甲子園の思い出(1)
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回 顧
(時習5回)佐原吉美
卒業後二十一年経過した現在、ありし日を偲んで見るも、当時の状況を思い起すことはなかなか困難であるが、しかし、今、まぶたに浮かぶ数少ない事柄を思い出すまま記してみます。
まず忘れることの出来ないことは、全国の高校野球部員が目指す栄光の場、(全国高等学校野球甲子園大会)への出場である。これは一生忘れ得ぬ事であろう。確か昭和二十七年四月と記憶している。
成績:第一回戦は桐生工業と相対し、〇対一で惜敗したが、初出場ながら、後、実業団野球で活躍した島津投手を擁した桐生工業に互角に戦った事は賞賛された。
相手チームの一点は中盤(四回、五回、六回のいずれかの回)ツーアウト、セカンド、サードにランナーを置き、センター前へのタイムリーヒットによる得点で、この時のセンター
鈴木孝康よりのバックホームにて二点目の走者を刺したのはファインプレーであった。
この場合、惜しまれた場面が二ケ所ほどあったと記憶している。それは第一回の攻撃の折、ヒット(一番
岡田互)エラー、送りバンドでワンアウト二三塁、バッター四番
鈴木孝康サードフライ、五番
内藤治夫あわやセンターへ抜けるかと思われるヒット性の当り、不運にも二塁ベースに当り、二塁手捕球、一塁アウトとなり○点となったこと。又、後半ヒットで出塁した
大岩張二選手が二塁スチール、そして三塁スチールして失敗した場面、ツーアウト後ではあったが、打順がトップにもどるという時であっただけに惜しまれた。
以上の場面は今でも生々しく思い起されることである。
甲子園に出場(出発)する前に初の合宿を行った場所・・・豊橋球場、合宿所:豊城館(当時豊橋公園内に所在し、現在の角一旅館)合宿中は…外出禁止。
甲子園に出場を決めるべく秋の東海四県大会(於三重県松坂市、松坂市グラウンド)に愛知県代表として豊川高校とともに出場…愛知県大会優勝決定戦前(スケジュールの関係上) 第一回戦、三重県代表宇治山田商工?と対戦、圧勝。二回戦、静岡代表静岡高校、この時、
内藤治夫投手は肩を痛め奮闘むなしく敗戦…一、二回戦とも点差は開いていたとのみ記憶にありません。
東海四県大会終了後、愛知県大会優勝決定戦を鳴海球場で豊川高校と行い、優勝する。この優勝で甲子園への出場を決定づけた。部創立以来初の愛知県大会優勝ではなかったかと思う。
この時の記録は確か四対二であったと記憶している。二対二で迎えた七回か八回ワンアウト二塁、三塁において
大岩張二選手のスクイズバントにて二者ホームイン、四対二で優勝したと思う。しかしノーヒットにての二得点であったと思う。
前述したように、この優勝が高校野球選手終局の目的である甲子園出場という栄誉を勝ち得た要因であろう。勿論、先輩諸氏、そして関係諸氏の並々ならぬご指導、ご鞭鍵の賜と感謝している次第です。
甲子園出場(春の選抜大会)のその年、夏の大会に於ては愛知県代表を決定すべく試合に次々勝ち進み、春夏連続出場という栄誉の前、優勝戦に於て愛知高校に一対二で惜敗、涙を呑むんだことは記憶も新しい。一対○と戦っていながら後半逆転され、最終回ツーアウトからランナーサードに送り、四番
鈴木孝康選手のレフトヘの大フライ、ファインプレーでキャッチされたことは今もってまぶたに浮かぶ。
愛知県高校野球のメッカであった鳴海球場がその後時代の趨勢とはいえ、廃止されたことは我々にとっては誠に寂しい限りである。
以上数少ない思い出しか記す事が出来なかったが、あしからず。
(昭和50年10月記)
甲子園への道
(時習5回)渡辺 修
毎年春の甲子園、全国高校野球選抜大会が始まると、四十八年前の春の甲子園出場を思い出し胸が高鳴るのである。
「時習」と染め抜かれた校旗を掲げ持ち、約五万人の大観衆が見守る中をナインと共に入場行進したシーンが頭に浮かび、いつでもジーンと胸が痛くなる程の感動を覚える。
当時の春の大会の出場校は全国で十八校のみであった。わが時習館は東海代表として、静岡商業と二校、長野北陸から松商学固で中部地方から出場したのはたった三校だけであった。
時習館は一回戦桐生工業と対戦する。
内藤治夫投手は絶好調でほとんど打たせず好投するが、相手桐生工の島津投手も好投し、こちらも打ち崩せず、息詰まる様な投手戦で試合はあれよあれよと思う間もなく終盤を迎え、たった一度のチャンスをものにした桐生工に一対○で初戦敗退した。自分も主将でライト三番打者として出場したが、ヒット一本も打てず、大いに責仕を感じた。チームも地方大会では平然と試合に臨んでいたのに、憧れの甲子園では雰囲気に呑まれて地に足がつかず、実力の半分も出せずに終ってしまったのが悔まれた。
しかし、この甲子園への道のりが、後の人生の色々な意味でプラスであった事は言うまでもない。自分が野球少年の頃から夢見た甲子園に出場できた幸運にも感謝している。
私がはっきりと申子園を目指すことを決心したのは中学三年生の時だった。
豊橋中部中学校のエースとして県大会に出場し、強豪を次々と倒して決勝に進んだ。下馬評では中部中学校絶対有利の中で一対○で破れ優勝を逃がしてしまった。その後一週間ぐらいは悔しさの為夜眠れずひそかに泣いた。
家族から励まされてやっと気持が立直った時、時習館へ入学して野球部に入り、必ず県大会に優勝して甲子園へ出場するぞと心に決めた。時習館には
渥美政雄先生という名監督がいる事も知っていたし、必ず希望がかなえられると堅く信じてた。
入学(昭和25年4月)後、間もなく春の東三河リーグ戦にチャンスが巡って来た。豊川高校戦に初登板して四対○とシャットアウトで勝ってしまった。それからが大変である。中学時代は軟式ボールだった為、入学直後で硬式ボールがまだ手になじまぬ時期に投手の一員として期待された結果、朝の特訓が始まった。
毎朝三年生の
田嶋義雄先輩(時習3回)が待ち構えていて、授業が始まるまでの約一時間ブルペンに立ち一五〇球から二〇〇球の投球練習をさせられた。授業後の練習はみんなと同じ様にするのだから一年生の自分には、体力的にも精神的にもかなりハードだった。しかしそのお陰で硬球ボールの感触にも早く慣れて、その後の試合にもよい結果が出る様になったと思っている。
翌五月は春の県大会に出場し、強豪享栄商業と対戦する。相手投手はのちにプロ野球で四〇〇勝の偉業を達成したした
金田正一投手。勿論彼は三年生だったが、今風に表現すると150キロ以上のスピードボールを投げる超高校級の豪速球の持ち主だった。八回までその金田投手と投げ合い二対二と互角に戦った。九回に私が疲れて降板し、最後には四対二で敗けてしまった。翌日の新聞評で、一年生らしからぬプレート度胸と高い評価とほめ言葉をいただき、得意でもあり嬉しかった。
この時期に強豪チーム相手に互角に戦った経験が自信につながり、上級生になればもっと力がついて上と戦えると言う確信を持った。その後二年の秋まで数多くの試合に登板し、ナインと共に数々の思い出深いゲームを経験したが多過ぎてここではスペースがないので割愛する。
二年生の秋の大会の頃から肘痛をおぼえ、続いて肩痛を感じていたが、春甲子園に続くこの大会を休めるはずもなく、国立病院で治療を受けながら投げ続けなければならず、その時が一番つらかった。大会が始まる少し前に幸いにも
内藤治夫投手が松本から転校して来た。彼は凄い速球の持主だったが、それまで実戦経験が余りなく少々心配だった。
秋の県大会は、優勝戦へと勝ち残った。相手は後に中日に入り巨人キラーと異名をとった怪腕伊奈投手を擁する豊川高校だった。私は当日肩痛で投げられずライトの守備についていたのだが、一回無死満望のピンチを迎えて渥美先生は、私にこの場面でのリリーフを命じた。無死満窒のこのピンチを○点に抑えて最後まで役げて四対二で勝った
。
肩痛の私の球の威力など大した事もなかったはずなのに余り打たれずに済んだのは、私が一年生の初登板以来豊川高校の選手は私に対して苦手意識を持っていた。渥美先生の采配は、その辺りの読みの深さと言うべきか。
県大会優勝! ついに優勝できたんだと、肩の痛みを忘れ喜びを爆発させた。そして東海大会へと駒を進め、わが時習館は静岡商業と共に東海代表となり、悲願の甲子園への道は開かれたのだった。
母校にとってまさに三十六四年振りの快挙だったのだ。冒頭に書いた入場行進の時、まるで雲の上を行く様な夢心地だったのをはっきりと思い出す。
なお、この東海大会は静岡商業がエース田所投手(後の国鉄スワローズ)が全試合を完封して優勝した。
あれからすでに半世紀近くが過ぎ、いつのまにか、六十五歳にもなっている自分に驚くが、ここに書き綴った幾多の思い出は今なお鮮明である。
最後に母校の後輩に言っておきたい事は、基本動作を確実に身につけること。特に投手は投球練習の時に、一球一球に魂を込めて狙ったところへ必ずコントロールした球を投げる。豊富な練習量に裏打ちされた自信を持って試合に臨むこと。一旦試合でプレートに立ったら、自分の球は絶対に打たれないと信じて投げる。
敗れた試合の後は敗因をしっかり分析し、同じ間違いを繰り返さぬこと。
自分は中学生の頃からこの信条を貫き、ほぼ成功している。
以上とりとめもない事ながら、少しでも後輩達の参考になればとの思いを託して書かせていただいた。
そして、再び母校が甲子園に立つ日が必ずある事を信じ、後輩達へ熱いエールを送って終わりとする。
(平成12年5月記)
渥美先生のメッセージ
(時習6回)大山敏晴
私が野球部に在籍し、
渥美政雄先生の指導を受けたのは、今から四十六〜四十八年も前の昭和二十六〜二十八年で、百年に亘る部史の中で、はぼ中間に位置する程遠い昔のことです。
もとより、当時の個々の事象を鮮明に記憶するものではありません。
それにもかかわらず、先生の指導を受けた人の多くが、先生を良い意味の畏敬の念を込め、敬愛し、追慕しているのは何でしょう。私の筆力ではとても説明できません。ただ言えるのは、その場に在って、先生の指導を受け、実践し、先生の人格に接した人が共有する何かがあってのことだと思います。
青年期にさしかかった、未だ固まっていない感性が、各自固有のアンテナでもって、先生から発信されたメッセージを受信し、理解、共鳴、体得した中に、変らない共通項があったからではないでしょうか。
多くのメッセージの一つに、マンツーマンご指導を受けるシートノックがあります。的確な技術に裏付けされたノックは、そのレベルの者が、全力を出し追い、飛びつかなければ捕球出来ないような絶妙な位置に配球され、それは少しずつ幅を広げ、前後に浅く、深く、終りのないレベルアップを促し続けられました。
それは容赦のない対決と言っても過言ではありません。
一人対十数人と言う対決のなかで、ノックバットを握る、指先を切った軍手が、赤く染まっていたことがあることも見ています。
打つこと、走ること、投げること、全て究極においては変りないメッセージを発信されていたと思いいます。
また先生は「選手である前に生徒であれ」とよく言われました。
抽象酌な表現ですが、渥美先生の野球は精神野球であるとも言われます。ただ精神野球と言う概念も人により異なるでしょう。広いとらえ方で言えば、そうだと思います。
それらのことどもから、指導を受けた私達が、言葉で、更にイメージを膨らませて表現すれば、多数の言葉で表現出来るでしょう。
その多数の言葉の中から各自が抽出した複数の言葉(言葉と言うより、意味付けしたもの)の中に先生が在り、そのことで、私達の心の内に先生が生き続けていると思います。
私も、来年には老人と言われる年齢です。と言うことは一生と言うことですが、他の言動の規範の大きな部分を占めるのが、あの頃、渥美先生から受けたメッセージです。
100周年の記念誌を出版すると言うことで、渥美先生を偲びながら、拙文を書きました。
(平成12年5月記)
我がチーム会心の一戦
(時習6回)岡田 亙
(毎日新聞評)伝統に築かれた双方の校風、試合運びの手ごわさはいずれも地味につきるものがあった。四回の時習館がそうであり、三番岡田互が四球を選び漸く市岡の球速が落ち、制球力に緩みをみせていた場合であったから徳増浅雄に強打させても成功していたろう。しかし徳増浅雄にバントさせて走者の進塁を行ったが、一本勝負であればこの策が常道であろう。かくて時習館の企図は達成された如く中尾は急にボールが多くなり、加うるに痛い二ゴロ失をはじめとして後続に一安打、一個の四球のほかスクイズを敢行されて時習館二点のリードとなった。
市岡とすれば第一投手の中西を温存しいつでもリレー策をとり得たであろうが、中尾の投球は低めに決まらなかったできばえから推察して中尾にたよりすぎた嫌いがあった。調子づいた時習館は市岡を圧迫しつつ七回菅沼光春は無死で四球に出塁する二度日の機会をのがさずバントと竹内和男の適時安打が功を奏し勝利を固めた。
一方市岡の攻撃は左利き大山敏晴の大きく落下するインドロに眩惑されて打つべき直球を見逃すなど大山の薬籠中のものとされるまずさであった。市岡は四回無死の走者を出した以外は好機らしいものがなく、三振十一個を喫する不振がつづき八回二死後に一点を回復、さらに走者の判断がよければその差を一点に縮め時習館を苦しめたであろう。時習館のそれに比べれば投手力に遜色があり、これが勝敗の分岐点となった。(井口新次郎)
昭和二十六年秋季県大会優勝、東海四県大会準決勝進出、二十七年春の選抜大会出場、春の県大会準決勝進出、夏の甲子園大会予選に準優勝(愛知高二対一時習館)という輝かしい成績を残した前年度チームから、二十七年八月我々が新チームを結成した時、レギュラーで残留したのは一番を打ったレフト
竹内和男と二番サードの小生(主将)の二名のみ。大変心細い思いをしたものだが、カミソリシュート
大山敏晴投手(左腕)、羽田中のベーブ
白井勉内野、強肩好守の
服部吉也内野、強打のポイントゲツター
徳増浅雄内野の二年生に加えて、久しぶりに我が校で得た強肩捕手
菅沼光春、強打、好守、好走、文字通り三拍子そろった
西崎若三外野(後に長嶋、杉浦等立教黄金時代の外野)、豊城中出身
中西克哉内野、リリーフ兼
佐原博巳外野というメンバーを眺めた時、一人ひとりが大きな欠点を大きな長所を持ち合わせた面白いチームと云った感じで、うまく長所がかみ合った時、素晴らしい力を発揮するのではないかと云う自己への期待を少なからず持ったものだ。
この見方は当時
渥美政雄監督、
磯貝茂治部長は勿論、しきりにコーチに訪れた緒先輩等の我が新チームに対する期待とはいささか違ったものがあったように思う、何故なら当時我々に対する評価は極めて低く、又それを証拠づけるいくつかの事実があったからである。
その一つが九月初旬、東三大会一次リーグの三試合目ぐらいに対戦した対田口高との試合である。これまで数年、一〇点以上の差をつけてコールド勝が常識であったこのチームに、我々は大いに苦戦を強いられたのである。丁度モチにとりつかれたように、もつれにもつれたこの試合、余裕を見せてリリーフ専門の
佐原博巳投手を先発させたものの、九回裏まで五対四と一点の差、しかも二死満塁から相手の攻撃は五番村松君(豊田自工)、そこで
大山敏晴投手を投入したものの、一球を投じたところ左翼線に痛烈にはじかれ、一瞬目をつむったものである。幸い数一〇cmの所でファウルになり、その後二ストライク三ボールから三振に打ち取り、辛勝したものの、これでは間違っても甲子園出場など夢のまた夢と云った感情を抱いたのも無理からぬものと思う。
しかし、その後当時破竹の勢いにあった成章高、豊橋東高にも快勝し、秋の県大会優勝(中京商と同率一位)、東海四県大会準優勝、春の選抜大会二年連続出場、春の県大会優勝、東海四県大会準優勝。期待された夏の甲子同大会予選は春の甲子園大会で最優秀投手に選ばれた大山投手の大会一ケ月前のフォーム大改造と云う暴挙(?)による不調で、準々決勝で敗退(岡崎工五対三時習館)した。とは云うものの、渥美先生をはじめ諸先輩の適切な指導により前年度チームに勝るとも劣らぬ成績を収め得たのは、大山投手の存在もさる事ながら、竹内、白井、徳増、小生と云った、とりわけ反抗心に強い選手の力がうまくまとまった幸運に負うところ大であったと思っている。
(昭和50年1月記)
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