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                       時習館野球部75年(大正時代)

 四中黄金時代来る みよ先輩の歩いた道

   野口品二

 第十五回生、伊藤次郎、岸上さん何れも遠方でお尋ねできない。
 第十七回生は全国大会が実現したときで、主将の牧野茂三郎は〃モッサー〃の愛称で子どもたちにまで親しまれた。
 当時の四中の声価は東海地区に浸透し「優勝は戦わずして四中だ」という評判が高かったので、主催者側の朝日新聞が校長を訪問したり、選手の宿舎訪問して談話記事をとったりし、優勝を予想して表彰の準備をしたという、ウソのような話もあった。
 予選が始まると、四中はうわさどおり破竹の勢いで勝ち進み、一方の強敵山田中学も愛知一中を破った余勢で勝ち残り、四中と山田中の決戦戦となった。激しい応援合戦で、四中応援団は
 「三州の野に霊気あり、凝りて吾等が骨となり、発して吾等が意気となる。健児六百いそしみて、文武を磨くその中に、粋と呼ばるる野球団……」と声を限りに絶叫する火の玉のような応援ぶりだった。
 試合は熱戦で、八回まで五対一、九回攻撃にまわった四中は三点を得てまだ一死満塁のチャンス、一打逆転の強打策戦で打者の小野田に打たせたが、ピッチャライナーで左腕置塩投手にがっちりととられ、ダブルプレーで万事休した。惜しい一戦を落としてしまった。
 この時代は、原始野球から組織的な野球への過渡期で力の野球が主流となっていた。これは一高風の野球の特徴でもあったのであろう。
 牧野捕手は、試合中も山田中の置塩投手の配球や長所、短所を観察して後輩の馬場捕手に教え、翌年の第二回大会に備えるところが大きかった。
 同期卒業は、牧野氏と早川馨氏の二人で、レギュラー七人は残った。
 牧野氏は卒業してからも引続いて郷土にあって後輩の豊橋中学、時習館の世話をみ、豊橋球界のために尽力をつづけた。先輩としては大正五年全国大会に出場した下山ー馬場のバッテリーを強化した直後の基盤である。時習館野球部の四本柱で、牧野氏あることによってゆるぎない部史の脈絡が後継されるのである。

 牧野氏を市役所に訪ね活躍時代の話を聞く。
 ―私達の時代には一高全盛の芦田、平山バッテリーの両氏や、先輩伊藤武、村井氏等が同時にコーチに来て下さって一段の充実をみました。練習は暗くなるまで続け百振りに更に五十回から百回増やして百五十から二百回振りをしました。倒れて後止むで青春のありったけを練習にそそぎました。
 三年生の時のメンバーは投手青山、捕手大沢、一塁伊藤次、二塁渥美、三塁岸上、遊撃戸倉、左翼森田、中堅大林保、右翼牧野でありました。
 私が五年生の時に朝日新聞主催全国大会の予選が行われ、一回戦は愛知一中とぶつかりこれをやぶり、二回戦は飛騨の高山中学を二十九対〇で無人の境を行くが如くコールドゲームで大勝し、いよいよ優勝戦では山田中学と対戦し、最後まで健闘しましたが残念ながら五対四で無念の恨をのんで敗退しました。この時のメンバーは投手下山、捕手牧野、一塁早川、二塁今泉、三塁小栗、遊撃小野田、左翼馬場、中堅小柳津(村井)、右翼久田の諸氏でした。
 私達の時代には 一高野球部が二か年連続で冬休みに四中へ合宿訓練にきました。練習試合で四中が勝ってしまい、一高選手達は合宿所を引揚げてから先輩達から物凄くしぼられていました。そもそも一高の歴史をひもとくまでもなく、日本学生野球の嚆矢として尊い発足をして、現在中学校に虚を衝かれるとは何事ぞ! という意味の訓戒を長々とやられていました。私達四中は野球部始って以来、一高の先輩のコーチによってこれだけの開眼ができたことを考えて、何か身がひき締まるような感懐を覚え、一層奮起しなければならないと覚悟をきめました。
 第一回大会には破れたが、第二回こそ必ず物見せんと次年の下山一磨君を投手とする新チームにバトンを譲って卒業しました。下山君が投手として見出だされたのは、実に犬飼三太郎の慧眼と指導の賜でありました。

 大正五年、第二回全国大会の東海地区予選大会は、豊橋の愛知四中で開催された。
 四中野球部へは毎年一高からコーチが来ていた。四中が強かったのは、先輩の風岡、戸田、伊藤武氏等が一高入学以来、コーチーに来ていたが、予選大会を前にして、一高野球部が合宿練習に訪れ、合同練習をしたことは大きな刺激となった。大正五年には一高黄金時代の芦田、中松両氏からみっちりたたきこまれ、打倒一中の闘魂を燃やした。当時の四中野球部長は満井信太郎氏、副部長森彦市氏であった。四中野球には欠かせない人であったが、満井氏は惜しまれながら大正十年旧制山口高校へ栄転して豊橋を去った。
 この時代の審判は、両校の先輩がイニングごとに交替で行った。それだけに熱がはいり、応援団も燃えて、球場が沸き返ったので、ホームグランドはなにかと有利であった。
 第二回大会の決勝、四中対一中には、四中側の先輩である一高生の村井氏が審判員になったが、鮮やかなジャッジぶりだった。
 村井氏は四中野球部員の当時、学生のストライキで級長かクラス代表をしていたため、自ら退学して東京の府立一中へ転校、一高へ入って野球部に在籍した。
 一中が長谷川ー花井、四中が下山ー馬場のバッテリー、両校とも数年来にない名バッテリーとして期待されただけに、両投手の一球一球に応援団、見物席の熱は高まる一方。特に一塁側の見物席は、ゆれる人波が前へ押し出され、本部席から飛び出した一高の芦田、中松氏らがバットをふりまわして整理したが、興奮した見物客の波は何回も押し出され、そのたびに、〃バット〃の整理を繰り返すありさま。四中が優勢になるにつれて場内はわきかえるなかで試合は進み、九回裏五対四のスコアで村井審判員の右手が高くあがってゲームセット。四中はついに前年の恥をそそいで優勝した。このときの四中メンバーは
 投手・主将下山一磨、捕手馬場駿、一塁手関定幹、二塁手今泉源一、三塁手小栗滋式、遊撃手小野田兵一郎、左翼手下山九郎、中堅手伊藤皋、右翼手塩瀬貞、補欠大場儀衛、伴吉衛。

 四中優勝の野球部を盛り上げたのには、一高のコーチが第一に挙げられるが、先輩や応援団も忘れることはできない。四中の学生六百名は全校一致、足並み揃えて応援団を組織し、先輩は新旧の差別なく毎日母校へかけつけてはボールを拾い、四中ファンはこぞって旗をふった。 選手は大手橋近くの氷屋の二階で規律ある合宿をして練習に打ち込んだ。牧野茂三郎氏は、会社のヒマをみて夜もつきっきりで部員の健康状態にまで気を配って面倒をみた。

 当時の野球部副部長森彦市先生は、東田に寓居せられ、ホトトギス派の巨星として句作に余生を楽しんでおられる。
 森先生と机を並べた旧師に江戸文学の尾崎久弥先生もおられ、この異色ある二教師からほとばしる文学論には、高崎信吉、清水武雄、金田誠一、藤井草宣氏らが輩出しスポーツと共に文学青年も養われた。
 森先生は郁文館中学の一級上に潮惠之助氏がおり、早大の同級に飛田穂洲氏があり、必然的に球愛とならざるを得ず、四中では野球部の世話方となり、生徒を弟のように可愛がられた。小身にもかかわらず体重が十七貫もあって「酒樽」という愛称も走るより転がる方が早いといわれ、大会予選を迎えては生徒と全く行動を一にして炎熱にカンカン照らされて目に涙がしみ、夜は鳥目になるくらい、疲労を重ねた。
 在校五年で渥美電鉄に移り、大清水球場をつくって昭和初年東三球界のために尽くされ先覚となった。森氏は勝ってはじめてスポーツ精神も生まれる―という強い闘志で部員を激励したことが、今も語り草となっている。牧野茂三郎氏は卒業後、森氏を慕って渥美電鉄へ入社し、大清水球場の世話をしていた。
 森先生は藤の花高校で国文学を講じていられるので訪ねた。第九回の山本嘉一先生もおられ火鉢を囲んで相共に語られた。
 東海大会優勝のお話を聞く。
 ―前年既に勝てる試合を山田中学に惜敗し、ことしは我が校の校庭で行われるので、石に噛りついても勝たねばならないと各先輩や生徒は挙校一致で内外の計画を立てた。まず球場の整理もやらねばと、生徒と共に汗みどろになって雑草むしりから石ころを拾ったり、練習をみたり、ボールと駆けっこしたり強行でした。
 試合は、まず勝たねばだめだと生徒には必勝を浴びせたよ。勝って然るに後に運動精神も生まれるんだと徹底的強気でのぞみましたなあー。日通の征矢野君が応援団長で、例の時習太鼓の上で乱舞したもんですよ。私も早大では吉岡弥次将軍のサブリーダーで戸塚の屋根の上で踊ったものですよ。
 コーチは一高の芦田、中松両氏で、はみ出る見物人の整理には二十何貫の中松さんがバットを振って整理したのです。
 一中は長谷川ー花井の名バッテリーで、一球一打睾丸が上ったり下ったりで、持っていた扇子は、いつのまにか骨だけになっていた。
 投手下山君は悠々せまらざる落着いたもので、走者が出ても不利の場合でも更に実力を出して腕の冴えを見せた名投手だった。
 ―「日比野、山崎両雄(校長)のにらめっこは」―
 私は夢中でそんな方は見たこともなかったが、天下分け目の熱戦だけにかたずを呑んだ両校長の顔貌こそ見物だったでしょう。勝ったとき山崎校長がニコッとされたそうです。
 山本―遊撃の小野田は僕の義弟でしてね、大会には和歌山から豊中球場へ応援に行ったが、外野なぞ草ぼうぼうで参りました。

 全国大会に進んだ栄えある第十八回生は、伊藤、小野田、小柳津、今泉、下山氏らで、伊藤氏は豆自動車の異名がある程走りまわる名物男。近藤寿市郎のひとり娘の婿となった。下山投手は八名郡の出身、三人兄弟で次弟省五氏(庭球部)末弟九郎氏とスポーツ兄弟。東海球界を制覇し、大阪高商へ進んで関西で名をあげた。
 小野田兵一郎氏の思い出話しを聞いてみよう。
 ー大正四年の東海五県野球大会で残念にも「ワンダウン、フルベース、ダブルプレイ、アウト」で劇的な優勝戦を逸してから四中野球部の練習は猛烈だった。メンバーは牧野、早川氏の二人を送り出しただけで、前年と殆ど変わりなく、東海大会の優勝候補は四中か愛知一中にしぼられ興味もこの一戦にかけられていた。先輩は春休みはもちろん、夏休みになると母校の校庭にとんで帰り、血の出るようなトレーニングが始った。
 当時は一高のコーチを受けていたので谷本、中松、芦田、村瀬ら一流コーチの特に芦田氏の剛球は有名だった。早大の名投手加藤俊ちゃんらも加わって、若いヒナ鳥にはきつすぎる練習が連日続いた。田舎中学の純真な選手たちも、東京の一流選手コーチで一日一日上達して腕をあげた。むかしの高校、大学の選手と中学校の選手とは全く体格が違っていた。当時は「技」と一緒に精神的な面も訓練された。雨が降ってもバットを五百回も六百回も振りまわして、からだと一緒に水平に振れるようになるまでやらされた。当時の四中は地味で、ストッキングなどは試合のときだけしかはかず、白地に太い筋が三本ぐらいはいっていた木綿のものであった。
 愛知一中には捕手の〃スネアテ〃があった。四中には妙なものをつけていると思い、相手を不甲斐ない捕手だなア…と感じた。捕手のマスクも剣道の面よりもやや荒い目で、細い金でできていた。グラウンドも今と違い、試合前に下級生二百人ぐらい動員して石コロを拾わせ、あと竹ボウキで掃いたのち石灰を水に溶かし、大ヤカンでラインを引いた。
 全国大会へ 宿敵の一中を倒していよいよ第二回の全国大会へ出場と決まると、大手橋の氷屋の二階に合宿して猛練習が始った。氷水やアン物などはきつい禁令が出ていた。練習の総仕上げに一高の現役軍と先輩の混成軍と試合をしたが、相当に打ち、走り、守ったので先輩も選手たちも自信を得た。
 当時の野球選手の遠征姿だが武者修業みたいにスパイク、ストッキングをアンコにして上衣とズボンをすしのように巻き、真ん中をバンドで締めてバットの先へグラウブと一緒にひっかけ、かついででかけたものだ。それが大阪遠征のときは当時流行の柳製バスケットにいっさいがつさい詰め込み、バットだけケースに入れて新しい流行を誇った。
 校内の寮の食堂で先輩、同窓生一同とどんぶり飯で東海地区大会の優勝祝いと大阪大会の激励会を開いた。
 大阪に着いてそのにぎやかさにまず驚いた。朝日新聞社は建築中で、未完成の部屋に机が並んでいた。到着のあいさつやら、組合せの抽選などの打合せののち絵葉書、参加記念メダルなどをもらって宿舎に引上げた。
 阪急宝塚沿線の豊中グラウンドが会場で、全線のパスをもらったのは田舎中学生の嬉しかった一つである。
 一回戦は慶応普通部だったが夜は寝つかれなかった。相手は東京の選抜校。一流の試合を見ているし、慶応大学の菅瀬氏らがコーチャーであったからだ。試合当日は、初めて木製のヒナ段式の観覧席に囲まれているグラウンドを見て驚いた。グラウンドは四中のホームグラウンドと違いイレギュラーのなさそうなコンディションのよさに安心し闘志がわいて武者ぶるいしたことを覚えている。 相手チームの一塁手が、ジョンという外国人であったことも好奇心をそそった。目の色の変わった背の高い色白のジョンがスマートな姿で一人前の日本語をしゃべっているのは、田舎中学生には珍しかった。
 普通部の水際だったノックや華やかなプレイには、こちらもちょっと戸惑いした。それにひきかえ我が四中はバンカラ一高のコーチを受けた田舎チームで、対照が面白かったと思う。
 四中の選手は比較的小柄であったが、みんな肩がよかった。小栗君の三塁から一塁へ矢のような投球、関一塁手の正確な捕球と返球、馬場捕手の盗塁刺殺の送球など、各塁間の送球など、ノックされながら面白い程だった。 慶応の先発投手は新田恭氏だった。我がチームの打棒は巧みにとらえて二塁打、三塁打の連続で打負かした。相手は一大事とばかり、中学チームのナンバーワンといわれた〃トラの子投手〃山口をプレートに送った。我が方はジリジリと追いつかれ、追い抜かれてついに相手の軍門に降った。その年の優勝校が慶応普通部であったことは私たちのせめてもの慰めであった。
 付き添いの森先生や満井先生、先輩、コーチャーの心労はたいへんだった。選手たちは大分あがっていたようだ。今の学生と違って井の中の蛙的な中学生には無理もなかった。帰りの汽車はみんなしんみりしていた。私はみんなと別れて初めての宝塚歌劇を見て温泉にひたった。宝塚には篠原あさじ、天津乙女、坪内操らスターがそろっていた。田舎中学生には羽化登仙の思いであった。私は敗戦の悲しみを忘れようとつとめていた。
 全国大会出場で翌大正六年も、野球に一層力が入り、選手たちも頑張ったが、そのわりに技術は進歩せず、いま一つパッとしなかった。しかし選手以外の上級生には、大会出場の感激や興奮の余波が残っていて、選手への風当りは厳しかった。遠征して負けたときなどは頭を剃るか、丸坊主にしなければならなかった。上級生が校門の入口に頑張っていて首実検のすまないうちは登校が許されなかった。
 もちろん、愛知四中野球部の往年の声価を盛り上げたい熱意からであって、私心があったのではない。

 大正七年には、ちょっとした油断から大事件を起してしまった。岐阜市で東海地区大会が開かれたときのことで四中は練習試合でも負けることを知らなかった。先輩も気をゆるめたのだろうが、大会の前日選手たちは練習後宿舎からとびだして長良川で泳いでしまった。金華山を目の前に見ながら、青く澄んだ清流でたっぷり水に親しんで宿舎へ帰った。
 その夜は、作戦会議を開いて静かに宿のふとんに寝たが、翌朝起きるとキャッチボールもできないほど肩が痛い。一同びっくりした。後悔したがなんともしょうがなく、その日の第一回戦を前にしてなんの手当もできなかった。とくに投手の馬場君は、肩の痛みがひどくて腕が上がらない。一球一球泣きながら投げるありさまで愛知一中に散々な目にあわされて敗退した。四球を十八個も数えたというからおして知るべしだ。
 練習や大会の合宿中の生活態度、またその指導監督がいかに大切であるかということをつくづくしらされた。愛知一中には、この試合で始めて負けたのである。練習試合ではいつも勝っていただけに残念でたまらなかった。選手の一人は失敗の反省を後輩のいましめとしたいと洩らしていた。

 第十九回小栗滋弌氏、二十回生大場儀衛、下山九郎、馬場駿氏は全国会大会の経験者である。
 大場儀衛氏は陸上競技部の主将から足の速いのを見込まれて野球部入りし、村井庚子磨と交替し右翼手。のち捕手として評判よかった。慶大を終えてから下山ー牧野全盛時代の先輩と豊中クラブをつくり、朝鮮全土にまで遠征したこともあった。のち新川小学校の出身のつながりもあって、牧野茂三郎をたすけ少年野球に打ち込んだ。 甲子園で行われた賀陽宮殿下台覧試合に新川小の監督として出場し、岡山出石小学校と対戦し一対〇で優勝。 大場氏は豊橋の小学野球を日本の最高水準にひきあげた功績者である。野球理論も実際にも権威である大場氏の回顧談を聞いてみよう。
 審判官 日本で早く野球を取入れた学校は学習院で、そのころ審判をやるものがなく、洋行帰りの大使館附武官がやった。つまり軍人がやったのでアンパイヤを審判官と訳してしまった。本来なら審判者とか審判員と訳すのだが官となってしまった。いかにも軍人らしい訳だ。
 中学の対抗試合 東海道筋では愛知一中と浜松中学が早く取入れ、両校互いに試合をいどんだが出向くのはメンツにかかわるというので両校折れ合い、中間の豊橋で試合をすることになった。球場は十八連隊東門脇の練兵場で、これが東海地区の中学野球対抗試合のはじまりである。そこでこれに負けるなと四中野球部も創設するが、全国的に早い方だ、東海五県野球大会は全国初の大会として先鞭をつけたのである。
 あの頃の審判は真剣勝負のときは両校から、先輩代表が出てイニングごとに交替してやった。大正五年校庭で優勝したとき本校は村井(一高)さんで、在学時代優秀だったが、学校ストの犠牲者となって東京へ転学した。いま村井さんは大昭和製紙の専務で、大昭和の野球が強いこともうなづけられるわけだ。

 四中野球部にも盛衰浮沈はあった。大場儀衛、下山九郎、馬場選手を送り出したあと、二十一回生の頃は剽捍な捕手塩瀬貞氏の独擅場であった。投手金田東一氏の速球と曲球も冴えていた。また伴吉衛氏らがいる。
 このクラスは対外的に野球よりも相撲部、剣道部が活躍した時代で、相撲部は名古屋相撲場(八高)の東海中等学校大会で覇権を握った。
 野球は、学校の野球部よりも校外の野球クラブが幅をきかせていた。
 例えば狭間小学校同窓会でつくっていた狭友会。伊藤皋(十八回卒)のひきいる吉田方小学校同窓会の豊陽会などが盛んに活躍していた。同チームもしばしば蔵王山下の成章中学野球部へポンポン蒸気船で遠征、両校の親交をあたためた。
 狭間会は伴吉さんが采配を振るい、穂積五一、穂積七郎兄弟、榊原勝男、岡田頼太郎らの諸氏もいた。穂積兄弟は日本の思想界の代表的人物となったが、狭友会時代は二人とも投手だった。五一氏はクラブ野球の腕をかわれて本校野球部の臨時投手にひっぱりだされた。剣道部主将で後陸軍少将となった小野好雄氏も狭友会で、守って遊撃、打って一番打者だった。
 豊陽会からは晩成の大器、名高工投手の大林士一氏がいた。
 ひょうひょうたる伴吉さんは、ピンチに強かった。卒業してからは代用教員となり、さらに母校四中に理化学助手という名目で、野球部監督に奉職した。

 第二十二回生(大正十年卒)には大谷道雄投手、三塁手朝倉力男氏(北大教授)、外野手坂口勝氏(元福江校長)等がいた。

 第二十三回には軽快な球さばきをうたわれた征矢野豊氏や、マスクもプロテクターもかなぐり捨てる闘魂にたぎった小川一郎氏などの猛捕手もいた。大正十二年頃、名高工投手として東海球界に名を馳せた大林士一氏を育てあげた捕手山本利三氏もいた。
 この年四日市で開かれた東海地区大会へ元気で出発した選手たちは、なにが災いしたか、宿舎で食中毒を起してしまった。
 この大会には感情の行き違いから静岡中学と愛知一中が喧嘩となり、両校は試合を放棄したため、四中は名古屋商業と第一回戦で顔を合わせた。選手一同下痢腹で、げっそりやつれた大谷投手は、四球を続出して敗退した。もちろん悪運にさいなまれた食中毒の不祥事で、平素の大谷投手の魔球と速球は、他チームからかなり恐れられていた。
 名古屋商業はこの大会で優勝したが、四中の下痢事件に救われたようなものだった。

 第二十四回には野球の哲人ともいう鈴木益二郎がいた。卒業は十年計画と自分で決め、悠々と草をみしりながら運動場に親しみ、愛称を〃マッスー〃と呼ばれ、狭友会のスターでもあった。十年計画のうち、何年から選手になったかしらないが、恐らく二年生ぐらいからレギュラーに加えられたと思う。岐阜の水泳事故、四日市の食中毒事故の体験者で、野球部史のなかでも異色の人物というべきであろう。
 丸茂市長の硬式野球部づくりに参画し、数年後には石田部隊長に招かれて補充馬廠の軍人チームの監督となった。少年野球が盛んとなると母校松山小学校チームのコーチとなり、のちに名古屋の岡本自転車に入社した。
 鈴木氏におとらぬ豪傑(二十四回生)に上村悌三氏
(上村政経研究会東京事務所長)がいた。家が福江で休みになると渥美半島十三里をゲタばきで往復ラムネ一本飲まなかった。
 その他に、堅塁を固守した山口金雄氏、外野手吉川利夫氏がいた。山口氏は専修(中大)大学を出て郷里の三谷中学に奉職し、同校の野球部を盛り上げた。御馬の
「引馬野」が実家である。
 この頃の野球部は、広小路にあった村田屋旅館が夏の合宿所で東海大会に備えて練習したものであった。

 第二十五回の豪球投手・大林士一氏は五尺七寸のヌーボー的な風格だった。調子の好い日はすごく速い球を投げた。四中時代は〃大物投手〃の一端を見せたが、名高工へ進学してから完成した。捕手には伊良湖出身の森政徳氏がいた。御油出身の山本清も捕手として登場したが、そのときは一塁に回った。

 第二十六回には、外野手鈴木喜七(東大卒、建築事務所)がいた。マネージャーは白井晋介氏(元豊信理事長)であった。この頃は庭球部がなかなか頑張っていた。剣道には鳥居重雄氏がいた。卒業後母校の剣道助手となり、教職員と生徒の対抗試合で、鳥居氏は本塁打を打った。

 第二十七回(大正十五年)には佐藤三平氏がいた。三年から四年まで投手だったが肩をこわして一塁へまわり、三年の竹内君(二十八回)がマウンドへ、田中忠氏(同)が捕手だった。二塁には、瑞陵高校野球部の監督となり、中日ドラゴンズの徳永、一柳を育てた〃武ちゃん〃こと榊原武司氏(二十九回生)が二年生で頑張っていた。美少年の武ちゃんは部員からも、ファンからも愛された。 遊撃に杉浦ふかし氏、左翼手に森下愛人氏、中堅手に山口亘利氏らがいた。森下氏は早大を出て中央相互へ入ったが、学生時代はきびきびしたプレーが目立った。山口氏は、戦争中憲兵少佐となり、戦後、東京の収容所へ入った。豊橋出身の大島親光とあちらで同室となり、野球だけが人生だ…と二人でキャッチボールをしていたそうだ。
 佐藤三平氏は松葉小学校の教師となり、同校野球チームを三年計画で育て、昭和六年の全国少年野球大会で見事優勝の栄冠を獲得した。
 その後大陸に渡り学校長となって引揚げ、伝来家業のはかり屋さんを開設。その余暇にはときどき母校の練習を見ては目を細めている。



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