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                    野球の思い出(戦前ー1)・・・大正

 野球部の思い出 満井信太郎 .元野球部長. .  野球回顧 下山九郎 四中20回・大正8年卒
 野球回顧 牧野茂三郎 四中17回・大正5年卒  野球回顧 大場儀衛 四中20回・大正8年卒
 野球回顧 伊藤 皋 四中18回・大正6年卒  森 夢筆(彦市)先生談 元野球副部長
 野球回顧 小野田兵一郎 四中18回・大正6年卒


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  野球部の思い出(校友会誌40周年記念誌・昭和八年)

     満井信太郎

 スポーツの愛好者の一人として、豊中在任中は及ばずながら校友会運動各部の為め微力をいたした関係から、豊橋のなつかしい思い出としても一番鮮明に記憶によみがへって来るのはスポーツ方面の出来事だ。
 その中で何といっても一番うれしかったのは、東海野球大会に優勝して、全国大会予出場権を獲得したことである。あの時分は大朝大会の予選大会の方法が今とは違って、東海地方には朝日の会の出来るずっと前から成立して居た東海五県野球大会というのがあって滋賀、岐阜、三重、愛知、静岡の主なる中等学校がこれに加盟していて、夏季休業中適当な日柄を選んで五日乃至一週間位加盟校中の一校が主催者として大会を開くことになっていた。主催当番になると経費その他の点で随分迷惑なこともあったが、一方、この大会が比較的スポーツに恵まれない地方の運動趣味開発に貢献した事はいなまれない事実である。
 我四中(当時は愛知県第四中学校と呼ばれた)はずっと前から伝統的に野球は強かった。しかし、それ迄一度も優勝し得なかったのは例の愛知一中がズバ抜けて強かった為めで、一中の強みは中等学校級のレベルをはるかに抜いて大学高専級といはれていた位、従って東海野球大会加盟校(後五県から滋賀と静岡が脱けて、今と同一範囲となった)は「打倒一中」を目標として勇猛精進したのであった。處が丁度大朝の全国大会が始まる年あたりから、流石の一中の牙城が揺ぎはじめて来たのである。伊勢の富田の大会で我四中軍は正々堂々準優勝戦に一中を降し、優勝戦に強剛をほこる山田中学(当時三重四中)と見えてわづかの策戦のつまづきから九仭の功を一簣に缺いて敗戦の涙を呑んだのであった。
 その翌年しかも大会は我四中主催のもとに豊橋で挙行されることになった。地の利を得た四中チームは昨夏の恨みをはらし、多年の宿望を達する今年を措いてはた何れの時にかあらんの意気に燃え美事優勝候補の岐阜中を撃破し、優勝戦に一中と見えて遂に宿敵を屠り、ここに紫の大旗を獲得し長駆豊中(当時全国大会は豊中球場で行われた)に出陣したのである。全国大会では不幸一回戦にその大会の優勝校慶応(当時は普通部と商工部とが合併して一チームを組織し、しかも大学選手の一員として弱冠既に令名を馳せた山口投手を擁して威風堂々たるものがあった)と合し六対二で敗退の憂き目をみたが、しかし戦半ばに至る迄克く慶応をアヘッドし後の大選手新田投手をノックアウトしたのは痛快無比全国野球ファンに豊中の存在を知らしめたのは正にこの時であった。 我豊中の全国大会出場はこの時一回であるが爾来我豊中の野球部が強剛揃ひの東海地方にあって常に一方に雄飛し現に今年の如きは全国の覇者中京商業を殆ど土俵際迄追いつめる快戦を試みた程輝かしい戦績を誇ることの出来るのも先輩の處した偉業のお蔭によることが多い事は申す迄もないことと思はれる。
 豊橋が全国野球都市屈指のファンを擁し、近郊に大野球場を持つ誉を担う様になったのもこの大会が齎らした結果の外ならない。丁度大会半ばの頃私の同僚の一人が理髪店に行かれた處、理髪店の親方と店員とが盛んに野球の趣味を論じ『ヤギュウは痛快だ』『ヤギュウは素敵だ』と舶来のスポーツを荒木又右衛門の師匠からでも伝来した様な噂(ヤギュウー柳生)をしていたと大笑されたことがあったが、ヤギュウ熱の高まったのもこれ等のフアンの宣伝に由来することを忘れてはなるまい。

                                     


  野球回顧 (校友会誌40周年記念誌・昭和八年)

    (四中17回・大正5年卒) 牧野茂三郎

 僕が第十七回卒業の理事に推され、又代表して此の拙文を書くは、或いは同期諸氏に対して失礼とは思ひますが、自分は野球部の選手生活をして又先輩として連絡上、豊橋中学倶楽部を起して、指導し、献身的努力を尽して来た関係上、在校五ヶ年の野球部史の追懐を起す事を許してもらいたい。 僕等が憧れの愛知四中へ入学せしは明治四十四年の春だ。何しろ当時は現今程野球試合数はなく、一ヶ年を通じて五、六回しかなかった。それ故いざ試合日決定となると掲示をして檄を飛ばし、全校一致の意気を見せ、只勝利を得べく応援したものだ。
 明治四十四年度の野球部選手は
  1:加藤 2:犬飼 3:中原 4:大沢 5:伊藤鶴 6:鈴木 7:森田 8:西野 9:伊藤武
以上の顔振れで、当時未だに記憶に残っている試合は夏明治大学、東海道遠征を当校庭に迎えて一対〇で惜敗せしが、其の実力の程知る事が出来た。而して、東海五県野球大会(現在夏期休暇挙行されている大朝主催の地方大会の前身)出場し可なりの成績を揚げし事と記憶す。
 翌年度即ち明治四十五年度の選手は投手加藤氏一人卒業せしのみにて正に黄金時代であった。
 同年度の野球部選手は、
  1:伊藤鶴 2:犬飼 3:中原 4:大沢 5:坂井田 6:鈴木 7:西村 8:西野 9:伊藤武(主将)
 以上顔振れにて最も特筆すべき戦跡は愛知一中校庭に遠征し四対二? にて一中を軍門に下し初めて勝利を得、当部史へ偉業を残した。又明治大学は第二回東海道遠征に来り校庭に迎えて二対一で惜敗せしが其の健闘に流石の明大をして色を失はしめたのは痛快であった。
 愈々期待せられし東海大会も間近に迫り猛練習中、恐れ多くも明治大帝御不例中にて御遠慮申し上げ大会は中止となった。若し大会があったならば必ずや東海に覇を称へ優勝せし事と思われ非常に残念であった。何しろ当時の練習は技量と気力の平行練習で猛烈の程知れ、東海の覇者となったのも宜なるかなである。
 その夏国民の祈願もかなわず明治大帝崩御遊ばされ世は諒闇となり大正の御代となった。
 大正二年度は前年度の選手中大沢氏只一人残りしのみ故チームの編成上頗る困難しその成績は余り香しからざりしが、時の野球部長満井先生が豊中野球部応援歌を作り大いに士気を鼓舞せしは此の当時であった。 
  1:青山三 2:大沢 3:伊藤次 4:渥美 5:岸上 6:戸倉 7:下山 8:青山 9:牧野
 翌大正三年度は全軍熱心なる練習の結果戦績も挙がり、東海大会出場の時の如き強敵膳所中学を敗り四日市商業に惜敗せしかど、時の弱輩投手下山の投球は物凄きものがあった。此の年の選手は、
  1:下山 2:牧野 3:大橋 4:小栗 5:小栗弟 6:戸倉 7:青山 8:小柳津 9:今泉
 大正四年度は愈々小生主将に推されてチームを組織した。
  1:下山 2:牧野 3:関 4:今泉 5:小栗 6:小野田 7:馬場 8:小柳津 9:村井
 以上の顔振れに、早川、久田の両氏も時々試合に出場した。練習は犬飼、青山、戸倉の諸先輩の指導の元に、猛練習を積み時の野球部長満井先生及森先生(渥美電鉄常務取締役)も熱心に監督して載き自然と奮闘せざるを得なかった。
 何しろ選手の服装はアンダーシャツは着ずストッキングは弱虫の様な気がしてはかず、脛は日に焼けて黒くなり其の焼け色の濃さで練習の程度が知れ又強者と思はせる頃その獰猛さ加減を推して知る事が出来るだろう。前述に通り、一学期対抗試合は三、四回しか出来ず一つ一つの試合を大事にして全力を注いで殆ど近隣校を敗り、愛知一中へ遠征し三対一で惜敗せしかど、続いて我が校庭に迎へてそれを五A対四で復仇したその時の得意思う可し、兎に角本校で愛知一中を敗りしは初めてであったから先輩部長を初め、先輩全校一致の応援団は狂気乱舞した時の応援団は頗る統制が取れ、団長には組長及び校友会各部の主将から大旗大太鼓応援歌に守られ、必ず石にかじり付いても勝たざるを得なかった。我々も一中に勝ち大いに自信がついた。間もなく夏期練習に入り一高選手芦田、平山、村井の諸氏に一高流の猛烈極まる猛コーチを受け、其の苦しみは堪へ兼ねる程であった。芦田氏は時の一高快投手で早慶を破り、その超スピードで打撃の練習をした故打撃に自信がつき、夏の東海大会には愛知一中を七対六で破り、意気揚々宿舎へ引上げ両部長始め嬉し涙で一杯であった。次には斐太中学を二十九対〇でコールドゲームで破り、愈々優勝戦に山田中学と見へ五対四で惜敗した。ああ悲しきかな。第一回大阪朝日の全国大会出場のチャンスを逸した両部長選手一同悲しみの極み、中にも某選手の如きは自責の念にかられて気も狂わんばかりに悲しんだ。而して『来年は』と選手一同誓った。
 こうした各ナインの血涙の結晶は翌年の優勝の第二回全国大会に大坂出陣の栄冠を勝ち得たのだ、苦しまなくては最後の栄冠を握る事は出来ない、今の若い選手も良く先輩の苦しんで血と涙で作りし歴史を今一層輝かしてもらいたい。
 現今東海地方中等学校の野球は群雄割拠時代で此の中を勝ち抜く事は容易な事ではない。而し古き尊き部史を思ふ時、其の部史を背景に以て大いに先輩に叱咤され猛練習を積み、気力も共に養成し魂以て敵を打ち破り、益々部史を輝かす覚悟をせられん事を希望する次第だ。
 こんな拙筆が幸に若き選手諸氏に参考とならば幸甚の至りです。

                                     


  野球回顧

    (四中18回・大正6年卒) 伊藤 皋

 大正四年十二月から一月にかけての冬休に当時早慶と互角の力を持って東都球界に重きをなしていた、一高野球部選手が先輩芦田投手、平山捕手、村井中堅手(四中OB)に率いられて来豊し合宿練習をした。吾等四中野球部は午前中、一高野球部は午後有名な一高式猛練習を行った。前記一高三先輩と共に四中先輩も犬飼(14回)青山(15回)戸倉(16回)其の他のOBも参加して叱咤激励の声が三河名物の空っ風を吹き飛ばす勢いで吾々選手の頭に降り注いだ。三日目位の間隔で練習試合が行われ大体吾等の勝利となったが、勝ちが続くと一高のプレートには豪速球で早慶を破った芦田公平氏が立って吾等の打棒をピタリと押えたこれらが吾々のバッティング上達に非常に力を加える事になって、翌年の愛知一中長谷川投手の球を打って優勝する大きな原動力となった。その時の一高は主将城戸四郎一塁手(旧制北村松竹会長)中松捕手、岡崎遊撃手(故人外務大臣)伊藤武雄右翼手(四中先輩14回)などそうそうたるメンバーであった。 一高野球部は大正五年三月の春休にも来豊、更に夏休にも揃って四中校庭に姿を現して大いに吾等を励ましてくれた。これは当時四中野球部長の満井信太郎先生が一高先輩であられた当母校に頼んで挙って豊橋に合宿練習を行うことになったと、後年城戸松竹会長に聞いて知った事である。
 大正五年七月十八日一学期の試験終了と同時に龍拈寺に合宿することになり、四中野球部選手10人の合宿練習が初まった炎照の下、午前、午後ぶっ通しの猛練習で頬は落ち、眼はくぼんでへとへとになったが、気力だけで一同頑張ったその甲斐あってか、八月初めからの東海五県連合野球大会に昨年の仇敵山田中学を二二対〇で大破、岐阜中学を九対〇と破り、愈々優勝戦に宿敵愛知一中と相対した。四対〇とリードされたが後半猛練習の粘りが利いて美事な逆転劇を演じ、五対四と勝利を獲得して東海五県代表として、大阪府は豊中球場第二回全国中等学校優勝野球大会の出場権を握った。爾来六〇年に近く愛知四中、豊中、時習館と続いた母校野球部も鳴尾甲子園球場とせいぜい発展した本大会に一度も出場する機会に恵まれないのは残念至極である。
 豊中球場に出場した吾等は一回戦に優勝チーム慶応普通部と当る不運に遇って六対二で敗れて球場を後にすることになった。(昭和50年春)
                                     

  野球回顧

    (四中18回・大正6年卒) 小野田兵一郎

 何んと言っても第一回、第二回の東海大会の思い出だ。当時愛知一中が東海地方に君臨して居て、我々は手も足も出せなかった状況であったので、冬の休暇も夏の休暇も打倒愛知一中の唯一筋の猛烈なトレーニングであった。そして先輩達は当時の強豪大学一高チームの村瀬、中松、芦田、加藤等という顔振れを揃えて半殺しになるまですさまじい練習をしたものだった。その為めか田舎中学といえは相当な腕前となった様だった。
 第一回の東海大会で決勝戦で山田中学と対戦し最後九回、ワンアウト逆転のチャンスの時、山田中学のピッチャーの足元を強襲のゴロが、却ってダブルプレーを喰らって万事休したことは今でも残念に思っている。全プレヤーの涙は校庭から富田浜の宿に着いてもまだ止まなかった。そして一年が経ち第二回の東海大会で二二対〇で去年の敵討ちをして優勝戦で強豪愛知一中と対決した。その時は応援団もすごかった。選手も豊橋市民も一致団結で押し切ったとの印象を今でも持っている。
 初めての関西遠征で、当時東都に有名校慶応普通部と戦うこととなった。慶応普通部は大学チームの仕合を見ている。駆け引きもうまい実力もある、そのチームに最初ぶつかったのは運も悪かったとも思える。六対二で負けたが、初めて自分のプレーが新聞紙に写真入りで記載されたのを見て田舎中学生は眼をパチクリして恥しい様な気分になったことをおぼえている。今日から約六〇年前のことで今日のT・Y時代の学生とは一寸ギャップがありすぎる。
 当時のキャプテンは牧野茂三郎君から下山一麿君に引継がれた。そして二人共真剣な練習と熱心な統率が好結果を招いたものと思う、感謝する。しかし牧野君は今もお元気の様子、下山君は残念ながら他界された。
 全国高校野球大会へ第二回に参加して以来、まだ参加したといううことを聞かぬ、高校野球は夏がホン物である。是非参加の栄光を勝ちとらんことを祈るものであります。(昭和50年春)

                                     


  野球回顧

    (四中20回・大正8年卒) 下山九郎

 拝啓
 その後は御無沙汰しました。
 私達が全国大会へ出た時は甲子園球場が出来ない前だったので、大阪の豊中グラウンドだったと思うのですが、グラウンドも甲子園程良くはなく、外野のスタンドは無くて、内野席だけが木造のスタンドになっていたと思います。大阪で何処の宿屋に泊ったのか、どんな風にして豊中グラウンドまで行ったのか記憶がありません。
 試合のこともあまり記憶がありませんが、何回かに、私の打った球が一塁後方に飛んだ時、慶普の右翼手だったと重いますが、うまいスライディングキャッチでアウトになったことを覚えています。(昭和50年春)

                                     


  野球回顧

    (四中20回・大正8年卒) 大場儀衛

 第四回東海大会出場メンバー
  
  P:馬場(5年) C:大場(5年) 1B:金田(4年) 2B:征矢野(3年) 3B:夏目(5年) SS:塩瀬(4年) L:山田(5年) CF:下山九(5年) R:伴(4年)

 チームの性格と実力。このチームには、四中野球部創設以来の強打者でホームラン王の塩瀬がいた。彼は四年間の選手生活中、毎年試合数よりホームラン数の方が多い歴史的な選手であった。又短距離の陸上選手が四名もあり、セーフティバントとホームスチールを平気でやるのが二名いた。当時はランナーの交替自由時代であったから「野球は足なり」とか「勝敗はベースランニング」で決まる、と信じていた時代には理想的なチームで、守備側には必ずエラーが多くなり、ボークの起らない試合は皆無の有様で、大会まで一年間無敗で通した。次に強いのは愛知一中であったが、これも三回試合して連勝であり、特に三回目の試合は、一中は途中で棄権してしまった。他には岐阜中、四日市商位のもので、静岡県には強い学校は無かった。岐阜中には定期戦で楽勝していた。我がチームの欠点は、捕手にパスボールが必ず出ることであった。投手が長身で投げ下ろしの低めの速球と大きなドロップを自慢にしていたため、バウンド球が多くて、捕手のなり手がない。仕方がないので、当時は中等学校では使っていなかった脛当とバイクを装備する条件付で、私が最後の一年間を引受けた。
 大会で記録的な惨敗をした理由。第一回戦は三重県最強の四日市商業であったがバント攻めと、撹乱(ベースランニング)で相手をガタガタにして二三対一で大勝した。
 この夢想もしなかった大勝が、翌日の事実上の優勝戦である対一中戦で二〇対〇の五回コールドゲームという記録的な惨敗をした原因を作ってしまった。この大会には関係者も皆優勝を確信していたので豊橋から応援に来た者が多く、野球部の先輩だけでも十数人来られた。宿所は長良川畔の旅館で、選手と先輩は二階に泊った。先ず夕食から間違いを起してしまった。先輩連中が喜び過ぎて単なる食事ではなくて、優勝祝賀会になってしまった。終了後は遠い町まで行って二次会をやり、宿所にかえってからも酔払い連中のドンチャン騒ぎで、選手達は到底安眠はできなかった。更に翌朝は正気の沙汰ではなかった。先輩連中は選手を引連れて長良川で水泳会をやる始末。私は小学校時代から短距離選手で多くの真剣試合の経験があったので、どうしても浮かれた気分が出ないので、一人だけ川に入らずに宿で寝てしまった。午後一中戦となったが、試合直前のウォーミングアップが既にノロノロで活気はなく、暴投落球続出。投手は連続四つの四球を出して、最初から押出点を与える有様。全員の守備もバッティングも、御家芸のベースランニングも皆駄目で全然ゲームにならない。一中はフリーバッティングを投げている位の気分でこの歴史的惨敗をしてしまった。
 練習と合宿。 合宿は冬休み、春休み、大会前と毎年三回行われた。四中グラウンドは当時東京六大学より強かった一高の毎年の冬期キャンプ場であった関係で、冬休みの合宿時は毎年一高と合同練習をすることになっていた。平常の普通の練習は、攻撃はバッティングよりもベースランニング関係のプレーが主となり、守備は投捕球よりもチームワークプレーが主となっていた。ところが合宿訓練は常に一高式で基礎の鍛練ばかりで、厳しく、激しく、苦しいものであった。だから当時に選手は下手のように見える者でも、基礎だけは充分に仕込まれていたから、試合となると誠に上手にやってのける。即ち「野球は基礎だけである」「練習とは基礎の繰り返しである」の鉄則を年中聞かされて過してしまった。(昭和50年春)

                                     


  森 夢筆先生談(時習八号 昭和23年6月25日号)

 ホトトギス派有数の俳人として知られる森夢筆先生は、大正三、四年、下山、牧野バッテリーを擁して当時天下無敵を誇った豊中黄金時代、野球班副部長として班員等と寝食を共にして活躍された方である。
 明治四十四年早稲田国文科を出られた先生は恩師島村抱月先生の紹介により同年十一月当校教諭として来任され、爾来六年間教鞭を取られて後、実業界の方へ転ぜられた。
 現在は当市東田町の閑居に悠々自適の月日を送って居られるが、今回吾々の請に応じて快く往時懐古談と本紙へ寄稿して下さった。(編集部)

 勝利の蔭にさん然たり
 豊中甲子園出場秘録
  涙ぐましき苦闘

 御注文の先生時代の思ひ出を一つ御話致します。
 それは昨日より静かに思ひ出の糸をたぐり寄せた野球部のお話です。
 たしか大正三、四年頃だったと思ひます。野球部長は現山口高校の名誉教授として、その特異な存在を謳はれて居られる満井信太郎先生で、私がその下に副部長といふ名で部の世話をやって居りました。豊中としては、あの頃がいわゆる中興時代だったのではありませんでせうか。その後の様子が充分判りかねてゐますが…。
 例の下山、牧野バッテリーの時代です。東海では愛知一中に牛耳られてゐた頃です。
 名古屋へはしばしば遠征致しました。専ら一中打倒が目標だったのです。下山一磨投手は現中国電気実業株式会社専務取締役、牧野茂三郎捕手はモッサアの愛称を以て豊橋野球界の元老的存在として名を馳せてゐる市衛生課長です。他のメンバーは国際電気通信の技師小野田兵一郎、明徳電気製作所社長伊藤皋、医学士小栗滋弌、静岡県庁とかの役人をして居られるといふ村井康子磨、故人となった段嶺村出身の旧姓今泉の加藤源一、八名村在住の木材商小柳津朋一の諸君、其他現在共消息を寡聞の私には判って居りません方で、関定幹、久田輝義、馬場駿の三君であったやうに記憶してゐます。
 この陣容を以て私どもは名古屋へ遠征しては破れ、豊橋へ迎へては破れました。先輩伊藤鶴吉、犬飼三太郎ののバッテリを以て撃破した愛知一中に苦盃を嘗めさせられたことは幾度あったことでせうか。切歯扼腕雌伏又雌伏といふ所です。そこで愈々一中打倒一本で血みどろの精進に突入しました。当時球界に名を馳せた一高の芦田、村井両氏をコーチャーに迎へ、俄然猛烈な練習に取りかかりました。当時黄金時代の犬飼三太郎君は豊橋警察署に勤めて居られましたと思ひますが、同君は繁忙激務の閑を盗んで選手合宿に於ては親身の兄の如く、校庭に出でては先輩の慈愛を垂るるに時に足らざる指導激励身を以て事に当られ、加ふるに芦田、村井両氏の薫陶に浴し、鍛練に鍛練を重ねてゆきました。汗と泥とにまみれたユニホームに張り切った選手諸君の肉体に粘りついて溌溂たるものがありました。かてて加へて、御他聞に洩れぬ経営難で、新しいボールを購ふ金がなく、その血の出るやうな猛練習のひまひまに校庭の一隅に、或いは合宿の夜なべに古ボールの繕ひをしながらの文字通りの臥薪嘗胆です。
 毎日の猛練習の幕切れはほの暗く黄昏れて来た校庭の柵際で、ヘタヘタと坐り込む程ノックを続けられ、怒鳴られ、涙か汗かわからぬやうなベソ面を風に吹かせて帰って行く有様でした。
 かくして大会がやって来ました。その年の会場は伊勢の富田中学です。満井さんと私とは選手とともに潮騒激しい富田浜の宿に合宿して、そこから毎朝会場の富田中学校庭に通ふことに致しました。果然、宿敵愛知一中と準決勝の顔合となりました。最終回まで全く予断をゆるさぬ接戦にベンチにいる満井さんも私も足元の砂に目を落して胸を痛めざるを得ませんでしたが、誰れの決定的痛打だったか、はっきり記憶致しませんが遂に宿敵を屠り去りました。
 雪辱! と決まった刹那、この時、私がしばしば思ひ浮べるこよなき感激の光景です。満井さんも私も思はずベンチから躍り上がってグランドへ飛び込んで行きました。選手は互に相抱いて欣舞しました。私はグランドの一隅に跼みこんでしまひました。泪がボロボログランドの熱砂に落ちたことを覚えてゐます―。
 全く忘れ得ぬ感激でありました。打揃って校歌をうたひ乍ら帰る足並の軽さ…。頬を撫づる薫風の快さ、涙に洗ひ清めたような清々しい私の服にしみ入るやうな群青の海の色―而し乍ら残念に山田中学に優勝戦に敗れて帰りました。
 その翌年が愈々豊中の校庭で大会挙行といふことに決定しました。
 当時のグランドは雨上がりの新道のやうに小粒、大粒な砂利が一面にごろごろして居り、雑草が外野の半ば以上まで生い茂ってゐました。いかに整地して会場となすべきかは金のない部としては大問題です。満井さんも私も無茶で押し通すより外に施しやうもなく、数日農家の人夫を頼んだくらいが精一杯でした。
 己むなく選手諸君と私とで、練習後や余暇に整地作業を毎日やりました。尤も全校生徒の協力作業も随分やって貰ったのでした。
 日々の炎天下の猛練習の間々あひまにかうした労働には、選手諸君にはかなり苦しい思ひ出があったことと思ひます。私など、しまひには、帰宅後、疲労のため飯が喉へ通らぬようなこと、鳥目のやうに視力の衰へを生じたことも苦々しい追憶の一つです。
 この苦労に苦労を重ねた成果が、あの優勝となってあらはれ、甲子園出場といふ誇りを得た訳だと思ひます。何といってもあの時が豊中野球の最高潮でせう。市内の豊中ファンもうんと出来まして校庭は、一寸した練習にも人を以て埋めた程でした。
 優勝戦は愛知一中とでした。全校が全く一丸となってぶつかったといふ感じです。全校の生徒は伝統をほこる大太鼓を鳴らして、所謂一高式の応援です。どこの教官でしたか覚えてませんが「石に噛りついても勝て」といふ激励の辞を以て生徒を鼓舞し、応援のしかたを身を以て指導(ひそかに)したのを覚えてゐます。
 なにしろ野球でも何でも対校試合に敗けちゃ駄目ですよ。理屈ぬきです。どうです、今の日本を考へてみて下さい! それが美しく刻みつけられた思出話の一トくさりです。こんな話でもよければ又話します。

                                     


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