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                              甲子園の思い出(2)

表の左の項目は 「甲子園の思い出ー(1)」に掲載
 回顧 佐原吉美 時習5回 .  無償の財産 小柳津 正 時習7回
 甲子園への道 渡辺 修 時習5回  甲子園への道(回顧) 佐原博巳 時習7回
 渥美先生のメッセージ 大山敏晴 時習6回  ちょっといい話 菅沼光春 時習7回
 我がチーム会心の一戦 岡田 互 時習6回  随想 原田豊次 時習7回

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無償の財産

(時習7回)小柳津 正

 高校に入学でき野球部に入部してから、もうあれから二十八年、月日の経つのは早いものである。

 当時渥美政雄先生のもとに、渡辺修主将以下甲子園出場組の諸先輩方そうそうたるメンバーででした。当時の練習はものすごく、休日は十二月三十一日と元日の一月一日のみでしたが、野球が楽しくて楽しくてしょうがないという不思議な状態の中で練習に打ち込むことができたようだった。

 一年生が終わり二年生になる春、岡田亙主将のもと、くしくも二年連続申子園出場が可能になった。渥美政雄先生、諸先輩方のもとで前にも勝る猛練習が行われた。経過は皆様ご承知の通り、二回戦洲本高校(大会優勝校)に一対○で敗れた。

 我々の時、西崎若三君が主将になった。彼は後に立教大学に私と共に進み、大学時にも主将として神宮の森で大活躍した。

 高校時代の野球部生活、私の今日の生活の基盤といっても言い過ぎではなく、あの純粋でひたむきな爽やかさは人間の精神の原点としている。この原点を私の身体のすみずみまでたたき込み、鍛えられたものが、私の青春時代であり野球部であると信じている。

 あえて野球でなく野球部というのは、渥美先生の教えが技術的なことでなく、精神的に今もって継続しており、氷久に持続するものだと思っている。

 団体生活に基づいた精神的指導は個々の力を技量以上に発揮でき、個人的にますます強力な力を与えてくださった。

 野球部生活、渥美先生をはじめ諸先輩の方々から授けていただいた無償の財産であると信じて、事あるごとに野球部を思い出す。

 野球は大好きである。今日もなお軟式野球をやっている。死ぬまで続けるつもりだ。 

(昭和50年2月記)

                                     

甲子園への道(回顧)

(時習7回)佐原博巳

 昭和二十七年三月下旬の或る日(既に四十八年も前のことなのではっきりした日時は失念した)突然手紙が舞い込んだ。(自宅には当時電話もなかった)「甲子園に行っている先輩達の練習等の手伝いに行くからその打合せに、明日、ミカド運動具店二階の時習舘野球部後援会事務所へ釆て欲しい。」といったような内容のものだった。驚き、狐につままれたような気持と、どうしても自分のような者が選ばれたのだろうかと思う反面、どきどきし、嬉しい気分になった。

 翌日ミカド運動具店の二階へ父と一緒に行くと、既に三人が先に来ていた。大羽義人君、菅沼光春君、中西克哉君達であった。神妙な気持で打合せを聞いた。明日の夜行列車で甲子園へ行くから野球道具等を用意して豊橋駅へ集合するようにとのこと。不安はあったが嬉しくてたまらなかった。引率は古市良延先輩(故人)だった。

 翌日の夜行普通列車(当時はまだ蒸気機関車)で甲子園へ向かった。初めての長旅で興奮のあまり全然眠れなかったことを覚えている。

 朝早く甲子園の近くの旅館「甲翠莊」に着いた。朝食の時、先輩達に紹介された際、すごい緊張と今日からの期待で一杯だった。それから数日間、各練習場に於ける先輩達の練習の手伝いをした。打撃練習中の守備、球拾い、整備や後片付け等を張り切って行った。

 開会式当、スタンドから見学したが、初めて見る甲子園球場の偉容さに圧倒された。こんな素晴らしい所でプレーしてみたいと強く念願した。

 何故、我々四人が入学式も済んでいないのに甲子園に連れて行ってもらえたのか、ということは、当時の名監督であられた故渥美政雄先生の配慮であったということを後で知った。甲子園の雰囲気を実際に体感させ、我々の時習館野球部の全盛を築こうという先生のご高配であったとのこと。この経験がすぐに役立ち、連続出場の伏線になったのである。

 昭和二十七年秋の県大会(鳴海球場)の四強リーグ戦(中京商、東邦商、成章高、時習館)での思い出。

 新チーム結成後、我々一年生の前述四人のうち大羽君が体調面での理由で休部したが、菅沼君は捕手、中西君は一塁手、私は右翼手兼第二投手として、そしてもう一人全てに抜群のセンスを持った西崎若三君(後の立教大学四連覇当時の主将)と、一年生四人がレギュラーになった。

 夏休み中の東三リーグ戦は初めて全校十二校による総当たり戦であった。始めは苦戦したが試合を重ねるるごとに力が付き見事優勝した。県大会初戦の岡崎北高戦は大苦戦、最終回菅沼君の起死回生三塁打等でやっと勝った。私の思い出を綴る前に是非紹介しておきたい一撃であった。

 四強リーグに入って初戦の東邦商に勝ち、二戦目が同じ東三の優勝戦を争った強豪成章高との対戦である。いまだに私の脳裏に焼き付いている劇的なシーンがあった。2−1の緊迫した大熱戦、それも後半にはいっての場面である。成章の攻撃、一死二塁、左打者太田二塁手の放った右中間の右よりの大飛球、私は夢中で打球を追いかけた。完全に抜かれると思い、打球も見ずにめくら減法に背走した。ふとその時、中堅手西崎君の「よし、そこだ。」(と言ったと思う)の声が耳に入った。我に返って振り向いたとたん、球が目前に見えた。

 殆ど無意識のうちにグラブを差し出した。身体は重心を失ってよろめいた。球がグラブに入ったと同時に転倒した。球は直ちに内野へ返球され(球は西崎君に渡した)、二塁に送られゲッツーでチェンジとなったが、私は転倒した時に膝で鳩尾を強打したので激痛のため、しばらく起てなかった。しかし最大のピンチを脱したのである。終始押され気味だったゲームを2−1のまま逃げ込み勝ったのだ。あの打球が抜かれていれば同点となり勝敗はわからなかった。二戦目の中京商には2−0で敗れたので、果たして来年春の甲子園出場は成らなかったのではないか。(のちのち現在でも成章高の山本昌彦先輩にはこのことをよく口にされ、おまえのために甲子園に行けなかった、というようなことを言われる)

 ○中京商との選考争いから両校出場決定まで。

 前年秋の県大会優勝戦で時習館は中京商に2一0で敗れたが、共に出場した中部地区大会(現東海大会)の準決勝戦で、再び中京商と対戦、初回に三点を先制されたが、以後を大山敏晴投手が頑張り点を与えない。時習館は後半に小刻みに1点ずつ返し、八回についに4−3と逆転した。(優勝戦は浜松北高に1−5で敗れた。)

 愛知県高校野球連盟では推薦校として一位、二位をどちらにするか大揉めに揉めたそうである。(現在は県推薦校は順位を付けず三校を推薦することになっている)愛知県大会で優勝したのは中京商であるが、東海大会では時習館が勝った。年内にもう一度対戦して決着を付けるようにとの高野連の要望に渥美先生は頑として受付けなかった。当然最終の地区大会を重視すべきだと主張した。(現在は全て最終の東海地区大会の結果で殆ど決まる)県高野連は、やむを得ず両校一位として推鳶したそうである。

 翌二十八年二月十六日夕刻、グラウンドで練習中に毎日新聞社の車が時習舘に訪れた。熊谷三郎校長、金田誠一副校長、渥美政雄先生、磯貝茂治先生等がグラウンドに来られ、出場が決定したとの知らせを受け、皆で大喜びした。ちなみに中京商も、浜松北高も決定し、東海道筋で三校は稀であった。

 ○甲子園実戦の思い出 (全国十九校出場)

 初戦二回戦は、大阪の名門市岡高校。先輩大山敏晴投手の巧投で少ないチャンスを確実にものにした我が時習館が3−1で快勝。練習では甲子園の土は踏んでいたが実戦での甲子園の土は初めてである。四月とはいえ、暑さを感じる一日であった。地元大阪の名門校ということで満員に膨れ上っていた。しかも白いシャツ姿の観衆が多く、白球が見にくかった。私は極度に緊張していた。(俗に言う上がりに上っていた)右翼手、九番打者として出場。第一打席はまたたく間にツーストライクナッシング、コチコチに固くなって手も出ない、三振してもいいやという思いで一振りもせずボックスに立っていたら続いての4球とも全てボール、結局フォアボール。二、三打席も何じように立っていたら四球である。三打席連続出塁、チーム五個の四球のうち私一人で三個選んだことになる(実際は手が出なかった)。得点一、打点一まで付いた。四打席目は遊ゴロでアウト。帰省後家族から聞いたことだが、落ち着いた、選球眼のよい佐原選手とラジオでたびたび放送していたそうだ。緊張が勝利に貢献した皮肉な自分の初戦であった。

 第二戦は準々決勝戦になる。相手校は初戦で優時候補の一角であった同じ愛知県の中京商に2−0と完勝した初出場の地元兵庫県淡路島の洲本高校である(今大会優勝校)。0−0の緊迫した投手戦が続いた六回裏、洲本高の九番打者木戸内がセーフティバントを試み、まんまと成功、(この試合相手の唯一の安打)次打者が送りバント、大山投手が素早く捕って二塁に送球、しかしボールは二・遊撃手の頭上を通過、センターヘ、オールセーフ、次打者二番左の沖田選手(忘れもしない)の放った打球が右翼の私の頭上を襲った。(この日も白シャツ姿の観衆が多かった)一瞬スタートが遅れ、バックし捕えたが尻餅をついた。二塁走者は三塁へタッチアップ、悠々セーフ。一死一、三塁、次打者が初球をスクイズしてきた、成功。この1点が重くのしかかり、結局0−1で惜敗した。私の守備については毎日新聞やスポーツ新聞は好捕と評していたが、やはり目測誤りであった。

 選抜高等学校野球大会50年史(昭和53年発行)では「木戸内選手のセーフティバントこそ、洲本を優勝に導いたと言っても過言ではない」と評している。

 ○高校野球に携わって三十八年

 恩帥渥美先生に薦められて、先生の母校国学院大学で指導野球を学んで赴任したのが蒲郡高校であった。(昭和三十四年四月)以来、豊丘高、豊橋南高と三十八年間を高校野球に携わり、球児と共に汗水を流し活動し、指導してきた。私も監督として是非とも甲子園出場を果たすべく頭張ったが結局夢に終わってしまった。昭和五十一年の夏の大会では準々決勝戦で母校時習館と対戦し4−2で勝ち、準決勝戦に進んだが宿離中京高に7−8と九回に逆転され涙を呑んだのが最高の成績であった。

 その五十一年から私は県高校野球連盟の役員(監事-理事-常任理事)となり、二十一年間の長きにわたって高校野球の運営、発展に微力ながら関与させていただいた。物不足から裕福な時代へ。木製、竹製のバットから金属バットヘ。(木製はもったいなくて練習ではめったに使えなかった)ボールも皮が破れるまで何度も縫って使った。施設、設備も見違えるほどよくなった。豊橋市民球場を始め、各地に実に立派な野球場も建造され、素晴しい活動環境が整っている。またOB会や後援会、父母の会等の支援層も広範になり現在の球児達は恵まれすぎている。バットやボール、全ての用具類に至るまで粗末に扱いすぎているのではないか。精神面も弱くなり、根性、忍耐力、持続力がない。甘えている。すぐにやめたがる傾向にある。(全てとは言い難いが…)

 さて、東三河勢の沈滞が続いて久しい。我が母校時習館を中心として東三河勢の巻き返しを大いに期待したい。以前は名古屋の私学中心に有望な中学生が流れて行った現象が、最近では入試制度の変遷などによって徐々に地元指向に変わってきている。西三河勢の急進的な台頭や近年の甲子園出場回数等を見ても西から東へと風向きが変わりつつあるのも明らかである。東三河勢も四、五十年前の黄金時代を今一度取り戻してほしい。長年高校野球に携わってきた私の心からの願いである。

 ”頑張れ時習館野球部”そして東三河の球児達。私も終生高校野球を愛し、応援したい。

(平成12年3月記)

                                     

ちょっといい話

(時習7回)菅沼光春

 見よ濃緑の丘の上 照る日のもとに高鳴りて
 時習の旗のひらめくを これぞ我が胸 我が命

 五十年歌い続けられている故金田誠一先生作詞のこの歌は在校生のみならず、OBならばみんなが知っている時習館高校の校歌である。

 先生は教職の大半を、母校時習館で過ごされ、教頭を経て岡崎岩津高校の校長に栄転、定年退職したのち、岡崎女子短大の講師が先生の最終履歴となった。

 先生は小柄で、目がくりっとして、浅黒く、お洒が好きな方で鼻が酒焼けして赤く、一見謹謹厳実直で、いかめしい容貌ではあったが、非常に柔和な方であった。

 豊中時代からの渾名は「ちんころ」と呼ばれ、全くぴったりとした愛称であった。
 我々が在校していた時代には、何処にでも見受けられる好々爺然として、非常に物分かりの良い、親しみの持てる教頭先生であった。

 昭和二十八年(一九五三)第二十五回全国選抜大会に出場した際には、学校管理者として選手達と随行して一緒に甲翠荘旅館で寝起きされていたので殊更、野球部員は我が子のように可愛がっていただいた。

 当時は小学区制で、竹内和夫さん(時習6回)、私は越境入学しており、遅くまで練習した後、豊橋駅の構内で電車の待ち時間をしていると、所用を済ましたのだろうか先生とばったりお会いする事があった。すると決まって構内中央にあったトイレ入り口の僅かばかりの通路を隔てて、正面にあった店内がトイレ臭の著しい壷屋食堂に入って、私達二人に中華ソバを食べさせ、先生は熱憫をちびりちびり飲みながら、話しかけるでもなく、嬉しそうに、にこにこと笑みを浮かべながら空腹の二人が食べる様子を見ておられた。

 時計の針が二時五十分をやや過ぎたころであろうか、金田教頭は甲子園の場内が割れんばかり喚声を小きな体全身に受け止めることが耐えられず、球場の外へ飛び出した。

 三対一、大阪代表名門市岡高校が甲子園出場を久しぶりに果たして、最終回の攻撃でで時習館を二点差で追撃中の事である。

 白の帽子に黒い三本線が入った地元古豪への声援は、球場全体を揺るがす声援となって、守っている選手全身に渦になって叩き付けている。ことさら大山投手が一球投げる前から、遠雷に似て投球の時には「ご−う」と言う轟音が銀傘を跳ね返し球場全体を包み込む。

 先生はこの状況を目の当たりに見て、健気にも立ち向かっていく選手と、悲願にも似た甲子園での初勝利までの里程を祈る気持から居ても立ってもおられなく、球場から飛び出していた。

 三時五分あれはど激しかった喚声が静寂に変わった。球場のサイレンが先生の耳に入ってきた。白地に墨痕鮮やかな「時習」の校旗がスコアーボード上に翻っている情景は見る事は出来なかったが、場外にまで鳴り響く校歌が先生の耳に入った瞬間、球場周辺に多くの人達がいる事も忘れて、小さな体を振わせて号泣した。時まさに昭和二十八年(一九五三)四月二日午後三時五分、時習館甲子園初勝利の時であった。

 それは選手をはじめ、擬縮されたプレッシャから解き放された感慨と、飽くなき勝利を勝ち取った時の感激を先生自身も共有できた慟哭であっただろう。

 一見謹厳実直そうな人物がもう一人いた。監督の故渥美政雄先生である。

 宿舎で先輩の竹内基二郎さん(時習1回)と渥美先生の会話中、竹内さんは小柄な体に似せず声がでかい持ち主である。

 金田先生が竹内さんの背後にいる事などさらさら気付かず、竹内さんがでかい声で「ちんころさんがのん先生」とやらかした。渥美先生は金田先生と対面した位置にいるから、周章狼狛の極致に立たされ目を丸くひんむきながら、何とか竹内さんに知らそうと、人差し指で金田先生の方を指差していた。金田先生も大きな声で自分の事を話している事に気付き、二人の方にとことこ歩み寄ってきた。渥美先生の人差し指は、金田先生の顔をまともに差している状態になり、指のやりどこが無くなって、遂に指を下に曲げた後、たなごころを上にして、ぱっと掌を開いたから、竹内さんはきょとんとして、「先生何やっとるだん?」「ううう・・・」と渥美先生言葉に詰まってしまった出来事を目撃した私は、泪が止まらないほど笑えた。

 世の中に物不足が解消しだした時代出場選手のアンダーソックスは、紳士用柄付ソックスを使い、各自色はバラバラ、ベルトはナイロンベルト、細巾の紳士用革ベルトで、これも色はバラバラで全国大会に臨んだ。

 こうした時代背景をふまえて、選手が尊敬と畏怖していた渥美先生は、更に汁粉、三年の部活を終了した時点で、納会をしていただき、先生が住んでみえた官舎で、すきやきの食事会を家の方たちを交えて開いて下さった。食べ盛りの生徒達の食料だけでも大変な出費と材料確保だったろう。

 進学の際には東京に慣れていない私を連れて上京していただいたりもした。これらの事は全て自費でおやりになっていて、共に謹厳実直であった両先生の表面しか知らない人達に、全く人間らしい味と魅力をお持ちであった事を、私は是非紹介したかった。

(平成11午12月記)

                                     

随 想

(時習7回)原田豊次

 時習館野球部創部100周年祝賀会に出席して、応援歌を歌い、懐かしい恩師、先輩、同僚、後輩に会うことができて大変感激した。

 昭和二十八年夏の大会が終った頃渥美政雄先生が夜、私の家に来宅されて、夜なべしていた父母と私に、「肋膜の紘いがあるので野球を止めたらどうか」とお話があった。学校での胸部X線検査の結果が監督に知らされたものであった。父母は私の考えを聞いた。野球が大好きであり、一年半夢中に練習してきており、秋から新人戦が始まりこれからレギュラーになる時に何事かと思った。私ははっきりと続けたいと申し上げた。結局一カ月に一回の検査を受ける条件で許可をいただいた。あの時もし野球を止めていれば人生は変わっていたと思う。

 母はよく仕事で市役所に出向いた。私の試合があると豊橋球場に寄ってスタンドの片隅で見ていてくれた。父は昭和二十九年夏の大会準々決勝が鳴海球場で行われた時に応援にきたのが最初で最後であった。この大会四回戦まで順当に勝ち進み、宿敵中京商業(この大会全国制覇)との戦いであった。二回二死満塁となり、次打はショート越えの小ライナーであった。レフトの私はワンバウンドで処理してホームに返球したが、中京商に先制点を与えてしまった。ベンチの様子で感じていたが、家に返ってから、父からあのレフト前の打球は捕れたのではないかと応援団が言っていたと聞き愕然とした。一塁側スタンドは時習館の応援団で埋まっており、それも白一色で見にくかったためにスタートが遅れた感じはあったが、一瞬の注意力不足があったかもしれない。この最後の試合は完敗して夏の甲子園の夢は断たれたが、複雑な気持ちを残して今日まできている。両親は他界したが、息子が時習館野球部であることをいつも誇りに思っていてくれた。

 渥美先生のご指導のなかで、旧制滝川中学時代に別所毅彦選手が甲子園で左肘を骨折しても投げ続けた根性を教えられた。その別所毅彦さんが日本経済新聞の昭和六十一年十二月「私の履歴書」に登場した。渥美先生に精神野球を教えられたことが書かれていたので、一カ月分を製本してお送りした。先生から何人から戴いたと礼状があった。

 三年間の練習を通じて、野球の基本的な技術は教えていただいたが、確か細かいことの指導はなかったと思う。専ら厳しい練習の繰り返しと”選手である前に生徒であれ”が指導であった。先生の魅力に自然と心が惹き付けられていった。

 余談ではあるが、真夏の練習中に先生にいただいたアイスキャンデイの味、そして恒例になっていた夏の大会終了後の竹島行きで、先輩にご馳走になったカツ丼の味は忘れられない。

 時習館野球部、それは平凡な野球好きな者の集まり、しかし試合をすると勝つチームである。粘り、根性、チームワークで相手チームを圧倒してしまうものである。

 昭和二十七年秋の東海四県大会準決勝戦は中京商業と対戦になった。愛知県大会では二対○で完敗しており、当時の中山投手(二十九年夏の甲子園優勝、中日入団)の力から勝てる見込みはないと思っていた。激烈な死闘となり、一糸乱れぬチームワークにより見事四対三で逆転勝利をして甲子園出場を決定づけた。忘れ得ない感激した試合であった。

 甲子園出場がきまり、昭和二十八年二月豊橋球場での練習が始まった。「這ってでも出てこい」渥美監督の言葉通り猛烈な練習が終日続けられた。芳賀一郎選手(時習7回)の骨折など故障者が出るほどで、外野ノックも選手二人から三人に対し、ノッカーが二人で次々打たれ、球を捕るというより球を拾って戻るの繰り返しを長時間続けられた。ただ歯を食いしばって耐えた。

 甲子園から返ってから静岡商業高校との招待試合が豊橋球場で行われた。静岡商業は一年の松浦投手(後の夏の甲子園準優勝時の投手)を先発させ時習館を四対○で完封してしまった。試合終了後渥美先生は大変お怒りになり、球場を何周も何周も走らされた。そしてボールを高く上げ、これを眉間にあてたバットで受ける練習をさせられた。間違えば顔面にボールが当るのが不思議にバットに当った。捨て身で真剣に物事にあたれば成就できることを教えたものと思う。

 渥美精神野球の真髄であったと回顧するところである。まさに、「為せば成る」である。今日も座右の銘としている。

(平成12年5月記)

                                     




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