e

                            「西進策の足あと」から

 西進策の足あと=或る地方記者の記録=の著書三巻は、昭和五年から十四年まで、当時の地方紙「新潮報」の「喫茶室」などに書かれた西進策のコラム集であり、中に豊中野球部の記事も相当収録されているので、主なものを紹介する。
 西進策は元豊橋市長河合陸郎氏(昭和三十五年七月〜昭和五十年三月)若き日のペンネームである。
 河合氏の野球記事は中央紙より早く紙面に発表し、試合評は好評だった。
 また「喫煙室」の野球批評も野球に対する情熱がほとばしり出ていて、特に豊中野球部に愛情をもって応援をしてくれたことがひしひしと感じられる。

タイトル一覧
スポーツと学業の両立 小姑根性に非ず母校愛の発露 豊中野球部の大会不出場
戸苅君の健棒、伝へ聞く快感 榊原武司君の愛商入り 小山君の活躍
精神的結束と社会生活 浦山君の訃音… 野球漫談
スポーツ道を冒涜するもの 野球戦に観る精神的作用 両陣没勇士の追悼野球戦
スポーツ漫談 豊中野球部の戦績偶感 野球と歌舞伎
野球場は人間鍛錬の道場也 榊原君の話 慨嘆に堪へない
選抜野球大会 スポーツ四題 伝統を汚涜するもの



 ・スポーツと学業の両立(昭和五年五月三日)

 スポーツと学業の両立は教育上の理想といはれている。それだけに至難の問題でもあらう。スポーツに秀でるものが学業をおろそかにし勝ちであり、学業に秀でるものが机にばかりかじりついていて、虚弱な身体の持ち主である場合が多い。
 処が、この頃、私はこのスポーツと学業の両立を鮮かに実現してくれた人々の噂を数回ならず聞いて、独り心中に喝采を叫んだものである。豊中野球部の前期主将だった戸苅正治君といへば、豊中野球部に第二期黄金時代を持ち来たしたヒーローであったことはよく人の知る通り、その戸苅君は入学難の最も甚だしい金沢四高の理科と愛知医大の予科を受験して、その二つながらパスして今は四高の生徒である。これなぞはスポーツと学業の両立を最も雄弁に身えおもって物語ってくれたものといへる。 豊中の或る先生の話しによると、今年度入学試験で第一番の成績で入学したものは鈴木弘君だったとか、鈴木君は、昨年全国少年球界の覇権を握った東田野球部の二塁手であり、主将でもあった少年である。同じ東田野球部の中堅手だった木村君も九番の成績をもって豊中に入学したと聞いている。その話しを二中の或る先生に話すと、大いに肯いて曰く『私の方へ来た東田の浅井君は二番の成績で入学試験をパスしています』…浅井君が東田の三塁手で好打好走の少年選手であったことは少年野球を語るほどの人なら知っている筈である。
 スポーツと学業の両立は、それは至難であって決して至難でない。よき指導者、よき学徒であるならば以上の例に徹しても、望み得る事柄である。私はここに非常に爽かな気持をもってこの話を江湖に伝へる。

 ・戸苅君の健棒、伝へ聞く快感(昭和六年六月二十二日)

 夏、野球界の最高潮季である。春秋二季における六大学リーグ戦の興味もさることながら、夏、炎天のもとに行はれる高専大会と中等学校大会とは、日本的野球の最高標準を示すものといひたい。昨夏高専大会に覇権を握った金沢四高は、今年も関西予選に破竹の勢ひを示している。金沢四高の存在が、斯くの如く私の興味をそそるのは、一は豊橋中学出身の戸苅正治君がそのメンバーの一人なるがゆえにである。戸苅君は昨夏も、中堅を守って四番を打ち堂々大会に覇を称へた。今年も依然、中堅を守って四番打者の重任を負んでいる。しかも関西予選においては、すでに三度戦ひ、三度勝ち抜いて準決勝へ進んだ。過ぐる三試合に戸苅君は、いづれも三塁打をかっとばして気を吐いている。
 特に準々決勝においては、一試合に三本の三塁打を記録している。それらの消息に接する都度、戸苅君が年少、新川小学の捕手時代から豊中へ…といふ球界生活を知る者にとって、胸の高鳴りを覚へないわけにはいかない。戸苅君がやがて東京帝大の一メンバーとして、六大学リーグの檜舞台に登場、その健棒をほしいままにする日を期待するもの、決して私独りのみではなささうである。 ひるがへって、戸苅君を育くんだ母校豊橋中学の現状を思ふ時、先輩ならずとも、切歯扼腕を禁じ得ないものがある。先輩の輝ける歴史とその活躍に思ひを致すならば、現状を打破して大飛躍、純真なる中等学校級野球道の樹立に進んでもいいはずである。愛知県予選を控へて、特にこの感が深い。

 ・精神的結束と社会生活(昭和七年十一月二十五日)

 二十三日の祭日を私は豊川球場における豊中対市豊商の野球戦を観、それから豊鉄の華々しく社会に呼びかけている長山遊園地なるものを初めて観て来た。豊中対市商の試合は今秋新チームとなってから一勝一敗のあとをうけて決勝戦を意味するものだけに、両チームとも文字通り必死の戦ひだった。学生らしくむきになった情熱的な真剣な戦ひは、その技術とか或は試合興味といふやうなものははるかに超越して観者を打つものがある。豊中対市商のそれが全くそれだった。野球技術から見れば、得点こそクロスしていたが、その内容に至っては問題にするほどの価値もない。
 しかし、この試合を通じ考へさせられたのは団結とその精神的な強味に就いてである。市商は豊中に惜しくも敗れたりこそしたが、試合は全く互角であって、試合終了のサイレンが鳴るまでは勝敗の数が判らなかったほど接戦を演じたのである。所が、この二つのチームを比べてみると問題なく豊中の方が優れている。試みに市商と豊中の選手を個々比べて見るがいい。市商の選手で豊中のそれより優れたといふ選手は殆どいない。僅に中堅の柴山が豊中の住野安二郎に優り、一塁の鈴木が守備において石田功に拮抗し得る程度であって、他の何のポジション或いは打力を比較しても市商に歩のいいのは見当らぬのである。この劣勢な市商が、はるかに優秀なる個々の選手を擁している豊中に拮抗し得るのは何んであるか。それはいふまでもなく市商チームの団結とその精神的結束の強味が個々の優秀を超へて発揮されるからである。このことはひとり野球の場合にのみいはれるのではなく、社会現象のすべてに就いていふことが出来る。個々に優秀なものであっても、それが精神的結束に欠けている場合、そのグループは常に社会生活から落伍するものであることを知らねばならぬ。(豊中 3:2 市豊商)


 ・スポーツ道を冒涜するもの(昭和八年一月五日)

 お正月豊川球場で豊中対岡中の野球試合が行はれた日である。その帰途豊中の古い先輩の一人は色々の興味ある話しをしてくれた。その先輩時代の野球部生活やいまの野球部生活の比較なぞなかなか教へられる所が多かった。しかしその先輩は最後に「私達の時代のことをもって今の野球部を律することは出来ません。もう時代が変っていて、ひとり豊橋中学のみの問題でありませんからね」ともいった。全くその通りである。
 時勢の推移はあらゆる方面に大きな変化をもたらしている。しかし、その先輩の最後の言葉は悲しい野球部へのあきらめのやうに聞かれたのである。学校を代表して野球部が試合をする時、練習もせずに試合をするなんてことはこの頃のことだ。敗けたって勝ったって問題にするに足らないといふのが、この頃の野球部精神かも知れぬ。学生の対抗試合といふのも、ここにおいてくだらないゲームといふより外はなくなる。
 もちろん、それには色々の理由がある。野球が商業化された来たため対抗試合の有つ精神的内容でも商業化されたともいへる。試合夥多がこの結果を招来した大きな一つの知勇であらう。旧臘豊川球場で雨中に行はれた野球戦の如きは全く傍人をして義憤を感ぜしめずにはおかなかった。寒雨のなかに何んの野球試合だ。対校競技もここでは単に一つの片付け仕事ではなかったか。あの雨中の於ける試合執行に対する責任を問はうとは今さら思ってもいないが、余りといへば余りであった。学校当局は一体何んなつもりで試合を行ったのであるか。スポーツの本義と対校競技の精神を冒涜するにも程度がある。その試合を拒絶し得なかった学校当局はコンマーシャリズムの奴隷といはれても仕方があるまい。だから野球統制なぞといふ怪物の横行を招来したのだ。責は各学校における指導方針にある。私は八年初頭において東三のスポーツ界のため敢て各学校当局の反省を促すものだ。

 ・スポーツ漫談(昭和八年五月九日)

 豊橋市地方七日の日曜日は文字通りのスポーツデーを現出した。今日はその雑感と漫談でお茶をにごさうと思ふ。体協の校区対抗駅伝に六十余歳の日比野マラソン翁が全コースを一時間十分で走破した元気と体力、敗れたとはいへども、五十有余歳の丸茂市長がバットを振りつつ市役所軍をひきいて岡崎市役所軍と野球戦を交へた元気は、当日の双璧といふべきだらう。おそろしく元気な「オッサン」達だ。
 八町練兵場の工場野球聯盟大会は、往年のそれにくらべると非常に淋しい感じを抱かせる。しかし、大林、丸中、氷糖、陶器の依然健在なるは喜ぶべし。聯盟チームの充実とその拡大は聯盟今後に課せられたる宿題である。このまま雨散霧消せしめるか、それとも往年の盛会を招来するか、工場従業員とスポーツの関係は既に研究しつくされたとはいへ、それが現実的なものとしてはより多くの検討を加へる必要があらう。
 豊中野球部は既に四回目で、宿敵岡崎中を豊川球場で一蹴した。この日投手小山常吉の球勢常の如くでなく、得意のシュートは見出せず、インドロの制球は荒れ勝ちだった。 しかし、よく攻めて岡中をほふったのは偉い。近藤正義や、小篠啓三の軽くミートする打法がものをいひかけて来た。徒らに強振する両夏目(一男&米二)に、一本の安打も出なかったことは、自ら顧みる必要がある。豊中は守ってこそ凡ヘッドを演じなかったが攻撃に於ける凡ヘッドは再三再四これを演じて折角の好機を逸していた。
 岡中は「相当なるもの」ではあるが、精神的訓練に欠けている。よき選手とはいへ、グラウンドで歯をむき出してファンと応酬するやうな代ものでは選手たる資格なきものといひたい。一事が万事だ。岡中の野球部精神はただ勝ちさへすればいいといふにあるらしい、さうしたチームにそれ以上の向上を望むのは無理だ。浜松一中の品格あるチームを見た直後に岡中を見て私は全く呆れてしまった。豊中よ、よしんば敗けるとも岡中のそれに堕する勿れ。(豊中 3:1 岡崎中)

 ・野球場は人間鍛錬の道場也(昭和八年七月三十日)

 中等野球夏の愛知県予選に東三勢たる豊中、豊商、成章の三校が奇しくも第二次戦に悉く敗退した二十八日、私は朝の一番で出掛けて鳴海球場に頑張ったものだ。そして敗者の悲しみとでもいふべき気分を満喫させられた一面、特に豊中対中商の一戦の如き、敗者の悲哀のうちにも朗かな心境の一面もある。斯くの如き矛盾も甚だしい云ひ方であるが、事実だから仕方がない。
 全力を尽して戦ひ、その間一点の彼是れいふべき所がなかったならばそれでいいのだ。ああもすれば、かうもすればといふ結果論的な云ひ分なれば、そんなことは単なる結果論的欲目に過ぎないのである。競技に臨む以上、勝つことは第一義的のものであると共に最後的のものである。従って勝つとは最大の目的でなければならぬ。
 にも拘らず、その最大の目的に反して敗れたのに、朗かな安心を感ずるのは何の故か、それはいふまでもなく全力を尽したあとに来る人間の心境である。西郷南洲翁のいふ『人事を尽して天命を俟つ』心境でなければならぬ。さうした意味で私は豊中ナインが全力を傾倒して、しかも惜敗した対中京戦に、感激を覚へさせられるのである。グラウンドは単なる競技場ではない。そこは人間鍛錬の道場である。
 鳴海球場に全力を尽して惜しくも敗れた豊中ではあるが、この一戦が人間鍛錬上の大きな収穫を齎したことは云ふまでもあるまい。それを生かすことこそ今後考へねばならぬ問題なのだ。斯くの如きは、ひとり競技者と、それを愛好するもののみに許された特権である。競技を不生産的なものとして退ける人々には、この人間修養の境地は判らないのである。(中京商 1:0 豊中)

 ・選抜野球大会(昭和八年八月十七日)

 東海五県中等学校選抜野球大会に豊中が選抜されずといふニュースほど、私に公憤を感ぜしめたものは近頃になかった。そんなことに…と云って笑ふものがあるかも知れぬ。しかし、私にとっては、豊中の選抜されると否とは、公憤を感じるほどの関心事なのである。老成したもののいひ方や、時には考へ方をする私であっても、やっぱり青年らしい憤りを感じ得るのだから、まだ捨てたものではないと思ふ。
 選抜から洩れたらしいと信ぜられている豊中も、主催者に対する各方面の非難と示威運動によって、愈々選抜されることになったらしい。この問題は豊中の選抜を主張する所以のまことに堂々たるものだけに、そしてスポーツを愛好するものの持つ正義感を如実に反映するものだけに、それに公憤を感ずることは、いささかも恥づべきでなく、むしろ青年らしい誇りを感ずべきである。
 しかし、豊中が選抜と内定に至るまでの経過と事情は、豊中ファンをして不快ならしめるものが多かったのは事実だ。由来、選抜大会にはさうした不愉快なる事情が伏在し勝ちのものであって、コーチの関係や、グラウンド所有会社の打算関係や、更にまた主催者側の営業政策等によって、正しい結論に到達するまでには幾多のゆがめられる紆余曲折を経るのが常である。
 今回の場合においても、豊中は選抜に内定したものの、他の諸校においてはいまもなほさらした不愉快なる事情に左右されたいるのであって、大会を一週間後に控へている今日に至るも、選抜校の決定発表を見ない内部的事情は、スポーツに関心をもつものの顰蹙に絶へないところである。さあれ、豊中の選抜の有無によって公憤を感じ得る私は、その若さをいみじく思ふ。

 ・小姑根性に非ず母校愛の発露(昭和八年十一月二十八日)

 豊橋中学野球部の先輩団が母校野球部改革のため奮起するといふニュースは、豊中野球部今秋来の事情と経緯を知る者にとっては当然過ぎるほどの当然事であって、むしろその遅きを嘆ぜしめるほどだ。にも拘らずそれを目して小姑根性といふものがある。その愚や遂に救ふべからずといひたい。私は不幸にして学生生活の経験を有っていない。従って母校とその先輩をつなぐものが何であるかを詳しく知ることが出来ない。しかし私の乏しい常識をもってすれば次の如くいひ得ると思ふ。学業を卒へ社会人として活躍している人々は必ずや屡々若かりし日の学生生活を顧みて、懐しい思ひ出にふけることがある筈だ。しかもその間、母校との間を有機的に繋ぐものがあったならば、その心理的作用は、より強く働くに違ひない。先輩が後進に対する思ひやりはまた格別である。学閥の厳たる存在は明らかにそれを物語っている。先輩のその思ひやりに対して、後輩の追慕があるのは、これまた当然である。
 母校を連絡体とする先輩、後輩の関係は大体論として、その説明をもって足りる。更にその間、母校の代表選手生活を営んだ経験を有するものは、よりその関係の強いのが常である。柔剣道はもとより、庭球、蹴球、野球、陸上競技等々すべてそれである。ところが野球部に至っては特にその関係が深い。これは野球部の組織が最上級生から最下級生までを縦に貫いて学校を代表する選手だからだ。他の部において母校を代表するものは上級生に限られている。
 野球部のみは五年の選手もあれば二年の選手もあるといふ具合で、それらは合宿練習やその他の機会において堅く結ばれる。従ってその気持が永続性を持つのは当然である。先輩、後輩の緊密なること野球部に比すべきものはなく、これはまた野球部を有する各学校における共通の事実だ。先輩の援助なき野球部のふるったためしはない。豊中野球部の場合、先輩がその改革に就いて考えることは決して小姑根性ではなくして却って強い母校愛の発露である。私はその心情を美しいと思ふ。

 ・榊原武司君の愛商入り(昭和十年四月二十五日)

 豊中野球部の生んだ近来の名手として定評ある榊原武司君は、長らく田原中部の職員として、埋れながらも地方球界のため貢献するところが多かった事実は、何人といへども見逃すものではない。その榊原君は、今回、愛知商業職員として招かれ、その野球部を監督することになって二十日、赴任した。埋れている偉材が世に出たのであって、今回のことは、榊原君自身のためにも、東海地方球界のためにも、大いに喜んで然るべきだ。
 愛商野球部の存在は、いふまでもなく全国的であり、全国制覇の可能性を多分にもつことは自他ともに許すところであって、榊原君が招かれて、その指導の任にあたることになったのは、一つに榊原君が、豊中、国学院を通じての野球選手生活において、その技量が優秀であったためのみでなく、その職員としての資格、人格等が、正しく評価され、かつ深く認識された結果にほかならない。この意味において、私は榊原君今回の登用を当然の結果なりと観る。
 ここにおいて考へられるのは、榊原君の母校豊中なり、豊橋商業のごとき、豊橋地方における中等学校当局の態度だ。自他ともに許す天下の愛商が、迎へてもって厚く遇しやうといふ偉材榊原君が、長らく田原中部に埋れてをりながら、それを自ら迎へて世に出さうとするところなく、あたら愛商に献じてしまった心組である。しかも今日、榊原君が愛商に迎へられたのを目して悔なしといふのであっては、その認識の欠如に対して、私は一とほりならざる腹立たしさを感ずる。
 それも、豊中なり、豊商なりに野球部がないといふのではない。いづれも野球部をもち、その向上進出を企画してをりながら、榊原君の埋れている存在を長らく棄てて顧みなかった心持ちが判らない。学校人事については、いろいろの情実もあらう。しかし、天下の愛商が求めて迎へるごとき人材を、それを地元に擁しながら、一顧も与へなかった両校の態度に私は大きな不満を感ずる。いま、榊原君が愛商に迎へられたのを機会に、両校当事者の一考を煩はす次第…。

 ・浦山君の訃音… (昭和十年七月二十四日)

 豊橋地方の野球ファンに親しまれていた、浦山栄一君(豊中32回・昭和6年卒)の訃に接して、いささか淋しい。浦山君の、野球生活は新川小学校を振り出しに、豊橋中学から豊橋市役所、全豊橋を経て再び学生野球生活に入り、横浜高工の学業半にして終ったのである。浦山君の野球生活のスタートから、その終りまでみていたわけである。中にも豊橋中学時代の浦山君が、目に見えるやうだ。二塁を守って、三塁を守って鉄桶の守りと健棒を謳はれたころの浦山君は、最も華々しかった。
 非力な浦山君が、主将としてプレートを守り、夏の東海大会で、準決勝で一中と戦い、得意の内角球に悉くボールを宣せられて惨敗した時の光景は、いまなほ私の眼前にある。それでも彼は、悪びれるところがなかった。中学を卒へ、豊橋市役所に入り、名遊撃手として活躍したのも、ほんの僅で横浜高工に入り、その前途を嘱目されていたのに、不幸に中途にして倒れたのは、月並な言葉だが、惜みてもなほ、あまりありといはねばならぬ。 それにしても、浦山君と時代を同じくして豊橋中学野球部で活躍した球児のうち、すでに鬼籍に入った者は、浦山君とともに四名を算へる。曰く四高で全国制覇をなし遂げた戸苅正治君、豊中卒業後東都実業界で鳴らした金子正二君、豊橋高等をコーチした間瀬繁信君が、それだ。いづれも多幸な前途を約束されながら、若くして逝いたのである。まことに気の毒であり、淋しくもあるわけだ。しかし、かくのごとく優秀な球児の早逝があったからとて、野球技が誤られてはならない。
 いま挙げた四君の病因が、野球のためと解するものがあったならば、それは誤りも甚だしい。世には早逝するものも相当多いのであるが、たまたま四君は球児として有名であったがゆえに、時にそうした誤解を四人に抱かせるかも知れない。しかし、さうした解釈を私は、とらない。ただ、四君が不幸だったのだ。由来、スポーツマンは、自己の体力を過信する傾きがある。少しくらいの病気は…といふのが、それだ。私はそのことが、いけないのだと思ふ。豊橋にも、スポーツ医事相談所があるのだ。自己の体力を過信することなく、それを利用して欲しい。

 ・野球戦に観る精神的作用(昭和十年十一月三日)

 久しぶりで、一日の午後を豊川球場で暮した。豊中対静岡中の野球戦見物である。この七月に試合をみたのみなので、この秋はじめての野球観戦だ。新チーム編成以来の豊中は、有望を伝へられていた豊橋商業にも勝ち、いはゆる波にのっていると伝へ聞いていたのであるが、この日の豊中は、それほどでもなかった。至宝高柳正一の投球バラエテーも、いま一段の気力とコントロールが欲しく、その守備陣は、タイムリーエラーを演じ、劈頭から苦境に自らを陥れてしまった。
 試合の結果は、八対七で豊中の惜敗に帰したが、その主なる原因は、劈頭の守備陣混乱にあるはいふまでもない。対成章戦の直後であって、ダブルヘッターのつかれもあらうし、試験終了後、わづか二日間の練習で、その試合を迎へねばならなかった豊中のコンデアイションは、この秋、最悪のものだったに違ひなし。しかし、この試合において豊中が、劈頭三点をリードされたのに屈せず、長打を酬ひて追ひつき、二回四点の大量許点にも気を落さず、ヂリヂリと迫って、つひに再び同点にこぎつけた迫力と粘りは頼もしい。
 こんな粘りと迫力は、最近の豊中には見出しかねたものだった。それがこの試合に示されたのだから私は、豊中新チームの前途に明るい希望をもつことが出来る。野球技術の向上は、もとより望ましいが、精神的作用にもとづくこの粘りと迫力ははるかに好ましい。今秋の早慶千に、世の多くの予測を裏切り、技術的に劣勢にある慶応が早稲田と引分け、そして二回戦には、それを敗地にまみれしめたのは、実にその精神的作用ににもとづく。 このことは、今度、大連市長になる前丸茂市長が、早慶戦後想として寄せられた最近の便りにも書かれている。この場合にいふ、精神的作用とは、腹であり、信念であり、闘志でもある。このことは、ひとり野球の場合にのみ適用するのでなく、人生のあらゆる場合に適用することが出来る。豊川の帰途、私は医者の三宅さんと、そのことを語りながら電車を同じふしたのであるが、精神的作用は、高く評価されて、然るべきものだ。

 ・豊中野球部の戦績偶感(昭和十一年一月五日)

 新春、劈頭の野球戦において、豊橋中学が中京商業に快勝(4:2)した。豊中の野球史上において中京に勝ったのは、おそらく今回がはじめてである。中京商業が、はじめて野球部を設けたころから、豊橋中学は幾度か戦ったのであるが、いまだかって中京を軍門に降したことはなかったのだ。中京は三年連覇の後をうけて、その実力の低下していることは事実であらう。しかし、愛商、東邦、享栄とならぶ愛知のビッグフォアーなることは間違ひない。この一勝は、豊中の前途を祝福するものといへる。 地方人として地元チームの強大を望むのは、すべてのファンに共通したものであるが、中学チームに多くを望むのは無理だと思ふ。不世出の大投手でも現れた場合はともかく、多くの場合、中学チームの選手は、その学業に追われ勝ちである。したがって、実業学校チームの宣伝的意味をもつものと同じやうに、その野球部を取扱ってはならぬ。私の中学チームに望むものは、純真にして、しかも果敢のプレーと、満腹の闘志だ。勝つことはもっとも望ましいが、それがすべてではない。
 勝つことより、敗けることにおいて輝かしい戦績を残す場合のあることを知らねばならぬ。由来、豊中は、善戦チームと称せられている。善戦チームで結構である。いたづらにその強大を望むことは、豊中野球部を逆に衰運に誘ふものであることに気付いて貰ひたい。ただ問題は、豊中野球部のファンたるものは、豊中に多くを望んではならないということだ。実業学校チームの強大に眩惑されて、豊中に同列のことを望んではならないといふのだ。
 新春劈頭、対中京商業との一千に歴史的快勝を博した豊中の善戦健闘を祝福することに止めたい。豊中チームが素晴らしく傑出した時代は訪れずとも、常にその実力が一定の水準にあり、時に強大を誇る実業チームに一ト泡吹かし得る闘志と純真サをもっていることに、お互は満足すべきではなかろうか。したがって、豊中が中京に快勝した翌日、享栄に敗れた(8:2)からとて、それをかれこれいふべきでない。

 ・榊原武司君の話(昭和十一年六月十六日)

 最近名古屋へ行った或る野球関係者が、しみじみ私に話したところだが、愛知商業野球部に監督榊原武司君の評判が、素晴らしくいいさうだ。榊原君は豊橋中学の生んだだ近来出色の野球人たることは誰も異論があるまい。そして、その榊原君は天才児といふより、むしろ努力家であったことも周知の通りである。榊原君が、先年愛商野球部へ迎へられた時、私は、豊橋地方中等学校の無関心を指摘したことがある。
 しかし、それはとに角として、榊原君が愛商野球部監督として、素晴らしく評判のいいことは、私にとっても、他人事でなく嬉しい。なんでも愛商が春の甲子園大会に優勝して帰った時、榊原君の下宿には、無名の人からおくられた菰冠りが三本も持ち込まれていて、温厚で真面目な榊原君は、その処置に困ったあげく、愛商職員団に、なんとかして貰ったといふエピソードも聞かされている。微笑ましい話の一つといはねばなるまい。
 全く、榊原君は、愛商の守り神のやうに持てはやされているらしい。後援会によく、職員団はまたその教育家的言動に敬意を払っているといふ。榊原君の人柄を知る者にとっては大して不思議ではないが、それにしても、嬉しい話だ。榊原君が愛商に赴任した当時、愛商は高橋を擁して全盛を伝へられていたので、榊原君の立場は可なり苦しいものがあらうと心配していたのだが、その年、全国制覇は遂に逸し去ってしまった。
 しかし、榊原君が赴任して一ケ年、高橋は失ったけれど、榊原君が、チームを自分のものとして、訓練した最初の大会において、多数の小姑を心服させて、自らベンチコーチの重責を負ひ、幾度か苦戦の断崖に立ちつつも、よく全国制覇をなし遂げたところに、榊原君が祝福されてもいい多くの理由がある。今夏も愛商は、全国の標的である。打倒愛商の渦巻く裡、選手のコンディションに変化多き盛夏、愛商を率ひて全国制覇に乗出す榊原君の苦心は察するに余りある。

 ・スポーツ四題(昭和十一年七月二十九日)

 夏の中等野球で、東三の豊中、豊商、成章の三校は大一回戦で惜しくも敗退してしまった。優勝候補の随一であった愛商も東邦のためその希望をつまみとられてしまった。その夜私は若松園で、愛商の監督榊原武司君に会った。 何と慰めていいのか、榊原君の心中を推し測る時、その顔を正視するに忍びない気持で一ぱいだった。村井が肩を痛め病身の水野は球威はなく、全く最悪の条件におかれたその日の愛商は、流石の榊原君をもってしても、どうすることも出来なかったらしい。
 豊橋軟式野球倶楽部が東海予選で優勝した。八月下旬、神戸市で開かれた全国大会への出場権を獲得したのである。久し振りの大会出場だ、先年玉糸クラブが出場した時私は行を共にして、その全国大会なるものを観て来たのだが、豊橋軟式の今年位充実した顔触れをもってすれば、全国制覇の望みは多いと思ふ。豊橋市の名誉のためにも、大会へ出場する豊橋軟式野球クラブに、精神的にも、経済的にも十分指示してやって貰いたい。
 ベルリン・オリンピックに遠征中の清川正二君が、その練習会で示している記録は従来のそれをドンドン更新している。いわゆる清川君のカムバックだ。これで望みの少かった背泳に於ても、前回のロスアンゼルス大会と同じく優勝の望みが濃厚となって来た訳だ。無論水上軍の主将としての清川君、そして郷土豊橋の名誉を双肩にになふ清川君の優勝を期待する。豊橋市からも激励電報位は是非打って欲しい。
 東三地方唯一のプールを有つ豊橋二中が、そのプールを小学児童に開放して、学童のために水泳講習会を開いたのは嬉しい。二中当局のこの心持は、必ずやこの地方水泳界にいい影響をもたらすものと思はれる。それにしても豊橋市が、かうした事実から何の感銘をも受けないとすれば、その鈍感は遂に救ひ難いものがありはしないか。折も折、岡崎の連尺校でもプールを建設した。豊橋市も市営プールを考へて貰ひたい。

 ・豊中野球部の大会不出場(昭和十二年二月二十一日)

 この三月中旬から鳴海球場で行はれる愛知県下中等学校野球大会に、豊橋中学は出場しないことになったといふ。これは、この地方球界にとってはまことに稀らしいできごとである。おそらく豊橋中学の野球部史はじまって以来の出来事であらう。そして、これがこの地方球界にとって悲しむべき現象であることにも、ファンの大部分は共鳴しているに相違ない。
 何ゆえ豊橋中学はこの大会に出場しないのであらうか。伝へられる理由は色々あるが、信ずべき理由の一つとして「昨秋以来の不成績にかんがみ、野球部の根本的樹て直しをなすため暫く隠忍する」といふのがある。事実、豊中野球部昨秋以来の戦績は、すこぶる芳しくない。そこにはいろいろな理由や、事情があらうとは思ふが、おそらく同校野球部史上稀にみる貧弱な戦績であったといっても差支があるまい。
 かくいえへばとて、私は決して勝負それ自体に拘泥するものではない。しかし、学校を代表する野球部が対外的に技を争ふ時、そこに学生らしい純真さと真剣味がないとするならば何のための対外競技ぞ、といひたくもならうではないか、豊中野球部最近の傾向は、少くとも私の観るところ遺憾ながらこの範疇に属するものとしか思へない。最近の同校野球部の状態は、決して学校の名誉を代表するものとは思へない。
 そうしたためでもあらうか、先輩間にいろいろの意見もあって、野球部改造案が議せられているさうだ。しかし、私は学校内部からそのことなく、却って先輩間にさうした議の起ってくることを快く思はない。時によってしみじみ学校を代表すべき野球部を指導するのは、学校当局の責任である。その責任の全からざればこそ、先輩間にさうした改造論が湧き出て来るのだ。学校当局は、それ自らの責任について深く反省しなければならない。

 ・小山常吉君の活躍(昭和十二年五月十八日)

 いまを盛りと球興をそそっている六大学リーグ戦に、豊橋中学の生んだ小山常吉君が立教の投手として出場している。さきに対明大戦の後半リリーフとして出場したが、十五日の対早大戦には主戦投手として完投し、しかも健棒早大を無得点に封じ去るといふ偉勲を樹てた。翌十六日は劣勢の後半にリリーフとして出場してその責任を果している。この二日間、ラジオの有難さをしみじみと感じたことだ。
 豊橋地方の生んだ選手で六大学に籍をおいたものは、あまり多くない。しかも、それらの選手のうち、リーグ戦に登場したものはさらに少い。ここ十数年間において小山君がたった一人だ、幸ひにして十五日の対早大戦を完投して一躍、立教のピッチングスタッフに重きを加へたのだから、郷党のファンはすこぶる愉快なのである。 小山君に続いて豊中で強打を誇っていた中野重之君も立教に入った。豊橋商業を牛耳っていた小川君は、早大に入って来るべき日のために精進を続けている。それらの選手がリーグ戦に登場してはなばなしい活躍ぶりを示してくれる日もそんなに遠くもあるまい。私はそれらの若い選手の将来に多大の期待をつないでいる。それにしても思ふのは、小山、中野君らを生んだ豊中野球部のあまりにも惨めな現状である。
 多数の先輩が、血と汗で築きあげた輝く歴史も、伝統も、この春を限りとして空しく泥土に委せられてしまった。豊中のそれはまったく正視するに忍びないものがある。輝く伝統に若き誇りを感じ、それを死守しようといふものが一人もいない。学校当局のやり方もさることだが、まったくザマはない。こんなことでは、校風の振作も何もあったものではない。

 ・野球漫談(昭和十三年四月十二日)

 桜の花の散り果てた十日の豊川グラウンドで、私は今年はじめての野球戦を見た。豊中と岡中、豊商と岡師の二試合の試合興味はとも角、岡中、岡師のA組勝残りの両校に対して、地元の豊中、豊商の新チームがどんな戦ひぶりを示すか、そしてその将来性はどうか、といふ点に多大の関心をもって、この二つの試合を見守ったのであったが、豊中の大敗はとも角として、豊商が岡師を敗退せしめたのはすこぶる愉快であった。
 豊中は伴吉衛監督が引退して以来、山崎隆春部長が陣頭に立ってチーム育成に努力しているのだが、新チーム編成早々のこととて、守備陣の劣弱から点差を深めた形だった。それに主戦投手の佐藤忠之が指をいためていたことも。このチームにとっては大きな穴だといへよう。しかし、先発した近藤投手の長身を利しての速球には十分の威力が感ぜられた。整球に立ち直る日、豊中近来の大投手たるの感だ。
 それに中堅小林甫の打力、三塁藤井八郎の好守等々、豊中の陣容は必ずしも悲観を要しない。一塁に小篠静夫の欠除したのは、いかなる理由のもとづくかは知らぬが、チームのバランスを失した結果となっている。豊中の大敗に比べて、強豪岡師を破った豊商は、力の上ではそれほど強いとは思はれない。ただ試合前日に先輩軍が結成されたといふ精神的影響を多分にかうむっているところに、この殊勲の原因があったと思ふ。
 もちろん、滝下の好投は特筆すべきだが、それにもまして岡師打者のカーブに弱いことが指摘されるべきだらう。豊商も最初のうちは勝つことを考へていなかったやうで、四回におとづれた、好機に乾坤一擲の山を張るべきを張らなんだなぞ、顧みて賞められた義理ではない。しかし、このチームも滝下オンリイからナインの水準が上って北らしいのは何よりである。私は、豊中であれ、豊商にせよ、そのいづれであってもいいから、強くなって欲しいと思ふ一人だ。

 ・両陣没勇士の追悼野球戦(昭和十三年八月十七日)

 今度の事変で名誉の戦死をとげた加藤新平軍曹は、かって豊橋商業野球部の一塁手だった。同じく上海上陸戦に散華した小林長軍曹は、豊橋中学の中堅手として、強打を謳はれたものだった。奇しくも豊中、豊商両野球部の二先輩が、今次事変の尊い犠牲となっている。
 そこで、豊中、豊商両野球部の先輩をもって組織する両倶楽部が、十四日午後三時から、豊商の校庭で両先輩の追悼野球試合を行った。試合は、しばしば襲ふ驟雨に妨げられながらも七回まで行はれ、九対一で豊中倶の大勝するところとなった。私はここで、その試合内容を俎上に載せやうといふのではない。学校における野球部の精神が、長く先輩と母校をつなぐものであることを考へたいのである。各中等学校には校友会の事業として、各種の運動部門が設けられている。しかるに、野球部ほど、現役と先輩が混然一体化しているのは稀である。
 これは理屈ではなく、厳然たる事実だ。それが何によってもたらされるか、詳しくはここに説く余裕をもたぬが、おそらく野球のもっとも必要とする必死のゲームを通じて獲得された団体訓練が、ここに実を結ぶにいたったのでないか。これは十四日の追悼試合においても、十分に看取し得たはずである。豊中といはず、商業といはずこの追悼試合出場のため、各地の職場に散在している多数の先輩が、グラウンドに集まっていたであらう。
 もちろん、古い先輩からこの春卒業したばかりの先輩までそこに集められたのである。そして、それらの先輩は交互に出馬して、試合そのものを楽しみ、その雰囲気を満喫したはずだ。かくのごとき光景は、他の運動部門にみることのできない野球部独特のものであっていい。日本化された学生野球のよさは、かうしたところにもある。弊のみをみて、その利を忘れるがごとき、教育者であれば、弊を除去する信念を欠くものとして軽蔑されていい。

 ・野球と歌舞伎(昭和十三年八月十三日)

 十一日の日曜日は、何も彼も中途半端だった。いろいろの用事が重なり合っていたので、豊川の中等野球も、豊商対岡師、豊中対成章の両試合を少しづつ観ただけである。夜に入って東雲座に寄ったが、これも、鈴ケ森と三人片輪を見ただけに過ぎない。それでも、久しぶりに見た中等野球であったり、何年かぶりに接した幸四郎一座のの東京大歌舞伎だけに、終日楽しむことができた。 野球といへば、豊商、豊中ともに、新しいチーム最初の試合なので、その布陣に、私は多分の関心をもっていたのである。岡師に空前の大敗を喫した豊商の新チームは、まったく脆弱の感そのものだった。滝下、原らを失なった豊商とすれば、技力ともに低下したのは止むを得ないが、頼みの綱の清水の進境なく、チーム自体が若いとあってはみれば止むを得ない。早大に入った小川の弟が、三塁を守って一番を打っているが可愛いい。
 豊中は成章に大勝を博した。三年計画のチームが、最後の年に入ったのである。したがって新チームといっても、わづかに二塁が変っただけで、今夏以来の顔触れである。佐藤忠之のピッチングは巧にはなったが、力に乏しい。しかし、チーム・バランスはとれてをり、監事のいい育ちをみせているのでこれからの一ケ年は、豊中にとって楽しめさうだ。藤井八郎以下佐藤忠之までの打撃もよく、特に近藤のバットは頼もしい。この近藤が投手盤に立ち得る日こそ、豊中の強さを倍加するのだが…。
 東雲の幸四郎は、相当な入りだった。西村氏の更生興業として、まづ芽出度い成績といへやう。幸四郎の長兵衛を期待していたのだが、どうもピンと来なかった。大喜利の三人片輪は、小太夫のいざりが心ゆくまで踊りぬいてくれたので、大喜利らしい朗かな気持で帰れた。この日の圧巻は連獅子だったさうだが、遺憾だったが、見落してしまった。

 ・慨嘆に堪へない(昭和十四年五月十九日)

 豊橋中学と豊橋商業には歴とした野球部があり、校友会費からそれぞれ年額一千円近くの予算を食っている。ところがこの両校野球部は何れも輝かしい伝統もあり、多数のよき先輩をも有しているのだが、この頃サッパリ振はず、殆ど有るか無きかの存在となり下ってしまった。 もともと今日の時勢は運動用具にも事欠くほどだから、物資節約といふ国策の線に添ふて意識的に衰退せしめているのか、とも思ふが、また必ずしもさうでない向きもある。校友会の運動部はいふまでもなく、夫々の学校を代表するの光栄を有し、しかも、対外的に母校の名誉を恥しめざる義務を併せ有つものである。
 そしてまた、校友会の運動部は教室内の教育にしてなほ企て及ばざる部門の教育に任ぜねばならぬ 従って運動部は単なる対外宣伝機関ではなく、部員の親睦機関でもなく、実に学校教育の重要なる一翼をなすものなのだ。だから、それがあるか、なきかの存在に堕しているが如きは当該学校の教育の貧困を露呈する以外の何者でもない。
 が、しかし、運動の種類によっては、物資節約の見地から廃棄しなければならぬ種類のものもあらう。野球部の如きが、それに該当するのだといふのであれば断乎廃止すべきである。若し、さうでないといふのならば、特に豊中の野球部の如き正視するに堪へざる醜態を除去すべきだ、既に教育の貧困あり、教育者に信念の欠如あり。慨嘆に堪へない。

 ・伝統を汚涜するもの(昭和十四年七月七日)

 豊商野球部の問題に触れて間もなく今度は豊橋中学野球部の問題を取り上げざるを得なくなった。即ち、聞くが如くであるならば豊中野球部は今夏の東海大会に出場すべきか、否かを決するため、学校当局と先輩団との間に意見の相違があるらしいといふ。学校側は不出場であり、先輩団は出場説なのだ。
 東海大会開始以来既に数十年の長きに亘り、連続出場しているものは愛知一中とわが豊橋中学の二校に過ぎない。その豊中が光輝ある伝統と歴史の頁をここに中断するか否かの分岐点が今回の大会なのだ。先輩団が前例にもない会合を催して学校当局に談判を持ち込むに至ったのはよくよくのことだ。
 今年は豊中野球部は三年計画の最後の年だ。その三年間を精進し来った五年生の一部選手が学校当局から停止させられたから、ここに不出場問題が起ったのである。過去三ケ年を野球部員たることを誇りとして精進し、行ふ慎んで来た選手が中学生生活最後の大会に出場できないとすれば、その選手等が如何なる途をたどるか考へるだに慄然たるものがある。
 学校当局はそれを敢てしやうとしている。教育の貧困もここに至ってまた極まれりといふべきではないか。しかも、それは教育の貧困を自ら裏書きするのみでなく、豊中野球部の光輝ある伝統と歴史を自ら汚涜するものでなくて一体何であるか。心ある先輩団が起って学校当局に反省を求めているのはけだし当然の帰結だ。僕もまた学校当局の反省を求める。



                             「時習館と甲子園」メニューへ

inserted by FC2 system