金田正一投手(
http://www.cbc-nagoya.co.jp/radio/kibun/2000asapon/hero/000821/index.htmより)
長身によって大上段から振り出される速球と大きく縦に割れるカーブ。
デビュー以来、奪三振記録を次々に打ち立て、通算400勝という前人未踏の領域に到達した金田正一。
1933年・昭和8年、愛知県中島郡生まれ。敗戦後の荒廃した社会背景も手伝って、少年時代に相当なハングリー精神をたたきこまれます。
闇屋の洋モク買い、絶え間ないケンカ、貧窮による兄弟姉妹3人の他界。
父・長吉は、馬と荷車で運送業を営み、貧しいながらもウソや曲がったことが大嫌いという一本気な性格。疎開先で正一少年がスイカ泥棒をはたらいたとき、鬼のように怒って殴る蹴る、谷底へ突き落とす、しかしその目には涙が、ということもありました。この強い父親像が、「おやじにいつかトラックを買ってやる」という正一少年の生きがいを生み、「グラウンドへ立てば、銭になる」というプロ野球への憧れを育てることになるのです。
野球との決定的な出逢いは、なんと、ケンカでした。14才の頃。
すでに「電柱」「割り箸」とあだ名されていたほど身長も伸びて、ケンカの強さでも有名だった正一少年は、梅村和助という猛者と一戦交えます。二人ともバテるまで殴り合った末、互角の腕を認めあい、その奇妙な友情から梅村は正一少年に野球をやることを強くすすめます。「自分の通っている高校の野球部へ来い。」それが、名門・享栄商業高校、現在の享栄高校でした。
昭和23年5月7日。いきなり野球部の部室を訪ね、「入部したい」とひとこと。家計を助けるために中学に行けず、しかも高校入学の年齢に達していなかったにもかかわらず、正一少年は入学を認められます。そこには、享栄商業高校・野球部監督、芝茂夫が待っていました。芝監督は、正一少年を身体づくりから鍛え直し、投手として育て上げた、金田正一の野球人生におけるキーパーソンの一人です。
目に見えない糸でプロ野球へとつながれていく正一少年。その糸をたぐり寄せていくパワーは、常に逆境からやぶれかぶれで這い上がる、「やったるで!」のド根性にありました
野球の名門・享栄商業高校。
「おまえは背が高いから投手をやれ。」のひとことで金田正一は投手になります。球はおそろしく速く威力があるが、しかし、どこへ飛んでいくかわからないこれまたおそろしいほどのノーコントロール。
長身でバタバタと走る金田を、上級生は「アヒル」と言って笑いましたが、それを見て「身体ができていない」と判断した芝茂夫監督は、金田に「走り込みをやれ」と命じます。
「強力な足腰のバネが速球を生み、コントロールを決める。おまえが投手として大成するかどうかは、走り込みにかかっている。」
「コントロールは手でつけるもんじゃないんですか」と口答えする金田に、「コントロールは腰だ」と言い聞かせる芝監督。その日から、たった一人でひたすら走り込みをやり続けます。
目指すは甲子園。芝監督は、金田をエースに育てようとしますが、四球や暴投の多さ、暴れ者でチームワークを乱すなどの理由でOBや後援会、部員からさえも猛反対にあいます。しかし、芝監督はあくまで「金田で甲子園を」との姿勢を崩さず、猛特訓の末、3年の夏の大会に勝負を賭けます。
1950年・昭和25年の夏の愛知県予選。快速球にカーブ、そのころすでに金田の球は高校生には手が出せませんでした。予選を順調に勝ち進み、事実上の優勝戦といわれた岡崎高校には準々決勝でコールド勝ち。ところが、甲子園出場を決めたも同然の準決勝・対一宮高校戦で思いがけない敗退。原因は、金田の四球と内野のエラーがはじまりで、頭に血がのぼった金田がまたもや暴投。あっけなく甲子園の夢は消えました。
しかし、この「消えた甲子園」を金田はこう振り返ります。「もしあの時甲子園に出場して活躍していたら、他球団からスカウトされ、国鉄より強い球団を希望したかも知れない。弱小球団にいてこそワシの意地は燃えた。他の球団に入っていたら、32才まで第一線で活躍し続けることもなかったに違いない。ワシはあれでええんや。」
1950年・昭和25年8月10日。
金田正一、契約金50万円、月給2万5千円で、国鉄スワローズに入団。
享栄商業高校を中退してのプロ入りでした。契約金のほとんどを念願だった中古トラックの購入にあてて、運送業を営む父に贈ります。
入団するなり、「プロってこんなもんですか」「ワシと巨人の中尾さんとどっちが球速いですかね」などと暴言を吐き、西垣監督を困らせますが、確かに金田正一は、華のあるプレイヤーとしての片鱗を見せており、当時の国鉄にとっては救世主的スターだったと言えます。
わずか数日後の8月23日、まさに50年前の今日。金田正一はプロデビューを果たします。松山球場、国鉄ー広島戦。5回裏からのリリーフ投手。2点差で負けている国鉄。西垣監督から指名されると、まるで武士の刀抜きよろしくヤカンの水を口に含んで、グローブにプッと吹きかける。
対するのは、その翌年巨人へ移って代打満塁サヨナラ・ホームランで名を馳せることになる樋笠。一発ファウルされたあと、空振りの三振。史上に残る奪三振記録の第一号でした。
そして、後楽園での巨人戦。初めての満員のスタンド、しかもあの川上がいる巨人。先発を前にブルペンで何度も武者ぶるいがきた。巨人相手だと底知れない力が湧いてくる自分に気がつく。3回までバタバタと三振をとって、「あいつ何者だ?」と巨人ベンチをあっけにとらせる。4回表、国鉄3点。 さあ、初勝利だと意識した途端に、3人4球の満塁。自信たっぷりに投げ込んだカーブを青田にはじきかえされ、プロをなめたらあかん、と初めて実感する。
結果、投手交代になったものの、試合は国鉄が勝ちました。
翌日、マスコミ各紙は一斉に金田正一の名を掲げました。見出しは「怪童あらわる」。
華やかな金田野球の幕開けでした。
1957年・昭和32年8月21日。中日ー国鉄戦。蒸し暑い夜を迎えた中日球場。
中盤から両軍のベンチは不気味なほど静まりかえっていました。
誰も金田と口をきこうとしない。視線があってもすぐ顔をそらす。異様な緊張感が漂う。
国鉄の先発は金田正一、中日はフォークボールの神様・杉下茂。
当時、この二人が先発すると三振の山ができ、ネット裏の記者達は、「今日は早く家へ帰れる」と喜んだものでした。
この日も投手戦。両軍無得点のまま、5回6回と進んでいく。
7回ヤマ場。中日の岡島のカウントが1-3になると、スタンドの観客も妙にワサワサしている。岡島2-3のフルカウントから打って3ゴロ。ベンチのため息が聞こえた、と思った瞬間、スタンドからはすごい拍手がおきる。
パーフェクト・ゲーム。 この異様なムードはそのためでした。ベンチをはじめ場内の誰もがこのことばを意識していることがようやく当の本人金田にも実感として伝わってきます。
9回表ついに均衡は破られます。国鉄1点先取。9回裏中日最後の攻撃。 あと3人。球場全体が水を打ったかのように静まりかえる。
中日の天知監督は代打の総動員。2位に2.5ゲーム差をつけて首位を走っていた中日だけに、ホームグラウンドで完全試合をやられることだけは避けたい。
2-1と追い込まれた酒井のバットが振れる。ハーフ・スイング。稲田主審はストライクを宣告。それからが大混乱。天知監督は「振っていない」と激しく抗議。稲田主審はグラウンドになだれこんできたファンからなぐる蹴るの暴行を受け、大乱闘になる。
40分後、試合再開。肩は冷え、場内すべてが敵に回ったかのような怒号の中。
しかし、金田は味方ベンチにこんなセリフを残してマウンドに立ちます。
「さあ、あと二人や。必ず三振させてやるから、みんな帰り支度しといてや」
金田正一、おそるべし。堂々の完全試合、大記録の達成でした。
どん欲なまでの勝負魂と雑草のように逆境の中を生き抜いてきた金田正一。
そして、東京6大学リーグで最多ホームラン記録を塗り替え、巨人入団前からニューヒーローの道を約束された長島茂夫。
昭和33年の開幕戦、この二人の対決は、野球ファンを沸き立たせました。
4月5日。4万5千の観客で埋め尽くされた後楽園球場。
1回裏巨人の攻撃。バッターは与那嶺。この時世にもまれな珍プレーが起きます。第8球。与那嶺のバットをかすりファールチップした球が、焦げクサイにおいを残して、かき消える。と思いきや、なんと、キャッチャーマスクの正面にくっきりとめりこんでいる。
豪速球ゆえに、異色のエピソードを数々持つ金田。このチップ球もいかに威力があるか、を物語っています。また、この時は特に、長島を意識した金田の気迫のすさまじさがあらわれていたと言えるでしょう。
与那嶺三振。続く2番広岡、三振。
そして割れんばかりの歓声に包まれて華やかに登場する長島茂夫。
勝負は4打席4連続三振、金田の圧勝でした。
金田・長島の一騎打ちは、本格的なプロ野球ブームの到来を予感させました。巨人-国鉄戦はセ・リーグの看板カードとして連日超満員。後楽園の株価は、この年の4月からうなぎのぼりにあがります。
孤高の投手、金田正一。昭和37年に通算3509奪三振世界記録達成、昭和39年14年連続20勝達成。そして、長年国鉄に忠節を尽くし、巨人キラーとして執念を燃やし続け、プロ野球を盛り上げてきた男は、昭和40年、最後の大きな夢を達成します。「優勝の味を知りたい。ONをバックに投げてみたい」
巨人への移籍。川上、王、広岡、柴田、そして長島が仲間として見守る中、開幕投手として登板、完投勝利を遂げます。巨人、日本シリーズ優勝。奇しくも金田移籍の年から、巨人の9連覇が始まったのでした。
金田正一(
http://www.webmie.or.jp/~m-yama/より)
1933(昭和8)年、愛知県生まれ。投手。左投左打。背番号34(国鉄・巨人)。1950年、2年生で享栄商のエースとして夏の甲子園を目指したが、準決勝で敗退。すぐに国鉄スワローズと契約し、享栄商を2年で中退して入団。
8月からの登板にも関わらず、1年目から8勝を挙げる。2年目には早くも22勝し、ノーヒットノーランも達成する。二十代になると課題だった制球難を克服し、安定した投球で毎年20勝以上を積み重ねた。8年目には初の最多勝・最優秀防御率のタイトルも獲得する。1957年には完全試合も達成している。
そして、入団2年目から14年連続20勝という大記録を達成。弱小球団だった国鉄で達成したというところがさらに評価を高めている。
1965年、巨人に移籍して連続20勝の記録は途切れたが、1969年に前人未到の通算400勝を達成。
その年限りで現役を引退する。
スケールの大きいフォームで球持ちがよく、長い腕を最大限に生かした投球は打者を翻弄した。全盛時は平均時速155キロと推定される速球と「2階から落ちてくる」と形容されたカーブを中心とした数種類のカーブで勝利と三振を奪い続けた。また、豪放な性格ながら野球に対する情熱は人一倍強く、「天皇」という愛称で親しまれた。
引退後、1973年から1978年、1990から1991年にロッテ監督を務め、1974年には日本一となっている。
1988年に野球殿堂入りを果たしている。
通算記録:400勝(歴代1位)298敗、奪三振4490(歴代1位)、防御率2.34(歴代10位)、完投365(歴代1位)。最多勝3回、最優秀防御率3回、最多奪三振王10回(歴代1位)。沢村賞3回。
数々の伝説
@剛速球と制球難
1950年、夏の甲子園を目指して享栄商のエースとしてある試合に登板。無死二、三塁のピンチでスクイズを外すが、その球があまりにも速かったため、バッターは空振。しかし、キャッチャーも捕球することができずに失点を喫したという。
プロに入団してからも制球難が続き、2年目には198四死球、3年目には207四死球を出した。
3年目の1952年8月9日の巨人戦で金田は、4−4で迎えた延長13回裏、巨人は一死一、三塁でピンチヒッターに藤本英雄が立った。
国鉄ベンチは敬遠を指示。それが不服だった金田は、自慢の剛速球で外した。すると、それをキャッチャーが捕れず、サヨナラ暴投となってしまう。
徐々に制球難は克服していくが、入団当初の制球難がたたって、歴代1位の通算1880与四死球を記録している。
また、平均155キロと推定される剛速球を受けていた捕手の根来は、ミットの親指部分を分厚くしていたという。
A高校2年で中退しプロ契約、その1ヶ月後に初登板
1950年(昭和25年)夏、甲子園を目指しての愛知県予選準決勝で一宮高校に敗退後、すぐに国鉄スワローズと契約し、享栄商を2年で中退して17歳でプロ野球入団。当時の貧困から家族を楽にさせるためと言われ、契約金五十万円で入団している。甲子園登板から一ヶ月もたたない8月23日にはプロ初登板を果たす。
初登板は、対広島戦の5回裏の4−5と負けている場面。金田は、好投し、味方も6回に1点を奪って同点に追いつく。
しかし、金田は、同点で迎えた9回裏、捕手の坂田にサヨナラヒットを打たれる。プロ初登板初黒星は、サヨナラ負けという劇的なものとなった。
しかし、打たれたヒットは、この1本だけ。これが通算298敗に至る最初の黒星である。
Bデビュー戦の長嶋を4打席4三振
1958(昭和33)年4月5日、金田は、巨人との開幕戦に登板する。
巨人の3番スタメンは、デビュー戦の長嶋茂雄であった。
初回に打席に立った長嶋は、金田の速球の前に空振三振に倒れる。
4回の第二打席では金田の鋭いカーブにタイミングが合わずに空振り三振。この第二打席で金田が投げた3球目のカーブに長嶋の止めたバットがかすってファールチップになったのが、この日の長嶋のバットに当たった唯一の球である。
7回の第3打席は金田の速球の前に空振りで三球三振。第4打席ではカウント2−3に持ちこみながらカーブを空振り三振。
長嶋は後にミスタージャイアンツと呼ばれる大打者となり、このデビュー戦で4打席すべて空振三振という記録は伝説になった。
遊んでいても勝てたという金田も、長嶋を意識し、その年だけは開幕一週間前から投げ込みを開始したという。
この年は、金田自身、最も調子がよく、4月だけで10勝し、シーズン自己最多の31勝、防御率1.30というとてつもない成績を残し、最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得している。さらに4月30日の広島戦から5月27日の広島戦までなんと64回1/3連続無失点というとてつもない記録を打ちたてている。
C好打者
金田は、投手のポジションで通算36本塁打しており、代打で放った2本の本塁打を加えると、プロ通算38本塁打を記録している。これは投手としてはダントツであり、サヨナラ本塁打も1955年5月26日中日戦と1959年5月30日の大洋戦で記録している。
投手として通算7敬遠を受けているのも歴代1位である。
D中断がありながら完全試合
1957年8月21日、対中日戦で金田は、8回まで打者を完全に抑えていた。
しかし、9回裏、中日の天知監督の猛抗議があって、試合が40分中断する。これは金田を動揺を誘うための作戦でもあったと思われる。
スポーツ紙の記者らは、もう完全試合は無理だろうと考えて完全試合失敗の記事を用意したが、金田は、試合中断後も何事もなかったかのように抑えきり、1−0で完全試合を達成している。
E14年連続20勝の中で
1960年、金田は、9月29日まで19勝しかしていなかった。
前年のシーズンオフにゴルフ場に行く途中でトラックと正面衝突して全身打撲の怪我を負う。そして、シーズン中には胃腸障害にも悩まされていた。
9月30日の中日戦、国鉄は島谷が先発し、4回まで2−0で勝っていた。
金田は、ブルペンから引き上げて登板の準備をしていたが、ベンチから声がかからず、島谷の続投が決まると球をたたきつけて怒ったという。
5回、島谷は無死三塁のピンチを招く。しかし、ベンチが動かないことにしびれを切らした金田は、自らマウンドに登っていき島谷を降板させる。もちろん、監督は交代を告げていない。金田は、マウンドに上がるとき、審判にこう言ったという。
「わし、投げるから」
そのピンチを無失点で防いだ金田は、8回に1点を失いながらも投げきり、そのシーズン20勝目を手にした。
しかし、その試合で先発していた島谷は、プロ生活で1勝もあげることなく引退している。
F超スローカーブ
金田は、ベテランになってから超スローカーブという新球を生み出す。これは、小学生が投げるような山なりの緩さながらも鋭く曲がる球だった。
このような球を投げ始めたのは、直球のスピードが落ちてきて限界を感じ始めたため、とも、吉田義男のようなしぶとい打者を打ち取るため、とも、遊び心から、とも言われている。
金田は、たまにこの球を投げて打者を翻弄し、球場を歓声の渦に巻き込んだ
金田の超スローカーブは、誰でも投げられそうに見えながら、金田しか投げられなかったという。他の投手よりも遅れて出てくる腕と、強靭な手首の力がなくては真似できなかったのである。
G通算400勝
1969年、10月10日、巨人対中日戦が行われた。
金田は、この試合まで399勝。だが、この年はまだわずか4勝しかしていなかった。
試合は、巨人が城之内の先発で、4回終了時に3−1で巨人がリードしていた。
5回、巨人の川上監督は、ついに金田を登板させる。
金田は、見事に中日打線を抑え、7−2で勝って前人未到の通算400勝を達成。これが金田の現役最後の勝ち星となった。
(
http://www.meikyukai.co.jp/column/backnum/colvol01.htmより)
―昭和25年8月、夏の甲子園予選で敗れた金田氏は、そのまま高校を中退して、17歳で国鉄スワローズに入団する。
プロ野球がセ・パ両リーグに分かれて、はじめてのシーズンだった。国鉄スワローズもできたばかりで、国鉄の東京鉄道管理局とか、名古屋鉄道管理局とか、そういったノンプロの選手たちを寄せ集めてつくったチームだから、いわゆる核になる選手がいなかった。そこへ高校を中退して、17歳で入団していったわけですよ。
もちろん周囲は大人ばかり。最初はガキ扱いをするような先輩もおりましたよ。でも、野球は歳でやるもんじゃない、身体でやるんだと。身体が大きくて速い球を投げられたら、どこに遜色があるんだと。球場に入ったら先輩も後輩もあるかって、結構、突っ張ってプロの世界に入っていったわけね。
それで25年のシーズンは9月、10月の2か月間で8勝を上げ、翌26年のシーズンはフル出場して22勝をあげた。もう誰も私のことをガキ扱いなんかできないですよ。実績をあげたもののほうが上、それがプロの世界なんです。
―金田氏は26年のシーズンから14年連続20勝以上の成績をあげつづける。とくに31年からの3年間は、沢村賞、最多勝、最優秀防御率をほぼ総なめにするなど、最も脂の乗り切ったピッチングを披露した時期だった。
18歳からずっと20勝以上だからね、お金も入ってくるし、チヤホヤもされる。お酒も女性も遊びも覚えていく。で、生活は遊び呆けてグダグダなのに、それでも試合には勝つんだね。
そんなときに「もったいないなア」と、ある人からアドバイスをもらったのね。たまにはお前、野球に興味をもってやったらどうだと。
自分でも内心思っていたんだよね。本気になって野球をやったら、いったい自分はどこまでいけるだろうかって。それで遊びを一つずつピタッピタッとやめていって、いわゆる野球中心の生活をはじめてみた。そうしたら自分の思うとおりの、いわゆる会心のピッチングというのができるようになっていた。
それでどんどん勝ち星をあげていくと、今度はもう落ちるのが嫌になるのね。負けるのが嫌になる。で、負けないようにするにはどうしたらいいかといったら、さらなる努力と節制しかないと。そうして生活のすべてを野球に振り向けた結果が、あの23歳からの成績ですよ。
―「球界のワンマン」といわれた金田氏は、また「トレーニングの鬼」と評されるほど、激しい練習を自らに課した選手でもあった。ある著名な野球評論家は「あれだけ凄まじいトレーニングをやった選手は、金田以前にも以後にもいなかった」と語っている。
たとえば、自分と同じぐらいの体重の人を背負って、山に登ってまた下りてくる。誰も真似ができない。真似をしようとすると足首を捻挫したり、ひざを壊したりね、みんな潰れちゃうんですから。で、どうして私だけがそういう凄まじいトレーニングができるかといえば、単純明快、準備運動を怠らないからなんです。トレーニングする前にも、事前にみっちりと準備運動をする。だから、はたからみたら信じられないようなトレーニングでも、ケガ一つしないでできるんですよ。
夜寝るときから、ぐっすり眠るための準備運動。朝は布団を出る前から起きるための準備運動、食事のときも準備運動、トレーニングをするときも準備運動。そうやって生活を整え、身体を鍛えて、試合に向かって準備していくわけ。いついかなるときでも戦いに向かって備え、整えるんです。この「いつも備える」というのが金田野球であり、わが人生なんです。
サラリーマンというのは、私たち野球人と違って、本当に過酷な世界で生きていると思う。
実績さえ上げればいいじゃないか、という世界ではないからね。しかし、自己管理の大切さという点では、プロ野球でもサラリーマンの世界でも同じだと思うんですよ。
普段よりも早くグッスリと寝て、朝はすがすがしく起きて朝食をきちっと食べる。そして普段よりも30分でも1時間でもいいから、早く会社に入って、仕事の準備運動をする。それをつづけるだけで自分を取り巻く環境はがらりと変わってくる。生活から仕事から、すべてが変わってくるわけね。これは実践してきた者がいう言葉だから本当なんです。だから準備運動、すべてが準備運動なんです。
金田正一投手の記録詳細(
http://www.meikyukai.co.jp/member/tousyu/kojin/kaneda.htmより)
氏名 |
金田正一(カネダ マサイチ) |
生年月日 |
S8.8.1 |
出身地 |
愛知県 |
出身校 |
享栄商業高校 |
在籍球団 |
国鉄〜巨人 |
背番号 |
34(読売ジャイアンツ永久欠番) |
ポジション |
投手 |
利き腕 |
左投左打 |
通算成績 |
400勝298敗・奪三振4490・防御率2.34 |
獲得タイトル |
最多勝3回・最優秀防御率3回・ベストナイン3回 |
メモ |
長身を利しての大上段からの速球と大きく縦に割れるカーブで三振の山を築く。 |
球歴 |
|
S25年 |
国鉄スワローズ入団 |
S40年 |
読売巨人軍に移籍 |
S44年 |
現役引退 |
S48年〜S53年 |
ロッテオリオンズ監督 |
H2年〜H3年 |
ロッテオリオンズ監督 |
H4年〜 |
野球評論家 |
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成績 |
|
生涯防御率2.34(5526−2/3投球回数) 944試合 400勝 298敗 365完投 82完封 4490奪三振 39無四死球 1808与四球 72与死球 4120被安打 379被本塁打 1706失点
14年連続20勝(S26〜39) 26年22勝21敗 27年24勝25敗 28年23勝13敗 29年23勝23敗 30年29勝20敗 31年25勝20敗 32年28勝16敗 33年31勝14敗 34年21勝19敗 35年20勝22敗 36年20勝16敗 37年22勝17敗 38年30勝17敗 39年27勝12敗
S33.6/6,200勝達成
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獲得したタイトル |
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最多勝3回(S32.33.38) 最優秀防御率3回(S32.33.40) ベストナイン3回(S32.33.38)
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エピソード |
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”負けじ魂で勝ち取った400勝” デビューの年は8勝とふるわなかったが、翌年22勝をあげエース街道を突っ走った。投手のタイトルのほとんどを獲得しほとんどの記録を更新した。長身を利しての大上段からの速球と大きく縦に割れるカーブで三振の山を築く。0対1での完投負け21試合、点は取れない、守ればエラーの弱小国鉄にあって勝つためには一つでも多くの三振を取ることを心掛けた。13年目に大リーグの奪三振記録、W.ジョンソンの3,508を破る。デビューの長嶋を4打席連続三振に切って取ったのはあまりにも有名。少年時代のあだ名が「割りバシ」、石投げの名人で電線に止まっているツバメを落したこともあるという。34番は巨人の永久欠番。
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日本記録 |
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・通算400勝 ・通算298敗 ・通算365完投 ・奪三振王、10回 (S26〜28.30.31.33〜35.38.39) ・1シーズン300奪三振、5年連続5回 (S30〜34) ・1シーズン200奪三振、14年連続14回 (S26〜39) ・1シーズン100奪三振、16年連続17回 (S25〜40.42) ・2ケタ奪三振試合、通算103回 ・毎回奪三振、通算5回 ・与四死球、通算1880個 ・64−1/3イニングス連続無失点 (S33.4/30対広島〜5/27対広島) ・1−0の完封勝利、23回 ・0−1の完投敗北、21回 ・開幕投手、14回 ・開幕戦、通算8敗 ・1シーズン20勝以上、14年連続14回 (S26〜39) ・1シーズン投球回数300イニングス以上、 14年連続14回 (S26〜39) ・投手で通算8敬遠四球 ・投手で通算36本塁打 ・投手でサヨナラ本塁打2本 (S30.5/26対中日,34.5/30対大洋)
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セ・リーグ記録 |
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・1安打試合、9回 ・1ヶ月10勝 (S33.4月) ・1試合16奪三振 (S42.6/7対大洋) ・1シーズン30勝以上、2回 (S33.38) ・1シーズン10勝以上、15年連続17回 (S26〜40.42.43) ・1シーズン34完投 (S30) 1シーズン207与四死球 (S27)
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主な記録 |
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・完全試合 (S32.8/21対中日) ・無安打無得点試合、1回 (S26.9/5対阪神) ・防御率ベストテン入り、16回 (S26〜40.42) ・1シーズン350奪三振、1回 (S30/歴代3人) ・42−1/3イニングス連続無失点 (S40.9/12対広島〜10/8対中日) ・サヨナラ勝ち、56試合/サヨナラ負け、36試合
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その他 |
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*日本シリーズ5回出場、12試合/3.00 (S40〜44) ・シリーズ最優秀投手賞、1回 (S43)
*オールスター17回出場、28試合/2.35 (S26〜39.42〜44,投手では最多)
・ |
通算28試合登板、64−2/3投球回数) 被安打53、被本塁打6、与四死球25 奪三振84、失点22 |
*沢村賞、3回 (S31〜33)
*野球殿堂入り (S63)
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(
http://www.inter.co.jp/Baseball/jp/player/register/great/01300505.html による)
年度 |
所属球団 |
登板 |
勝利 |
敗北 |
セーブ |
投球回 |
奪三振 |
防御率 |
1950 |
国鉄スワローズ |
30 |
8 |
12 |
. |
164 |
0.2 |
143 |
3.93 |
1951 |
国鉄スワローズ |
56 |
22 |
21 |
. |
350 |
. |
233 |
2.83 |
1952 |
国鉄スワローズ |
64 |
24 |
25 |
. |
358 |
. |
269 |
3.17 |
1953 |
国鉄スワローズ |
47 |
23 |
13 |
. |
303 |
0.2 |
229 |
2.37 |
1954 |
国鉄スワローズ |
53 |
23 |
23 |
. |
345 |
0.2 |
269 |
2.63 |
1955 |
国鉄スワローズ |
62 |
29 |
20 |
. |
400 |
. |
350 |
1.78 |
1956 |
国鉄スワローズ |
68 |
25 |
20 |
. |
367 |
0.1 |
316 |
1.74 |
1957 |
国鉄スワローズ |
61 |
28 |
16 |
. |
353 |
. |
306 |
1.63 |
1958 |
国鉄スワローズ |
56 |
31 |
14 |
. |
332 |
0.1 |
311 |
1.3 |
1959 |
国鉄スワローズ |
58 |
21 |
19 |
. |
304 |
0.1 |
313 |
2.54 |
1960 |
国鉄スワローズ |
57 |
20 |
22 |
. |
320 |
0.1 |
284 |
2.58 |
1961 |
国鉄スワローズ |
57 |
20 |
16 |
. |
330 |
0.1 |
262 |
2.12 |
1962 |
国鉄スワローズ |
48 |
22 |
17 |
. |
343 |
0.1 |
262 |
1.73 |
1963 |
国鉄スワローズ |
53 |
30 |
17 |
. |
337 |
. |
287 |
1.98 |
1964 |
国鉄スワローズ |
44 |
27 |
12 |
. |
310 |
. |
231 |
2.79 |
1965 |
読売ジャイアンツ |
28 |
11 |
6 |
. |
141 |
0.2 |
100 |
1.84 |
1966 |
読売ジャイアンツ |
19 |
4 |
6 |
. |
84 |
0.1 |
58 |
3.43 |
1967 |
読売ジャイアンツ |
33 |
16 |
5 |
. |
170 |
. |
132 |
2.28 |
1968 |
読売ジャイアンツ |
32 |
11 |
10 |
. |
138 |
0.1 |
87 |
3.46 |
1969 |
読売ジャイアンツ |
18 |
5 |
4 |
. |
72 |
0.1 |
48 |
4.25 |
通 算 |
944 |
400 |
298 |
. |
5526 |
0.2 |
4490 |
2.34 |
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