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 近藤貞雄

http://www.cbc-nagoya.co.jp/radio/kibun/2000asapon/hero/010528/index.htm による)

 かつて、与那嶺中日のもとでヘッドコーチと投手コーチを務め、「投手分業制」を確立、1974年、20年ぶりの優勝へと中日ドラゴンズを導いた近藤貞雄。
1981年、中日監督に就任。「野武士野球」をスローガンにうち立てて、翌年リーグ優勝を成し遂げます。その後横浜大洋、日本ハムの監督を歴任し、1999年・平成11年、野球殿堂入りを果たしました。
1925年・大正14年10月2日、愛知県岡崎市生まれ。
岡崎高校の野球部で活躍し、当時の西鉄軍へ入団します。近藤がプロ入りした1943年・昭和18年は、第二次世界大戦のまっただ中。「どうせ兵隊にとられ、命を落とすかもしれない。それならできるうちに好きな野球を思い切りやっておきたい。」そんな気持ちもあってのぞんだプロ入りでした。
そんな近藤を待ち受けていたのは、思いがけないできごとの連続。
最初の転機は早くも二年目に訪れました。戦況悪化によりプロ野球球団の統廃合が行われ、西鉄軍は解散、近藤は、巨人に指名され、入団が決まるのです。そして1945年終戦。野球が再開されると同時に、近藤は投手として最高の場面を迎えます。23勝14敗。防御率2.18でチーム2位。名門球団のエースの座が目の前にありました。
しかし、その年の暮れ、突然の事故が近藤を襲います。あろうことか右手中指を負傷。再起不能を宣告されてしまうのです。まさに天国と地獄を見た21才。
近藤貞雄の野球人生は、こうして劇的に幕を開けたのでした。

1946年・昭和21年3月27日。この日、戦後初の巨人の公式戦開幕試合が行われました。巨人の先発投手としてマウンドに立った近藤貞雄は、20才と六ヶ月。後の1988年、桑田真澄に破られるまで、史上最年少の巨人開幕投手として記録に残りました。このシーズン近藤は、42試合に登板、23勝14敗、当時のエース藤本を上回る勝ち星をあげます。
21才にして、頂点に立った。まさにそんな高みにある時に、しかし、信じがたい不幸が近藤を襲います。その年の暮れ、松山市でのオープン戦。宿舎への帰り道で、進駐軍のジープにひかれそうになった近藤は、よけようとして側溝に倒れ、ガラス瓶の破片で負傷します。右手中指の腱、切断。致命的でした。抗生物質もなく満足な治療も受けられなかった当時のこと、なんとか手首切断こそまぬがれましたが、折れ曲がった中指は、二度と元に戻ることはありませんでした。奈落の底に突き落とされたとはこのこと。自暴自棄になり、合宿所に近い多摩川・丸子橋から何度も身を投げようと思った。翌年、そんな近藤に巨人が下した結論は、解雇でした。
たとえようのない絶望感。しかし、中日が近藤にチャンスを与えます。1948年、代打・代走要員として中日入団。そして奇跡は起きるのです。不自由な右手を駆使してキャッチボールを続けていた近藤の球が打者の手元で大きく変化する。パームボール。この変化球を武器に、近藤は投手としてよみがえりました。7勝、7勝、10勝。血のにじむ思いで24勝を勝ち取る。
後に近藤は語っています。「この24勝は、自分にとって、巨人時代の23勝より、はるかに価値の大きいものだった。プロ野球選手としての勲章である。」と。

1974年・昭和49年。
このシーズンから、日本のプロ野球に新たな制度が採用されます。勝利試合を締めくくった救援投手に与えられる、「セーブ」。救援投手は「最多セーブ投手」という表彰により、評価を得ることになったのです。
「してやったり!」すでに1965年・昭和40年から、「投手分業制」を提唱してきた近藤から見れば、当然の制度導入でした。当時近藤は、与那嶺監督の下で、ヘッドコーチと投手コーチを務め、星野仙一を救援中心に起用するなど、「投手分業制」を確立しつつあったのです。
しかし、革新に逆風はつきもの。特に巨人の中尾投手コーチは、「投手、特にエースと呼ばれる人たちは、先発・完投型をめざすのが正道。」と真っ向から異論を唱える。それに反して近藤は、「投手の肩は消耗品」と主張。前年も、星野仙一が登板過多だったため、キャンプで一球も投げ込みをさせなかったという徹底ぶり。
近藤はこのシーズン中、星野の起用法をめぐって、自軍の与那嶺監督とも取っ組み合いになろうかというけんかをします。しかし、絶対にひかなかい。そこには自信に裏付けられた信念があったからです。
1974年、10月12日。中日は、20年ぶりのリーグ優勝を果たします。「この年中日が巨人のV10をストップさせたからこそ、今日のプロ野球の隆盛がある。」こんなことばが飛び出すほど、劇的な優勝を果たした中日ドラゴンズ。その背景には、近藤が提唱してきた「投手分業制」の大きな功労がありました。

「星野を出せ」与那嶺監督が気色ばむ。
「いや、まだ星野は出せん!」即座に首を振る近藤。
ベンチがにわかに険悪なムードになり、激しい口論が始まった。
1974年・昭和49年、10月10日。神宮球場。ヤクルト三連戦の最終戦。
中日は、シーズン最大のヤマ場を迎えていました。三連戦が始まる前の時点で、中日の残り試合は7。残りゲームを最悪でも二勝五敗の星勘定なら優勝。しかし、巨人も9月29日から六連勝してぴたりと中日についている。おまけに楽勝気分が油断につながったのか、ヤクルト一、二戦で連敗という誤算が生じた。なんとしてでも今日のヤクルト戦、明日の大洋戦で決着をつけたい。
優勝、巨人V10阻止。「一つのカマの飯を食って3年」の監督・与那嶺とヘッド兼投手コーチの近藤、ともに同じ思いで迎えた最終戦でした。
しかし、その最終戦も、先取点を奪われ苦しいゲーム展開で始まります。
五回、二対三とリードされる。このときでした。
与那嶺監督が、「この五回裏の守りから星野を出せ」と近藤に指示を出す。
今日引き分ければ、あと一つ。なんとしてでも抑えたい与那嶺。
しかし、近藤は、断固として星野を出しませんでした。たとえ今日のヤクルト戦を落とすことがあっても、翌日からの大洋戦で二つ勝てばいい。星野にこの試合で五回も投げさせたら、翌日の連投はきかなくなる。正念場だからこそハラをくくる。
結局、監督の与那嶺が折れ、近藤は、木俣・高木が同点とした9回裏でようやく星野を登板させます。そして引き分け。二日後、ナゴヤ球場は、20年ぶりの優勝に酔いしれたのでした。

1980年・昭和55年秋。近藤貞雄、55才、中日監督就任。プロ野球史上最年長の新人監督でした。
選手時代、事故で右手中指を不自由としながらも、投手として中日で活躍し、その体験が元となり「投手分業制」というひらめきを得た近藤。陰の指導者として中日を支えた手腕をかわれ、満を持して、表舞台に立ちました。
新生中日を目指して近藤がスローガンとしたのは、「野武士野球」
近藤は、かねがね、日本のプロ野球も大リーグのように地域密着型をめざし、その土地柄や風土にふさわしい野球をやるべきだとの持論を抱いていました。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康を輩出した尾張・三河地方らしく、さながら地方豪族が決起して中央を制覇するかの如く。それは、「大いなる田舎」と名古屋を揶揄する声を逆手にとった、攻めの野球でした。
攻撃力を軸にチーム作りや采配を行う、超攻撃型ベースボール。
田尾、大島、谷沢、宇野、モッカら大型打線の爆発力で大量点を取り、そのリードを先発陣と中継ぎ、抑えの牛島を組み合わせた投手陣の継投策で守りきる。
そして、守備に難のあるモッカや大島に代えて、終盤に守りのスペシャリストを投入する。
この、自らアメフト野球と名付けた、当時としてはかなり斬新な選手起用により、近藤は就任2年目、1982年・昭和57年、リーグ優勝を成し遂げます。
中日の、そして横浜のチームカラーづくりに貢献したと評価される近藤貞雄。1999年、堂々の野球殿堂入りを果たしました。(2006年1月2日、80才で永眠)


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