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                              野球の思い出ー(2)

表の左の項目は 「野球の思い出ー(1)」に掲載
 野球部 豊中から時習館へ 高橋光雄 豊中51回 .  部室三転 光島 稔 時習18回
 光陰矢の如し 今井 明 時習2回  回 顧 志賀吉修 時習20回
 親子三代が願い 松永整二 時習3回  私の甲子園 石田年弘 時習23回
 時習館十回生の思い出 高津政義 時習10回  回 顧 原田典彦 時習24回
 昭和三十三年の想い出 佐野直樹 時習11回  回 顧 松井国康 時習24回
 回 顧 繁原武明 時習13回  野球と私 高橋 薫 時習25回
 思い出の試合 鳥山紘之 時習14回  我が永遠なる悪友 竹花(中田)俊二 時習29回
 回 顧 梅村民雄 時習17回  高校野球の思い出 木藤政美 時習31回
 打てず、守れず 太田智洋 時習18回  50年前の野球 河合陸郎 豊橋市長

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部室三転

(時習18回・昭和41年卒)光島 稔

 高校三年間、毎年部室が変りました。入学した時の部室は、旧陸軍の建物だったと思いますが、最初に入った時の汗の臭いは、鼻がひん曲りそうでした。しかし、一週間もすると慣れて、昼食は部室で食べていました。

 その部室も、翌年三月の火事でなくなり、当時学校内の職員住宅に住んでおられた藤田良彦先生宅の一室にお世話になりました。古い建物だったので、いずれ、取り壊されたと思いますが、部室と共に伝統の何割かも焼失しました。

 当時の新チームは、部員不足が常で一年の時は、大会直前まで五、六人て練習して、やっと十人になり岡崎高校へ練習試合に行ったわけですが、両チームで補欠は私だけで、ファールボールは、全部私が拾いました。隣の小学校へ飛び込んだボールを、岡崎高校の監督さんと二人で拾った事が思い出されます。

 公式戦に入り、守りになると豊橋球場のベンチには、藤田先生と二人だけになってしまい、同級生に、とても辛い旨話すと、熊部光宏酒井喜代嗣のバッテリーは、ファールをベンチ側に打たし、攻撃の時は、ファールで粘ってくれました。太田智洋はそんな余裕はなかったと思います。敢て私は、友情のファールボールを、複雑な気持で拾いに行きました。我々四人の友情と、チームワークの原点が、この中にあったと思います。

 十二年後(昭和50年の第57回大会に国府高校が甲子園出場、この時藤田良彦先生が部長で、私が監督でした)に、甲子園のベンチを先生と共にするとはまさか、の一語です。

 部室とともに野球道具も焼失したのですが、瞬く間にOBの寄付により、バット、ボールのみならずグローブまでいただきました。それまでは包山先輩から三百円で譲り受けたグローブを使っていましたが、新品のグローブを手にしてから、私の守備が急速に上達しましたが、火事の功名とはいえ何の略かも知らなかOBという言葉を強く認識しました。熊部は、outboyの略かなんて言っていました。

 部室で期末試験の終った日のミーティングで、必ず先生が言われた、ベースボールオンリーという言葉も、あの部室でこそ、似合う言葉だったと思います。又、練習の最後に言っていた、主将のアイン、ツワイ、トライで始まる締めも、熊部の独断と気紛れでやめてしまいましたが、これも部室焼失と無関係ではないような気がします。火事以降先生宅にお世話になったわけですが、今思いますと、家族のプライバシーなどなかったのではないかと思います。練習時だけでなく、体育の授業のたびに入れ代り、立ち代り、着替えにお邪魔していたわけで、大変申し訳なく思っています。

 三年になる時、先生が国府高校へ行かれ、秋本正志先生に代られ、部室も再度新しく出来た所に移りました。この部室は他のクラブと一並びで大部屋という感じで、今までの部室と比べ余り感慨がありません。三年間、野球部は大きく変化しましたが、多くの先輩に訪れていただき薫陶を受けました。創立七十年の歴史と伝統のエキスを丸呑みしたような野球部生活でした。

 もし、過去の事で、今一度出釆る事があるならば、真っ先に高校野球の試合に出たいです。試合だけに。(平成11年12月記)

                                   

回顧

(時習20回・昭和43年卒)志賀吉修


 昭和41年7月21日於豊橋球場 夏の第48回大会 愛知県大会予選第一回戦

 対戦相手は、その年の春の大会に優勝した中京商でした。その時のメンバーの交換カードを自宅に保持していますが、参考までに次に記します。

中京商 . 時習館
監督 杉浦 監督 秋本正志
1 三塁 平林 1 三塁 志賀吉修
2 中堅 西脇 2 遊撃 胡麻本
3 遊撃 芝田 3 捕手 高橋静男(主将)
4 右翼 伊熊博一(主将) 4 投手 伊藤 行
5 一塁 川口 5 右翼 森之内克明
6 捕手 矢沢 6 中堅 中田 薫
7 左翼 渡辺 7 左翼 大場 茂
8 投手 加藤 8 一塁 三浦治幸
9 二塁 光岡 9 二塁 内藤
                         時習館は一部推定

 中京商戦から三年後、小生は名古屋の予備校から帰宅中、JRにてかってのスーパースター伊熊博一(昭和41年ドラフト、中日1位指名)と同じ車両に乗りました。その時二軍中の同氏は、車中が混んでいたため、立ったまま大府駅あたりで降りたと記憶しています。

 その後数年経過し、弟(トヨタ自動車勤務)とトヨタ自動車本社工場野球場に、中日と南海(現ダイエー)の二軍戦を見に行きました。南海にはこれも中京商出身の林(このとき彼はバッターに転向した後と記憶しています)中日はライトが伊熊、センター大島康徳(現日本ハム監督)が守っていました。

 試合の途中で未だに忘れないのは、大島(彼は伊熊より二歳年下のはず)がライトの伊熊に守備の際、ボールを投げるとき、「イグマー、いくぞ−」と大きな声をかけていたことです。

 今振り返ってみると、この元気さ、バイタリティーが後年、彼を支え、大成させたのかと。それに比して数年後、寂しく球界を去った伊熊と何と対照的かと、今でも感慨を深くしているところです。(平成12年5月記)

                                    

私の甲子園

(時習23回・昭和46年卒)石田年弘

第52回(昭和45年・1970年)夏の大会 愛知県予選
. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 . 時習館 犬山
2回戦 名古屋工 0 0 0 0 0 0 0 . . . . . . . . . 0 守備 選手名 打数 安打 打点 三振 四球 犠打 盗塁 守備 選手名 打数 安打 打点 三振 四球 犠打 盗塁
時習館 0 2 3 2 1 0 A . . . . . . . . . 8 8 井立雄二郎 5 1 0 . . . . 4 山田章 7 0 1 . . . .
3回戦 犬山 0 0 0 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 8 7 石田年弘 3 1 0 . . . . 8 6 1 1 . . . .
時習館 3 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 2 鈴木良彰 7 2 0 . . . . 2 中谷 7 2 2 . . . .
(朝日新聞)
 犬山は16回、三つの四死球で一死満塁。山田尚が2ー1と
追い込まれたが、三前へスクイズバンドを決めて勝ち越し、
続く森も外角のはずれたボールに身を乗り出してスクイズ
バンドをして二点目。気落ちした近藤に中谷が左中間安打
してダメ押した。滑り出しは乱戦模様、中盤から両投手とも
調子を出して試合がしまった。攻撃面でスクイズの失敗
、打ち急ぎなどミスはあったが互いによく戦った。
とくに時習館の浅見遊撃手の再三の美技はすばらしかった。
6 浅見秀樹 4 2 2 . . . . 5 牧野 8 3 0 . . . .
5 松井国康 6 0 0 . . . . 6 伊神 5 2 1 . . . .
3 大木豊和 7 0 0 . . . . 1 岡部 4 0 0 . . . .
4 鈴木康生 7 0 0 . . . . 3 林本 5 2 1 . . . .
9 斉藤享志 5 0 0 . . . . 7 山田英 1 0 0 . . . .
1 近藤浩章 5 1 0 . . . . H9 山田尚 3 0 1 . . . .
PH 原田典彦 1 0 0 . . . . 9 丸尾 4 0 0 . . . .
50 7 2 19 8 5 4 50 10 7 15 10 7 1
三塁打:浅見秀樹、二塁打:石田年弘・鈴木良彰

                         ここまでは、筆者が付け加えたものです。

                  

 高校球児に「あなたの目標」と聞けば、「甲子園」という言葉が返ってくるであろう。全国大会、地方大会のどちらも彼らにとっては 「甲子園」なのだ。

 それでは、昭和四十五年七月二十五日の熱田球場にプレイバックしよう。暑い日だ。これから第二試合が始まるところである。一塁側ベンチ前に一人の高校球児がいる。真っ黒に日焼けした顔、汗が流れ落ちている。彼は、その汗を拭おうともせず、チームメイトとともに監督の顔を見つめている。スタンドからはひっきりなしの応援が続いている。

 「プレイボール」、いよいよ始まった。一回裏一死で彼は打席に向かいながら、相手チームの大きな体格について考えた。彼のチームは小柄な選手が多いのだ。「デッドボール」、喜んで一塁に全速力で向かった。すかさず出た監督のサインは、ヒットエンドランである。スタートを切った彼の前をゴロがセンターに抜けた。一塁、三塁とチャンスは膨らみ、打撃好調の四番の登場だ。監督はここで強硬策を選んだ。四番はベンチ、スタンドの期待に応え、センターを深々と破る大三塁打、2点を先制した。「さて、どうする。」 ベンチに返ってきた彼も次のサインが気になる。スクイズだ。相手の動揺につけ込んでいく、監督得意の作戦だが、敵はウエスト。好スタートの三塁ランナーは、そのままキャッチャーのタッチをかいくぐって「セーフ」。

 エースも好調なピッチングだ。前の試合は、あわやノーヒットノーランという出来だった。唯一のヒットはフラフラと上がったレフト線の飛球が、彼のスタートが一瞬遅れたため、二塁打となったもののみだった。エースは切れのの良いカーブを持っていたが、制球に少し難があったので、いつも三振か四球というパターンを繰り返していた。でも、この大会は別人のようだ。序盤は無難にしのいでいる。

 この試合前にダッグアウトから見た第一試合のスコアボードが目に浮かんだ。一方的な展開だった。大量リードしている高校には六月に十三対四で勝っている。下手投げのピッチャーだったことも思い出した。このままいけば、「ベストエイトに進める」、「甲子園が一歩近付いてきた」。

 しかし、相手も黙っていなかった。四回表に二つの四死球と三安打で、一気に逆転された。五回裏に相手のミスから何とか四対四の同点となった。

 彼はこの大会で一つの誓いをしている。「試合中はお茶を飲まない」と。暑い夏の太陽は、グラウンドにも、スタンドにも遠慮なく公平に降り注いでいる。試合は進み、再三ピンチも訪れたが、彼の頭の中に負けはなかった。「どうやって勝つか」それだけだ。延長十二回裏は彼のチームの攻撃だ。二死満塁、ツースリー、左打席に五番が入っている。投手が投げ、打者がバットを振る、ファールだ。次もファール、またまたファール。彼は、いや一塁側のベンチとスタンドにいる全員が望んでいる、「ボール」を、「ヒット」を。そうだ、どちらでも「サヨナラ勝ち」なのだがら。バットは快音を立て、グラウンドとスタンドの全員が打球の行方を見つめる。惜しくもセンター真正面のライナーだった。強い緊張感が解け、彼は誓いも忘れ、水筒のお茶をゴクゴク飲んだ。

 美空ひばりが歌った「柔(やわら)」の一節に「勝つと思うな、思えば負けよ」とある。この試合はまさにそのとおりであった。

 十六回表の相手の攻撃は、先頭打者の四球から始まり、三つの四死球で満塁、連続スクイズなど、決定約な4点がスコアボードに入った。

 試合が終了した瞬間は、やっとゲームが終わったんだと思った。しかし、ダッグアウトを引き払って控えルームにつく頃に、徐々に熱いものが込み上げてきた。試合中に飲んだお茶を、先程飲んだお茶をまるですべて出し尽くすかのように。汗と涙を拭きながら、彼の後悔は、八回裏、二死二塁の勝ち越し機に、ツーツーから外角の速球を見逃したことである。「低い」と見て、手を出さなかったものが、「ストライク」のコール。

 自宅への帰り道、彼の脳裏には、野球部に入ってからの出来事がグルグル駆け巡っている。的確に指導してくださった先輩、学年の差を意識させなかった上級生、ちょっと生意気にも思った下級生、「お前らは野球を頭でやれ」とチームの目指す方向を示してくれた監督やコーチ。これらの人達の支援を受け、仲間と共に、楽しく、自由に、でも、ちょっぴり厳しく、かつ、苦しくとも、とにかく三年間野球を続けてきたことを・・・。

 お気付きのとおり、この「彼」は私である。記憶は徐々に風化してきたが、その時の熱い思いはいつまでも変わりない。長い間、草野球でプレーをしてきた。今は野球指導を通じて、自分の野球に対する気持ち、「甲子園」への思いを少年たちに伝えることができたらなあと思っている。(平成12年5月記)

                                   

回顧

(時習24回・昭和47年卒)原田典彦

 思いついたまま、断片的に書き留めさせていただきますと、印象に残っている試合は昭和45年 第52回全国高校野球愛知大会予選の第三回戦犬山高校との試合です。その大会、一回戦は不戦勝、二回戦は快勝したのですが、三回戦になると戦前の予想とは大きく違い苦しい試合展開となりました。

 以下簡単に試合経過を述べますと、試合は両チーム共、相手チームの敵失あるいは安打などで点数を取り合い、延長戦にもつれたのでありました(その時ピッチゃ−は一年先輩の近藤浩章さんでした)が、両校とも塁上を走者が動くのではありますが、今一つ決定打に欠け(本校ピンチを救う超ファインプレーもありました)試合はずるずると確か16回まで進んだのです。しかしさすがの近藤さんも根負けか、その回四球か死球を発端にして決勝点を入れられたのです。あと2〜3回もちこたえていたら再試合の可能性もあったのにと、その時(今でもですが)は残念でなりませんでした。その試合が終ってから控え室にもどってのミーティングの席での、これからは野球を離れ、受験勉強に入ろうとする三年生の先輩のくやしそうな真一文字に結んだ口許が今でも思い出されます。すみの方には大粒の涙をこぼしている先輩もいました。私もつい、もらい泣きしてしまいました。その時のラストバッターが正直のところこの私だっからかもしれません。

 他に印象に残っている試合といいますと、私が二年の秋の頃だったと思いますが、新人戦で国府高と戦った時のことです。試合を経過だけごく簡単に追っていきますと、もう後半までは一方的な国府のリード試合だったんですが、途中国府がもう安全圏かと思ったのかエース市川投手を交代させたのです。(市川は他のポジションへ)、そこが試合のおもしろいところ、代わったとたんに本校の打線が火を噴いたと申しましょうか、相手の敵失もありましたが、その回まで5、6点リードされていたのを九回一挙に逆転したのです。再び市川がマウンドを踏みましたがもうその時はすでに時おそし、市川投手もKO、その時決勝点をあげたのが河合伸二(当時一年)でした。その時のうれしさは言葉では表せませんでした。

 それからいやな思い出としては、私達最後の試合、つまり昭和46年夏の第53回大会愛知予選の一回戦で刈谷工に惨敗の思い出です。このことが現在今思い出してみても最も悔いが残っています。この試合の惨敗によってそれまでの高校野球生活が全く意味のない空しいものとなったような気がするのです。正直現在、尚、私は大学においても野球部に籍をおいていますが、その事が心残りでなりません。ただ一つ弁解に聞こえますが、天気さえよかったら勝っていたかもと・・・。言い忘れましたが、その一回戦は刈谷球場の第一試合でした。私達は朝まだ暗いうちから車で乗り込んだのですけれども二日間も雨が降り続きその度に刈谷まで車で歩を運んだのでした。

 その為コンディション調整が出来なく最悪のコンディションで試合に臨んだのです。
 本当にあの試合だけは自分でも実力の半分も出せなかったように思われます。それだけに一層悔やまれるのです。

第53回(昭和46年・1971年)夏の大会 愛知県予選
.. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 . 時習館 刈谷工
1回戦 刈谷工 1 0 2 0 0 0 2 0 0 5 . 守備 選手名 打数 安打 打点 三振 四球 犠打 盗塁 守備 選手名 打数 安打 打点 三振 四球 犠打 盗塁
時習館 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 9・1・3 井立雄二郎 3 0 0 . . . . 4 神谷 3 1 0 . . . .
(朝日新聞)刈谷工は花野、田中両投手が
交互に投げる小刻みな継投策で再三の
ピンチを切り抜け、時習館をくだした。
初回、時習館田中投手の立ち上がりをつき、
先頭打者の四球と野選を足がかりに二本
の安打で一点を先取。三回表にも四球、
安打、敵失で満塁とし、ここで鏡が三遊間
を抜く適時打。さらに浮き足立つ時習館
守備陣を見透かすようにスクイズに
成功、この回二点を入れ主導権を握った。
一方時習館は大木、河合の好打が光り、
四回には一死二、三塁、七回には一死
満塁の好機があっただけ
に後続を断たれたのは残念。
4 原田典彦 4 0 0 . . . . 6 加藤 1 1 0 . . . .
2 松井国康 2 0 0 . . . . 7・1・7・1 田中 4 1 0 . . . .
3・1 大木豊和 5 2 0 . . . . 3 山下尚 5 1 1 . . . .
5 金本武相? 3 0 0 . . . . 8・7 4 2 1 . . . .
8 佐竹 章 4 1 0 . . . . 9・7・9・8 菊地 4 2 2 . . . .
7 河合伸二 4 3 0 . . . . 2 山下春 3 1 0 . . . .
6 高橋 薫 2 0 1 . . . . 1・9・1 花野 2 0 0 . . . .
PH 伊藤光夫 0 0 0 . . . . 8 鈴木 0 0 0 . . . .
6 石川剛章 0 0 0 . . . . H9 杉田 1 0 0 . . . .
1 田中真哉 2 0 0 . . . . 5 奥谷 4 0 0 . . . .
H9 中村明茂 1 0 0 . . . . .
30 6 1 9 10 2 3 31 9 4 2 7 4 3
三塁打:大木豊和。 二塁打:河合伸二、菊地、山下春
                     この表は、筆者が付け加えたものです。

 思いついたまま書いたものですから文章のつながりがまずいところが随所に見られますが、どうか御了承下さい。
 当時は合宿は行いませんでした。
 長坂先生、光島稔先輩、熊部先輩等がよく練習を見に来られました。

 主将:松井国康 マネージャー:伊藤多見子
 部長:長谷川清先生(1年時)白井正己先生(2〜3年時)
 監督:秋本正志先生
(昭和50年12月記)

                                   

回顧

(時習24回・昭和47年卒)松井国康

 夏の大会では思うような攻撃が出来ずに一同戦敗退、我々のチームは打力の調子が激しすぎて、一点差を争うゲームに弱かったのが好結果を残せなかった原因であると偲う。
 チームワークはよかったのだが個々の力が不足していたことは認めざるを得ない。
 しかし、今になって考えるに、それはそれなりに他のチーム作りがあったような気がする。(昭和50年春)

                                   

野球と私

(時習25回・昭和48年卒)高橋 薫

 野球をこよなく愛した父が他界して今年で三年。少年野球・中学野球をいろいろな角度から親身になって支援していた一途な姿は、子としても一つの憧れであり、目標でした。

 甲子園が始まると我が家では座敷のテレビをずっとつけておきます。そんな時父の遺影がフッと微笑んでいるような気がします。

 甲子園に後一歩で行けなかった父の子として生まれた私は幼い頃から遊び場は球場であり、自然と野球に親しむようになりました。

 今となっては滑稽な思い出に過ぎませんが、高校進学を選択する時に甲子園という憧れを意識して悩んだ事もありました。

 合格発表の次の日にはもう練習に参加していたこともあり、同期の部員には暫く先輩と思われていたようです。

 練習初参加の日に笑ってしまうエピソードですが、実は帰宅する時に別の道で帰ろうとし、なぜか牟呂の常夜灯に行き着いてしまいました。空が段々と暗くなり、高校生活の先行きに不安を覚えました。その不安は入学後すぐ実力試験に的中してしまいました。

 昭和四十六年から数年は東三河の高校野球が結構強かった時代だったと記憶しています。

 私たちの時には春の第44回選抜(昭和47年)に東三河でトップの座を競い合ったライバル成章が出場しました。そのことでそれまでに夢に過ぎなかった甲子園という三文字をより近く感じられるようになりました。

 当時丸坊主ではなかった私たちが、甲子園に行けたらどうしようなんて、マジで相談した事は懐かしい思い出のひとつです。

 結局は県大会ベスト8までしか行けませんでしたが、時習館野球部での軌跡は私にとって今でも大切な宝物です。
 グラウンドから眺めた星のきらめきや、季節ごとの樹木の緑の移り変わりや、土の香りは鮮明に記憶に残っています。恥ずかしい話ですが、校舎での思い出はこれといって無く、体育教官室やグラウンドには目いっぱい詰まっています。

 同期の青木(現三輪)道敏とは今でも一緒に野球を続けています。心の温かい男で生涯付き合っていきたいと勝手に思っています。

 時習館の特徴のひとつかと思われますが、地元に残っている人が少なく、なかなか同期の仲間と再会する機会が無く、OB会の際にでもと思うのですが、残念な結果に終わってしまっています。

 ただ大羽義人先輩(時7回)、小柳津正先輩(時7回)、土屋祐司(時34回)君をはじめ多くの方と野球を通じて知り合えたことは時習館で野球をしたおかげと感謝しています。

 現役の部員にひとつお願いですが、青春の大事な時期に野球に打ち込む以上せっかくですから何かしら貴重な財産をつくって欲しいものです。チーム事情もあり、他校との力関係もあり、勝てることも負けることもあるとは思いますが、一緒に頑張った仲間とは何年たってもあの一球といった思い出話が語り合える、そんな関係を築いてください。

 21世紀がすぐそこに来ています。野球以外にも楽しいことがいっぱい世の中にありますが、何かに打ち込むことはこんな時代だからこそ貴重であり、稀少な価値観を生むことが可能だと思います。四十歳半ばになった男の戯言とお聞き流しください。(平成12年3月記)

                                   

我が永遠なる悪友

(時習29回・昭和52年卒) 竹花(中田)俊二

 私が二、三年の年、昭和五十、五十一年は東三河が名古屋をしのぐ勢いがあり、青山投手(国府−中日ドラゴンズ)市川捕手(国府−東海大−大洋ホエールズ)中神投手(成章−日体大)村木昭夫投手(時習館−慶応)などの優秀な選手がおり、東三リーグを勝ち残るにも苦しい時代でした。

 私達は、県ベスト8(二度)が最高であり、戦績はとても自慢できるものではありません。しかし、どこのチームにも敗けぬと自信を持てるチームワーク、横のつながりがあったことは自慢できます。その原因たるものを見てみますと、まず、各人一人一人が個性を持った明るい性格であり、それにも増して各人が本当に野球が好きであった、ということであります。でありますから練習を理由なく休むような者は誰一人なく、一生懸命取り組み、特に田中正剛君は、ストで国鉄利用生徒にとって休みになった時でも、練習だけは自転車で一時間半以上かけて出てきた猛者であり、皆で驚いたものでした。杉浦正泰君は一週間に一万本の素振りをやってのけた男であり、高柳至君はバッター放棄でアウトになった変り者でありました。佐藤至貞小沼良男近藤至彦中村慶太君らは、皆まことに練習熱心でありました。そして主将であった近藤君は、良くまとめチームワークを築きあげた誰にも負けぬ野球狂でありました。

 このように良くまとまったチームメイトでしたので、野球以外でも常に行動を共にし、何をするのにも一緒でありました。ついには「道祖神」という旅行グループを結成し、すでに第四回を数えるにりました。今年より皆それぞれ社会人として出発しますが、切っても切れぬ糸で結ばれてしまった私達であります。これから先、どんな苦境に面しても助け合い、また素直に助けを求めることのできる親友を得たことを感謝して自慢しております。これで戦績さえ良ければ、文句のつけようのない高校生活でした。(昭和56年1月記)

                                   

高校野球の思い出

(時習31回・昭和54年卒)木藤政美

 私が時習館に入学したのは昭和五十一年。野球部には中田俊二(現竹花)さん、近藤至彦(現豊橋工業野球部監督)さん、村木昌彦さん、佐野浩史さんなど、豊橋南部中学で一緒に汗を流した先輩方が多数在籍し、甲子園を目指し活気のある部であった。成章、国府、豊川、蒲郡、福江など東三河には実力校が集中し、前年には国府が夏の甲子園出場を果たしたこともあり、“甲子園”が夢の舞台というよりはむしろ、身近な現実味を帯びた目標の舞台であった。名古屋電気、豊田西、浜松商業、東邦などと対戦を交え、愛知大会を迎えた。初戦で碧南工業を敗り勢いに乗り、豊橋南、横須賀、大府を寄せつけずベスト8進出、ベスト4進出をかけて、佐原博巳監督率いる蒲郡に惜敗したものの、先輩方の活躍振りに大変な感動を覚えた。(第58回夏の大会 愛知県予選・昭和51年)

 新チームからは、三浦治幸新監督の指導のもとグラウンドで汗を流した。村木昌彦投手をはじめ素質のある先輩がいたものの何人かが退部。私の同級生は四人が入部したものの二人が辞め、翌年の春の大会はわずか十人の部員で戦うことを余儀なくされた。数少ない野球部であったが、佐野浩史主将を中心に厳しい練習に耐え、五十二年度を迎えた。松永明久高橋信彦園部孝(現蒲郡高校野球部監督)、中野春政などの選手が入部し、再び活動に活気が蘇った。愛知大会で初戦で刈谷工業をサヨナラ勝ちで破ったものの、2回戦でその年の夏の甲子園大会で準優勝した東邦にコールド負けを喫した。(第59回夏の大会 愛知県予選・昭和52年)

 新チーム結成を迎え、私が主将で、もう一人の二年生山下伸之が副主将となった。あとはすべて一年生という状況であったが、秋季一次リーグ戦を三勝二敗のあと、決定戦で二次リーグ戦進出を決めた。二次リーグでは成章にサヨナラで勝っただけで、あとは全敗した。この時のチームは上級生が二人しかいなかったこともあり、下級生と良いチームワークが築かれていたという印象があった。

 年が明け、私にとって高校野球最後の年を迎えた。第60回を迎える甲子園大会予選の愛知大会の開会式は、ナゴヤ球場に参加校すべてが集まり開催された。時習館と旭丘は60回連続出場の表彰を受け、主将の私が選手を代表し銅版の額を受け取った。大会では初戦長久手を8対0、二回戦守山を8対2と逆転で下し、三回戦では前年の甲子園大会の準優勝投手坂本佳一(バンビ)を擁する東邦と対戦した。二年生エースの松永明久が東邦打線をヒット四本に押さえ、最後まで接戦となったが 1対2 で敗れ涙を飲んだ。(第60回夏の大会 愛知県予選・昭和53年)

 今、時習館野球部で汗を流した三年間を回顧すると、現在の私があるのは時習館野球部に在籍したお陰であると言っても過言ではない。いろいろと困難な状況に遭遇しても、厳しい練習に耐えたことを思い出せば些細なことに思われる。

 大学を卒業後私は、幸田高校、豊橋南高校の野球部の監督として高校野球の指導に当たっているが、佐原博巳先生、三浦治幸先生と一緒に育てた選手が第79回の愛知大会で決勝まで勝ち進み、甲子園まであと一歩の所まで行けたのは素晴らしい経験であった。また現豊橋工業高校の野球部監督である近藤至彦先生には、先生の築かれた幅広い人脈球児の指導について、惜しみ無く私に伝授していただき感謝に堪えない。その他多くの OB の方々から暖かいご支援を賜り、今後も高校野球を通して先輩方の恩に応えれるように、最善を尽くす覚悟である。(平成12年5月)

                                   

50年前の野球

豊橋市長 河合陸郎

 このところちょっと下り坂の感はあるが、それでもやがて朝日新聞甲子園夏の高等学校野球選手権大会が近づき、全国各地で地区予選が始まるころともなれば、盛り上がってくるのが野球熱である。半世紀をこえる歴史と伝統、清純汚れなき若い高校選手の活躍は全国的に球趣を高めて盛夏を克服するの感じとなるのが毎夏の例といえよう。

 思えば大正五年小学校を終えて大阪に就職したその夏豊中(とよなか)の球場で第二回夏の野球大会を見ることができた。あたかも県立時習館の前身である県立四中野球部がいまの旭丘高校の前身の愛知一中を東海大会で破って、意気軒昂として全国大会に出場した輝かしい豊橋野球史の第一ページを飾った光景を目のあたり観戦することができたのである。

 第一戦の対手は第二回大会で覇業をなしとげた慶応普通部であった。四中は正確なコントロールとカーブを武器とする下山投手がマウンドに登り、牧野塩瀬伊藤馬場の精鋭の名や顔がそれを守ったのであった。その氏名や顔が半世紀を隔てた今日に至って、なお私の記憶に残っているから不思議だ。慶応普通部の投手は新田恭一であった。この人はのちに第一線の野球評論家として、あるいは新田理論を展開するなど、球界に大きな足跡を残したものである。この四中対慶応の試合は2対6の接戦、投手戦でわが四中が惜敗したのであるが、試合の途中から慶応の投手が新田から山口にリレーされたのである。そのことはすっかり失念していたのであるが、山口投手は豊橋の歩兵第十八連隊に一年志願兵として在隊したことがあり、のちにその投手ぶりを見た記憶がある。

 さきごろ豊橋市に営業所を開設した愛知トヨタの傍系会社の開業に当たり、派手な開業披露をとりやめ、その経費五十万円が豊橋市に寄附された。豊橋市の交通児童館の設備内容充実のためにこの五十万円は使われることになっているが、愛知トヨタの山口社長自らが持参してくれたのである。その時、山口社長としばらく閑談したのであるが、私が「あなたは慶応普通部の投手として第二回全国大会で優勝したことがあるでしょう」とたずねたところ「そのとおり」という返事が返ってきた。私はかねてから愛知トヨタの山口社長が確か第二回大会で四中を破った山口投手であろうと薄々感じていたのであるが、まさにそれは事実だったのである。それから大正五年の第二回大会における野球談義が始まり「確か牧野君という立派な選手が四中にいたはずですが、いまどうしていますか」という問いがあり「牧野茂三郎君は豊橋市水道局長を最後に市役所を去り、いま港水道会社を背負って奮闘しています」と答えておいた。そのころの四中野球部の選手諸君は在豊の牧野モッサア氏を中心として東西に離ればなれになっている諸君が、時たま豊橋に戻って倶楽部野球で顔をそろえたり、一席を設けてはしゃいだりしたことをよく見たり聞いたりした私である。

 山口社長の話によると、同様のことは慶応普通部にもあるとのことで、山口社長が名古屋に住んでいるということから東西に別れ住んでいる球友は時々、山口社長のあっせんで名古屋や蒲郡に集まって交わりを暖めているとの話である。

 中日ドラゴンズの水原監督就任も山口社長のあっせんによって実ったという。いまプロ野球もひところのような人気はないにせよ、中日ドラゴンズの勝率がよくなれば、中日球場をふくれあがらさすこともできるのである。その影には山口社長のようなかくれた人物もあり、球友の糸をたぐれば、強い同志感みたいなものが尽きるところがないのは不思議である。アマチュア・スポーツのもつ人間的関係の純化と、その変わらざる交友ぶりが私はこのうえもなく好きである。
(昭和44年7月8日 東海日々新聞から)

                                   



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