校歌・応援歌
野球部応援歌「三州の野に」 (大正二年作)
明治から大正にかけて黄金時代を迎え、実力とみに向上し、目指すところは東海五県連合野球大会の優勝にあった。
当時の野球部長は満井信太郎であった。彼はそうした部員等の意図を汲んで、特に野球部応援歌を作り、士気の昂揚をはかった。
この応援歌は、昭和三十年代まで歌われ続けた。
野球部応援歌 満井信太郎作
一 三州の野に霊気あり 凝りて吾等が骨となりて
発して吾等が意気となる 健児六百いそしみて
文武を磨くそが中に 粋と呼ばるヽ野球団
二 打振るバット雲を呼び 走塁風を起すなる
敵勢いかに猛くとも 苦心十年先輩が
ふみ固めたる校庭を 其蹂躙に委ねんや
三 懸軍十里スパイクに 敵の堅塁蹴破れば
獰猛の野次影ひそめ 吾れを賛美の鯨波の声
あゝこの栄を想ふとき 吾等が胸のをどるかな
四 雲に入るてふ大飛球 砂を噛むなる熱球も
水もらさじと固めたる 健児の守備を破るべき
伏屍累たり一塁を かすめ吹く風腥さし
五 毒蛇とうねる大魔球 矢を射るごとき直球も
長棍カッと音すれば 敵鉄桶の守備乱れ
無人の境を行く如き 走塁盗塁ホームイン
六 東海五県十余校 功をきほふ快戦に
勇者の中の勇者よと 誉をあげし十年の
其光栄を想ふ時 健児が腕に力あり
曲は、満井の出身校第一高等学校野球部の明治三十六年に成立した応援歌「天地の正気」(山内冬彦作詞・作曲者不詳)の曲を借用したものであった。
歌詞の異同
第四中学校には校歌がなく、曲が平易だったので、この歌が特に愛唱された。この歌の歌詞は大正二年発行『校友会誌』第二十一号にはじめて発表されたのであったが、長い年月の間にはわずかながら誤り伝えられるようになった。
曲についてかつてはその譜面が明示されたことはなく、ただ口伝えに合唱したのみであったから、歌い方に幾分かの相違が生じたのも当然の成り行きであった。しかし歌詞や曲に多少の相違はあろうとも問題にせず、元気いっぱいに歌われてきた。
作詞者満井信太郎略歴
満井氏は明治十年(一八七七)六月千葉県安房郡布良村(現館山市)に生まれた。明治三十三年東京市立第一中学校を卒業後、直ちに第一高等学校に入り、さらに東京帝国大学文学部国文科に進み、明治三十九年優秀な成績で卒業、雑誌『帝国文学』主筆を経て明治四十一年(一九〇八)六月、第四中学校教諭として来任、国語・英語を教えるとともに校友会学芸部と野球部の部長をつとめた。 彼はすでに一高在学中の明治三十六年、第十三回記念祭寮歌を作詞しており、四中着任後も野球部応援歌のほか端艇(ボート)部応援歌も作詞、これも一高寮歌「アムール河」の曲を借りて生徒に歌わせた。彼の抜群の学識と指導力は、全校生徒に多大な影響を与えたが、在職十二年余の後大正十年(一九二一)九月に、旧制山口高等学校教授に転出した。
豊橋中学校校歌できる
校歌の制定 第四中学校時代から校歌がなく、豊橋中学校となってからも、なお十余年間は校歌はなく、野球部応援歌「三州の野に」が校歌に代って愛誦され、また合唱されていた。
昭和八年になって待望の校歌ができた。すでに本校創立後間もない明治三十年の頃尋常中学時習館校歌が制定されていたが、今は全くこれを知る者はなく、ここに新しく豊橋中学校校歌が制定され、学校も、生徒にとっても、この上もない歓びであった。
校 歌 葛原しげる作詞
弘田龍太郎作曲
一 東海 旭は照る
大和島根
参州の野は 歓喜に
満ちて
自学の鐘の高鳴れば
向上の歌 朗らかに
希望の嶺は峻しくも
友よ きはめで おくべしや
楽し! 楽し!
豊橋中学健男児!
我等! 我等!
二 黒潮とどろく
太平洋上
逆巻く涛も 勇みて
越えむ
至誠の風に帆をはれば
剛健の船 ましぐらに
理想の岸に遙けくも
友よ 渡らで おくべしや
楽し! 楽し!
豊橋中学健男児!
我等! 我等!
三 歴史は古き
母校の栄誉
祖国の光輝 新たに
増すと
時習の旗のひらめけば
溌剌の意気天を衝き
永劫若き眉昂る
友よ 奮はで おくべしや
楽し! 楽し!
豊橋中学健男児!
我等! 我等!
校歌「わが時習館」 昭和二十五年九月制定
金田誠一作詞 川崎容子作曲
(一) 見よ、濃緑の丘の上
照る日のもとに高鳴りて
時習の旗のひらめくを
これぞわが胸、わがいのち
波風あらき世を生きて
樹てし文化に誇あり
ああ ああ 母校
わが時習館
(二) 聞け、若人の群の上
遥けき夢をたどりつ、
真理にすすむ足音を
これぞわが友、わがすがた
新なる代をひらかんと
築く歴史にはまれあり
ああ ああ 母校
わが時習館
(三) いざ、永劫の星のもと
まなびの城の園ひろく
自由の花の色まさん
これぞわが道、わがちかひ
世界に聖くかよはんと
結ぶ決意にちからあり
ああ ああ 母校
わが時習館
応援歌「若き力」
昭和二十五年九月。校歌「わが時習館」(作詞金田誠一、作曲川崎容子)が生まれたが、この頃は時習館スポーツ各部の全国的な活躍が目覚ましく、生徒の間に力強い応援歌を要求する声が高まった。そこで翌二十六年応援歌制定委員会が結成され、全校職員・生徒から歌詞を募集して選定したところ、教諭金田誠一の作「若き力」が当選した。作曲は時習館音楽担当教諭内藤貴美子の手によって完成した。
応援歌「若き力」 金田誠一作詞 内藤貴美子作曲
一 若き力 むすぶ 時習の丘。
アゝ 青春の 栄光こめて、
伝統の旗 つねに新し。
日ごろの腕を 日ごろの脚を、
たたかはさんかな 時は今ぞ。
往け わが選手 正々と、
その意気すでに 敵を呑む。
時習 時習 時習 時習
われら 時習館
二 高き凱歌 あげよ 大空の下。
アゝ 精鋭の 闘魂燃えて、
練熟の技 つねに逞し。
母校の栄えを 母校の明日を、
かがやかさんかな 時は今ぞ。
見よ わが選手 溌剌と、
その意気まさに 天を 衝く、
時習 時習 時習 時習
われら 時習館。
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