野球三年史

 昭和初期の活躍ぶりを、校友会誌第三十七号からみる。

       卒業生 竹田(長尾)岩尾 豊中31回

 豊中最近四、五年間のチームでは、

  6:金子 5:榊原 3:都築 2:戸苅 7:伊藤 8:疋田 4:浦山 9:中林 1:大野

といふメンバーが一番揃ってゐるやうに思へる。これは昭和二年の春から夏へかけてのもので七月の中商、愛商との三校リーグ戦では中商に一対〇、愛商に四A対二で敗れたゐるが、中商は大野、鈴木の時代で教練の先生が応援団長になった程の熱心さだし、愛商は水谷(慶)、平松、高谷、松下(鳴海倶)等の居た時代で共に新進の意気激しく、大清水球場としては稀らしいゲームであった。

 次いで夏の大会に愛知一中を破ったことは余りにも名高い、八回まで三対一で敗けてゐたのを、裏に三点入れ更に九回に都築君の二塁打で二点入れ六対四で勝った時は躍り立つ程嬉しかったし、又一中フアンが何んな事をするかも知れないと思って八事の山へ逃げ込んだものだ。当時一中は酒井、荒井のバッテリーで夫馬が右翼、三浦は未だ補欠であった。守備に於ても失策四、打撃では安打七、三振二で一中の成績と大差はなかったが勝ったのは幸運だった。この一ゲームで豊中の名は九に出で大野の名は広く宣伝された。次の日春、秋の試合に七、八点の差で勝ってゐる名商に十二A対三で敗れたのはあきらめきれない。

 秋にはこれと同メンバーで敦賀に遠征し佐田(同志社)橋本小林の若かった時代の敦商と戦ひ、十三回補回戦で二対一で敗れてゐるが豊中も相当強かった。年末に東海ベストフオアー豊中、一中、愛商、名商のリーグ千があり、一中に九A対七で敗れ、名商に十対二で勝ち、愛商に二〇対二の惨敗を喫した。この時は金子が傷つき榊原君が投手をやったりして全く惨々だった。余分な話だが金子は二塁に盗塁した時右腕を負傷して、この時アウトになったのだが、後程愛商の主将松下は金子に手紙をよこして、あの時はセーフだったと言ったそうだ。この年は長打のよく出た年で榊原君、伊藤君、都築君等常に本打、三打等をとばし、これに次いで戸苅、金子等もよく打った。昭和三年の春のメンバーは、

  6:金子 5:浦山 1:伊藤 2:戸苅 3:石田 8:中林 7:間瀬 4:伊東 9:山中

でこの頃は金子の遊撃が名古屋新聞で東海一と激賞した頃で時々暴投するが、強肩だし、打撃も素晴らしく盗塁も綺麗な頃であった。中商とやって、間瀬の失策から一挙六点を入れられ六対四で敗け、名古屋新聞の大会で西垣、倉(法)岸本の神港に二A対一で敗れてゐるが豊中は東海のベストフオアーの一つであった。朝日の大会には一宮と十一回やって七対一で勝って愉快だったが、岐阜商業とやって四球連続で、常日頃お得意の奴で一挙四点入れられ四A対三で最後迄勝ちそうだと思ってゐたゲームを敗れたのは、一中に十三A対一で敗けた時と同様にあきらめられない試合であった。

 松本(早大)の居た今治中と戦って三A対一で敗け、西山の新潟商業に九回目に西山に本打を打たれて一A対〇で敗れたのもいい勝負であった。九月に一中と第一回定期戦をやって三浦の本打で二点とられ、中林の本打で一点かへして二対一で敗けたが敵の安打一、三振九で大野の好調な時で時の部長村田先生が「1中の奴振へ上って帰ったぞ」と言はれた位愉快な試合であった。本打で敗れた試合といへば十一月の対海草千にも味方は金子の本打で一点敵は荒川の本打で三点を入れたことがあった。海草は当時和中を破った物凄い意気だった。海草の安打三、三振八でこれが大野の最高潮時であったやうである。十一月の臨時試験の済んだ日の練習は彼の肩を痛め爾後彼の肩は卒業期まで完服し得なかったのである、恨むべき猛練習の日であった。

 十月に東三中等学校野球連盟が出来て市商、成章とリーグ第一回戦が大清水で行はれ市商に七対二、成章に十九対一で勝ってカップを得てゐる、然し市商も大木、中村春等の好選手が居て侮り難いものだった。

 翌年一月には名古屋新聞の選抜リーグで石井、安中(今の桜井)の中京を三対二で敗ったのは快事であった。この頃戸苅の打撃は素晴らしくて大会のリーデングヒッターとなったし、浦山の三塁も華麗確実となった。この時一中を破れば甲子園に行けたのだが。この時は一中、一宮、中商、豊中で、一中、中京、豊中が二勝一敗の形となり決勝リーグで豊中は敗れてしまった。正月頃国大、名高工に勝ったのは愉快な印象として残ってゐる。

 昭和四年のメンバーは移動ばかりしてゐた。それで折角三年計画の夢も消えて僅か夏の大会以後に活躍のチャンスを得たのみであった。石田が急に大会近くに退部して面食はせたり、堀越が転校したり、長谷川が出たり入ったり、伊東が大会直前に発病したりして何時も動揺してゐた。それに投手が金子、浦山になったりして、故に

  6::金子 1:浦山 9:大野 2:戸苅 3:石田 8中林 7:間瀬 4:長谷川 5:伊東

のメンバーで浜中とやった頃が一番揃ってゐたやうだ。

 四月の愛商、一中、静中に六対三で敗けたが、これは投手のないせいであった。静中は寺田、築地、鈴木等甲子園の花形が居る時で頗る元気だった。

 次いで五月の東三リーグには選手不足で市商に一〇対三で始めて敗れて人々が怒ったことがある。その復讐を豊川の大毎の大会で十二対八で遂げた時は両校の応援最も激しくて面白い時だった。その翌日今迄負けたことのない浜中に五対一で敗れた。この頃、一中、愛商、長野商業とやる計画があったのだが、結局一中だけとなって十二対六で負けた。この時は戸苅が負傷して金子が捕手をやったりして惨々だったが大野、山中の痛烈な本塁打があった。

 朝日の大会は好調子で大野、戸苅、金子、中林等がよく打って当時の新聞をして豊中を優勝候補の随一と推さしめた。全く対岡師に七本の連続安打で十点を入れた時などは痛快であった。然し守備では投手力薄く金子のプレートに立つ時は遊撃がすき、不運な間瀬の代理三塁もあやしく内野は全く手薄だった。優勝戦で一中と戦ひ十三対一の大スコアーで敗れ人々の期待を裏切ってしまった。どうした原因か分らぬが四球十三といふ調子に、三浦、夫馬の長打があってとに角大敗した。四球十三は常人では考へられないことだ。一中には三浦、夫馬、小山(名鉄)、市岡(医大)等の名選手が居て確かに強敵ではあった。大会直後長野遠征で村尾、稲若の八尾と戦って八対四で負けたが、この頃は中林、戸苅はよく打ちよく守ってゐる。戸苅の頭脳的捕手振りも時々発揮された。 名古屋新聞の大会で甲陽に九回目の安打で六A対五で勝った時は一中に勝った時と同様最も嬉しい時だ。時の捕手川端は試合の終了した時本塁上に倒れて男泣きに泣いた位の熱戦だった。その翌日は松商を九対五で敗って全国のフアンの耳を洗った。松商は殆ど甲子園の前年の優勝メンバーであり、全国ベストの遊撃大月、三塁村田、二塁中村、投手中島等がをり到底駄目だと思ったが金子のドロップは見事だし、制球力は充分だし、中林のフアインプレー、戸苅の攻守、間瀬、戸苅、金子の長打等で勝ちを得たのだった。とに角この頃の戸苅、金子、大野は一流のプレヤーであった。他のチームに見る様な人を圧する覇気には欠けて居たが紳士的なスポーツマンであることは誰れしも疑はないであらう。

 私の書いて来たところでは皆負けてゐるやうだが、強いチームとやった時ばかりが書いてあるからだ。昭和二年は三十九戦二十七勝、一引分、三年は五十戦二十九勝、四年は五十一戦三十一勝、二引分といふ成績である。


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