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野球の思い出(戦前ー2)・・・昭和

 一高球史を飾る校友群 金田誠一 . .  時習館野球部の思い出 野末純雄 豊中34回
 野球つれづれぐさ 筒山吉郎 豊中39回  野球回顧 佐藤大州 豊中41回
 亦 楽(えきらく) 内藤由三郎 豊中29回  野球回顧 天野六二 豊中42回
 愛知一中戦のことども 杉浦正一 .  残像を追って 平野(筒山)昌治 豊中42回
 野球回顧 榊原武司 豊中29回  野球回顧  間瀬誠一 豊中46回
 野球回顧 伊東(正治)晃利 豊中31回 .

                             「時習館と甲子園」メニューへ



 
一高球史を飾る校友群 点描「時習の流れ」から(昭和49年5月12日発行)

    
金田誠一

 戦後間もなく学制が改まって名門第一高等学校が消えた翌年頃「一高野球部史」の大冊が贈られて来た。学校の図書館に入れておいたので、再読をと思って過日調べてもらったが見当らなかったので、私の記憶に確実性を欠く所もあるが、とにかく明治三十年代から大正の初期にかけて、同校は三高と共に学生野球の花形として君臨し、両者の定期対抗戦はその後の早慶千以上のものであった。球史には母校先輩たちの活躍が目に見えるように描かれていた。私の記憶では戸田保忠(六期)風岡憲一郎(八き)伊藤武雄(一四き)下山九郎(二〇き)の諸氏ともう一人村井操(一三きと同期)さんらがおり、対する三高陣には久野正一(八期)などの名も記されていた。
 戸田さんは、藤田東湖と共に「水戸の二田」と敬称された戸田忠太夫の曾孫で、父君忠正氏は最高位の裁判官であったが、一家と共に当市に住んで公証人役場を開いて居られた。東八町で拙宅と近かったので令弟の龍男氏(一一期)には色々教えをうけたり、次の虎雄さんは同級生であったので親しくしていたが保忠さんの評判は音にだけ耳にしていた。官界入りをされた富安謙次氏(四き)の逓信次官につづき、農商次官として、同窓には数少ない官界の二柱となられた。
 風岡氏については前にも述べたが、ただ一点補うと、一高に入る程の人は何れも抜群の秀才であるのだが、風岡兄弟の偉才についてはその中学生当時から地方に鳴り響いていて、私なども小学校に入ったばかりの頃から知らされていた。
 伊藤さんは田原町の出身。令弟の忠次君とは同級であったが氏は三年先輩で私が入学した時四年生の級長であり、野球部の名選手であった。まことに峻厳な人で、下級生の一挙一動にも目を光らせていたので、私たちは恐れて、遠くから入念な敬礼を怠らなかった。五年になると甲組級長で、野球部主将になられた。前任者は加藤俊治氏(一三期)で早大在学当時、学生界最初の米国遠征の時の投手であった。
 伊藤さんは満鉄に入って参事職に進まれ、満州帝国創建の有力者であった。建国記念の講演会が当市でも開かれた時、交通大臣ら満人の二大臣を従えて乗込まれた。その夜、私は宿舎に訪れたが、氏は端座する大臣らに何ごとか指図しておられた。当時満韓中国を視察に行った当地方の人たちの多くは向うで氏のあたたかい歓待をうけて来られた。戦後愛大にも出講されたので、拙宅へも数度みえたが、昭和二九であったか、著書「日本産業図説」の大冊を渡され、書評を「豊橋文化」へ載せるように依頼された。約束を果した所「あれは書評ではなくて紹介ではないか」と怒られた。又その前年、母校甲子園出場援助を求めるために上京して、野球部先輩の会合で挨拶した所、同氏から「一スポーツのためにわ態々援助を求めに来るのは面白くない」とやられたこともある。 村井氏は同窓名簿にはない。然し母校野球部に注がれたその情熱は永く忘れることができない。伊藤さんと同じく田原の出身、母一人子一人の旧藩士でささやかな生活、母君は小学校の裁縫教員となって一子を四中寄宿舎に入れた。充血無類な秀才であったが、三年の秋運動会後四年生との抗争が因で、三年生は同盟休校の挙に出て、向山の林間や石巻山に籠ってしまった。学校としては空前絶後ともいうべき大事件であったので、六名の正副級長を厳重に調べ上げて首謀者を摘出しようとした。その時、氏は敢然として「それは自分一人の発意による」と断言して譲らなかった。訓育主任の村上先生は舎監長でもあって、同君が舎生の模範でもあり、家庭の事情もよく心得ているので「そんな筈はない」と迫ったが、ついに通じなかった。かくてただひとり責任をとって退学し、上京して某私立中に編入されたが、牛乳配達などの苦学によって学費を自弁せられた。そして一高時代も苦学と野球選手の生活を続行せられた。私の叔母は師範を出ると、田原小学校へ就任し、氏が上京中の村井家に下宿していたのでその間の事情に詳しかった。
 大正二、三年の間、一高野球部は二度母校校庭を利用して合宿練習をしている。そして大正四年夏、東海地方中等学校大会を前にして、村井さん(中堅手)は投手芦田公平氏、捕手平山氏を伴って来豊され、母校のコーチに任じた。三氏は大手橋傍の氷屋を宿としておられたので、主将の牧野茂三郎氏(一七期)に連れられて、村井さんと初対面の挨拶に及び、人なつかしいお話を数々承った。
 村井さんは全軍のコーチとして、まさにスパルタ式の猛練習を叱咤怒号の中で敢行せられた。見ている方が冷冷する程の凄じさで、選手がいくらへたばっても容赦なし、疲れて膝を突いてしまうと、バケツで駆付けて頭から水をぶちまけるといった調子であった。
 此の年は、天下の強豪であり連年の宿敵である愛知一中を撃破して、破竹の勢いで優勝戦に進んだが、山田中学に惜敗して中央進出を譲ってしまった。山田では遊撃手であった沢山松緑選手が終盤近く投手に代ってから急に逆転したのである。
 後年その沢山さんは現役の陸軍中佐当時、母校配属将校として来任された円満温厚な武人で剣柔道ともに高段者であり、職員チームではいつもニコニコしながら投手板に立たれた。さて翌年夏も、この一高の三人は、今度こそと必勝を期して来校され独特のスパルタ式を熱演された。その甲斐あって大正五年夏、母校は初めて、今なら甲子園、当時豊中市球場へ全国制覇の夢を賭けて出場することができた。この出場への勝利の瞬間、間髪を容れず村井さんは散々伸びた無精髭の頭に一高の麦藁帽を被り着袴のまま両手を挙げて跳び上ったかと思うと、すぐ逆立ちになって本塁から一塁まで進まれた。その大きな目には嬉し涙が光っていた。
 後に大昭和の専務に進まれたが、わが国ノンプロ界において幾度か優勝を重ねて大昭和の名を不動にしたのは、この名監督の力によるものであることは周知の通りである。尚下山九郎氏(二〇期)は兄一麿氏(一八き)省吾氏(一九き)らと共に大正五年次の選手であり、一高球史の終きを飾った。

                                          


 
野球つれづれぐさ (校友会誌・昭和十三年三月号)              第五学年 筒山吉郎

 野球、此の言葉ほど現代人に取って親しみ深いものはないであらう。近来野球熱は下火になったというけれど、どうしてどうして、彼の大阪朝日の夏の大会が数時間で十数万人を集め、早慶戦ただ一つ見たさに徹夜する者が数千人もあるなど、依然としてスポーツの王座を有するものである。
 昨夏豊中へ排球のコーチに来た体操学校の学生が、『我々は野球をスポーツとは思っていない』と言ふのを耳にはさんだ。此の人はどうして野球をスポーツと思ってゐないかを語らなかった様だが、僕がそのどうしてを考へて見ると、野球のスポーツとしての堕落を非ったのであらう。野球が一種の演芸化したとでも云ふだらう。成程さう思はれる節もある。然し烈々鉄をも融かす酷暑の下、或は北風肌を刺す極寒の下、ただ母校の名誉にかけて勝敗を争ふ中等野球を見給へ。誠に純真、誠に熱心、スポーツの神髄を弥が上にも発揮する。
 固より此の片田舎にあっては職業野球、大学野球に接する機会は少いから何とも云へぬ。然し中等野球は技倆が低下したとはいへ矢張スポーツの覇である。神髄である。
 『野球をやると何かよい事があるか』と、屡々問う奴がある。成程野球をすれば体はよくならう、動作は敏捷になるであらう。就職には都合がよいかも知れぬ。
 併し野球はどこ迄も野球の為の野球だ。野球を真に愛するものは、体格向上の為にも、就職の為にも野球を愛するものではない。野球は野球の為の野球である。野球といふ芸術である。
 此の東海地方は東は島田商業、静岡商業より、西は岐阜商業に至る間、正に群雄割拠、中等野球の本場ともいふべき観を呈してゐる。されば夏の全国大会予選の如きは甲子園に於てさへ見られぬ熱戦相つぎ、観衆中には遠く東京、横浜から来るものもあるさうだ。だから職業野球、大学野球に就いて語るべき材料をもたない僕ではあるが、中等野球だけは語るに足る材料があるわけだ。
 僕は親爺が大の野球フアンであったから、小さい時からよく試合見物に出かけたものだ。今までに見た試合数は大小合はせて――最も練習場やそこらの小学校の校庭でやってゐる乞食ベースは除くが――三百二三十回にも上らうか。その中で僕の胸にはっきり刻み込まれてゐるのは中学一年の時、三河リーグ戦岡中対豊中の大白熱試合だ。豊中は小山投手を擁しての黄金時代、岡中は後年その剛球と懸河の如きインドロップで東海野球を風靡した高塚をマウンドに立て、九回表を終るも一ー一、九回裏岡中無死、走者一二塁にあるとき、三、四、五番といふ強打者をインドロップを連投し三者三振に打ち取った小山投手の颯爽たる英姿――豊中生として始めて見た母校の試合であるせゐもあらうが――今尚まざまざと思ひ浮べられる。
 今記憶も相当薄い。だが、確か小学校二年の正月、和歌山中学が来豊、彼の不世出の大投手小川投手の美しいフオーム、眼にも止らぬ速球、そしてこの小川投手のあのサッと剛球を投げ下した瞬間のフオームは今尚脳裏に鮮やかである。確かこの試合は五Aーで豊中善戦空しく敗退した。
 小学校三年の秋、梶原の率ゆる高松中学との一戦も忘れられぬ。梶原――二三年前振はざる帝大にあって独り攻守に活躍したあの梶原であるが――その頃既に相当有名だったに違ひない。父が僕の肩を叩いて「あれが梶原だよ」と云ったので、殆どが始終梶原に注意の眼を向けてゐたのを覚えてゐる。八ー三で九回表豊中の攻撃に入ったのだが、一死後戸苅といふ選手だったと憶えてゐるが、長棍一振、中越快打を放ち、満場総立ちの中にホームインした時の光景も懐しい。
 此の間、田原に行った時、電車窓中より草薄たる大清水球場を見た時、満感交々胸に至って誠に懐旧の情抑へ難かった。大清水球場最後の試合はたしか中学一年春の豊商、豊中、成章の東三河リーグ戦であったらう。
 時代の流るると共に此の中等野球界にも盛衰があった。一中の時代は愛商となり中商となり、現在の群雄割拠の態勢ともなり、三十年来常に不動の強みを見せ、東三の一角に悠々、あはよくばと覇をねらってゐた我が豊中野球部にも桐一葉落ちて天下の秋は巡って来た。栄枯盛衰は世の習ひとか云ふけれど、昔を思ふてはそぞろ涙を催さざるを得ない。
 ベースボール、亜米利加産の此の運動が、恰も孔孟が真に日本に於て正しく発達した如く、伸々とした日本的発達を遂げるのを希ふこと甚だ切なるものがある。
 野球、野球は何といってもスポーツの王であり、僕に取っては唯一の親友である。

                                          


  
亦 楽(えきらく)           (豊中29回) 内藤由三郎

 吾が第二十九会卒業生は亦楽会と云ふ『友遠方より来る。亦楽しかずや』が語源だ。
 だが自分には『青春を偲ぶも亦楽しからずや』とも云へる。貴重なる想出があるのだ。
 大正十五年の夏休みが過ぎると、四年生の私がマネーヂャーを引受けて、新主将の榊原武司君を救ける事になった。悔い無き青春への第一歩だった。
 豊中野球部は歴史があり、誰かが引継ぎ、後輩へとバトンタッチをしなければならない。
 受験勉強の忙しい共、共を見て共に語れるクラスメートは皆無と云へる、部員もナインに充たない。心臓病の心配ある都築重市君、ドン足の巨大漢疋田正君、この両君と私がどうでも榊原君を援助して、野球部の存続を計らねばならなかった。目標は打倒愛知一中だ。
 私は一人ひそかに一中の校庭を覗きに行き運動場に、ぎっしりの各部の活動に驚いた。当時の豊中は広々としたグラウンドに、十数名のテニス部と十名程度の陸上競技部が、ボソボソと練習している程度だった。
 よく学び、よく遊べとの、日比野校長の愛知一中は、悔い無き青春が消化されていたのだ。本校は山崎新太郎校長去って石原即聞校長となって、貫禄の下った思いに、どうしても打倒一中が念願だ。
 甲子園出場はそれからの事、勝つ為の練習が、新涼と共に始まった。部長は長州男児の熱血漢村田正雄先生、コーチに先輩の牧野茂三郎氏、今にして思へば、私達の熱情を断へず掻き立ててくれたのはこの両者だ。そして毎日練習を見に来て呉れた二十数名のファンだ。いやそのファンの中に忘れられない人、現豊橋市長河合陸郎氏がいた。当時新潮報の記者で、袴穿きの風態はすぐ判った。翌日の新聞を図書館に見に行く、評して曰く『俊敏にして、華麗なる守備、好投快走の遊撃手金子は、紅顔の美少年にして、トップバッターとして、まさに理想』と云った調子、これが薬となって『やらんかな』のムードとなった。
 時こそよし、当時渥美電鉄会社が、大清水町に野球場を設置してくれた。この球場開きに、県下中等学校選抜野球大会が催されたのは、腕試しに絶好の機会だった。一中、愛商、名商と揃ふと、夏への偵察戦だ。戦記は忘却したが、兎に角優勝戦は名古屋商業だ。武田投手が名鉄に去って、小山投手だった。都築のオーバーフェンスのホーマーで勝ったが、私はこの言葉を初めて知ったのだった。甲子園へ夢も見られる希望に、真黒になって練習が続くぞと張り切った。愛知一中の名捕手三浦、中堅手夫馬と共に後に早大の名選手となった人材があり、愛商の水谷、鵜飼のバッテリーはやがて慶大で名を成した。かくの様に相手は強敵なのだ。
 優勝旗を捧げて納入式は生涯一度だけだった。石原校長は『優勝は立派だ、だが学生の本分は勉学だ』と冷やかだった。応援歌の一節に『健児八百いそしみて、文武を磨くその内に、粋と呼ばるる野球団』と高らかに歌って欲しかった。栄光は淡くも消えて、寂しさは身に沁みた。愚かなるピエロは自分かと、嘆じた。多情多感の青春の苦悩だった。だがさもあらばあれだ。打算を超越した先輩の意気、人生意気に感ずと奮い立ったのは何としても打倒愛知一中の念願があったからだ。
 クラスメートよ一高突破で一中を凌いでくれと念じた。後の事だが、松下、久曽神、菅谷、小野田、小笠原(四年)と合格、これも一中に優位に立って喜んだ。
 扨て、夏の大会は、連戦連勝、県下のベストフォアに残るか否かの一戦は、ライバル愛知一中だ。老津町に合宿して大清水球場で、鍛へに鍛へたのもこの一千に勝つ為だ。ソレ行けと張り切った。戦記はコーチ、主将にまかせておくが、特に印象に残ったのは、コチコチに固くなった為に、酒井投手が打ちこめない。『当らなけりゃ、デッドボールで出ろ』とベンチは必死だ。少年野球で神宮球場で優勝した経験の都築は流石にやった。三浦捕手の構へを横目に見て、パッとバックスイング、うまくミットに当てた。『キャッチ、ボーク』、彼の声は審判より先に叫んだ。名捕手三浦はガク然とした。サア無死一、二塁だ。酒井投手の動揺はかくせない。突如としてやったダブルスチール、意表を突かれた酒井は一塁に暴投してしまった。
 翌日の新聞に、敗戦投手酒井談として
『一塁ケンセイが暴投となったのが、無念だ、あの一投は何としても忘れられない』と、
 念願の打倒一中成れりと喜んだのも束の間、八事球場は騒然となった。当時名古屋のファンは一中か、愛商かと二つに分れての応援だった。期待していた一中が敗れては、情け容赦もなく怒号となった。グラウンドに物が手当り次第に投げこまれ、八事電車への道は塞がれてしまった。しばし呆然。
 かくて三十六計逃げるに如かずと、孫子の兵法の教へる処と、スパイクをカチカチとならして、八事の山道を辿る事とした。
 ファンの中に、柔道五段の池田さんがいた。この先生が先頭に立って、木をくぐり、笹を分けて鶴舞公園の福井旅館に着いた時は、すっかり疲れてしまった。『どうしたんだ』と出迎へてくれたのは先輩牧野茂三郎氏だ。 この年(昭和二年)からコーチがベンチに入ってよろしいと許されて、同志社大学野球部選手杉浦正一氏がベンチで指揮していたのだ。牧野氏は『俺が行くと、どうも負ける気がする。今日は旅館におるよ、お前等しっかりやってくれ』と自重しておられたのだ。
 明けても暮れても、ヤイノヤイノと練習に打ちこんでくれた牧野氏が、旅館で待つ間の気持は、一刻千秋の思ひで、立っても居てもおられなかっただろう。それが歩いて帰ろうとは、敗残兵の様にだ。
 数日の休養にと、合宿を解散してしまったのがいけなかった。東海大会は春に敗かした名古屋商業だ。誰しも勝てると信じこんでいた。それが裏目と出て、無惨な敗け方だった。
 結局優勝は愛知商業だ。水谷、鵜飼のバッテリーは、準決勝で、高松商業に一ー〇で敗れたが、事実上は優勝戦だった。高松商業は一代の名投手宮武三郎去って、水原茂が投手として優勝してしまった。
 劃期的な事は、ラヂオが実況放送を始めた事だ。そして現今プロ野球に名を知られる水原、三原が当時の若者だったのを思ふと甲子園出場が如何に、嶮しい道だったかも判ろう。
 東海大会の敗れて傷心にうずいていると、思はぬ招待状が舞いこんだ。
 金沢市の北国新聞社主催、近県選抜中等学校野球大会だ。得たりと応じての遠征、生れて初めての北陸路の旅は、一年の労苦をいやすに何よりと一同喜んだ。
 村田部長、牧野先輩、杉浦コーチと車中で初めて心の解けた話が出来た。
 金沢市は香林坊通りの旅館、驚いたのは大相撲に人気が湧いていた事だ『能代潟お宿泊所』と大きな垂れ幕の宿に小さくなって入った。宿の女中は豊橋を知らない。そうだろう、地理の教科書に『第十五師団司令部所在地、生糸の生産盛んなり』とあるだけ、試験問題にも出ない所だ。よし者共に野球の強い事で知らせてやろうと、一同ゾロゾロと町に出る。
 とあるうどん屋になだれこんで『オイ、おいら何処から来たと思ふ』と、姉ちゃんに聞くと『沖縄からやろ』ときた。黒、黒の真黒い顔が揃ったばかりに近県人になれなかった。
 しげしげ、と来る夕立、鳥の多い四高グラウンドの試合は、敦賀商業が相手だ、弱そうで強い、補回戦となった十三回に三塁打を打たれてスクイズで一点とられて敗戦、どうも商業校相手にはファイトが湧かない。優勝した北野中学とやりたかったが詮なし。
 帰りは能登半島に回った。輪倉温泉に宿って盆踊りを楽しんでいると、道の果ての海に、蛍イカが無数に夜の黒い海に光ると、夢の国に来たかと怪しんだ。
 村田部長が若き日、教壇に立ったと云ふ、七尾商業と対戦する為の一日だった。よく招待してくれた。これは楽勝、何故に招待したかが四十年経って判った。それは中京商業が松山商業を破って、春夏連覇の偉業を樹てた翌日の北国新聞に、『来年こそ能登半島から甲子園に送れ、その為には各町は、町費を計上しての意欲を盛り上げよ』とあった。野球ファンの多い能登だったのだ。
 野球部の北陸遠征はこれが最初の最後ではなかろうか、これが機縁となって捕手戸苅君は四高に入学、野球部主将となって卒業したが東大入学の前に亡くなったのは悔やまれる。
 私の野球生活はかくして終ったが、マネーヂャーとして多くの労苦は生涯に亘って得る処が多かった。
 いやまだ書かねばならぬ事がある。それは名鉄が鳴海球場を開いたのが昭和二年だからだ。これも招待されて参加、書きたくない惨敗だ。愛知商業相手に好試合とファンが期待したのに、好走の金子選手が法度となっていた頭からの滑り込みをやった。これで右腕を傷めてしまったが補欠がない。辛抱してやってくれと頼んだが、投げた球が一塁に届かないので急いで調べると、骨折だった。大変な事になって、二年生の花田君あたりが出たが三十対三と云ふ珍レコードの申訳ない試合をやった。ツキのない球場の思ひとなってしまった。それかあらぬか、後年名投手、小山君が中京商業と優勝戦を争っても勝てる試合を一ー〇と落して涙を呑んだ。この様に鳴海球場は吾が豊中野球部史には涙の球史が多い。部史に残る鳴海、大清水、八事と球場今は無し、人と共に移り変った。 明電舎に入社して、水原選手に指導されていると喜んだ疋田、金子の両君も早くに逝った。日紡に入社して戦死した投手大野君、横浜工専に入学した二塁手浦山君も在学中死亡、左翼手の伊藤薫君は国大卒業と共に、豊橋市役所に奉職、地元球界に尽してくれたが、やがて実業界に転進して戦後病死、岡崎人となった都築君も五十年史に間に合わずこの四を去った。
 主将の榊原君は奇しくも愛知商業の名監督となって幾度か甲子園の土を踏み、優勝の味を知ったが、ともに語り合ふ多くの友を失ったた寂しさは、私と共に寂しい語らいとなった。
 今健在の当時のコーチ杉浦氏を紹介して一筆を乞ふ事にした。氏は大連商業の黄金時代に育ち、プロ野球の審判縁城寺氏と共に、甲子園出場、更に同志社大学野球部選手として活躍、ファンの一人新美写真館主の紹介で、吾等のコーチとなってよくやってくれた。ベンチ入りコーチ第一号の人物は、五十年の部史に欠く事が出来ない。 一筆乞い願った由縁である。   (昭和50年春記)

                                          


 
愛知一中戦のことども(昭和二年夏の大会)

    (当時同志社大学野球部コーチ)
杉浦正一

 今思ひ出すと、ひやりとするのですが、当時私も学生で一番張り切っていた時でもあり、又選手諸君が私のサイン通りよく動いてくれたことを思ひ出します。
 愛知一中のベンチは早大系と見て、よし今日は思ひ切り裏の作戦でやろうと決心したこと。
 試合の中盤だと思ひますが一アウト後急に球が乱れ、四球でランナー一、二塁、そこでリリーフのRF伊藤(右投、カーブが主、コントロール悪し)に変えたP大野をRFへ。伊藤はストライクが入らないので打たれる心配はない。ただ大野が如何に気分を取り戻すかにあった。私は大野の行動ばかり見ていた。四球で満塁、村田部長が「杉浦君大丈夫かね」とベンチの後から盛んに心配している。私は「まかせて下さい」と一言云って大野の行動を見ていた。彼は盛んに腕を振ってくやしがっておる。一死満塁、二ボールになった。そこで私はPを大野に変えた。私は大野に「君の球を打てる奴はおらぬから思ひ切ってド真中に投げろ」と云ってやった。大野は思ひ切り腰をひねり、ポンポン投げ、三球三振とピンチを逃れた。
 SS金子が足があったのでノーアウトからドシドシ盗塁をさせたこと。
 UB浦山? が二年生で非力の為、フリーでも内野を越すのがせいぜい、であったので、バント専門で成功したこと。
 Pが私のサインを受取りPからCにと云ふやり方。
 P大野が左投で(ベンチが一塁側)私のサインで三塁でランナーをよく牽制球で殺したこと。
 守備につく前一分位目を閉じさせ落ちつかせたこと。 試合終了後ラムネビンが飛んで来たのでグラウンドの中央に集り、十年前の先輩刑事さんに守られて宿屋まで歩いて帰ったことなど思ひ出はつきません。
 当時のメンバーハ次の様だったと思ひます。
 
 P:大野 C:戸苅 1B:都築 2B:浦山 3B:榊原 SS:金子 LF:伊藤 CF:疋田 RF:中林・石田・間瀬  (昭和50年春記)

                                          


  
野球回顧            (豊中29回) 榊原武司

 大正十三年第十回大会、尾電球場で四日市商と対戦四ー三ぐらいで一点リードされていたが主将大場正氏が打者のときハウルチップを左目にあて、捕手をやるものがないので棄権となった。投手鳥居重雄は剣道部から応援、外野には庭球部の二人が補充応援していた。竹内良一氏が下痢のため当時二年の私が遊撃にまわったが一塁で刺すのがやっとこであった。
 大正十四年第十一回大会、投手佐藤三平(主将)氏不調の為一塁へまわったりした。
 岐阜中と対戦のとき、中堅山口氏がライナーをグローブにおさめながら落したのが印象に残った。
 大正十五年、中京商が台頭してきた時代で四つに組んでゆずらなかった。
 昭和二年春、新愛知新聞主催の大会が三月に行われて名古屋に出向いたことあり。
 春五月、渥美電鉄主催の大清水球場で近県野球大会があり岡崎中学、名古屋商業を破って優勝した。
 夏 豊橋中11ー1
    豊橋中 6ー4
 一中との試合はシーソゲームであったが、最後にねばり勝ちをしたが、スタンドからビール瓶がとび危険なので電車にのれず石川橋を回り公園の中を横切って宿舎の老松旅館にいった思い出あり。一中の敗れたために急に三重県で開催する二次大会を中止して愛知県で開かれ、準々で春に勝った名古屋商に敗れたのは残念であった。 八月中旬、金沢市で開かれた近県中等学校大会で、甲子園出場した敦賀商業と十三回補回戦で2ー1で敗れた。
(昭和50年春記)

                                          


  
野球回顧            (豊中31回) 伊東(正治)晃利

 昭和の初期と云へば銀行の倒産、製糸工場の閉鎖が続いた最も不景気の時代であった。そんなことは一切気にせず若き日を野球に打ち込むことが出来たのであるから今から考へると全く恵まれておったとしか云へない。同級生には戸苅、金子、大野、間瀬、長谷川、石田、矢野(マネージャー)の諸氏がおり一年上に伊藤、山本一年下に浦山、中林、山中、花田の諸氏がおった。当時の部長の村田正雄先生や戸苅、金子に勧められて三年生になってから野球部に入った。その当時の細かい記録についたは殆ど忘れてしまったが、印象に残ってゐる思い出について記述して行く。当時の少年野球は新川、松葉、東田小学校が盛んで吾が狭間小学校には野球部がなく近くの別院の境内や大林製糸へ遊びに行き野球を楽しんだ。当時寺嶋正辞が町内の綿布問屋におられ毎日のように同氏の指導をうけたことを覚えてゐる。
 中学に入ってから狭友会に入り放課後小学校の校庭に集まり先輩に交って野球や陸上競技をやり、野球では榊原武司や岡田吉三郎先輩の指導をうけた。次第に体力もつき三年生の春から野球部に入った。勿論補欠で二塁を守らされた牧野茂三郎先輩の猛ノックで鍛へられた。牧野氏は当時渥美電鉄勤務で退社後かけつけられ堅いグラウンドを左右に走らされ、しばしばグラウンドに座り込んでしまったことを覚えてゐる。日曜日になると大清水球場で試合があり、成章や豊商等とよく試合を行った。球場は外野の後方に草むらがあり五年生の都築重一氏の打球がよく草むらに入り判らなくなってしまったことを覚えてゐる。
 夏の大会は八事の山本球場で行はれ東海道戦や名古屋市電を利用して行くのであるから中々時間がかかった。或る日試合が終って熱田駅迄市電で帰って来た処余り腹が空ってゐたので駅前の食堂へ入った処熱田署の刑事につかまってしまった。戸苅や金子と弁解につとめたが、学校に通報すると云はれ青くなって帰豊した。明くる日登校し早速村田先生二報告したことを覚えてゐる。当時の中学生は食堂などに入ることを堅く禁じられてゐたのである。
 中学四年生になってから豊川球場、鳴海球場が次々に新設された。夏の合宿は神明町にあったカク一旅館(第八回卒村田可也氏経営村田敬次郎代議士尊父)と決まり当時早大投手の藤本定義氏がコーチとして来られた。先日の新聞によると野球の殿堂入りだ発表になり、当時の面影を偲び懐旧の念一入のものがある。
 約十日間ユニホーム姿で毎日新設の豊川球場へ通ひみっちり同氏の特訓をうけた。同氏は特に投手の指導に重点をおかれ主戦投手の大野が不調の為金子、浦山に投手の技術を教へられた。金子、浦山を交互に投手に起用する為、私は三塁を守らされ懸命で守備の練習をした。之の時代は愛知一中、愛商が最も強く、愛知一中には大嶽、三浦のバッテリーに夫馬等の名手がおり、愛商には勝川、小島等の名手が活躍しておった。夏の大会は新設の鳴海球場で行はれ、初めての鉄筋コンクリートのスタンドで応援の太鼓や拍手が響きわたり、大分やるづらかった。 決勝戦迄進出したが、最後に愛知一中に敗れ去ってしまった。今から思ふと投手力に差があったことを痛感する。大会が終って豊川球場新設記念大会が催された。小川正太郎投手の和歌山中学や敦賀商業、三田、稲門、豊中倶楽部等の対抗試合が盛大に行はれた。特に印象に残ってゐるのは小川投手の豪速球で、あの当時職業野球があれば、どの球団も彼を一位に指名したことと思はれる。 同級の戸苅は四高へ進学して中堅手として活躍しておったが間もなく亡くなり、金子は明電舎へ就職してから三年後之の世を去り、間瀬、浦山も亡く、大野は昭和十五年頃南支江門地区警備に従軍中戦病死してしまった。同年では石田、長谷川の両君と矢野マネージャーが北九州市で活躍してゐるのみとなってしまった。
(昭和50年春記)

                                          


  
時習館野球部の思い出(昭和戦前篇)          (豊中34回) 野末純雄

 野球部の思い出について、一文をという電話。空襲ですべての資料を焼失したので、時習館名簿をめくりながらいろいろの思い出を綴ることにした。私が昭和三年入学して以来の十五年間、記憶違いのところもあると思うが、御許し願いたい。
 昭和三年(三十回)
 地獄サードといわれた榊原主将に都築、疋田選手の去ったあとをうけて最高学年ただ一人の伊東さんが投手・三番・主将となり活躍。
 榊原さんのあとを追って国学院へ進まれ投手を続けられた。特に朝日主催のクラブ戦に優勝投手となられたことが印象に残る。過日割腹された大東塾長影山さんの堂々たる応援団長ぶり。後年朝日の運動記者となられたマネージャー山本さんの雨天鯛奏上にはられた墨痕鮮やかな名文の野球部についての壁新聞。一年性の私には野球よりもこの二人のことが印象に残った。
 昭和四年(戸苅、金子、大野時代)
 戸苅主将のすばやいモーションと沈着なリード。そして実にきれいなミートによるバッティング。強肩駿足の東海一のショートとして活躍した金子さん。鋭いバッティングの大野さんは当時の豊中を代表するものであり、この三人は二月に行われた東海三県選抜の中学対商業の試合に選ばれて参加、その他阪急の梶本監督を育てられた長谷川二塁手の渋い守備等全盛時代をつくった。夏の大会は愛知予選を勝ち抜き、東海三県による第二次予選で松阪商を破りさらに大垣商を破って三浦・夫馬選手の愛知一中と優勝戦。しかし残念なことに極度の疲労から裏山投手のコントロールみだれ四球禍で敗れ、甲子園出場のチャンスを失った。前から投手経験をもつ大野さんが肩を傷めずに投げれたらと悔いが残る。
 昭和五・六年(32・33回)
 主力の殆どが卒業し、しかも新チームの中林・山中のバッテリーも退部。浦山さん一人となり野球部の危機だった。幸いに松井、片山、佐藤、小林さん等が入部しやっとチームができた。これらの先輩はすべて級長副級長だった。浦山さんを中心として部の再建にかかった。六月に豊鉄の山本さん、部長の山崎先生の力で、飛田穂州先生にコーチしていただいた。ユニホームを着ることから始まる先生の厳しい指導はたった二日間であったが、心に残るものが多かった。そのあと続いて早稲田の弘世選手にコーチとして一週間指導していただいた。
 夏休中に新愛知主催の選抜大会が豊川球場で行われ、一年の石田が投手として大活躍をした。浦山主将のすばらしいサードぶりとバッティング。一六〇糎に満たない浦山さんがバッターボックスに立つと実に大きく見えた。それに四番を打った小林さん。投手、捕手、三塁も守り最後はセンターにおさまったが、特にその長打力は歴代のトップに位置するだろう。その小林さんは十二年八月に応召、上海敵前上陸で九月十三日戦死の報をきいて、牧野先輩と二人で弔問したところ、一週間前に父親が逝去。主人と息子を相次いで失ったことをきいて母親を慰める言葉もなく帰ってきた。通称デッサーという名で親しまれ、野球部の主将としてまたクラスへ帰ると級長として人望の厚い先輩だった。
 昭和七年(34回)
 六年の十一月新チームによって市制25周年の記念行事として対豊商の試合が丸茂市長の始球式によって行われた。戸苅ー藤城のバッテリー、商業は石川ー中西。十回の補回千で九対八で辛勝。
 春休みに行われた大毎主催の三遠大会、遠藤ー小楠のバッテリーの浜一中との優勝戦は二対一で勝ち久しぶりに優勝旗の格納式をグラウンドで行った。この二点は走者二、三塁でのスクイズ、二塁走者の岡田君も一挙にホームに滑り込む好走塁によるものであった。
 その晩部長山崎先生は祝賀会をするからといわれたので、選手全員先生のお宅に参上、腹いっぱい丼飯をごちそうになったことを懐しく覚えている。
 この年も七月の期末試験が終ると直ちに豊川の中野屋旅館で合宿、午前午後と豊川球場での猛練習先輩連中も何人か泊り込みでコーチ。これらの費用はすべて大先輩の牧野、大場、白井さん、それから栄楽旅館の宮地さん等の力によるものであるということは、ずっと後になって知り、先輩のありがたさを沁々と感じた。
 昭和八年(35回)小山、夏目時代
 先の戸苅・金子時代に並ぶ時代である。前年度からようやく上り坂にさしかかった部は、小山ー夏目(米)の強力バッテリー、一塁に退いた石田の強烈なバッティング、小篠・夏目(一)の三遊間の堅実さは四商業にまけないチーム力だった。
 特に夏の大会における吉田、杉浦の中商との一対〇の試合は、今なお語り草になっている。あの時のベンチは早稲田の中島選手(後の巨人軍)。アウトコースの指示であったが、わずかにインコースよりに入ったために杉浦の三塁打となって一点。実に惜しい試合だった。
 ご承知のように小山は立教進学。彼の投手ぶりを見たいものと早立戦の日に出かけた。走者一、二塁で打者は辻井、徹底的に牽制球を投げ、バッターボックスでいらいらするところへスローボール。見事に三振、こんな場面を見物してきたことが記憶に残っている。
 ヤクルトのスカウト部長として鋭い観察力で好選手を発掘している小山君は、高野連の理事として佐伯さんの右腕となって、春・夏の甲子園大会の運営の推進力となっている同級生藤城君と共に野球での出世頭といえよう。
 昭和九・十年(36・37回)
 四商業の充実した時代である。
 左腕住野が投手となり夏目(米)が捕手。牧野のサード、鈴木、富田、大橋の外野はよく活躍した。津島中に三対〇で大会を終った。
 二学期からの新チームは一年の時からずっと野球部で育った夏目(米)住野、近藤(坂田)の三人が主力となった。それに福岡小からの高柳、中野らが選手に名をつらね強力なチームとなった。
 新たに高柳ー松井のバッテリー。夏目(米)はサードとなり近藤とともに内野をひきしめ、住野は快脚を生かしてセンター。正月に行われる六中等選抜リーグにも活躍、夏の大会は全盛の水野、大館の愛商と三対〇で敗れたが、その試合ぶりは高く評価された。特に夏目(米)は一年の時からレギュラーとなり、投手・捕手・三塁、そして四番打者としてその功績は大なるものだった。
 昭和十一年(38回)
 高柳、中野、松井、下山等。特に高柳は続いてマウンドをまもり、巧妙なピッチングは度胸のよさで、いっそう効果をあらわし、いかなるピンチにも決してあわてなかった。中野の重厚なプレイと力強いバッティングは立教入学後も近鉄の西本監督とともに一塁手として活躍した。正月の六中等選抜リーグには四対二で原田・松井のバッテリー中商を破った。
 夏は岡中と十六回の補回戦で残念ながら四対三で敗れた。
 昭和十二・十三年(39・40回)
 前年度のチームから残る者は一人もなく、まったく一新した。
 高柳の弟が投げ、小篠弟が一塁、藤井がショートにはいったが、リーダーとなるべき旧
チームの経験者がなかったことは、好成績が残せなかった理由になるだろう。
 小山投手が立教に入ってから、彼の骨折りで、黒田主将、景浦選手がコーチに来てくださった。特に十三年には大西郷の孫の西郷準投手が来られた。スポーツマンのもつ明快さと謙虚さをもつ実によい青年だった。野球の技術もさることながら人間的にすばらしいものをもっていた。不幸にして彼も中野、高柳等と同様に戦死した。 コーチとして最後の夜、牧野、大場先輩等が感謝の心を込めて晩飯をともにしたのは彼の人間性の魅力によるものだった。
 伊藤を主将とするこの年のチームは夏の大会に林投手の一宮に惜敗、戦いは次第にきびしく試合数も少なくなっていった。
 昭和十四年(41回)
 藤井をキャプテンとして出発したこのチームは7月に入って、夏の大会参加をやめようということになった。それを耳にした牧野、大場さんら在豊クラブ員集合。不参加理由は、チームの中の成績の悪い者について参加を認めないという学校側。出場停止者を仲間から出してとても出場磨る気になれない、せっかく一緒にやってきたのだからという選手側。
 大場さんと私が学校側へ善処方を要望にいったが、外部からの圧力は困るという返事。大会に出るように話合ってもらえないだろうかという気持でいったのに大変な誤解をされてしまった。翌日もう学校に依頼するより、先輩後輩の立場でと考え、藤井等五年生の選手と話合った結果、とにかく出場ということに決まり、手続きをとった。一昨年大会入場式の折、第一回から連続出場しているということで、旭丘とともに表彰されたことを思うと、あの時気持よく出場を承諾した連中に感謝したい。
 昭和十五・十六年(42・43回)
 長い間監督として我々を指導してくれた伴さんが十三年三月末に退職された。もし伴さんがおれば昨年の問題もおこらずに解決していただろう。
 監督のいなくなったチームに何とか先輩で応援しなくてはならない。特に筒山吉郎君は機会あるごとに母校にかけつけてくれた。
 十五年の小篠主将、天野遊撃、十六年の河合主将、高橋、竹村投手の頃になると国防競技等に次第に力が入り、そろそろ野球の中から敵性語ということで英語が排除される方向になった。
 昭和十七年(44回)
 筒山弟が主将として投手・一塁、岡本の捕手、古川の二塁を中心として野球もいよいよ最後の年になった。
 ストライクは〃ヨーシイッポン〃ボールは〃ダメ〃三振は〃ヨーシソレマデ〃
 大場さんと私が練習にあるいは試合に付き添ったけれど、記録が全くないので残念。
 昭和十七年新チーム(46回)
 秋からの新チームは四年はなく三年のみで編成、間瀬ー三浦(旧姓河合武)のバッテリーを中心とした及部、野口(旧姓城所)、河辺、河合(昭)小栗ら優秀な選手がそろい、秋季三河中等リーグで見事優勝、しかし野球はこれをもって遂に中止となってしまった。もしという言葉を使うなら、あのまま野球を続けておれば、このチームは私の知っているかっての戸苅、大野時代、小山時代に匹敵する強力なチームになっただろうに。
 優勝で戦前の時習館野球史をしめくくったチームの諸君に心から感謝したい。
 最後に野球と時習館をこの上なく愛した39回の筒山吉郎君が、私におくった彼の歌を紹介して擱筆する。(脳溢血で倒れ、一度はよくなったが四十九年死去)
 昨春三月甲子園球場に高校野球をみて
  若き日の いのち恋ほしみ
  半身のまゝならぬ身に
  古妻と う孫をともない
  はるけくも こゝに今日来つ
  華やげる スタンドの色に
  ゆらぎ来る 楽のひびきに
  声あぐる 孫のかたへに
  ひたぶるに ひとつ球追う
  若きらに 激つこゝろを
  押へかねおり
         反 歌
      生徒らの吐く息白き元旦の
        朝にノックうちことあり
(昭和50年春記)
                                          


  
野球回顧            (豊中41回) 佐藤大州

 昭和13年春期三河リーグ戦を豊川球場に於て開催する。出場校、岡中、岡師、成章、豊商、豊中。相手校岡崎師範、星田投手(元中日)一ー〇で勝。
 当時岡中は服部投手(元中日)岡師は星田投手(元中日)と揃い岡師の本命でした。その日は今にも雨の振り出しそうな日でグラウンドのコンディションが悪く〇対〇で十回延長、ついに藤井三塁に置き多分私が中・右間へサヨウナラ安打して勝負決まった訳でした。
 【メンバー】 投:佐藤大州 捕:青木 一:小篠 二:小林弟 三:藤井八郎 遊:佐々木 左:小林兄 中:森山 右:近藤  (昭和50年記)



  
野球回顧                   (豊中42回) 天野六二

 戦争が次第に拡大し国内の情勢も野球などを盛大に出来なくなりつつあり、豊中野球部も部員等最低限で、どにか継続していると云った状態だったと記憶しています。 そんな中で野末先輩が懸命になって毎日の練習で我々を指導され、時折、大場先輩が激励に来て下さったことが今もありありと想い出されます。 (昭和50年春記)

                                          


  
残像を追って                (豊中44回) 平野(筒山)昌治

 日支開戦の昭和十二年、私は一年生で野球部に入った。当時野球部は、黄金時代再現の名のもとに、強化策を立案、実行の第一年目であった。部長には後一年足らずで、応召せられた林俊二先生を配し、佐藤忠之ー青木親穂のバッテリーに、藤井八郎、近藤春巳、森山敬典、小林甫、佐々木幸夫ら三年生以下で編成されたチームであった。爾来三年、豊富な練習量の割には、成績は上がらず、雄大な計画も意外な結果に終始したのは何処に原因があったのであろうか。伴吉衛先生は、已に引退し、林先生の後任に、山崎隆春先生があたったが、往年の気力はなく、中途で辞められた。
 投手佐藤忠之は異色の人材。今日迄、多くの逸話を残していることは衆知のこと。野球部屋や射撃場横の木陰で披露した、彼の余芸百般はプロはだしの至芸でもあったが反面、野球に学生生活の総てを賭けたかと思わせる、熱心な練習態度は誠に崇高そのものであり、多くのチームメイトの心を打つものがあった。
 私が二年から三年に進んだ昭和十五年は、皇紀二六〇〇年の年であり、随所で八紘一宇の理想が説かれる一方、大陸の戦線は止る処を知らないかの様に拡大されていった。講堂の北野喜祥校長の話も之に呼応するかの様に、次第に長くなり、陸海の戦果を追って、序言だけで一〜二時間に及ぶことが普通であり、閉口した。
 その年の野球部は、小篠静太、天野六二、小林明らが主軸、牧野巌ー私のバッテリーに、中川、高橋、河合正、竹村、林、岡本らを配したチームで、スケールの大きさからして、かなりの戦果が期待できたメンバーであったが、成績不振のままで終ってしまった。太田旭先生が部長であり、大場儀衛、白井晋介、野末純雄の諸先輩が、コーチに見えられ、精神野球を強調された時代であった。 戦局の推移はやがて野球道具の逼迫となり、その調達は意に任せず、ユニホームは、先輩から寄贈された繭袋を更生した物を着用した。銘柄、産地、質量を印刷の総柄もので、誠に粋であったわけである。又胸マーク「〇」は、当局から敵性文字だと指摘され、我が校の「〇」は、友好枢軸国のドイツ文字だと一旦は抗弁したものの、この年から漢字の「豊中」に改めた。
 昭和十六年、校友会は報告団と臨戦体制をしき、野球部は野球班として柔道、剣道と共に甲種に属し、対外試合を許された。因みに対外試合を許されない乙種に、庭球、籠球、排球、弓道、体操、基礎訓練の六班があり、昨日迄、部部屋を隣とした蹴球部は、あはれにも、その名さえとどめず、基礎訓練班に集約されてしまった。野球班へのこの知遇は先輩の築いた栄光に歴史の賜と、班員一同、今更ながら伝統の偉大さに感銘したことであった。部長は大林三男先生。校長はこの年の中途、久野新松先生と変った。野球班は、河合正の主将に、中川泰三、高橋敏雄、竹村幸久といづれ劣らぬ智将揃い、反骨精神が、此処に凝集したかと思わす理論派の集まりであったが、グラウンドは時に、敵蹂躙に委ねきることが多かった。先輩筒山吉郎が、コーチに来ていた七月、朝日新聞は、本年度以降の大会を中止する旨発表した。そして河合正が、野球部史上前人未到の学業成績を修め続け、首席で卒業するという快挙を成し遂げようとした十二月、国は太平洋戦争に突入した。
 私が岡本順一とバッテリーを組み、古川孝、内田圭一らとチームを形成した昭和十七年の世情は次第に緊迫・本土決戦の形相を深めていた。決戦は先づ、食糧増産からと校庭はレフト側からもライト側からも、さつまいも畑の浸蝕する処となった。それでも伝統を守る時こそ今とばかり野球班の練習は、生気溌剌、意気は将に天をつく勢があつた。道具のいたみは使用の限度を越え、穴あきグラブは素手に近く、破れたスパイクは素足に近かったが、選手らはそれでも尚、霊気の権化の様に球を追い続けていた。野球に憑かれた男たちのかたまりであった。学友たちも試合のたびに、常に数百人がと豊川に集まり、拳をあげ、腕を振って応援し、永劫若き眉昂る、豊中健男児の奮闘を讃えてくれた。
 ギルバード諸島沖の空中戦で壮烈な戦死をとげた林司は、私の同期の球友である。彼は天与の才能に恵まれた攻守走三拍子揃った名選手であった。不撓な闘志の人であった反面、物柔らかな人なっつこい性格であった彼を、偲びつつご冥福を祈る次第である。
 私が現役を終えた新人戦に、間瀬誠一ー河合武雄の好バッテリーは、河辺政美、竹内尚則、城所恒彦、小栗幸朗、河合昭夫、及部昭夫、天野満雄らと共に永年の宿敵岡崎中学、豊橋商業を連破し最後の三河リーグ戦で優勝した。期して報はれなかった大悲願を、遂に最後の土壇場で成就したのだった。表彰式の朝礼台上、優勝旗をかざした芝村義邦教頭が全校生徒を前にして、狂喜乱舞した時、私は優勝の喜びとは別に、「野球が終れば、やがて学校も終り、日本も終る。」と放心状態で侘しさを感じたことであった。豊中野球の終焉のとき、昭和十七年秋は憂色をつつんで深かった。  (昭和50年春記)

                                          


 
野球回顧            (豊中46回) 間瀬誠一

 昭和十七年三河中等学校秋季リーグ戦
  【メンバー】 部長:太田旭先生 顧問:小野田金三郎先生 2:三浦(河合)武雄(3年) 6:三浦幸朗(3年) 5:野口(城所)恒彦(3年) 1:間瀬誠一(主将3年) 7:及部昭夫(3年) 8:河合昭夫(3年) 3:河辺正美(3年) 4:天野万雄(2年) 9:竹内尚則(2年)
 記録(豊川球場)
  九月二十七日 豊中十一ー〇岡中(七回コールド)   十月四日   豊中四ー二豊商
  十月十一日  豊中十三ー二碧南商           十月十八日  豊中九ー三岡崎師
   豊中優勝!
 私達は戦時中最後の野球部員です。
 昭和十七年秋の三河中等学校野球リーグ戦を最後に先輩から受け継いだユニホーム、グローブ、スコアーブック等、「また野球の出来る日まで」という皆の寄せ書きと共に学校の蔵に箱に入れて仕舞ったのだが、残念にも空襲のため灰になったので先日豊橋の図書館に出向き、当時の中日新聞をみて左記の記録を報告する次第です。 三河リーグの優勝は十年振りとの年で、優勝翌日の朝礼では全校生徒の前で学校に報告し、芝村教頭先生からお褒めの言葉と努力をたたえられ、優勝旗を何回となく振られた事が今でも目の前に浮かびます。
 なお色々と教えていただいた筒山吉郎先輩が入院中の陸軍病院より「喜びの詩」を送っていただいたのも良き想い出です。試合毎に多数の応援をいただいた先輩、在校生にお礼申し上げます。
 〔合 宿〕
 昭和十六年の夏休み、龍拈寺で合宿練習をしました。四年生の平野昌治、岡本順一、古川孝諸兄、三年生は部員無し、二年生の私達です。朝の坐禅、楽しい食事、夕食後の映画見物、墓場での試胆会、楽しい想い出です。 練習でバットを折ると、折れたバツトを交換に先輩大場儀衛さんのお蔵に新しいのをいただきに行った事等々、予算の事は知りませんでしたが、色々とお世話になった事と思います。有り難うございました。
 なおコーチをしていただき、思い出す方々は下記の通りですが、忘れていた方がありましたら許して下さい。 野末純雄、下山、戸苅、筒山吉郎、河合正、竹村幸久、平野昌治(筒山)、岡本順一、古川田孝。(敬称略)
(昭和50年春記)

                                          


                                    
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