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 杉浦 忠

http://www.webmie.or.jp/~m-yama/index.html による)

 1935年9月、愛知県生まれ。右投右打。投手。背番号21。挙母高校(現豊田西高校)から立教大学へ進み、同期の長嶋茂雄とともに大活躍を見せた。
 1958年に南海入り。1年目から27勝12敗、防御率2.05という成績で新人王を獲得。
 翌1959年には38勝4敗、防御率1.40、336奪三振、9完封というとてつもない成績を残して投手5冠王を獲得した。チームも、リーグ優勝し、シーズンMVPに選ばれた。
 そして、日本シリーズでも巨人と対戦し、4連投4連勝、防御率1.41という完璧な働きで日本一と日本シリーズMVPを手にした。
 1960年も317奪三振で2年連続の奪三振王に輝いている。
 1961年も20勝9敗で南海のリーグ優勝に貢献。1964年、1965年も20勝15敗、8勝1敗で南海をリーグ優勝に導いた。
 杉浦は、入団してから7年連続2桁勝利を挙げている。しかし、4年目に患った右腕の動脈閉塞に悩まされるようになって手術してからは、それまでのような活躍はできなくなった。
 1970年、現役引退。
 1986年から南海の監督を務め、1989年には南海の身売りにより、初代のダイエー監督となった。
 1995年、殿堂入り。

 高く足を上げ、深く腰を沈ませるアンダースローでゆったりと流れるように投げ込み、打者の手元でホップする直球と時折混ぜるカーブで打者を翻弄した。そのオーバースローと同じ腕の振りをする独特のフォームは、「手首を立てたアンダースロー」との異名を持ち、捕手の野村克也は、自らが球を受けた中で最高の投手だった、と振り返っているほどである。

 通算成績(実働13年):187勝106敗、防御率2.39、1756奪三振。新人王(1958)最多勝1回(1959)最優秀防御率1回(1959)最高勝率1回(1959)最多奪三振2回(1959・1960)ベストナイン1回(1959)

数々の伝説

 @大学時代にアンダースローに転向してノーヒットノーラン

 杉浦は、高校時代まではオーバースローだった。挙母(現豊田西)高校では球は速いがコントロールに難があった。その高校時代に立教大学の砂押監督の目に留まり、入学することになる。
 立教大学2年のときにアンダースローに転向し、エースの座に着いた。
 そして1957年秋には早稲田大学戦で1四球・10奪三振で無安打完投をしてノーヒットノーランを達成した。

 A同じ年に立教大学卒で2人の新人王

 立教大学3年生のとき、杉浦は、長嶋茂雄の勧めで南海の鶴岡一人監督と会う。そのとき、長嶋と鶴岡は、杉浦に南海入りを勧めた。
 4年生になったとき、杉浦は、プロ入りを決意。南海に入ることを決めた。
 しかし、杉浦に南海入りを勧めていた長嶋は、巨人入りを決める。南海に入りたい長嶋を、巨人や球界関係者が様々な圧力をかけて、巨人入りせざるをえなくしてしまったのである。
 結局、杉浦は南海に入団し、長嶋は巨人に入団。
 2人は、ともに健闘を誓って、杉浦の勝ち星と長嶋の本塁打数を競うことにしたという。
 結果は、杉浦が27勝、長嶋が29本塁打で長嶋が僅差で勝利した。
 しかし、この2人の成績は、両リーグの新人の中では群を抜いており、杉浦は27勝12敗、防御率2.05でパリーグ新人王、長嶋も打率.305、29本塁打、92打点の活躍で本塁打・打点の2冠王とともにセリーグ新人王を受賞している。

 B投手5冠王

 1959年、杉浦は、エースとして69試合に登板。38勝4敗、防御率1.40、336奪三振、9完封、勝率.905という好成績を残して南海をリーグ優勝に導いた。その功績を評価されてシーズンMVP。
 そして、この年の杉浦は、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率・最多完封と投手の主要タイトルを総なめにし、1954年の杉下茂(中日)以来史上5人目の投手5冠王を達成した。しかも、どのタイトルも、2位とは大差をつけており、史上最高の成績と評価する声もある。

 C4連投4連勝と涙の御堂筋パレード

 1959年の日本シリーズは、南海×巨人となった。南海は、それまで巨人と4回にわたって日本シリーズを戦い、まだ1度も勝ったことがなかった。
 しかし、この年は、シーズン38勝を挙げた杉浦が活躍を見せ、10月24日の第1戦を先発で好投し、10−7で勝利すると、翌日の第2戦も杉浦がリリーフで5回を投げて6−3で勝利。10月27日に行われた第3戦も完投で3−2と勝利した。
 ところが、10月28日に行われる予定だった第4戦は、雨のため中止。
 10月29日の先発のマウンドにはまたしても杉浦が上がった。
 杉浦は、巨人打線を5安打無失点に抑え、3−0で完封勝利。見事4連投4連勝で日本一となった。第4戦の5回には右手中指の血豆が破れ、白球を赤く染めながらの力投であった。
 杉浦は、シリーズ前人未到の4勝無敗、防御率1.41で文句なしの日本シリーズMVPに選ばれた。試合後のインタビューで、鶴岡一人監督は「神様、仏様、杉浦様」との言葉を残し、杉浦は「1人になって泣きたい」という言葉を残した。
 このシリーズ後、大阪の御堂筋で行われた優勝パレードには大勢のファンが詰めかけ、南海の日本一を祝福した。

 D史上最速の3年1ヶ月で通算100勝

 杉浦は、1958年の4月5日にプロ1勝を挙げて以来、1年目27勝、2年目38勝、3年目31勝と、最初の3年間で何と96勝を稼いだ。1年平均32勝である。
 そして1961年の5月6日の西鉄戦で通算100勝目。プロ1勝目からわずか3年1ヶ月での通算100勝であり、この記録は永遠に破られることはないだろう。

 E54回3分の2連続無失点

 杉浦は、好調だった1959年、9月15日から10月20日まで54回3分の2にわたって連続無失点に抑えている。しかも、この年は8月26日から9月9日にかけて43回連続無失点という記録を作っている。この2回の記録の間に13連勝を達成していることも付け加えておきたい。
 ちなみに、日本記録は、1958年の金田正一の64回3分の1連続無失点であり、杉浦の記録はパリーグ最高記録となっている。

 F初代ダイエー監督

 杉浦は、1986年、南海の監督に就任した。杉浦が監督を引き受けたとき、南海は8年連続で5位と6位しかとっていない弱小球団になっていた。
 杉浦は、その戦力の立て直しを図り、1987年には4位となったが、1988年末に南海はダイエーに身売りしてしまう。
 そのため、杉浦は、ダイエーの初代監督となった。
 ダイエーでの指揮は、1989年のみとなったが、4位の成績を残している。



(2001年11月11日逝去)

http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo011112.html による)

元南海エース杉浦忠さんが心筋梗塞で逝去

 元南海のエース、杉浦忠氏が11日午前、急性心筋梗塞のため滞在先の札幌市内のホテルで死去した。66歳。前日10日、札幌ドームで行われた、プロ野球OBによるマスターズリーグ「大阪ロマンズ」の監督代行として指揮を執り、この日もベンチ入りする予定だった。立大時代は前巨人監督の長嶋茂雄氏(65)とともに活躍。1958年(昭和33年)に南海(現ダイエー)入りし翌59年の日本シリーズでは4連投4連勝の快投を演じ、巨人を倒した。

浴室で倒れる
 南海黄金時代を支えた杉浦氏が札幌市内のホテルで急死した。マスターズリーグ「大阪ロマンズ」の札幌遠征に参加。吉田義男監督が所用でチームを離れたため、10日の札幌戦で監督代行を務め、チームを勝利に導いた。この日も引き続き札幌ドームで午後2時から行われる札幌戦の指揮を執る予定だった。
 しかしこの日、チームの宿舎出発時間の午前11時25分になっても、杉浦氏の姿が見当たらず、関係者が部屋をノックしたが、応答がない。ホテル側に部屋を調べてもらったところ、杉浦氏が浴室に倒れていた。既に意識はなく、ホテル内で救急救命士が死亡を確認した。

 杉浦氏が野球人生でもっとも輝いたのが59年だった。プロ2年目で38勝4敗、防御率1・40でリーグ優勝の立役者になりMVPを獲得。日本シリーズで巨人を4勝0敗で倒したが、超人的な活躍をした。第1戦に先発し8回を投げ1勝目を挙げると、第2戦は救援で5回を投げ2勝目。この試合で右手中指のマメをつぶし、その後は痛みをこらえ血染めのボールを投げ込んだ。第3戦は延長10回、142球を投げ抜き2失点完投勝ち。中1日で先発した第4戦は5安打完封し日本一を達成した。立大の同級生、長嶋を12打数3安打に封じた。初戦から4連投4連勝の離れ業は後にも先にも杉浦氏だけだ。
 初の日本一の南海は「涙の御堂筋パレード」で歓喜に浸った。大阪府警の調べでは20万人を超えるファンが集まり、ビルの屋上から紙吹雪が舞った。

杉浦忠
 1935年(昭和10年)9月17日、愛知県豊田市生まれ。挙母(ころも)高(現豊田西高)から立大に進み、長嶋、本屋敷らと東京6大学リーグ連覇を達成。58年南海入りし、下手からの速球と大きなカーブで1年目に27勝を挙げ新人王。2年目の1959年には38勝でMVP、最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、ベストナイン。9月から10月に記録した54回2/3連続無失点はパ・リーグ最多。同年、宿敵巨人との日本シリーズでは4連投4連勝を果たし、南海を初の日本一に導いて鶴岡監督らとの御堂筋パレードが語り草に。58〜61年に日生球場で記録した13連勝は敵地での最多連勝。1961年から右腕動脈閉塞に悩んだが、1964年には20勝を挙げてエース健在を示した。オールスター出場6度。現役時代は176センチ、71キロ、右投げ右打ち。監督では1986年南海に就任し、ダイエーに身売りされた1989年まで務めた。1995年野球殿堂入り。最近は評論家として正力賞選考委員などを務めた。



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