感じたことはありません。
 “夢よふたたび”後輩の皆さん,是非頑張ってください。
 ご健闘をお祈りいたします。

「栄冠を我等の手に」 野球部OB会長 日比野恭平

 国府高校に始めて硬式野球部が誕生したのは,昭和二十四年四月初旬のことでした。以来多くの球児たちが暑い日も寒い日も雨で吹き荒れた日もただひたすらに白球に挑む青春を過ごしてきました。
 昭和五十年七月二十九日,熱田球場において,灼熱の太陽のもとカーぱい戦い勝ち抜き,対愛知高校戦の勝利が告げられたその瞬間ナインの胸中をよぎった歓喜の爆発は正に部創立以来二十六年の永きに亘る球児のはたせなかった夢が現実となったのです。そして,過去の球児達はナインと同じく爆発的な感涙にむせんだものです。
 走り,打ち,投げるナインの姿はかっての自分の夢の再現であり更に自分が主人公にでもなったかのようにスタンドで応援しながら投げたり,打ったりしたものです。
 対柳井商校戦まことに残念でした。しかしながら球児の夢は何年か後に,間違いなく後輩ナインが甲子園において深紅の大優勝旗をしっかりと手にする時を信じその時までつづくのです。
 これこそ我等球児の栄冠であり,声をからして叫びたいのです。“栄冠を我等の手に”と。
 末節ながら本大会出場に際し、多大な応援を戴きました関係各位の皆様,又記念アルバム発行に御尽力戴きました皆様に厚くお礼を申し上げます。

「お礼のことば」 野球部長 藤田良彦

 永年見つづけてきた甲子園出場の夢が叶えられ,私の心は深い感激と大きな喜びで大涛のように揺れ動きました。そしてそれは,時が経つとともに少しずつ平静にかえり,今は漣となって静かに余韻を響かせております。
 そうした私の心の中で,逆に日毎に大きさを増してくるものがありました。それは私共に感激と喜びを味わゝせて下さった多くの人々への感謝の思いです。甲子園大会史上空前と言われました大応援団に象徴される熱烈な御声援,御支援は,愛知大会の一回戦以来終始一貫私共を励まし続けてくれました。
 甲子園では不覚にも緒戦に敗れ御期待に添い得ず,誠に申し訳なく残念に思っておりますが,あれからもうニヶ月が過ぎました。
 この間御支援を戴いた皆様に何とか御礼の意をお伝えしたいともどかしく思っていましたところ,幸いこの度の記念アルバムを通してこの機が与えられ大へん嬉しく思っております。加えて多くの皆様の御協力でこのような立派なアルバムを作って戴けましたことは私共にとりまして生涯の名誉と感謝に堪えません。野球部を代表して心から厚く御礼を申しあげます。
 この上は私共国府高校野球部一同,今回の経験を生かすべく再度の甲子園出場を目指して頑張る覚悟ですので,今後とも一層の御指導,御支援をお願い致します。

「お礼のことば」 監督 光島 稔

 私が野球部の練習に参加したのは昨年四月の下旬でした。以前から国府にはいい選手がいるなあと想っていたのですが,時々グランドに来て思った事は少し練習量が少ないという事でした。少しでも練習の手伝いが出来るならと思い新入部員になった気持で練習に加わりました。今日このようなアルバムに私のつたない文を載せていただく気持は言葉ではとても表わしきれません。
 思えば野球の「や」の字も知らなかった私ですが,藤田良彦先生に基本を教えていただき楽しい野球生活を送る事が出来ました。野球と勉学を志す国府高校野球部員と共に練習する事で,恩返しの真似事が出来るならこれに過ぎる喜びはありません。
 最後に私のような者を温く迎えて下さった学校の先生方,OB関係の方々,選手諸君に心から感謝とお礼を申し上げます。

                            甲子園出場メンバー
         
            前列左より3人目:光島稔監督・藤田良彦部長・平岩校長・中嶋賢顧問・金子政美顧問



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