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                               戦後十年の歩み

                             

 渥美政雄(昭和50年・1975年春記)

 戦前私は名古屋の東邦商業(東邦高)、神戸の滝川中学(滝川高)、尾張一宮の一宮中学(一宮高)に勤務した。そのかたわら野球部の指導をさせていただいた。

 昭和九年東邦商業を振り出しに戦後に時習館高に至る二十有余年間、それは長いようで短い年月だった。その間に私が九回の甲子園出場ができたのは全くの幸運と環境に恵まれたおかげであった。

 終戦を尾張一宮で迎えた私は昭和21年(1946年)の9月、豊橋中学(時習館高)に転任した。運動場で行われた就任式は久野校長さんの時で、暑い朝であった。中柴町にあった学校は戦火を受けて、高師原演習場に近い野砲隊の跡に移って間もないため校庭は荒れて、戦車がころがり、野兎がはねていた。

 就任式を終えて職員室に戻ろうとすると、野球部の上級生と思われる生徒につかまった。昼、部員を集めますから、なにか野球の話をしてください。という。この生徒が後になって、塁にでるためには”デッドボールなどなんのその”という逸話を残し、東京大学に行った山田勝久君と分った。

 昼、部室に行くと七、八人いる。
 「他の人はどうしたの」
というと、
 「これで全部です」
という。めんくらっていると、たたみかけるように
 「わたし達は甲子園に行けるでしょうか。」
の質問、私は暫く生徒の顔を見つめていた。驚いたというよりも突然の言葉の内容にとまどった。生徒は真剣である。うそ気がない。終戦、その後に来た開放感、その中で、生徒は自分の支えになるなにかを探し求めた。その中の一つに甲子園への夢があっても不思議はなかろう。野球部室の璧には、
 ”甲子園への夢を実現しよう”
と大書してある。それは大正5年(1916年)に時習館の大先輩が成し遂げた豊中(とよなか)球場における全国大会出場の
 〃夢よ、もう一度〃
でもあったにちがいない。

 かくて、私は戦後の食糧難の中で芋を食べ、空腹を押え、勉強と運動の両立を考えながら第一回の東邦商業以来四回目の苦しい野球との戦いを始めることになった。
 ”選手である前に生徒であれ”
 この一貫した指導方針に生徒もよくついてきてくれたし、やる気も十分だった。そのためか、旧本館前には野球部員の汗で形だけの野球場ができ、チーム育成の方も幾つかの山を越えて、順調に進んだ。レフト後方にある旧本館に誰が一番早くボールを打ち込むかの課題も一過間を経ずして学校側からうれしい苦情が出たほどだった。

 私が指導したのは四十九回卒業の安田正一郎主将の時代から新制高校一回の藤田良彦、二回の大嶽保、以下芳村亮雄住吉功渡辺修岡田互西崎若三宇田充小野田の諸君、十代の主将まてで、約十年間にわたっている。

 赴任したのが安田正一郎くん(49回生)の五年生の九月の時だから、本当に手塩にかけたのは次の藤田良彦くん(時1回生)の時代からである。 この時代は野球の中から生まれてきたような竹内基二郎くん 好打者斉藤了一くん、どこのポジションてもこなした藤田良彦くん、この三拍子が夏の県下大会に非常によい結果をもたらし、遂に優勝戦までいきついたが、享栄商業に力尽きて敗れた。惜しいというよりもよく健闘したと思う。

 大嶽保くん(時2回生)の時はグラウンドマナーがよいと、しばしば新聞記事にされた投手の青木伸次くん、救援のサウスポー水藤勝くん、荒武者の好打者荒島昭吾今井明の両君、肩は弱かったがよいリードした捕手の林 弘くん、好打より好守の大獄くん、それに古市良延くんというよいマネジャーにも恵まれて、なかなか活気があった。
 夏の県下大会では準々優勝戦で中日で活躍した名投手本多くんを擁する犬山高と対戦、最終回にに荒島くんがライトオーバーを打ち、逆転を思わせたが、その後で大嶽くんが二塁でトリックプレイに合い憤死、この試合は惜しかった。

 芳村亮雄くん(時3回生)の時は名捕手の田嶋義雄くんを始めとして松永整二斉藤信夫、鶴見崇くんの好プレイヤーがいながら、夏の県下大会では松永くんのネンザ等もあって十分に力を発揮できなかった。

 住吉功くん(時4回生)の時は滝本富雄木戸義彦両君の好投手を有し、捕手に強肩の金子秋彦くん、対岡崎高の時、鳴海球場の外野席に打ち込んだ好打者鈴木広くん、内野手には小柄でよく活躍した竹内章今泉哲雄の両君、足の早かった住吉くんとよく揃っていた。
 夏の県下大会では今まで楽勝していた豊橋商業に準優勝戦で二対一で敗れ、この時豊橋商業は優勝戦にも勝って甲子園に初出場した。

 渡辺修くん(時5回生)の時になって、時習館は再び開花した。昭和二十七、二十八年と二ケ年連続して春の全国大会に出場した。長い苦しい歩みだったが、まさに”甲子園の夢”が実現したわけである。
 それだけにチームも充実していた。投手に軟の渡辺修、剛の内藤治夫くん、捕手には努力家の加藤主税くん、一塁に強打の原田始くん、二塁に華麗な守備を見せる大岩張二くん、遊撃にはよく動いた芳村徳夫くん、外野に好打者の鈴木孝康くん、攻守の佐原吉美くん、よく面倒をみてくれたマネージャーの植村弓捷くんと理想に近いチームだった。
 このメンバーが一年生に入ってきた時、私は奇しくも一同を集めて、君等がこのまま二年、三年と伸びていけば甲子園に必ず行けると初めて断言した。それが現実となった時には生徒の喜びは勿論のこと、私もホッと肩の荷ををおろした。
 この出場には悲喜交々の思い出が多い。中でもよく面倒をみていただいた慶応出身の長浜さん、財政の責任者牧野さん、健康管理の石田さん、相談役の磯貝さん、終始応援していただいた寺嶋さん、不運だった豊川の牛田さん等、汲めども尽きぬものがあるが、月日と共にうすれていくのが残念である。
 甲子園の大会では第一回戦に関東の桐生工業と対戦したが、皆さんの期待を裏切って初陣らしい敗け方をした。この出場を記念して学校では懐かしいオンボロネットから立派なバックネットを作った。熊谷校長さんの時である。
 夏の県大会では優勝戦で愛知高と対戦、九回裏、鈴木孝康くんの一打を愛知高の左翼手がバックにバックを重ねて好捕、逆転ならずして惜敗した。

 昭和二十八年の岡田互くん(時6回生)の時は、投手にボールの重い大山敏晴くん、二塁に確実な白井勉くん、三塁に好守の岡田互くん、遊撃に強肩の徳増浅雄くん、左翼に好打の竹内和男くんと昨年選抜出場の余勢もあって気をゆるしていた。
 ところが新チームの初戦にあって田口高に悪戦苦闘、どこのチームと戦っても楽勝らしいものはなかった。このチームが試合毎にヒョロつきながら勝星をあげ、秋の中部地区大会で中京商(中京高)を破って、春の甲子園全国大会には二校そろって出場となったのだから世間はアッと驚いた。
 甲子園ではまず地元大阪チームの市岡高に三対一で勝って万雷の拍手をあびた。九回表二走者をおいて、市岡高の一打は二塁手白井勉くんの頭上を抜くかと思われた一瞬、一世一代の白井くんのジャンプが白球をグローブの中に吸い込んでいた。あの白い球は今でも目蓋にやきついている。
 二回戦では、この大会に優勝した洲本高と対戦、安打は洲本一本、本校三本、六回に一本の安打と巧みなバントによって一点とられ、惜敗した。夏の県下大会ではダークホース岡崎工業に意外な敗北をした。

 西崎若三くん(時7回生)の時は、投手に三塁から佐原博巳くんを、捕手に強肩の菅沼光春くん、一塁に強打の中西克哉くん、二塁によく動いた小柳津正くん、外野に老巧な原田豊次大羽義人の両者、中堅に好打好守の西崎若三くんを揃えたが、投手に無理があって、思うように成果はあがらなかった。西崎くんはむしろ立教大学にいって本来の力を発揮した。夏の大会は中京商(中京高)に大敗した。

 この頃から指導のバトンは教え子の藤田良彦先生(時1回生)に移った。藤田先生は名古屋大学を卒業され、時習館に赴任されたのである。だから宇田充(時8回生)小野田両君の主将時代になると特徹のある選手はよく知っているが、チームとしての記憶はうすい。
 強肩で馬力のあった遊撃の宇田充くん、小柄だが夏の大会でよく長打を打った左の奥村則夫くん、特異なフォームをした投手の坂田繁くん、好打者だった松井充男(中村)くん、好守の小野田くん等は活躍した選手であった。

 私は昭和三十一年四月に時習館を離任した。

 大会の後などに前豊橋市長の河合さんが、ふとった体をゆすり、顔に笑みを浮べながらよく言った。
 「どうも君の野球は定石を踏み過ぎて面白味がないよ」
また、ある野球評論家が懇談会の席上で、
 「あなたの野球は教育的な角度からと勝負の角度からの二方面から見ないといけないね」
とも言われた。
 今は亡くなられた野球界の大御所飛田穂洲氏は甲子園の旅館の一室で御願いした私の扇子に、”一球 快打”と書きながら、
 「分る、分るよ、学生野球はあれでいいんだよ」
と話された。
 私はどれも本当ではないかと思う。私の野球は私の性格から結局抜けることはできなかった。時習館における十年間の教え子約百人、それらの教え子が、それぞれの社会生活の中で、高校時代の野球を思い出し、なにか、人生の糧になれば幸せである。

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