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                              野球の思い出ー(1)

表の右の項目は 「野球の思い出ー(2)」に掲載
 野球部 豊中から時習館へ 高橋光雄 豊中51回 .  部室三転 光島 稔 時習18回
 光陰矢の如し 今井 明 時習2回  回 顧 志賀吉修 時習20回
 親子三代が願い 松永整二 時習3回  私の甲子園 石田年弘 時習23回
 時習館十回生の思い出 高津政義 時習10回  回 顧 原田典彦 時習24回
 昭和三十三年の想い出 佐野直樹 時習11回  回 顧 松井国康 時習24回
 回 顧 繁原武明 時習13回  野球と私 高橋 薫 時習25回
 思い出の試合 鳥山紘之 時習14回  我が永遠なる悪友 竹花(中田)俊二 時習29回
 回 顧 梅村民雄 時習17回  高校野球の思い出 木藤政美 時習31回
 打てず、守れず 太田智洋 時習18回  50年前の野球 河合陸郎 豊橋市長

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野球部 豊中から時習館へ
(豊中51回・昭和24年卒) 高橋光雄   (時習館3回生:斉藤信夫くん提供)

 昭和十九年四月、私達が豊橋中学一年生に入学した頃の豊中野球郡は影も形もなくなっていた。敵国スポーツの野球は禁止同然で、五年生の元野球部の先輩達は、戦場運動班という班に属し、手榴弾投擲や城壁登りなどと戦争の練習みたいなことをやっていた。グラウンドでは配属将校の指揮をする軍事訓練で気合がはいっていた。勿論野球の練習する姿はなく、運動部は柔道、剣道、銃剣術と、戦場運動位なもので、何故か、何々部という名前は使わず、何々班という呼び方に変えられていた。
 豊中に入り、柔道班に入ろうか戦場運動に入ろうかと迷っている間もなく、私達一年生にも学徒動員令が下り、慌ただしく豊川海軍工廠に出動してしまった。

 あの懐しい新川べりの中柴町の校舎にほんの数カ月通学しただけで、軍隊の宿舎に変った後、豊橋の空襲で焼失してしまった。しかし、数ヵ月だけの中柴校舎ではあったが思い出は深い。重厚な感じのする正面からみえる校舎は厳めしくそびえ、中央廊下に掲げられた「時習館」の額、天皇陛下の御真影のあった奉安殿、式典の行われた講堂、雨天体操場、階段教室、理科実験室と、どれもこれも伝統を誇った名門豊橋中学そのものだった。

 しかし、帽子は戦闘帽、ズボンにはゲートルを巻き、先生に対する挨拶は挙手による停止敬礼、上級生にも挙手による歩行敬礼、帽子の校章も、国防色(カーキ色)の制服のボタンも、金属は使用されず陶器になっていた。日本は大東亞戦争に突き進んでおり、それで私達も満足していた。

 敗戦ですべてが変った。中学二年の私達はそれまで戦死することを至上の栄誉と考えており、大和魂のかたまりで立派な軍人になろうと願っていたが、豊川の海軍工廠が大空襲を受け、爆弾により、目の前で大勢の学友を失ったその凄まじさを目のあたりに見て、死の恐ろしさに肝をつぶした。終戦により空襲がなくなったときは本当に嬉しかった。

 終戦後間もなく、学校には陸軍幼年学校に入っていた友達や、予科練に入っていた先輩達が戻ってきたが、授業をはじめる校舎がなかった。私達二年生は取り数えず牛川の豊橋二中へ(現青陵中学校舎)に同居することになり(一年生も行きましたよ)、やがて陸軍予備士官学校の跡地、高師ヶ原の現校舎に決まるまで落ち着かない毎日だった。中学三年生になっていた。学校は旧兵舎そのままで、窓にガラスはなく、荒れ放題のボロ校舎だった。

 その時、五年生の先輩達が野球部の復活に動き出した。グローブもスパイクもない時なので各自が家に残っていたものを持ち寄ったものだと思う。これで時習館野球部の戦後の第一歩が始まったのである。

 野球に続き蹴球(サッカー)、送球(ハンドボール)、庭球(テニス)、排球(バレーボール)、籠球(バスケットボール)、陸上競技等々次々と運動部が復活し、みんなで芋畑のグラウンドの整備を始めた。中でも野球部の人気は圧倒的だった。殺到した入部希望者を五年生がテストをやって部員を決めた。指導者がいないのでOBの先輩達が次々と来校し、練習をみてくださった。そしてその年、戦争で中断されていた全国中等学校野球大会が戦後はじめて西宮球場で開催されることになった。(当時甲子園球場は進駐軍に接収されて使用できなかった)わが豊橋中学も東海大会愛知予選に出場することになったのだが、辺の事情は私達三年生でレギュラーだった捕手の林弘君が詳しい。もう一人三年生でレギュラーだった大嶽保君(故人)という名手もいた。

 この時豊橋中学が出場したことにより、第一回からの連続出場の記録が途絶えなかったことはまことに喜ばしい限りである。多分静岡中学とか、第一回大会の優勝校京都二中という時習館より古い歴史を持つ名門野球部も、この戦後のどさくさで出場出来なくなって、記録が消えたと思う。

 名将渥美政雄先生が、昭和二十一年九月一宮中学から転任され、その指導を仰ぐようになってしばらくして新制高校になった。私たちは高校二年ということで新しい校名を生徒から募集した。当然豊橋一高という名前がでたが、県の方から一高、二高という差別的な校名をつけてはいけないとお達しがあり、結局豊橋高校ということで落ち着いた。

 昭和二十三年、私は渥美先生からマネージャーをやれと言われ引き受けた。予選の抽選会に行き、何となく津島高校あたりと当たりそうな予感がしたが的中した。その年から愛知中等学校野球のメッカ鳴海球場が米軍から開放され、ここで試合が行われた。
 津島高校は佐脇という好投手を擁し強敵だった。敗色濃厚だった終盤戦に雨が降り出し、雨に強い三年生の竹内基二郎さんたちが俄に元気を出し、一気に同点に追いつき引き分けに持ち込んだ。再試合は我が豊橋高校が圧勝した。津島高校は我々を舐めていた。渥美先生の指示により前の試合が終わるまでスタンド下の日影で体を休めていた豊橋高校に対し、津島高校は炎天下のスタンドに陣取りアイスキャンデー等をなめて気勢を上げていた。

 この勝利から決勝まで進み、享栄商業と甲子園をかけて戦うことになったのだ。しかし新聞記事には戦前の予想では、豊橋有利と書かれたことによって、名鉄吉田駅(当時の呼称)には市長をはじめとして歓迎の準備が行われていた。決勝当日、グラウンドに出てびっくりした。 我が豊橋高校は連日の熱戦で一着しかないユニフォームは泥だらけなのに対し、享栄はあの物資不足の時代に純白のユニフォームを着て颯爽とあらわれた。更に享栄の名投手水野義一君(のち早大のエース)を打てなかった。折角決勝まで進んだがやはり伝統校の享栄はしぶとかった。有利と見られた豊橋高校は鳴海球場原頭に散った。当時は愛知の名門で甲子園百勝の中京商や東邦等はまだ充分に整備されていなかった。

 思い出の遠征試合が二つある。当時は県外遠征など大変贅沢なことであったが、愛知県大会の成績が買われ愛知、静岡、岐阜、三重の東海選抜大会が静岡市で開かれた。遠征といっても当時は食糧難の時代であったから、各自お米を持参せよということであった。野球用具に米を持って静岡の旅館に着いたときは修学旅行のように嬉しかった。

 第一戦の相手は静岡城内高校(現静岡高校)で、森山君という好投手がいて、これを破って一挙に優勝という望みをもっていたものだが、あいにく雨が降り中止の日が続いて三日目にとうとう大会延期ということになってしまった。その時、一年生の芳村亮雄君が残っていた米を金に換えようようと云い出した。芳村君は旅館の下を通るおばさんと交渉し残った米を売り払ってくれた。その金を持って松坂屋に行きおみやげを買ったりした。昭和二十三年はそんな時代だった。(斉藤信夫君が語った思い出;静岡では雨で試合できず、夜静岡駅まで帰りの時刻表を見に田嶋義雄君と出かれたが、明るいところで良く見ると、.田嶋君がユカタを裏に着ているのに気が付き、大勢の中で裸になって着替えたのを覚えています)

 大会はその後豊橋球場で行われたがエースの青木伸次君が静岡の打線につかまりメッタ打ちに遭い完敗した。しかし静岡での思い出は楽しいものだった。

 もう一つ、長野県の飯田高校から招待の報せがあった。こちらは米の心配はいらないといううことでホットした。当時の飯田線は怖かった。岩肌の露出したトンネルが不気味だった。無事飯田に着いて驚いた。「愛知の強豪豊橋高校来たる」という貼り紙が町の中に何か所も見えた。飯田のエース山崎君は町の英雄らしく写真館にその投球フォームの写真がパネルになって飾ってあった。宿泊は飯田高校の校舎だった。心配しためしは白米のおにぎりで信州味噌がついていた。信州ではこれがもてなしの料理だと云い、事実大変おいしかった。(斉藤信夫君が語った思い出;飯田遠征では朝宿舎で芳村亮雄君が皆に布団蒸しにされたことを良く覚えています)

 飯田高校のグラウンドには町のファンが大勢観戦に来た。第一試合の飯田商業戦は外野手兼任の大嶽保君が完封して勝った。飯田高校との決戦を青木伸次君が好投し二戦二勝で遠征試合を飾った。

 米を持参した静岡遠征、おにぎりを腹いっぱいご馳走になった飯田遠征。共に楽しい思い出になっている。この後校名が豊橋高校から豊橋時習館高校に変ったが、当時は時習館の上に豊橋がついていた。いつから現校名の時習館高校になったかはわからない。(昭和三十一年からです)

 昭和二十四年、三年生に進級するとき、マッカーサーの命令により学区の統合が行われ、越境している生徒はそれぞれの学区の高校に戻された。時習館に残りたい人は寄留という手段を選んだが、私は蒲郡に行くことにして早速蒲郡高校に野球部を創設した。そして私が監督になり二年生以下でチームを編成し県大会の出場に備えた。豊中野球部のOBで東大に在学していた山田勝久さんに同郷の先輩ということで、選手の指導をしていただいた。合宿もやった。夏の大会一回戦で旭丘高校と対戦し善戦したが敗れた。蒲郡高校の野球部が現在も続いているので、あれから五十年を過ぎようとしている。早いものだ。

 時習館高校野球部は戦前の豊橋中学から戦後は豊橋高校に変わり時習館へと移ってゆき、数限りない多くの選手を輩出している。私も兄貴が豊中の野球部にいたことで、戦前の豊橋中学の試合を豊川球場で何回か見ている。そのころは岡崎中学が強く、東三河と西三河で三河リーグを結成し、リーグ戦をやっていた。当時は応援歌にもあるように”東海五県十余校”と歌われているように野球をやっている学校は少なく、ちょっと年長の感じのする岡崎師範が加盟していた。

 何といっても戦後渥美政雄先生が監督に就任されてからの時習館の活躍は目覚ましく、その薫陶を得て指導者になられた藤田良彦先生は私の一年先輩で主将だった。当時、享栄の小島選手と並び名二塁手として活躍した竹内基二郎先輩は戦前のレベルに達していると評された。又蟹のような形をした進駐軍のグローブを使ってセンターを守った故人の斉藤了一先輩。同級では野球部復活の草分け林弘君、エースの青木伸次君、ファイターの今井明君、シュアーなバッテングの荒島昭吾君、左利きでセカンドもこなした投手の水藤勝君、名外野手で四番を打った故人の大獄保君。一年後輩では強肩のショート松永整二君、クリーンナップを打ったサードの芳村亮雄君、外野手でムードメーカーの斉藤信夫君、キャッチャーの田嶋義雄君等々、みんな私と年代を同じくしてお互いに辛酸をなめ、時習館野球部百年の歴史の一翼を担ってきた大切な人達である。
 時習館野球部の未来永劫の栄光を祈る。(平成12年1月記)

田嶋義雄くんが語る高橋光雄(ミッチャン)の思い出(2005年6月)
 ミッチャンの、スコアブックの記載は天下一品でした。そのスコアブックを見ながらラジオアナウンサーのまねをしたりしてもいましたが、これもなかなかのものでした。このスコアブックは火災ですべて焼失し、惜しいものを失いました。
 飯田へ遠征に行ったとき、学校へ宿泊し、その朝芳村亮雄くんがいつまでも寝ていたので、その上へ敷布団や掛布団を乗せ、さらに諸兄が乗っかり、布団蒸しにしましたが、そのきっかけを作ったのがミッチャンではなかったかと思います。
 また、静岡遠征の時は、夜間、他校の宿舎周辺に様子をうかがいにこまめに外出しておりました。
 なにしろ、ミッチャンは、野球に詳しい方でした。
                                   

光陰矢の如し

(時習2回・昭和25年卒)今井 明

 「光陰火の如し」 という先人の諺がある。
 私が憧れの豊橋中学に入学した当時の世情は、まさに軍国調一式で戦況も風雲急を告げていた。そんな折とて中学生生活を楽しむどころでなく、入学半年も経ず豊川海軍工廠に学徒動員となった。そこで機銃弾の火薬の装填作業に務めた。終戦数日前のアメリカ軍の工廠爆撃に地獄の目に遭い、命からから逃げた。担任の先生はじめクラス生二十数名の犠牲者が出た。

 終戦後 豊橋中学の校舎は豊橋空襲で焼け跡形もなく、しばらくは二中での二部交替の授業が続いた。昭和二十一年一月現校舎のある旧陸軍予備士官学校跡に移った。荒れて窓も天井もなかったけど、自前の校舎で初めて授業を受けた時の感激は忘れられない。

 通学し始め暫くして各運動部も活動を始め出した。荒廃した日本にも復員軍人や同胞が外地から帰還しだし、復興の兆しが見え始めた。ラジオから「リンゴの唄」や「東京ブギウギ」の歌が流れ、東京六大学野球の実況が伝えられ、プロ野球も青田、川上、大下等のホームラン争いを伝え、野球ブームに沸きかえった。

 野球に興味を持っていた私は野球部に入部した。当時は指導者がいなく、成績もとりたてる程のものはなかった。が、二十一年九月、我が野球部に戦前、神戸滝川中学で別所、・青田という名選手を育てられ、名監督と謳われた渥美政雄先生が一宮中学から転仕されて来た。

 噂どおりの指導ぶりでめきめき上達し、ノックの素晴らしさには驚嘆するばかり、横っ飛びに飛びついてやっととれるノックばかり、真夏の灼けつく炎天下で千本ノック、雨の日のルールの勉強会。

 その頃、学制改革が行われ、旧制中学は新制高校となり、私は新制高校二年生に編入、校名も豊橋高等学校(後に時習館高等学校と改称)となった。

 名監督にしごかれた我が野球部は次第に頭角を現し、東三リーグ優勝、練習試合でも愛知商や中京商にも勝って、第30回 夏の大会(昭和23年・1948年)に臨んだ。一回戦で津島高と 五対五 日没で引き分けたが、再試合でコールド勝ちしてからは破竹の勢いで決勝戦に進んだ。決勝は享栄商業に敗れ、甲子園に今一歩届かなかった。

 三年生最後の年(第31回大会、昭和24年・1949年)は、創設された第一回の全三河大会に優勝し、今年こそはと甲子園をめざしたが、準々決勝で思わぬ伏兵犬山高校本多投手(後中日ドラゴンズ、センター一番)の前に延長の末敗れてしまった。
 鳴海球場(現名鉄自動車学校)、豊橋球場での試合の数々が思い出され、「三州の野に霊気あり・・・」の応援歌が聞こえてくる・・。

 時習館野球部を去って五十年、「光陰火の如し」あの過ぎ去りし懐かしい思い出が昨日のことのように思われ、回想にふけるこの頃です。(平成11年12月記)
                                     

親子三代が願い

(時習3回・昭和26年卒) 松永整二

 時習館の野球部ができて百年が経過いたしました。
 学生の本分である勉強をし、そして甲子園に向けて懸命に練習をする、文武両道を一本の綱として頑張ってきました。

 時習館野球部ができて百年の式典も終り、本当に素晴らしい日が過ぎました。過日甲子園で八十周年記念とし第一回から予選連続出場の十五校が表彰されました。愛知県では旭丘高校と時習館が参加しました。テレビで見物しておりまして涙がこぼれる感激でした。この素晴らしい伝統は何物にも変えがたいものがあると思います。

 私の家では親子二代、野球部員となって頑張ってまいりました。私はショートで、長男(松永明久 時32回)はピッチャーで昭和54年の第61回夏の愛知県予選では準々決勝まで駒を進めました。

 私は渥美先生の教えを、長男は三浦先生の教えを受け、生涯忘れる事のない教えと歴史を感じます。
 次は私の孫も時習館の第三代目として、この伝統を受けてやって欲しいと思います。そんな考え方でいっぱいてす。
 学校はまず勉強、そのあとにスポーツであると思います。そして何としても県立で甲子園に行って欲しいと思います。

 私達は時習館三回の卒業生ですが、五人そろって頑張ってまいりましたが、野球でしっかり鍛えた身体ですが、あの豪放の芳村亮雄(1998年3月8日没)と、そしてしっかりした鶴見崇(1997年2月13日没)と二人ともこの二、三年でなくなり本当に情けないと思いますし淋しく思っております。あとは、田嶋義雄君と、斉藤信夫君と私の三人になりました。

 来年は我々は卒業して五十周年になります。私達三人で彼等の分まで一緒に祝ってやりたいと思っております。今まで我々五人はたとえ遠くにいても、離れていても心には常に何となくつながりを覚えておりました。何とかお互いに力を合せてやろうと思っていました。

 私は田嶋と斉藤と三人で、また残る息子まで入れて、こんな素晴らしい伝統と歴史のある野球部で、しつかりと練習をした精神力を、あらゆることに真剣にぶつっけてあと残る人生をしっかりとやって行きたいと思います。
 時習館野球部百周年おめでとう。(平成12年4月記)

【管理人追記】筆者の松永整二くんは、2005年6月10日永眠なされました。ご冥福をお祈りいたします。
                                    

時習館十回生の思い出

(時習10回・昭和33年卒)高津政義

 二十三年前を振り返って、思い出すままをペンにとりました。胸をときめかして、あこがれの時習館野球部に入部したのがつい先のことのように思われます。今考えてみますと、僕たちの頃が時習館野球部黄金時代の最後であったように思われます。

 時習館野球部の歴史において、十回生の時代に二つの大きな変革がありました。一つは、監督が渥美政雄先生から藤田良彦先生に代ったことです。もう一つは、練習場が旧グラウンドから現在のグラウンドに移ったことです。我々十回生にとって、九回生が夏の愛知県大会決勝で中京商業に敗れて以来、我々にはもう一年あるんだということで日夜練習に励んだことが思い出されます。冬になれば、大崎海岸、岩屋観音までマラソンをしたこと、夏になると、先輩達がグラウンドに来て、練習を見てくれたこと、練習のつらかったこと、練習帰りに毎日のように食べた十円のカキゴオリのうまかったこと、練習の楽しかったこと、つらかったことが思い出されます。

 秋の大会で、東三河、三河大会に優勝して県大会に出場し、半年前同じ鳴海球場で無念の涙を流した中京商業を本多昭治君の幸運な安打で勝点をあげて勝った時は、全員甲子園へ出場できたような喜びであったことが思い出されます。四校リーグに勝ち残り一回戦で愛知商業(選抜出場校)に勝ったんですが、球運は我が方に味方せず、次の愛知高校、享栄商業に連敗して、三位という結果に終わりました。

 夏の第39回大会も順調に勝ち進んでまいりましたが、準決勝で津島商工に敗れてしまい念願の甲子園へは行くことができませんでした。

 試合に負けて三、四日してから十回生全員で長野県の白樺湖ヘキャンプに行ったことも、忘れることのできない思い出でした。

 最後に我々十回生の一人一人を紹介します。投手、県下No.1の速球投手戸田好宥君、捕手、キャプテンで頑張り屋の鈴木実信君、一塁手、いつもにこにこ本多昭治君、二塁手、駿足好打の沖田進吉君、三塁手、頼りになる金子堅太郎君、遊撃手、張り切りボーイの佐原明彦君、外野手、気取り屋の浪崎誠二君と小生(高津政義)、それに勉強好きのハンサムボーイ北谷英治君がマネージャーでした。(昭和50年春記
                                    

昭和三十三年の想い出

(時習11回・昭和34年卒)佐野直樹

 時習館野球部創部100周年記念事業の野球部史刊行にあたり、寄稿できることの喜びを感じると同時に、このすばらしい歴史の中に、三年間を印することができたことを光栄に思っています。

 私は、昭和十五年生れで、時習館第十一回卒、今年満六十歳の還暦を迎えるが、何と今年は厄年ということなので、年始早々に祈祷を受け、災い転じて福となすように願っているところです。

 さて あなたの青春は何でしたか」と聞かれれば、”野球“と即座に答えるてしょう。我が人生今日あるのは、時習館高校卒業という誇りと、小学校・中学校・高校・大学(立教大学)そして社会人(大昭和製紙)と約二十年間野球をやってきた誇り(自信)があったればと思います。

 反面、六十年の人生を顧みると、全ての面、それは勉強の面であり、野球の面であり、仕事の面をいうのであるが、その何れも中途半端であったような気がします。何故そうなのかというと、どの面においても全精力を傾注したとは言えないからです。では、不満足であったのかというとそうでもない。これが、中国の「老莊思想」でいうところの”好い加減”なのかもしれない。

 私が野球で自信を持った第一段階は、中学三年の時です。中日ドラゴンズで投手をしていた「星田先生」が、吉田方中学校に赴任して来られ、指導をうけてからです。その星田先生が、中学校を卒業する間近に、「俺は成章高の監督になるが、お前来ないか」と言って勧誘してくれた時です。これで自分も高校で充分やっていけるのだなと感じました。

 更にその上を目指すにあたっての第二段階は、高校三年の夏の大会である程度の成績が残せたことと、その夏の大会終了後、オール愛知の選抜チームに、投手の山本浩平君と選ばれ、そして、並み居るオール愛知のメンバーの中から四番バッターを指名されたことです。このことによって、大学に行ってもやれる自信が沸いたように思います。

 それでは、自分で目指した時習館高校に入学してからのことを回顧してみたいと思います。

 私は、運よく一年生(昭利三十一年)の夏の第38回大会から出場することができました。それは、三年生のレギュラーの一人が大会直前にケガをしたためで、七番でライトを守ったことを記録を見て思い出しました。それこそ、無我夢中で戦っているうちに決勝まで進み、惜しくも中京商(現中京高)に六対四で敗れました。

 翌年(昭和三十二年)二年の時のチームは結構強く、新チーム発足後の秋の大会では、宿敵中京商を敗り、春の選抜甲子園に今一歩のところまでいきました。

 二年の夏の第39回大会は、六番でセンターを守りました。優勝候補の一つにあげられていただけあって、順調に勝ち進みました。ベスト四に残り、この段階では、誰もが決勝は中京商と時習館だろうと思っていました。事実新聞の予想でも、「時習館準決勝は楽勝か」と書かれていました。ところが、伏兵津島商工に四対○で完敗してしまいました。この津島商工が、決勝でも中京商を敗り、甲子園初出場を果した年でありました。

 いよいよ最終学年の三年は、昭和三十三年です。この年の世の中の出来事というかニュースは、現巨人軍監督の”長嶋茂雄”が、プロ野球に華々しくデビューし、新人王を穫得したのをはじめ、相撲界では初代若乃花が横綱に昇進し栃若時代を築き、暮れには一万円札が発行され、そして、売春禁止法が施行された年でした。

 高校野球は、第40回の記念大会で、鳴海球場に県下全校揃って開会式が行われ、今でも大会歌として歌われている 「栄冠は君に輝く」を、全員で合唱したのを覚えています。

 三年生夏の大会前の新聞の戦評は、「時習館は、夏の大会とともに歩んできた名門チームである。今年のチームのスケールは、前年に比べやや小さくなったが、総合力は落ちていない。どの選手もキビキビとしているうえ、ねばり強く、伝統に培われたファイトとすぐれたチームワークで、今年も第一線クラスの一つに数えられるだろう。」(朝日新間=甲子園への闘魂=からの抜粋)ということでした。

 特にチーム構成という点で、レギュラー九名のうち八名が三年生であったし、三年部員マネージャー含めて十名が一つになっており、すばらしいまとまりであったと思います。

 そして、藤田良彦先生の指導のもとに練習を重ねる毎にチームワークも向上していきました。
 当時のメンバーは次のとおりです。

監督 藤田良彦・主将 佐野直樹・投手 山本浩平5・捕手 佐久間紀行7・一塁 太田 弘2・二塁 彦坂忠昭8・三塁 森 邦彦3・遊撃 中尾益也1・左翼 甫喜山剛6・中堅 佐野直樹4・右翼 白井啓示9・右翼 鈴木純一郎・マネージャー 宮本 愛(数字は打順)

 第一戦(二回戦)は稲沢高に一〇対○で六回コールド勝ち、第二戦(三回戦)は起工高に二対○と予想どおり勝ち進みました。そして第三戦は一宮球場で、常に好勝負をしてきた豊橋工高戦でした。手の内はお互い知り尽していたが、七回表まで一対三とリードされていましたが、しかし、その裏一死一・三塁の好機に佐久間紀行中尾益也が積極的な攻撃でタイムリーを放ち、四点を入れ、みごとに逆転勝ちしたのてすが、その時の喜びは一入でした。翌日の中日新聞の評に、「放った安打は時習館十一本、豊橋工十一本で、ファイトあるその試合内容は大会随一といえよう」とたたえられていました。

 ベスト八が出揃い、準々決勝は鳴海球場で中京商と戦いましたが、相手が一枚上で○対四で敗れ去りました。この瞬間に三年間標榜してきた甲子園は、夢と消えたのであります。

 その他で、三年間の思い出の中で印象に残っている試合は、昭和三十三年の全三河大会の決勝戦、これも豊橋工高との戦いです。この決勝の前即ち準決勝で岡崎北に一対〇で勝って、続いての決勝戦でした。時習館山本浩平、豊橋工山田、両左腕投手の投げ合いで、九回終って二対二、延長に入りました。その後両校膠着状態になり、延長も延長二十三回戦い、遂に三対二で惜敗しました。試合時間は実に四時間半にも及ぶ大熱戦でしたが、この回が終了すれば日没引分け、再試合であっのに誠に残念で、疲れも倍加したように記憶しております。

 それにしても「山本浩平」投手は、一人で準決勝と合わせて一日三十二回を投げ抜いたのです。その気力と体力が、あの小さな体のどこにあったのか、今でも敬服しています。

 この試合がキッカケとなって、高校野球の延長戦は十八回迄となったのです。更に今年から十五回迄になると新聞に出ていました。生徒の健康面からと書いてありましたが、それがよいのかどうかはわからない。

 もう一つの思い出は、二年の夏の大会後、我々中心の新チームになった時の出来事ですが、藤田良彦先生は実質この時からいろいろな面で監督として、一本立されたのではないでしょうか。

 それは、夏休みに新チームの基礎づくりのために、猛暑の中で練習をしていた時のことです。当時は練習の途中で水を飲むことは許されなかったし、それが根性だと教えられていたように思います。その時はそんなものかと耐えていました。練習も熱が入り、個人ノックが始まり、しばらくすると一人が倒れました。藤田先生もびっくりされて、マネージャーが近くの国立病院に連れていきました。その結果は、脱水症状という診断だったと思います。医師から、暑い日の練習には水を取らせるようにという指示があったようで、その後の練習には、途中で必ず給水時間が設けられたのも、懐しい思い出の一つです。

 最後に、現時習館の野球部員に提言したいと思います。現在、私は静岡県に住んでいます。静岡といえば、高校はサッカー王国として知られています。その中の有力チームには優れた進学校が多くあります。それは、サッカーと勉学をうまく両立させているのみならず、考えた練習を個人々々が行っていると聞きます。

 サッカーは一人でも練習が行えて、技を磨くことができ、チームプレー・セットプレーを磨き、個人技がチーム構成の相当部分を占めるのかもしれません。

 それは、野球でも同じことがいえると思います。野球の場合、ピッチャーに超弩級が現れれば大分違うが、それ以外チームプレー、チームワークという点で、サッカーと大差ないように思います。チームワークというのは、個々人の技量が上ってこそ、好いチームワークができるのです。

 時習館の生徒には、考える力が大いにあります。一人ひとりが自分は何を成すべきか、どこを伸ばすべきかを考え、監督やコーチの方とよく話合ってトレーニングを積んでほしいと思います。画一的練習、ただ根性だという練習は、もう終焉を遂げたのです。

 時習館野球部が強くなるには、ヘッドワークを使うしかないと思います。一年でも早く永年の夢を実現してほしいと願う一人です。(平成11年12月記)
                                    

回顧

(時習13回・昭和36年卒) 繁原武明

 昭和三十四年時習館に入学、そして直ぐに大好きな野球部に入る。薄暗く、汗臭い部屋で練習用のユニホームに着替えて上級生のマネジャーの案内でグラウンドに出る。そして新入部員の紹介、なんと新入生だけで四十人も居た。こんなに大勢いて大丈夫かな、選手になれるかなと心なしか心配であった。我々新入部当時の主な役割は、授業を終えると一足先にグラウンドの整備、特に内野をレイキやトンボで均したり、石拾い、実にたるい仕事だ。日を追って練習が嫌になって来た。でもこのような考えは自分一人ではない事が一週間ぐらいすると分った。徐々に練習に来なくなる新入生が出始めて一ケ月ぐらいでなんと十人以下に減ってしまった。僕もいずれこの仲間から脱落するんだろうかと毎日思いながら、同じ新入生の加藤君達と夜なべ仕事(破れたボール縫い)をカバンに入れて、練習後の日暮れた道を自転車を並べて帰った。
 二十年以上経った今でも思い出すと自分でもおかしくなる事がある。それは入部して初めてのフリーバッティングの時の事だ。並んでいるバットの中から、よし、これが一番軽くて打ち易そうだと手にしてボックスに入ると後から「繁原、お前、何で打つつもりだ」という声に振り返ると監督の藤田良彦先生が「お前の持っとるバットはノックバットだぞ、おいこれで打て」と渡されたバットの重いこと、これではとてもと思いながら打席に入ったが、偶に当たれば手ばかり痺れてたまらない、後で知った事だが、それは竹バットであった。以来竹バットは痺れるという感覚が頭に染込んでしまった。
 私の高校時代の野球部での思い出は、夏の大会前の炎天下での辛い練習の事、試合に敗れた時の涙等色々と回っては来るが、やはり新入生当時に味わった硬くて、重いボール、そして重くて痺れる竹バット、この事が今では一番強い思い出となっています。昭和50年4月)
                                    

思い出の試合

(時習14回・昭和37年卒) 鳥山鉱之

第43回(昭和36年)夏の愛知県予選 第一回戦 「名古屋西」に零敗
時習館 名古屋西 . . 時習館 名古屋西 . 当時の時習館ナイン
1 0 0 打数 31 40 投手 浅井万波
2 0 0 安打 2 10 捕手 佐野基幹
3 0 0 打点 0 4 一塁 伊藤誠也
4 0 1 三振 6 13 二塁 安藤勇機
5 0 0 四球 0 7 三塁 竹川典男
6 0 0 犠打 0 0 遊撃 鳥山鉱之
7 0 3 盗塁 0 1 左翼 水野文男
8 0 0 失策 3 2 中堅 吉田 満
9 0 2 残塁 4 14 右翼 彦坂宣定
0 6 . 補欠 中村征太郎
. マネージャー 坂井長一

 二回まで時習館浅井の力投に押され気味だった名古屋西は四回、四球の江本が二盗のあと梅村の風に流された左飛落球で拾いものの一点をあげた。さらに・・・(朝日新聞昭和三十六年七月二十二日)
 思い出のゲームは、やはり三年生最後の夏の大会である。部員数の少なさに終始苦しみ、耐え抜いてきた総決算のゲームだけに完敗は残念であったが、何ら悔いることはない。私はむしろ三年間野球部を持続できた安堵の気持ちと喜びで一杯でした。三、四人で練習したこともしばしばあり、マネージャーを入れて九人ぎりぎりで試合したり、苦しい三年間でしたが、心技ともに未熟な我々を最後のゲームまで導いて下さった藤田良彦監督に同期生を代表して、改めて敬服と感謝の意を表したいと思います。(昭和50年4月)
                                   

回顧

(時習17回・昭和40年卒) 梅村民雄

 昭和三十八年〜三十九年当時の野球部生活について、思い出すままに書きなぐってみよう。
一、戦績のこと
 県大会では、いつもベスト8進出目前で惜敗した。憎き相手は、大府高校・愛知高校である。後輩諸君この恨みを晴らしてほしい。
二、練習のこと
 その(1)辛かったこと
 真冬の練習は厳しく、特に守備の下手だった私には、ありがたいノックの雨を頂戴した。菅沼光春・繁原武明・浅井万波諸先輩は、人間の顔をした鬼であったと、今になり悟る。
 その(2)好結果が得られたこと
 「声が出ていない!」と称して、外野に並ばされ、何度も大声で怒鳴る訓練を強いられた。我々も心得たもので、時々「バカヤロウー」と声を下げて混ぜ返していたが、現在では、会社内で、電話応対時の声が大き過ぎると、時々文句を受ける程である。
 その(3)楽しかったこと
 グラウンド横には農場があり、農業用水池用の大型水道蛇口から冷たい水が流れていた。夏の練習後、その水を頭からかぶり、腹一杯水を飲み、帰宅途中には、一杯四〇円程の安物カキ氷を飲むことが唯一の楽しみであり、ほっと一息つく時であった。
 その(4)赤面すること
 練習後のかけ声。「アイン・ツアー・ドライ」「フレー・時習・・・」なんて、独語の発音も意味も知らずに叫んでいた。
 三、火事のこと
 その(1)不幸なこと
 昭和三十九年三月四日未明、旧館校舎全焼。部室はもとより、各部員の道具に至るまで灰となった。被災を免れたのは、修理に出してあった私のグラブとスパイクだけであった。
 その(2)感謝したいこと
 被災後直ちに緒先輩・近隣緒校から多くの御見舞を頂き、部活動が無事継続できた。又、その際、監督の藤田良彦先生宅を、風呂付部室として利用させて頂いた。汗と泥まみれの連中が長期占領しながら、整理・清掃等が十分でなく大変御迷惑をおかけした。
 この場を借りて、藤田先生、諸先輩方に厚くお礼申し上げます。(昭和50年春記)

                                   

打てず、守れず

(時習18回・昭和41年卒) 太田智洋

 私が時習館に入学したのは昭和三十八年である。中学の時から野球をしていたので、迷うことなく野球部へ入った。
 ここで熊部光宏酒井喜代嗣光島稔らと出会ったのであるが、熊部と酒井は東三河でもトップクラスの強さを誇っていた青陵中のバッテリーであった。私は豊橋南部中の出身で「格」が違っていた。二人はすぐレギュラークラスの実力をつけ、バッティングでも、野球のずるさでも非凡なものを見せていた。光島と私はもっぱらベンチを暖めていたのだが、実力の差はどうにもいたらなかった。
 しかし私にも春が来た。二塁手としてレギュラーになったのだ。だがエラー率が五割にも達せんとする守備力である。藤田良彦監督に徹底して絞られた。一生懸命にノックを受けるのだが一向に上達しなかった。とうとう素手でノックを受けるはめになった。その時は監督が鬼に見えたが、今考えると藤田先生も執念深く鍛えてくれたと・・頭が下がる思いがする。
 打撃の方もダメで、打率が一割はおろか27打数1安打、率にして三分七厘というひどさであった。ランナーもいないのにバントをさせられた。ツウストライクになって監督を見ればスリーバントの指示である。案の定、ファウルで三振である。これには私も泣きたくなった。いや本当に泣きたかったのは藤田先生だったのかもしれない。
 こうしてチームの足を引っ張り、監督の嘆息を誘い、それでも三年間私は野球を続けた。「続けた」ということが私の栄光である。
 私はいわば〈劣等)野球部員であったが、今では懐かしい思い出である。そして熊部・酒井・光島は今でも間違いなく私の友人である。(昭和50年春記)

                                   


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