数々の伝説
@記録ずくめの甲子園優勝投手
野口は、1937年春のセンバツ大会で浪華商に0−2で敗れたが、雪辱を期して出場した夏の甲子園では熊本工業の川上哲治との投げ合いを制して3−1で優勝投手になった。
その野口は、翌1938年の春のセンバツ大会ではさらに進化したピッチングを見せた。
初戦の防府商業戦を5−0で完封すると、続く海草戦を4−0でノーヒットノーラン。その後、準決勝の和歌山海南戦を2−0で完封し、決勝の東邦商業戦も1−0で完封して全国制覇を果たしたのである。
野口は、初戦から決勝までの合計36イニングを無失点に抑えて4試合連続完封。もちろん、大会新記録だった。
A4兄弟全員がプロ野球選手
野口二郎の兄で長男である野口明は、1936年に投手としてセネタースへ入団している。1937年秋のシーズンには15勝15敗という好成績で最多勝を獲得した。
その後、野手に転向し、一塁手、捕手として通算1169安打を放った。1943年には42打点(シーズン試合数84)で打点王にも輝いている。
次男の二郎の下にはもう2人弟がいて、全員で四人兄弟だった。三男の昇は1941年に阪神へ入団し、四男の渉は1944年に南海へ入団した。
甲子園優勝投手の二郎が強さ・人気ともにいま一つだったセネタースに入ったのも、兄の明がセネタース入りを勧めたからだと言われている。
兄弟が4人そろってプロ野球選手になったのは、おそらく他に例を見ないだろう。
B打者として31試合連続安打
野口は投手として超一流の成績を残したが、打者としても一流だった。
登板しない日には野手として試合に出場していた。登板した試合でKOされても野手として出場し続けることも多かった。4番を任されることもあった。
1940年には打率.260で9位に入った。この年は、投手としても33勝11敗の成績を残している。
さらに1946年には3割目前の打率.298を残し、9位に入っている。この年、投手としての成績は13勝14敗である。
まさに投打の要だった。
そんな野口は、打者として日本記録も樹立している。打率.298を記録した1946年の8月29日から10月26日まで31試合連続安打を記録したのである。この間の成績は131打数48安打の打率.366。しかも、この連続試合記録は、野口自身はおろか、プロ野球関係者の誰もが当時は気づいておらず、3年後にパリーグ記録部がこの記録に気づいて日本記録であることが判明した、という逸話も残っている。
野口の連続安打記録は、長い間破られず、1971年に長池徳二が32試合連続安打を放つまで25年にわたって日本記録だった。
Cシーズン40勝、19完封
1942年、野口は、19試合もの完封勝利を挙げて日本記録を樹立した。翌年、藤本英雄に並ばれたものの、現在でも日本記録として輝いている。
この年は、野口がシーズン40勝を挙げた年でもあり、こちらはスタルヒン・稲尾和久の42勝に次いで歴代3位の記録として残っている。
現代のローテーションではシーズン19勝をマークするのも至難の業。今後、この完封記録を破る投手が出てくることはないだろう。
D鉄腕
野口の1942年のシーズン投球回は、527回1/3である。これは、同年に林安夫が記録した541回1/3には及ばないものの、歴代2位の記録として残っている。
この年の5月には延長28回を投げきるというとてつもない記録を作り、ついにはシーズン40勝も達成した。105試合中66試合に登板し、48試合に先発。チーム60勝のうち1人で40勝を稼いだのである。チームが2位となった原動力は、間違いなく野口だった。
野口は、プロ1年目の1939年にもシーズン試合数96のうち69試合に登板している。現役を通じて50試合以上登板したシーズンが合計5回もあるのだ。
野口は、監督が指名すればいつでも喜んでマウンドに立ったという。あまりのタフさに人々は、野口に「鉄腕」の異名を与えた。
その後、「鉄腕」と呼ばれる投手は、数多く出現しているけれども、野口がその元祖だったのである。
E延長28回を1人で投げきる
1942年5月24日、野口は、名古屋戦に先発した。その日、後楽園球場では朝日×名古屋戦、巨人×大洋戦、大洋×名古屋戦の3試合が行われることになっていて、野口の先発する名古屋戦は最後を飾ることになっていた。
試合開始は午後3時過ぎ。
9回表までスムーズに進んだその試合は、大洋が9回表を終わった時点で4−2とリードしていて、野口は完投勝利目前だった。
しかし、ここから試合は大きく動く。9回裏の名古屋の攻撃で、2死1塁から古川清蔵が起死回生の2ランホームランを放って一気に試合を4−4の振り出しに戻したのである。
それが伝説の始まりだった。緊迫した投手戦が延々と続いていく。
ただ、その日は、春季シーズン最後の日だった。当時は、シーズンが春季・秋季に分かれていたのだ。
そのため、まだ外は明るかったものの、表彰式を行うために試合は延長28回で打ち切られた。4−4の同点のままである。もし打ち切られなければ、延長何回まで続いていたかは想像がつかない。
また、野口は前日の朝日戦にも先発して9回を1安打完封していた。しかも、9回1死まではノーヒットに抑えていたのだという。だから、その夜、野口は、ノーヒットノーランできなかった腹いせに浴びるほど飲んだ。当然、翌日は二日酔いだった。そんな状態で28回を投げ抜いたのだ。信じがたい事実である。
また、この試合は、意外なことに3時間47分という短時間で終わっている。両投手の投球リズムの良さ、無駄のなさを示していると言えよう。
野口がその試合で投げた球数は344、被安打13、6四死球という堂々たる内容だった。
「勝負は、決着がつくまでやるべきだ」という軍部の指令で簡単には引き分けにできなかった軍国主義日本。でも、軍部の誰もがまさか延長28回までやって決着のつかない試合が出てくるなんて想像もしなかったにちがいない。
この延長28回という記録は、大リーグ記録の延長26回を抜く世界記録となった。
Fシーズン防御率0.88
野口は、プロ3年目の1941年、25勝12敗という成績を残したが、それにも増して素晴らしかったのが0.88という防御率である。野口は、前年の1940年にも防御率0.93をマークしており、2年連続の防御率0点台だった。
2年続けて防御率0点台を残した投手は、後にも先にも野口ただ1人である。(景浦将は1936年秋・1937年春に防御率0点台だが、半期ずつのため実質1年)
Gシーズン13無四死球試合
野口のコントロールは、針の穴を通すという表現が大げさでないほど、捕手の構えたところに確実に投げられたという。投球練習のときも、捕手が一度構えたところに寸分もずれることなく連続で10球ずつ投げ込むということをやっていたそうである。だから、野口が投げた球を受けるとき、捕手は構えたミットを全く動かす必要がなかった。
現在では「1リーグ制なら野口、2リーグ制なら小山(正明)」と言われるほど、コントロールが良かった投手の代表と評価されている。もちろん、記録の方もそれに見合うものを残している。
1948年、野口は、14勝16敗という成績だったが、無四死球試合13という日本記録を樹立した。これは、現在でも2位の高橋直樹に2試合差をつけて歴代1位の記録である。
通算では57回もの無四死球試合を記録しており、小山正明に破られるまで日本記録だった。
1950年には連続無四球54回1/3という記録を残している。
また、野口の通算死球は、3446回1/3を投げてわずか18個であり、きわめて少ない部類に入っている。
(http://www.inter.co.jp/Baseball/jp/player/register/great/01990303.html による)
年度 | 所属球団 | 登板 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 奪三振 | 防御率 | |
1939 | 東京セネタース | 69 | 33 | 19 | . | 459 | . | 221 | 2.04 |
1940 | 翼 | 57 | 33 | 11 | . | 387 | . | 273 | 0.93 |
1941 | 大洋 | 48 | 25 | 12 | . | 338 | . | 168 | 0.88 |
1942 | 大洋 | 66 | 40 | 17 | . | 527 | 0.1 | 264 | 1.19 |
1943 | 西鉄 | 51 | 25 | 12 | . | 385 | . | 140 | 1.45 |
1946 | 阪急 | 33 | 13 | 14 | . | 212 | . | 39 | 2.67 |
1947 | 阪急ブレーブス | 56 | 24 | 17 | . | 382 | . | 86 | 2.26 |
1948 | 阪急ブレーブス | 41 | 14 | 16 | . | 297 | . | 66 | 2.94 |
1949 | 阪急ブレーブス | 30 | 10 | 6 | . | 166 | 0.1 | 55 | 3.56 |
1950 | 阪急ブレーブス | 35 | 15 | 9 | . | 181 | 0.2 | 61 | 3.16 |
1951 | 阪急ブレーブス | 19 | 4 | 5 | . | 75 | 0.1 | 14 | 4.74 |
1952 | 阪急ブレーブス | 12 | 1 | 1 | . | 36 | 0.2 | 8 | 4.14 |
通 算 | 517 | 237 | 139 | . | 3447 | 0.1 | 1395 | 1.96 |