『ユニホームのマーク』 について
正式にマークができたのは不明だが、ユニホームもマークも各種あったようだ。
明治37年頃には左胸には四中ということで、ローマ数字の
「V」にもう一本縦棒を加えたもの(「W」ではない)の一文字のマーク。
この頃、
「FMSBC」(Four Middle School Base Ball Club の意味?)も使われたが、明治39年過ぎからは、戸田先輩が考案した
ドイツ文字の「TO」を組み合わせた「○の中に T 」が使用された。このマークは戦時中と戦後の数年を除き、昭和50年まで胸を飾った。昭和16年、戦争たけなわとなり、敵性文字だと指摘され、ドイツ文字だといったが受け入れられず、
「豊中」と漢字に改めた。
終戦後、野球は復活したが、ユニホームを揃えるだけでも容易でなく、数人は
「ドイツ文字の ○の中に T 」を胸につけていたがほとんどが胸は無字であった。
昭和22年秋になって、一時「豊中」のローマ字頭の
「H」を使った。だが、昭和24年度から再び
「ドイツ文字の ○の中に T 」に戻った。
だが、昭和50年から
「時習」の漢字となり、「ドイツ文字の ○の中に T 」は左袖に残した。
なお、当地区で高校野球に背番号が使われ出したのは昭和31年からである。
「ドイツ文字の ○の中に T 」のマーク 漢字の「豊中」のマーク 「H」のマーク 「時習」のマーク
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