e
                            歴代監督の回想記

 白球に結ばれた縁 藤田良彦 時習1回 .  時習野球の回想 菰田俊英
 雑 感 秋本正志  新たなる伝統を求めて 藤城義光
 私と時習館野球部 三浦治幸 時習21回 .

                          「時習館と甲子園」メニューへ


白球に結ばれた縁

元監督(時習1回)藤田良彦 (平成12年3月記)

 昭和十六、七年といえば、日本が日中戦争(当時は日支事変)から第二次大戦(当時は太平洋戦争)に突入し、米英を敵として戦線を拡大した時期である。当時既に野球は相撲と並んで国民的スポーツとなっていたが、この頃から敵性スポーツとして全国的に禁止されはじめていた。歴史ある全国中等学校優勝野球大会も昭和十六年に中止された。(昭和二十年までの五年間)

 そんな社会状勢だったが、私の生まれ育った三谷町(現在は蒲郡市)では愛球家が多かったのか、日曜日にはよく小学校の狭い校庭で町の青年が軟式野球の試合を楽しんでいた。家が学校に近かった私は、この試合を見るのが楽しみでよく見に行ったものだ。私の父は当時母校であるこの小学校の教員をしていた。自分はさしてスポーツを得意としていたわけではなく、又、スポーツの愛好家というものでもなかったが、どういうわけか私が物心ついた時、わが家には粗末ながら革製のグローブが二つあった。狭い庭先で兄や近所の友達とキャッチボールを楽しんだものだ。この二つのことが、その後、今日まで続いた私と野球との出会いだっように思う。

 昭和十八年、豊橋中学に入学したが、戦中戦後の社会混乱もあり、しばらくは野球とは無縁の日々であった。しかし昭和二十一年夏、戦時中中断していた中等野球が復活することとなった。豊橋中学でも全国に遅れじと野球部が復活し、私も好きなこととて早速入部した。この時から今日まで約五十年続く白球との戯れや、格闘がはじまったのである。

 一口に五十年とは言うが、改めて考えてみると、よくもまあ長く続いたものだと思う。そして同時に思うことは、白球のおかげで、本当に多くの良き人々に出会ったものだとしみじみ思う。そうした多くの人々の中で、七十歳の今、私のこれまでの野球人生の中で、特に白球に結ばれよ強い縁を感じている級友、恩師、先輩、教え子等、年次を追って述べさせていただくことにする。

 まず高校時代の球友竹内基二郎君、斉藤了一君のことである。二十一年八月の新チームで主将に選ばれた私は同級の竹内、斉藤両君等とチームの中軸を担うことになり、九月から着任された渥美政雄先生のもとで激しい練習の毎日をすごすことになった。部復活当初十数名はいた同級の部員がほどなく磯村安雄君を含めた四人になっていたことがこのことをよく物語っている。そして五年で卒業した斉藤、磯村両君が抜けたあと高校三年の夏まで部活を続けたのは竹内君と私の二人だけになってしまった。練習が終って下校するのは、殆ど毎日豊橋発午後九時半頃の汽車であった。家に着き晩御飯、入浴をすますと午後十一時というのが日課である。級友の大学受験準備を横目にみながら、それでもくじけずに最後まで続けられたのは、何じ東海道線下りの通学生で、苦楽を共にできる良き球友がいたればこそであった。夜汽車ともいえる遅い時間帯のデッキ(当時は自動扉はない)で夜風にふかれながら一緒に歌を口ずさんだ友であった。高校時代を思う時まず両君のことが思い出される。斉藤君は今はいない。

 さて次は、私の野球人生にとって決定的な影響を受けた渥美政雄先生のことである。先生は私が新チームの主将となった昭和二十一年九月に一宮中学(一宮高校)から転勤してこられた。過去に、東邦商業、滝川中学、一宮中学で合計七回甲子園出場を果たされ、別所、青田他、幾多の日本的名選手を育てられた甲子園の常連監督で、中等野球の神様のような人だ。そうした先生の経歴は追々知るところとなったが、授業を受けなかった私が先生との出会いで鮮明に残っている記憶は、豊中でこのところ行われていた校内の出身校別対抗の野球試合の時だった。東海道下りの我がチームは勝ち抜いて決勝に進んだ。相手は渥美先生が投手で学生チームを破って勝ち進んできた職員チームだ。決勝は先生が手加減をされたか、私が投手をつとめる東海道下りチームが優勝の栄に浴した。この試合が先生との出会いだったように思う。

 その直後の練習て私は先生からピッチング練習を命じられ、遊撃手から投手になった。尤も私は投手としては球威がなく、ただストライクがとれるというだけの投手であり、一級下に台湾からの引揚者で青木伸次選手が入部してくると投手を彼に譲り、元の遊撃手に戻った。

 この青木投手はその後先生の指導よろしきを得てめきめき腕を上げた。私はチーム事情で一時捕手を務めたこともあるが、彼の球を受けたことにより捕手の醍醐味をしっかり経験させてもらった。同時にチーム力も着実に増し、私の高校最後の夏となった昭和二十三年の愛知大会には、初戦の津島高校を再試合で破ると波にのり、享栄との決勝戦まで進むことになった。この先生のもとで二年間白球に取り組んだことが今思えば、今日まで私が白球と係わり続ける人生を歩む決定的要因となったと思う。というのは、先生とはここでお別れし、名古屋大学へ進んだわけだが、大学を卒業すると同時に、昭和二十八年四月、母校に奉職することになり、先生の下で監督を引き受けることになったからである。先生は昭和三十一年県へ転出されたので、監督修行期間は三年間であった。高校時代の二年間と合わせて、若い時代の五年間に先生から受けた教えは間違いなく私の長い野球人生の核となったのである。

 母校での監督十二年を終えた昭和四十年三月、突然国府高校への転勤を命じられた。当時国府には、豊橋中学の大先輩の筒山吉郎先生(豊中39回卒)がおられた。先生は岡崎高校監督時代の昭和二十四年、二十九年の二度、選抜大会の東海地区代表として甲子園出場を果しておられ、東海地区に名を響かせた名監督であった。上司として仕えた期間はわずかに二年だったが、先生が東高校へ転勤され、昭和四十八年亡くなるまでお付き合いをいただき、多くの事を教えられた。亡くなられた今、先生については伝説的に語られることが多いが、まさに大正、昭和初期の文人墨客はかくあらん、と思われる人柄と風貌であった。一見、野球というモダンなスポーツとのアンバランスは否めないが、三河野球の謂に野武士野球とは良くいわれる。若かりし頃の先生率いる高校野球チームがそれであった。尤も、近くお付き合いをして感じたことは、一見豪放磊落、その実繊細緻密、詩文の才は余人に秀で、酒をこよなく愛し、心弱きものへのやさしさ等、その人間的なところは野球以外にも学ぶところの多い人であった。この人との出会いも又私にとって貴重なものであった。

 更に、表題に掲げた白球に結ばれた縁といえば、いうまでもなく、人生において貴重な高校時代の三年間を私と共に汗と涙と、時には血をも流してくれた教え子諸君のことを語らずにはいられない。一人ひとりに尽きぬ思い出が浮かんでくるが、ここでは時習館時代の最後の教え子の一人である光島稔君(時習18回卒)に絞らせていただく。

 これまでのところで述べたように、私は昭和四十年国府高校に転勤し、以来野球部監督を続けていた。ときに昭和四十八年四月の新入部員はすばらしい素材が集まってきた。私は密かに、この生徒たちの三年後を最後に長年携わってきた高校野球指導の第一線を退こうと決意した。それだけに期待も大きく、この年の秋の一次リーグ戦で負けると、残る夏休みを猛練習で鍛えようとした。その一つとして大学四年のOBに良いバッティングをさせ、現役に見させようと、私がバッティング投手を買って出た。その打球の一発が私の左側頭部を襲い、マウンド上にノックダウンした。結果は救急入院先の医師の診断で四カ月の休職となった。そんな時に情報を聞いて駆けつけてくれた八年前の時習館での教え子の光島稔君が、本業の傍ら国府高校球児の指導にあたってくれることになった。思わぬ助け手を得て選手達はめきめき力をつけ、昭和四十九年夏にはベスト8にまで進んだ。

 彼のボランティアに応えるべく、この年の秋から正式に監督として高校野球連盟に登録した。その直後の秋の県大会に四校リーグ戦に残り、東海大会は逸した(当時は各県二校)ものの、三位となり、更に翌五十年春の県大会は決勝戦で中京に敗れて二位となるなど、前年の夏のベスト8から、大会毎に階段を一段ずつ登ってきた。

 そして迎えた昭和五十年夏の愛知大会では並みいる強豪(名古屋商、享栄、中京、刈谷工、名電工、豊川)を破って決勝に進み、愛知高に勝利し、遂に甲子園出場を果した。私が高校生時代、最後の夏(昭和二十三年)に決勝で負けて涙をのんでから二十七年目、その後昭和三十一年時習館監督として決勝で中京商に敗れてからでは十九年目、やっと三度目の正直で甲子園への夢が実現した。

 優勝の胴上げは光島稔監督と部長の私とが抱き合ったまま宙に突き上げられるというあまり見慣れぬもので、さぞ選手達は戸惑ったことだろうと思うが、私の胸の中では”負うた子に教えられて浅瀬を渡る”の格言が実現した喜びでいっぱいだった。

 以上ここまで、白球が取り持つ縁で私が出会った五人の方々について述べさせていただいたが、そのうち渥美政雄、筒山吉郎の両先生と斉藤了一君は既に他界され世にいない。古い話で恐縮だが、かって敗戦後の日本を支配したGHQ(占領軍政府)最高司令官マッカーサー元帥が、その職を解任された時、”老兵は死なず、ただ消え去るのみ”の名言を残して第一線から姿を消していった。同様に両先生や斉藤了一君の姿は消え去ったものの、彼らから受けた教訓、友情、野球への並々ならぬ熱情等は私の中に今も生き続けている。こうした先人からの遺産を今後に生かし、創部百年を迎えた時習館野球部が、二十一世紀に向けて一層その輝きを増すことを期待しつつ、筆をおくこととする。

                                    

雑感

元時習館監督 秋本正志 (昭和52年4月記)

 藤田良彦先生(現国府高校部長)が昭和四十年三月転勤、部長は長谷川清先生であった。その当時の野球部員は全部で七、八名であった。試合を行う時などは、頼んで人を借りて試合を行ったものだ。こんなチームでも試合になると大変に強く、その年の春季東三大会には熊部光宏(時習18回)−酒井喜代嗣(時習18回)のバッテリーで優勝した。個性的でチームの和のとれたすばらしいチームであった。

 昭和四十一年夏の大会は伊藤行(時習20回)−高橋静雄(時習20回)のバッテリーで中京商(現中京)と対戦、中京商は春の甲子園の優勝チーム加藤−矢沢のバッテリー、7月21日豊橋球場11時30分試合開始一番志賀吉修が加藤投手の第一球をセンター前にヒット、次打者第一球ヒットエンドラン、セカンドでタッチアウト。以後は加藤投手に押さえられて、九回コールドゲームで敗れる。力の差を感じる。一矢報いようと団結したがどうにもならない結果になってしまった。

 昭和四十二年秋の大会は二次リーグ四勝一敗が豊川、国府、時習館が同率であった。再試合の結果時習館が優勝し、県大会へ出場、投手中田薫、捕手伊藤守?、一塁三浦治幸、二塁波多野敏之、三塁久米淳文、遊撃伊丹庸之、左翼山本、中堅藤田裕二郎、右翼小野田茂であった。九月三十日より開始、第一回戦は不戦勝、第二回戦は愛知高を三対一、第三回戦、愛知商業を四対一で破り、県四強リーグ戦に出場、十月七日いよいよ四強リーグの第一戦大府との対戦である。中田投手の調子は上々である。スピードある直球、シュートが長身より投げだされている。青い空のもと審判がプレーボール、投げた速い、七回まで両チーム〇対〇の同点、八回の裏八番波多野が捕手前にドラッグバント、捕手があわてている間に二塁セーフ、九番伊藤の送りバントで走者二塁、一番打者は三振で倒れ二死二塁、二番打者伊丹打った、ショートゴロだ、これでこのチャンスも終りかと思った瞬間トンネル、センター前へとボールは転がった。池多野も三塁を回ってホームへと向かっている。センターが取ってバックホーム、波多野もホームに滑り込む、一瞬捕手のミットをかいくぐってセーフ、劇的な一点である。勝った。無欲でここまで進んで来たが、これからは一戦必勝と願ったが、それ以後の試合は中京商に四対二、名電に三対二と敗れ、中部大会への出場は涙をのんだ。

 昭和四十三年は三年生の退部ということで負け試合が多かったが、伊丹庸之を中心としたチームメートで協力して三年まで残って試合に参加した。こうした若い時習球児と共に十ケ年生活をしてきて、彼らの姿から、強烈なエネルギーと、どんな場面にも動じない根性と、すばらしい能力をみることができた。今後益々時習館野球の発展をお祈りします。


                                    

私と時習館野球部

元監督(時習21回)三浦治幸  (昭和55年4月記)

 昭和四十二年四月、私と時習舘野球部との初めての出会いであった。私事ではありますが、父(豊中四十八回卒)より、野球を生活の中から教えられ、高校野球は時習館でやるのだと心中に秘しての悲願達成の年であった。硬式ボールに対する憧れと不安が入り混った、当時の興奮が昨日の事の様に脳裏に浮んて来る。ボールを夢中になって追いかける毎日で野球に明け暴れていた。

 翌、昭和四十三年、私が二年の秋季大会に何年振りかで東三優勝を果たし、私達は初めての県大会出場に、より練習に熱が入った様に記憶している。一回戦はシードの関係で不戦勝、二回戦は甲子園帰りの愛知高校、投手中田薫の奪十一三振の好投により三対一と快勝、良いすべり出しであった。三回戦愛知商高を四対一で下し、Cブロック優勝。他のブロックから勝ち進んで来た、中京商、名電工、大府と共に決勝リーグへと駒を進めた。

 さて話は変わるが、当時我々のチームを陰から見守っていただいた方々は二人居られ、その一人は時習十八回卒の光島稔氏、あとひとかたは故筒山吉郎先生(豊中39回)であった。筒山先生は御子息、節君(時習22回)が我々の一年後輩に居たかげんか時々達筆な手紙をいただいた。そこには親子程離れている我々に非常に謙虚な文面でアドバイスが書かれていた。現在でも私はその手紙を宝の様に大事にしている。四校の決勝リーグ戦が始まる前日、筒山先生が「祭礼だから遊びに来なさい」と、当時主将であった私とチームの大黒柱の中田薫君とが呼ばれた。当時の我々にとって、近寄りがたい存在であった先生の呼び掛けに緊張して訪れた記憶がある。いつ野球の話題が出るかと期待しているうちに時間だけが過ぎ、大きな声で校歌を唱し、帰宅する直前に一言、微笑しながら「頑張りなさい」と言われた。先生の暖かさと厳しさが感じられた。

 四校リーグ戦は初戦大府では幸運にも敵失により決勝点をもらい一対○で勝利を手中に納めた。対中京商戦では三回に先取点を許したが、四回、私の四球のあと藤田裕二郎君の三塁打と相手捕手石倉の逸球で一度は逆転したが、五回、七回と得点され二対四で敗れた。最終戦名電工では七回伊丹庸之中田薫、私、藤田裕二郎と長短打を連ね逆転したが、八回に二点を失い、九回一死一、三塁のチャンスも生かす事が出来ず二対三で敗退した。

 現在、私は幸運にも母校野球部にお世話になり指導者としての勉強をさせていただいていますが、教育の一環としての真の高校野球の精神を失わず緒先輩方の助言を支えとして、今まで築き上げられた本校野球部の伝統を守り、微かながら良き後輩の育成の助けになればと思っております。

                                    

時習野球の回想

元監督 菰田俊英 (平成12年4月記)

 中学・高校・大学と野球に打ち込み、指導者として二十余年が過ぎ、そろそろ気力・体力の限界を感じ始めていた頃、突然、時習館高校への転勤を命じられ野球部監督を任命されました。正直なところ、恐れ多くもと言う気持ちでありましたが、私なりに考え五年以内を条件に、”常時、東三河で二次リーグに出場する”チームづくりを約束し受理いたしました。

 数日後、二、三年生十六人と女子マネージャの前で挨拶し、時習館菰田野球が始まりました。第一に野球という部活動の心構えから取り組みましたが、指導半ばにして公式戦初戦がやって来ました。

 昭和六十三年七月十七日、夏の大会一回戦、対戦相手は、この春の県大会ベスト8選出を果した一色高校。聞くところによればエース山崎を中心にした好チームとのこと、まともにぶつかっては絶対に勝てない。そこで立てた作戦は投手山崎をつぶすこと!

 初回、一番曾根、初球セーフティーバント安打、二番加藤、初球バントが投手の失策をさそい一、三塁、加藤盗塁後、服部スクイズで先取点。三回、一アウト後、曽根センター前ヒット出塁、すかさず盗塁、加藤セーフティーバント安打で一、三塁、今度はダブルスチールで2点目、加藤盗塁後、服部またもスクイズで3点目。六回中嶋のライト線二塁打を榊原バントで送り、兵藤スクイズで4点目、ここまで全て作戦通りの足とバントをからませた得点。こうなればもうこちらのもの、九回は安打5本を集め5点を取って合計9点。対する相手は、好投藤田−大竹のバッテリーに1点を取るのがやっとでした。結局、この試合は本校は得点9、安打12(セーフティーバント4)、盗塁6、バント10でした。

 それから二年、部員数も増加し、練習も軌道に乗り、久しくなかった県大会、全三河大会出場も果たし、また夏の大会(平成二年)がやって来ました。エース小泉の肩痛による不調のなか、一回戦豊明高、二回戦明和高を二年生投手長尾の踏ん張りにより、接戦をものにし、小泉復帰後刈谷高、大府高を大差で退け、いよいよこの春、東海大会優勝の愛知高校との対戦、0−0で迎えた二回、1アウト後、長尾二塁打、小泉安打で一、三塁、松尾センターオーバーの二塁打で先取点、スクイズ失敗後、小林安打で2点目、その後なかなか点の取れない本校に対し、愛知高校は、連打や本塁打で5点を得点、大勢不利もこのまま終わらないのが時習館野球。九回、谷垣失策で出塁、長尾の安打で一、三塁、小泉犠牲フライで2点差、二死後上井戸ライトオーバー二塁打で長尾がかえり1点差、なおも二塁に同点ランナー、小林のセンター前安打で一瞬同点かと思いしや、センターからの好返球が力走の上井戸と同時にベース上に到着、審判も迷いに迷ったクロスプレーで結局タッチアウト。これがこの年の幕切れとなった。

 この他いくつかの試合が私の頭の中を過ぎります。時習館監督生活、たった四年間でしたが就任三シーズン目から連続六シーズン東三河二次リーグに出場を果し、当初の約束を私なりに果して、時習館野球部OBの近藤至彦(時習29回)監督に引き渡すことができました。以後、部長・顧問を続けて十年が過ぎようとしています。
 今後ますます時習館野球が発展することを祈ります。

                                    

新たなる伝統を求めて

監督 藤城義光 (平成12年5月記)

 西暦二〇〇〇年を迎え、時習館高校野球部もまた創部百年という輝かしい歴史を重ねて来ました。これまでに数多くの苦難のときを経て、緒先輩方の志は若き野球部員たちに引継がれております。一口に百年と言って簡単に語れるはずはなく、物不足の時代、部員不足の時代を経て、今ここに百年という難かしい節目の時を、部員共々時習館高校で迎えられることを、この上もなく光栄なことと思っています。

 一昨年(平成十年)の夏、県大会八十回連続出場を表彰され、時の主将、林泰盛(時習51回)が時習の旗を甲子園に翻してきたのは記憶に新しく、現部員たちが伝統の偉大さに、直に触れることができた瞬間だったのではないでしょうか。

 とかく現代は、物が豊富に出回り、飽食の時代と称されていますが、物を大切に扱えないようでは良い選手になれるはずもなく、挨拶にはじまる礼儀作法については言うに及ばず、「当たり前のことを当たり前のようにできる人間になってはしい。」と、生徒には説いています。常に謙虚な気持ちを持ち、感謝の気持ちを忘れない人に、彼らには是非なってもらいたいと願っています。野球を通して、人間としての在り方を磨いてもらいたい。そういう環境に今自分がいられることに感謝し、他者との関わり合いの中で、思いやりの心を持った若者に成人してもらいたい。近年、考えられない少年たちの暴挙が、新聞史上などを賑わせていますが、驚きと共に幾ばくかの寂しさを覚えてしまいます。何事をするのにも心がなくては始まりません。野球とて同じだと思います。普段から部員たちには「野球部員である前にひとりの高校生であることを忘れるな。」と語りかけています。どこまで浸透しているかは定かではありませんが、「その上で強くなりたい。」と付け加えて。

 私が高校野球に魅せられ、今尚、監督として指導に当たっていられるのも、初赴任で勤めた岡崎東高校での出会いがあったからです。創立十年という若い学校で、野球部にもまだ歴史はそれはどなく、伝統などと呼べるものはまだまだ姿形もない時代でした。何とか伝統とは呼べないまでも、岡崎東としての形がほしい、何とか生徒に自信を与えたいと、しゃにむに同僚の若き指導者(太田康治先生・現西尾東高校)と共にグラウンドに足を運びました。幸運にも、二年目の新チームで県大会への山場を決め、徐々にスタイルらしき物が出来つつありました。当時の部訓は「闘志なき者はグラウンドを去れ。」でした。野武士のような決起盛んな若者たちは、数多くの感動的なドラマを見せてくれました。伝統の二文字を求めて、野球に明け暮れた日々は本当に懐かしく、今でも社会人となった彼らと再会をすれば、話題は当時の試合のことばかりです。

 二つ目の赴任校は蒲郡の三谷水産高でした。曲がりなりにも自分が築いてきた高校野球の在り方との違いに、正直、はじめは戸惑い、驚かされました。しかし、その懸念も、純朴な野球小僧との出会いによって消え去り二年目より監督を引き受けました。なんとか部員を集め九人で公式試合に臨んだこともありました。誘惑に負けてしまう生徒が多くいた中で、彼らは立派に力を合わせ勝てないまでも闘志を失わず、公式試合全てを戦い抜いてくれました。社会人となった今でも、時折顔を見せにやって来てくれます。野球を三年間やり通したという自信を持って。

 正直、三年前に時習館高校に赴任の内示をもらった時、自分自身今まてに体験したことのない緊張感を感じたのを思い出します。それまでの学校では感じ得なかった伝統という言葉の重みを感じたからです。ただ、よくよく考えてみれば伝統とは現部員たちがこれから作り上げていくものだと、勿論、緒先輩たちが築かれたものの上に。いい意味で開き直って自分の伝えられることを伝えていこうと覚悟を決めました。思いを全部伝えることは難しいことかもしれませんが、今も昔も変わらない野球大好きの野球小僧たちが、時習館にもたくさんいます。彼らがいるかぎり時習館の伝統は、成長しながら引継がれていくものだと信じています。少しでも彼らに力を与え、新たなる伝統を一緒に築き上げていきたいと思っています。

 最後に、いつも暖かいご声援を送って下さる父母の会の方々、OBの諸先輩方、生徒の写真を数多く撮って下さる浅井さん、差し入れを持って激励下きる近藤さんに感謝の意を表して筆を置きます。

                                    



                             「時習館と甲子園」メニューへ

inserted by FC2 system