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 野口二郎

http://www.fanxfan.jp/bb/player/7.html による)

昭和13年(1938年)春にノーヒットノーランを含む全4試合完封という快挙で夏春連覇、中京商の第2期黄金時代を築いた名投手である。プロ入り後もシーズン30勝、40勝は当たり前、中日の西沢投手と延長28回を投げ合ったり、投げるサイボーグとでもいうべき、とにかくタフな投手だった。

野口が喫した唯一の黒星

野口二郎の甲子園初登場は、2年生エースだった昭和12年(1937)春の選抜大会だった。初戦(2回戦)は慶応商工(東京)に4対0で完封勝ち、準々決勝も平安中(京都)に2対0で完封勝ち、準決勝は同じ愛知勢同士の対戦となった東邦商に4対1で勝利し、決勝進出を決めた。決勝の対戦相手は、のちにプロ野球で東京セネターズ〜翼〜大洋で野口と同じチームに所属した浪華商(大阪=浪商→現・大体大浪商)のエース村松長太郎である。試合は、序盤の2回と4回に浪華商に1点ずつ献上した野口がその後立ち直ったが、村松の好投の前に0対2で完封負け、準優勝に終わっている。この1敗が甲子園で野口が喫した唯一の黒星である。

昭和12年選抜大会・決勝 (中京)野口二郎 (浪華)村松長太郎
中京商 000 000 000=0
浪華商 010 100 00X=2

熊本工・川上哲治との優勝戦

同12年(1937)夏の選手権では、初戦の竜山中(朝鮮)に12対1で快勝、2回戦、白木義一郎(セネタース→東急)の慶応商工戦は投手戦となるが、延長11回サヨナラ、2対1で勝利、準々決勝は長野商を完封9対0、準決勝は海草中(和歌山)の嶋清一と投げ合い3対1で勝ち上がり、再び決勝へ進出する。決勝の相手は川上哲治(巨人)・吉原正喜(巨人)の黄金バッテリーで勝ち上がって来た熊本工。3対0でリードして迎えた最終回、熊本工の反撃を1点でくい止め、全国制覇を達成した。のちの夏の大会(昭和24年)での福島一雄(小倉北)が甲子園の土第一号とされているが、実は熊本工・川上哲治投手はこの中京商との決勝戦で敗退後、甲子園グランドの土を持ち帰っている。

昭和12年選手権大会・決勝 (熊本)川上哲治 (中京)野口二郎
熊本工 000 000 001=1
中京商 020 001 00X=3

嶋清一との因縁の対決夏春連覇

連覇を狙った翌13年(1938)春は、2回戦から登場し、まず初戦の防府商(山口)に5対0で完封勝ち。準々決勝はふたたび嶋清一の海草中と対決し4対0で完封勝利。この海草中戦で、野口は史上4人目となる(当時)ノーヒットノーランを達成した。

昭和13年選抜大会・準々決勝 (中京)野口二郎 (海草)嶋清一
中京商 120 010 000=4
海草中 000 000 000=0

さらに準決勝も安井亀一(のち南海→大洋→トンボ)の海南中(和歌山)を2対0で完封、そして決勝の相手は同じ愛知勢の東邦商、久野欣幸との息詰まる投手戦は7回に東邦商内野陣の3連続失策で決勝点を奪い1対0で勝ち、夏春連覇を成し遂げている。この大会で記録ラッシュの野口は、当時史上初となる4試合連続完封で、無失点のまま有終の美を飾っている。

昭和13年選抜大会・決勝 (東邦)久野欣幸 (中京)野口二郎
東邦商 000 000 000=0
中京商 000 000 10X=1



http://www.webmie.or.jp/~m-yama/ による)

 1919年1月6日、愛知県生まれ。投手。右投右打。セネタース(球団名:→翼→大洋→西鉄)→阪急。背番号18(セネタース→阪急)。中京商業時代には1937年夏の甲子園、1938年春のセンバツで優勝投手となる。法政大学に進んだもののプロ入りするため、大学を中退。セネタースへ入団した。
 1年目の1939年にいきなり33勝19敗、防御率2.04という新人離れした成績を残し、2年目には33勝11敗、防御率0.93という成績で最優秀防御率に輝いた。そのうえ、打者としても打率.260で規定打席に達して9位に入った。
 3年目には25勝12敗、防御率0.88で2年連続の最優秀防御率となった。
 1942年には40勝17敗、防御率1.19、264奪三振で最多勝と最多奪三振の2冠に輝いた。シーズン19完封という日本記録も達成している。
 1943年にもシーズン84試合制ながら25勝している。
 しかし、第二次世界大戦の激化により、全盛期だった野口の活躍の場は奪われることとなる。
 戦後の1946年にプロ野球が復活すると阪急に入団し、投手として13勝を挙げ、打者としても打率.298を残す。この年、打者として31試合連続安打という日本記録を樹立した。
 1947年には24勝17敗を記録している。
 1950年にも15勝を挙げたが、1952年、シーズン1勝に終わると現役を引退した。
 1989年、殿堂入り。

 テイクバックが小さく、軽く投げているように見えながら剛速球と正確なコントロールを持ち、並外れた体力で多くの記録を残した「鉄腕」投手である。シーズン30勝以上3回をはじめとする素晴らしい投手成績に隠れてはいるが、打者としても中軸として活躍した二刀流であった。

 通算成績(実働12年):237勝139敗、防御率1.96(歴代2位)、1395奪三振。65完封(歴代6位)。最多勝1回(1942)最優秀防御率2回(1940・1941)最多奪三振1回(1942)
 打率.248、9本塁打、830安打 

数々の伝説

 @記録ずくめの甲子園優勝投手

 野口は、1937年春のセンバツ大会で浪華商に0−2で敗れたが、雪辱を期して出場した夏の甲子園では熊本工業の川上哲治との投げ合いを制して3−1で優勝投手になった。
 その野口は、翌1938年の春のセンバツ大会ではさらに進化したピッチングを見せた。
 初戦の防府商業戦を5−0で完封すると、続く海草戦を4−0でノーヒットノーラン。その後、準決勝の和歌山海南戦を2−0で完封し、決勝の東邦商業戦も1−0で完封して全国制覇を果たしたのである。
 野口は、初戦から決勝までの合計36イニングを無失点に抑えて4試合連続完封。もちろん、大会新記録だった。

 A4兄弟全員がプロ野球選手

 野口二郎の兄で長男である野口明は、1936年に投手としてセネタースへ入団している。1937年秋のシーズンには15勝15敗という好成績で最多勝を獲得した。
 その後、野手に転向し、一塁手、捕手として通算1169安打を放った。1943年には42打点(シーズン試合数84)で打点王にも輝いている。
 次男の二郎の下にはもう2人弟がいて、全員で四人兄弟だった。三男の昇は1941年に阪神へ入団し、四男の渉は1944年に南海へ入団した。
 甲子園優勝投手の二郎が強さ・人気ともにいま一つだったセネタースに入ったのも、兄の明がセネタース入りを勧めたからだと言われている。
 兄弟が4人そろってプロ野球選手になったのは、おそらく他に例を見ないだろう。

 B打者として31試合連続安打

 野口は投手として超一流の成績を残したが、打者としても一流だった。
 登板しない日には野手として試合に出場していた。登板した試合でKOされても野手として出場し続けることも多かった。4番を任されることもあった。
 1940年には打率.260で9位に入った。この年は、投手としても33勝11敗の成績を残している。
 さらに1946年には3割目前の打率.298を残し、9位に入っている。この年、投手としての成績は13勝14敗である。
 まさに投打の要だった。
 そんな野口は、打者として日本記録も樹立している。打率.298を記録した1946年の8月29日から10月26日まで31試合連続安打を記録したのである。この間の成績は131打数48安打の打率.366。しかも、この連続試合記録は、野口自身はおろか、プロ野球関係者の誰もが当時は気づいておらず、3年後にパリーグ記録部がこの記録に気づいて日本記録であることが判明した、という逸話も残っている。
 野口の連続安打記録は、長い間破られず、1971年に長池徳二が32試合連続安打を放つまで25年にわたって日本記録だった。

 Cシーズン40勝、19完封

 1942年、野口は、19試合もの完封勝利を挙げて日本記録を樹立した。翌年、藤本英雄に並ばれたものの、現在でも日本記録として輝いている。
 この年は、野口がシーズン40勝を挙げた年でもあり、こちらはスタルヒン・稲尾和久の42勝に次いで歴代3位の記録として残っている。
 現代のローテーションではシーズン19勝をマークするのも至難の業。今後、この完封記録を破る投手が出てくることはないだろう。

 D鉄腕

 野口の1942年のシーズン投球回は、527回1/3である。これは、同年に林安夫が記録した541回1/3には及ばないものの、歴代2位の記録として残っている。
 この年の5月には延長28回を投げきるというとてつもない記録を作り、ついにはシーズン40勝も達成した。105試合中66試合に登板し、48試合に先発。チーム60勝のうち1人で40勝を稼いだのである。チームが2位となった原動力は、間違いなく野口だった。
 野口は、プロ1年目の1939年にもシーズン試合数96のうち69試合に登板している。現役を通じて50試合以上登板したシーズンが合計5回もあるのだ。
 野口は、監督が指名すればいつでも喜んでマウンドに立ったという。あまりのタフさに人々は、野口に「鉄腕」の異名を与えた。
 その後、「鉄腕」と呼ばれる投手は、数多く出現しているけれども、野口がその元祖だったのである。

 E延長28回を1人で投げきる

 1942年5月24日、野口は、名古屋戦に先発した。その日、後楽園球場では朝日×名古屋戦、巨人×大洋戦、大洋×名古屋戦の3試合が行われることになっていて、野口の先発する名古屋戦は最後を飾ることになっていた。
 試合開始は午後3時過ぎ。
 9回表までスムーズに進んだその試合は、大洋が9回表を終わった時点で4−2とリードしていて、野口は完投勝利目前だった。
 しかし、ここから試合は大きく動く。9回裏の名古屋の攻撃で、2死1塁から古川清蔵が起死回生の2ランホームランを放って一気に試合を4−4の振り出しに戻したのである。
 それが伝説の始まりだった。緊迫した投手戦が延々と続いていく。
 ただ、その日は、春季シーズン最後の日だった。当時は、シーズンが春季・秋季に分かれていたのだ。
 そのため、まだ外は明るかったものの、表彰式を行うために試合は延長28回で打ち切られた。4−4の同点のままである。もし打ち切られなければ、延長何回まで続いていたかは想像がつかない。
 また、野口は前日の朝日戦にも先発して9回を1安打完封していた。しかも、9回1死まではノーヒットに抑えていたのだという。だから、その夜、野口は、ノーヒットノーランできなかった腹いせに浴びるほど飲んだ。当然、翌日は二日酔いだった。そんな状態で28回を投げ抜いたのだ。信じがたい事実である。
 また、この試合は、意外なことに3時間47分という短時間で終わっている。両投手の投球リズムの良さ、無駄のなさを示していると言えよう。
 野口がその試合で投げた球数は344、被安打13、6四死球という堂々たる内容だった。
「勝負は、決着がつくまでやるべきだ」という軍部の指令で簡単には引き分けにできなかった軍国主義日本。でも、軍部の誰もがまさか延長28回までやって決着のつかない試合が出てくるなんて想像もしなかったにちがいない。
 この延長28回という記録は、大リーグ記録の延長26回を抜く世界記録となった。

 Fシーズン防御率0.88

 野口は、プロ3年目の1941年、25勝12敗という成績を残したが、それにも増して素晴らしかったのが0.88という防御率である。野口は、前年の1940年にも防御率0.93をマークしており、2年連続の防御率0点台だった。
 2年続けて防御率0点台を残した投手は、後にも先にも野口ただ1人である。(景浦将は1936年秋・1937年春に防御率0点台だが、半期ずつのため実質1年)

 Gシーズン13無四死球試合

 野口のコントロールは、針の穴を通すという表現が大げさでないほど、捕手の構えたところに確実に投げられたという。投球練習のときも、捕手が一度構えたところに寸分もずれることなく連続で10球ずつ投げ込むということをやっていたそうである。だから、野口が投げた球を受けるとき、捕手は構えたミットを全く動かす必要がなかった。
 現在では「1リーグ制なら野口、2リーグ制なら小山(正明)」と言われるほど、コントロールが良かった投手の代表と評価されている。もちろん、記録の方もそれに見合うものを残している。
 1948年、野口は、14勝16敗という成績だったが、無四死球試合13という日本記録を樹立した。これは、現在でも2位の高橋直樹に2試合差をつけて歴代1位の記録である。
 通算では57回もの無四死球試合を記録しており、小山正明に破られるまで日本記録だった。
 1950年には連続無四球54回1/3という記録を残している。
 また、野口の通算死球は、3446回1/3を投げてわずか18個であり、きわめて少ない部類に入っている。


http://www.inter.co.jp/Baseball/jp/player/register/great/01990303.html による)

年度 所属球団 登板 勝利 敗北 セーブ 投球回 奪三振 防御率
1939 東京セネタース 69 33 19 . 459 . 221 2.04
1940 57 33 11 . 387 . 273 0.93
1941 大洋 48 25 12 . 338 . 168 0.88
1942 大洋 66 40 17 . 527 0.1 264 1.19
1943 西鉄 51 25 12 . 385 . 140 1.45
1946 阪急 33 13 14 . 212 . 39 2.67
1947 阪急ブレーブス 56 24 17 . 382 . 86 2.26
1948 阪急ブレーブス 41 14 16 . 297 . 66 2.94
1949 阪急ブレーブス 30 10 6 . 166 0.1 55 3.56
1950 阪急ブレーブス 35 15 9 . 181 0.2 61 3.16
1951 阪急ブレーブス 19 4 5 . 75 0.1 14 4.74
1952 阪急ブレーブス 12 1 1 . 36 0.2 8 4.14
通 算 517 237 139 . 3447 0.1 1395 1.96

(野口二郎氏は2007年・平成19年5月21日、87歳で永眠)


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