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                       時習館野球部75年(昭和戦前編)

  華やかな野球部

    野口品二

 第二十八会(昭和二年)の竹内良一、田中忠氏のバッテリーは東海大会でも大いに頑張った。竹内氏は狭友会から巣立ち、伴吉衛、鈴木益二郎氏の指導に負うところが多かった。後に大阪高工へ。
 田中忠氏は名高工でも相当鳴らし、卒業後市役所の名捕手として活躍し、のち大陸へ渡った。
 当時の監督は村田正雄先生であった。中国の強豪柳井中学から国学院大学卒業、豊中に赴任したからも、野球部のために尽した功績は大きかった。また町の常連のファンにも気軽に話しかけ好感を持たれていた。新派俳優の村田正雄と同姓同名だったのも親しみを一層増したようだ。
 先生の担任は歴史だが、十分も講義するとあとは野球の話であった。北陸敦賀大会招待の遠征が決まったとき、十分ぐらい講義ののち本領を発揮して、
 「エー、本校は、明日は某方面へ遠征するが……。エッヘン」とやり、生徒の拍手をあびた。組合せの相手は京都一商で熱戦だった。
 村田監督は対校職員チームでは必ずマスクをかむった。 第二十九回の都築(鈴木)重一氏は、佐藤三平氏(二十七回)のあとをつぎ、同期榊原武司遊撃手とともに名一塁手となった。内藤由三郎氏もこの回で、市土木課長でシカメッ面をしているが、野球部のためには熱心だった。
 この頃地元では、豊中、豊商、成章と三校リーグ戦を大清水球場で行った。
 また鳴海球場の豊中、一中、愛商、中商の四校選抜リーグ戦では、一中と接戦をしながら勝運を逸していた。 第三十回生には応援団長の名物男がいた。熱血児影山正治氏で、ホオ歯のゲタに羽織、袴の団長として、大清水球場に、豊川球場にさっそうたる姿を現していた。十条な文章家で「大東塾頭影山正治」の芽生えがすでにみえていた。
 マネージャーは山本勇夫氏で、二人はウマがよくあった。
 山本氏はマネージャー時代にこまめに野球部の世話をしていたが、朝日新聞に入社、東海大会予選がはじまると主任となって母校豊中のためには、心して本部席から応援してくれた。投手伊藤薫君は小柄だったが、カーブが得意で、国学院大学野球部で活躍、豊橋商業教諭として野球部を見ていたが、東亜興業に入り重役と昇進したが、残念乍ら最近急逝した。

 豊川球場開きの記念試合は、小川、井口全盛時代の和中クラブと豊中クラブが対戦した。豊中クラブには現役から石田、戸苅、金子が参加したが、小川正太郎投手の速球には眼をむいた。

 その頃、豊中へ早大の藤本定義選手がコーチにきた。藤本氏はその後プロ野球の監督になった。当時愛知一中には早大へはいった三浦、夫馬選手がいた。愛商には勝川遊撃手(慶大)、本多二塁手、中商には大鹿投手、鈴木中堅手(早大)の顔振れで、東海大会の決勝戦では一中にどうしても勝てなかった。
 一中の三浦捕手は、こちらが打者に立つと足がふるえていると弥次っていやがらせた。三浦はマスクはかむったが胸、スネ当てはつけないで気合いを持していた。

 豊中第三十一回のメンバーは、投手大野、捕手戸苅、一塁手石田、長谷川、二塁伊東、三塁浦山(三十二回)、遊撃手金子、左翼手間瀬、中堅手中林、右翼手山中だった。
 このあたりから少年野球出が中学入りして豊中の野球技術は一段と光ってきた。
 長谷川清氏は国学院大野球部から岡崎工高の監督となった。当時西三河で強かった岡崎高校は筒山吉郎氏が監督であった。筒山氏は豊中三十九回卒。秀才としても知られ東京高師に学んだ。その後長谷川氏は母校時習館へ、筒山氏は国府高へ転じた。もっと活躍すべき人であるが、ただ一つ、健康のすぐれぬのが心配である。
 伊東正治氏は立大に進んだが、家庭は市内萱町の名門「塩屋」の二世だ。
 石田明氏は真から野球愛好者で日本医大へ進み、国立病院から中八町の自宅で外科と産婦人科医院を開業している。
 すでに世を去った名遊撃手の金子正二、捕手戸苅正治、投手・内野の大野正夫がいた。
 石田氏は新川小、金子氏は松葉、戸苅氏は福岡で、少年野球の名選手であった。
 金子氏は中学を出ると間もなく身体を悪くしたが、戸苅氏は四高へ進み全国高等学校大会でたしか優勝した。

 豊中ー豊商の熱戦
 昭和六年、豊橋市制二十五周年の記念行事が行われた。市長の丸茂藤平さんは、一高、東大と野球選手をしていたので野球に理解があった。記念行事の一つに野球を加えようと浪人の私に野球委員長の役がまわり、一切をまかされた。
 その頃の中等学校の試合は大清水や豊川球場にさらわれ、市内では殆ど行われなかった。そこで私は、豊橋のファンのために豊中グラウンドで〃豊橋の早慶戦〃ともいう豊橋中学対豊橋商業の一戦を行いたいと両校へ招聘状を発送した。審判員には、大毎(毎日新聞)や球団の渡米チームの選手内海寛氏が、大毎の名古屋支局に勤務していたので、彼にお願いして承諾を得た。当時の大毎豊橋支局長は、渡米チームの監督をしていた木造竜藏氏で、何かと便宜をはかってくれた。
 入場無料と発表されると市内はわきたち、どこへいってもこの話でもちきりで、場内整理が心配になった。スタンドも何もない運動場のことだ。一、三塁のベンチとファンの中間に竹矢来をして本部席と来賓席だけを確保した。
 午後一時の開幕の予定が、正午前にはグラウンドは超満員。丸茂市長も気をよくし、得意満面で始球式のボールを投げて拍手をあびた。当時の豊中と豊商の実力はまさに互角。グラウンドを埋めた両校応援団やファンの前で試合も白熱し、近年にない大試合となった。審判は内海さんに任せて心配はないので、私は場内整理にまわった。両校の応援団も熱狂的に応援合戦の応酬で場内の雰囲気はいっそう盛り上がった。
 豊中メンバーは、浦山栄一(五年)、小林長(四年)、竹内平(五年)、藤城亘男(三年)、小久保勝男(四年)夏目信郎(四年)、松井正(五年)、佐藤信夫(五年)で、バッテリーは浦山ー小林だったと記憶している。
 豊商は石川、中村浅、藤倉、中西君らのしゃくしゃくたる選手がいて彦坊こと中西はホームランを飛ばすなぞシーソゲームだったが豊中に凱歌が上った。
 第三十二回浦山氏は、新川小学校当時から少年野球の花形であった。おやじさんは呉服店をしていたが野球の練習というとニコニコして運動場のスミでよく見ていたものだ。
 佐藤信夫氏は小柄だが左翼を守りよく走った。いま豊橋市警野球部の監督をしている。
 第三十三回小林長氏は〃デッサー〃といって大きな体躯だった。小久保氏は海軍機関学校へはいったが、本塁だをよく打った。
 松井正(三十二回)夏目信郎(三十三回)も好い男で、市役所野球部で活躍したが、何れも物故した。
 この試合を記録していたのが藤城亘男氏(三十四回)である。国学院大、豊中クラブで名捕手ぶりを発揮し、現在和歌山商業高校に勤務、同県高野連理事長をしているが、彼は当時のことを、
 「豊商の中西君に本塁打を打たれ、〃やるなー〃と思ったが、さいわい勝つことができた。私は今もあのとき丸茂市長さんからいただいた優勝メダルを大切にしまっています」といっている。

 この三十四回生徒は、昭和六年春の東三リーグ戦で、豊商に十ー〇で惨敗した。
 豊商は井下ー星野のバッテリーで豊商の黄金時代だった。のちの豊商が夏の甲子園へ出場したときのコーチはこの星野氏や鈴木氏(早大主将小川太氏の弟で同志社大学出身)だった。
 国学院大学を卒業したばかりの榊原武司氏や大場儀衛先輩がベンチにすわった。武ちゃんははじめてのコーチで惨敗してオイオイ泣くし、選手もなきファンも動かなかった。夕闇迫る豊川球場に立って武ちゃんは「必ず雪辱する」と選手を激励して手を握りあった。
 それから火の出るような猛練習が始まった。武ちゃんは毎日豊中の校庭に立った。そして、再び豊川球場で豊商と戦い、破ることができた。「泣いて手をとりあった悲しさと、再度の試合は勝った喜びはいまだに忘れられない」と藤城氏は述懐している。
 このクラスには、戸苅正夫、野末純雄、夏目稔男氏らに、時習館野球部後援会副会長磯村得弥氏(ユタカ産業)もいた。
 名投手小山の誕生
 昭和五、六年から数年は一中、愛商、東邦、中京が全国の覇をとなえ、野球王国愛知の名をほしいままにした。 三十五回の小山常吉ー夏目米二(三十七回)のバッテリーは、東海大会県下大会で吉田正男投手、野口明捕手、杉浦清遊撃手の中京商に一対〇と迫って豊中野球史の一ページを飾った。中商は全国大会三年連続制覇の最強チームであった。
 この予選には県下から三十六校が鳴海球場に集まった。豊中コーチは早大の中島治康(のち大洋監督)で試合は豊中が断然押していた。
 数回バントで攻め立てたが得点できなかったのは吉田の好投にはばまれたためであった。〇対〇、豊中七回無死で走者一、二塁、打者は五番の石田一塁手。ヒット・エンド・ランのサインに渾身の力を振って左中間へカーンと大飛球を飛ばしたが、中京鬼頭左翼手がすべりながら差し出したグローブにボールは吸い込まれるに入って好機を逸した。豊中守備の八回裏、中京は二死から走者を出し、三塁凡フライの落球と、杉浦の一撃は目測を誤って前進した外野手の頭上を声三塁打となって一点をあげた。豊中はついに涙をのんだ。
 この一戦は、中京にとってもよほどの苦戦だったらしく、杉浦(元中日ドラゴンズ監督)はのちにベースボール・マガジンで「対豊中戦は小山投手にひどく痛め付けられ、危うく敗れるところだった」と述懐している。
 豊中軍は、打順1住野中堅、2近藤二塁、3小山投手、4夏目米捕手、5石田一塁、6鈴木高左翼、7小篠三塁、8富田右翼、9夏目一遊撃。
 中京軍は投手吉田、捕手野口明、遊撃杉浦、そのほか田中、福谷、大野木、前田、鬼頭、神谷らで甲子園で優勝した。
 中京に一対〇まで肉薄したことは、甲子園球史に残る中商が明石中学中田投手と二十五回まで闘った成果に比すべきものであろう。
 小山氏は立大へ進んだ。早くから神宮のマウンドに立つことが期待されたが、六大学野球ともなれば投手の構造もちがう。二か年を耐えて三年生のときエースとして登場、得意の魔球で立教の名を高めた。

 残念ながら野口氏の時習館野球部75年史はここまでと稿半ばで他界され未完となりました。


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