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  貴重な野口品二氏の時習館野球部三部作

 野口品二氏は時習館野球部の先輩たちの苦労、プロフィル等、特に創設時代、明治から大正、昭和初期にかけての選手の活躍ぶりについて、昭和二十七年、東三新聞に『全国制覇の夢』―時習館高校球史。昭和二十八年、豊橋新聞に『時習館野球部物語』。そして東海日日新聞に絶筆となった昭和四十八年『時習館野球部の75年』の三部作を執筆しました。これらは時習館野球部史の中枢をなすと言っても過言ではありません。
 この三部作を合わせ、文もなるべくそこなわず、明治大正、昭和の時代に分け掲載させていただきました。
 なお、経歴等は当時のままですのでご了承ください。

  野口品二氏の略歴

 野口氏は成章館当時から野球部応援団として、野球に造詣が深かった。
 豊橋地方運動記者の草分けであり、野球、陸上、その他あらゆるスポーツ大会開催のリーダーシップをとっていた。特に野球については旧練兵場を中心に実業団野球大会の音頭をとり、片や学生野球、都市対抗戦には率先して郷土チームの応援団長をつとめられました。
 戦前から青少年の健全育成にも力を尽くされたが、戦後は県民少年団の創設にも努力。
 一方、豊橋に子供会野球を楽しむ会を創設したのは特記すべきで、大きな土壌的役割を果して来たといえます。
 豊橋野球協会副会長として、球会発展に尽くした力は大であったといえます。
 野口氏は、東海日日新聞に、『時習館野球部の75年』を病をおして執筆中でしたが、昭和四十八年七月、七十一歳でおなくなりになりました。
 未完であるのがたいへん残念ですが、野口氏の野球に捧げた情熱、なかでも時習館野球部に寄せられたご厚情に対し、深くご冥福を祈ります。



                      時習館野球部の75年(明治編)

  野口品二

 月岡、加藤、中村氏ら校史を飾った健児たち

 愛知県立時習館高校は、ことし創立八十周年を迎えて盛大な記念式典を行うが、これを機に同校野球部の記録をまとめた。いまから二十前の昭和二十七年、二十八年の全国選抜高校野球大会に、同校野球部が二年連続出場の輝かしい栄誉を獲得したとき、豊橋野球協会の役員をしていた私は時習館野球部の激励を兼ねて同校野球部史の記録のまとめにとりかかった。それに昨年三月、成章高校が第四十四回全国選抜高校野球大会に出場が決まったり、同校の甲子園出場後援会副会長として私が河合豊橋市長ら政、財界の球界理解者にあいさつに回ったとき、期せずして愛知四中が出場した第二回全国高校野球大会(当時は全国中等野球大会)が話題になった。五十余年前のことで忘れている人も多かろうと、当時の記録も加えることを思いたった。明治三十二年の愛知四中野球部創設時代、大正五年の第二回全国大会出場、昭和二十七、二十八年の全国選抜大会連続出場の三つを柱として、四中野球部黄金時代の各回卒業生の代表選手など時習館高校野球部史の思い出を綴ってみた。
 明治三十二年創立の愛知四中野球部の歩みは、創設時代の概要から語らなければならない。時習館高が全国選抜大会に出場した二十年前には、第一回卒業生は四、五人が現存しており、豊橋外でお会いした人が三人あった。しかし、当時の先輩もすでに六十年を経過して記憶もたしかでなく、幾人かの話を総合した。野球だけではなく初代校長の風格や生徒たちの生活等、学園生活にも触れてみた。
 当時の時習会長で生き字引といわれた弁護士加藤健一氏、元軍人の月岡新治氏、神藤病院の神藤純一郎氏、名古屋市内で開業している医師中西培一郎氏からは機会あるごとに話をうかがった。
 加藤氏は飽海町にいたので、私が市の体育館や野球場へ行ったさいに散歩姿の加藤氏とよくお会いした。月岡さんは市会議員になられた頃から八町小学校の正門前のお宅に遊びに行った。神藤氏は私の兄野口令吉(医師、元県議)が第九回卒業で一時副院長をしていた関係もあり、戦災で新居町へ疎開されたときも、疎開先をたびたび訪れた。名古屋市千種区の中西さん方には、立派なお庭があって、ときどきお寄りしたが、豊橋の話を報告すると喜んで歓迎してくれた。
 第一回生では、このほか、東京在住の三河郷友会の大先輩豊田久和保(会社社長)、札木町でスポーツ店を開業した近田美喜太郎、私が成章中学生時代にお世話になった早稲田出身の鈴木誠一先生。鈴木先生は歴史の担当で、寄宿舎舎監、恩師と同時に私の保証人でもあった。この三人からも参考になる話をうかがった。
 愛知四中有志会は、第三回から第二十九回までの卒業生のうち同志的有志で組織され、春秋二回家族連れで郊外のハイキングや酒の会を開いたが、私は特別の扱いで出席を呼びかけられた。会長は向坂清助さん、幹事は東田郵便局長西川喜代三郎さん。名古屋から第三回の高橋政吉さん(日体大愛知会長)第九回山本嘉一さん、東京から時習会長中村泰さん、また市内小池の中村喜一さんらが参加して毎回四、五十人が集まって運動部や先生の話がはずんだ。
 向坂会長は海軍少将(女婿は田中六助代議士、福岡県選出)、高橋政吉氏は私の妻の実父、向坂会長とは同級生で器械体操で結ばれた親友だった。石巻山の遠足でテング岩の頂上で逆立ちをして先生や生徒を驚かした。
 時習館は、明治二十六年に町の有力者によって関屋町賢養院に実業補習校として創設された。その後、旧藩主の大河内家が用地を寄附して西八町に移転新築し、明治二十八年四月渥美郡豊橋町立尋常中学時習館に昇格、明治三十三年県立に移管された。初代校長には石川一氏を迎えて特色ある新教育が行われた。その後愛知県立四中、愛知県立豊橋中学校となり、昭和二十三年の学制改革で高校、さらに高校の統合で時習館となった。
 時習館の野球部史は明治三十二年の野球部誕生にはじまる。
 最初の野球部員としてボールを握った第一回卒業生(明治三十三年)の加藤健一氏から野球部創設当時の苦難の道を聞かされた。

  征け時習館の健男児、先輩はワラジで頑張った

 時習館野球の創成期(明治時代)先輩たちの悪戦苦闘の物語

 ・第一回卒の法学士弁護士の加藤健一氏を裁判所に訪ねお聞きする。
 ―明治二十八年、初代校長石川一先生が赴任された。先生は東大法科の畑違いだが、教育畑へ入るだけに非常に愛情があった。当時二十八歳という若い校長だけに野性的団体遊戯が好きで、雪が降ると雪合戦、兎狩りと大いににやらされましたよ。野球は新知識で、校長が移入してくれたんです。黒板へダイヤモンドを書いてこれが投手、これが捕手、これが一塁と説明し、球を打つと一塁へ突入すること、つまりルールの第一ページから教えられて野球試合が始まったのです。
 もちろんその頃は素人でキャッチボールをやりまして指の一、二本はみんな折りました。何しろ野球といえば一高や横浜の外人の間に盛んになった頃で、卒業前後にやっと捕手だけミットとマスクがあたえられるような始末でした。途中から海兵へ入学した門司徹君は実に名選手でしたよ。月岡新治君もうまかった。

 ・第一回卒の加藤平左衛門選手は大男で、一塁まで僅かに七、八歩で走ってしまうので、時間が遅いと思ってタイムをはかってみると一番早かった。
 ・第二回は大橋勲氏、第四回は中村正司氏(サンビシ相談役、小坂井の三河醤油創設者)川出麻須美氏(旧七高教授、愛大教授)第五回は大林正志氏(大林製糸)らがそれぞれ中心となって野球部を育てた。

 ・第三回の横田忍氏は選挙ともなればなかなか難しい顔付だが、母校の野球のことになると相好をくずして、 ―僕は選手ではないが応援団長でどこへでも行ったよ。試合の相手は浜中、岡中で、一中とはたまにしかやらなかった。負けると上級生が俺について来いと選手一同を床屋へつれて行って全部カミソリで丸坊主頭にされたもんだ。負けてばかりでは駄目だぞというと、この次は勝つよとくよくよせなんだ。とにかくねばり強くて気概があった。
 選手でなくてもみんなキャッチボールやノックぐらいはやって、僕のこの指が曲がっておるのはボールにやられたんだ。
 そのころは未だ西八町で途中から今の中配のところへ移転した。
 僕の記憶では第一回は島本龍太郎、加藤平左衛門、門司徹、第二回は鈴木宗二、第三回では小久保多賀吉、佐藤秀也、原口徠、山本毅一、第四回は野沢房次郎、山口静雄、渡辺貢がいたね。
 校長は、石川一、松浦寅三郎、大野木克豊、山崎新太郎らで、松浦先生は後に学習院に行かれたが、この校長は野球も好きだったが、詩吟と剣舞が好きで僕達寄宿生は毎土曜日には必ずやらされた。最後に山盛りのまんじゅうを振舞ってくれたからのう。

 ・第四回の川出麻須美先生は東大文科出身で七高造士館の教頭を最後に小坂井に帰られ、現在は町の学生や青年が先生の徳をしたって集まり講義を受けたり、愛大で国文学を講じている。
 ―四中の思い出といっては三年生のときに県立第四中学になり、制服は黒木綿の筒袖に紺袴でした。この制服は全国で海南中学と本校の二校だけで坂本竜馬の血を受けた土佐の海南中学から型取ったといわれいます。
 野球部といえば初代野球部長は村上先生でしてね、
(ああ、あの一世を風靡したハゼ公先生です)
 この頃から野球部は本格的になって、東海五県大会がトーナメント式で行われ、優勝戦は愛知一中と浜中で浜中が勝った。本校も美濃路、伊勢路へ遠征し、大垣中に勝ち岐阜に負けた。
 服装は草鞋脚絆でグローブは一塁と遊撃だけ。ミットは捕手で、外野手は朝顔の花のように両手をひろげて待構えている。そこへフライが上ると応援団は狂気拍手喝采したもんです。
 岐阜遠征のときは小岩君が投手で私が捕手、遊撃は野沢君と大林正司君がやりました。私は二塁もやりました。同級には中村正司君もいた。彼は早大を出、三河醤油の社長として三河随一の三収味噌を製造しているよ。
 当時の野球は柔道、剣道と同じような気分でやりましたから、今の野球とはちょっと精神的に異なっているので猛烈さがしのばれるというものです。前にも話したようにスパイクがワラジですからね。ユニフォームは想像してくれ給え。

 ・第五回の大林正志氏は、小岩投手の次に投手になり、外角曲球とドロップを武器とした。岐阜と対戦して破れ、大垣には勝った。大垣の投手は青木といい、後に早慶第一回戦の慶応捕手となった人物である。
 試合前青木が宿舎で、大垣は岐阜には一度も敗けたことがないと豪語したのでひやりとしたが、青木のスピードをポンポン打ちまくって勝った。敵を呑むこともよいが当の敵には謙虚がいい。
 一中には鵜飼―久野の名投捕手で、慶応が東海道を遠征したとき破っているほどだった。当時、全国の中学で強いといわれていたのは横浜商業であった。

 ・第六回、石川正六氏は、日本球界の権威となった当時早大野球部の橋戸頑鉄氏の合宿練習を見て、俺の方がよっぽどうまいと自負せさしめた超中学級の名選手で、四中野球部創成期から雌伏時代の基盤を堅実ならしめた先輩であり、また戸田保忠などの協力なメンバーをそろえ、四中初期の黄金時代ともなった。
 四中を卒業するや約十年間、母校野球部のコーチとなり、加藤俊ちゃんを投手とする黄金時代を形成せしめるに到った。
 石川氏が入部した年に岡中、浜中を豊橋へ迎えて試合をし、浜中には負けたがその理由がおどろくではないか。島本氏が遊撃手で、アタック・ショートとにらまれたか遊撃ばかりねらわれ、島本親分もあがったのか、トンネルし、左翼の私のところへもときどき球がきたが、右翼へは一本も飛ばず、シビレをきらしたか三浦のヤツ試合中得意の倒立をやりはじめた。三浦深蔵のサカダチは天下一品でした。ところが運悪くそこへ飛球がいき、あれよと思ううちに三浦の股間をとび越えて球は転々、さすがの三浦もあわてふためいて追っかけたが間に合わず大失策をやった一劇があった。これさえなければ負けはしかっかっがネ、と石川氏は口をへの字に当時を回想している。
 同級生の戸田氏は、藤田東湖と共に「水戸の二田」と敬称された戸田忠太夫の曾孫で、父忠正氏は最高位の裁判官であったが、一家と共に当市に住んで公証人役場を開いておられた。戸田氏は一高に進み、のちに農林次官となった。
 使用ボール 浜中、岡中三校マッチを豊橋で代表者会議を開いた。従来は経費の関係で四号ボールを使用していたが、浜中が三号ボールを提議したのでみなこれを賛成した。ところが学生野球を牛耳っていた第一高等学校から二号に一定すると発表があり、ために二号に変わった。ボール代が高く、皮が破れると剣道具屋から皮を買ってきて教室で縫っていた。この間もセガレがどこかで、「オイお前の親父は教室でボールばかり縫っていたげなぞ」というのを聞いてきたと言って笑ったところです。
 鍛冶氏のコーチ 豊橋銀行の頭取鍛冶千万人さんの令息が三高の三塁手で、三十六年の夏期休暇にコーチに来てくれた。これがコーチの始まりで、大林投手はアンダースローの投法を教わった。
 岡崎中村投手 大津屋味噌の中村政吉氏は一年生を四中に入学した。杉田英一郎氏の伯父さんで魚町の杉八商会におられたが二年生から岡中へ転校し野球部に入った。サウスポーだが右投にも秀で、特にアンダースローは凄く四中勢はしばしば悩まされたが、小林コーチが打法を指導してくれてから一同打てるようになった。
 小林コーチ 大正から昭和にかけて六大学の華やかな頃、一高、東大の投手に梶原という名選手がいた。その親父さんで球界の赤鬼と渾名された有名な一高野球部の小林弥之助選手が二か年連続でコーチに来てくれた。その頃の一高は守山名投手、潮憲之助遊撃の時代で、元豊橋市長丸茂藤平氏が両角といって球拾いをやっていた頃である。
 二か年連続の来校で、見違えるように各ポジションの働き即ちチームワークが洗練されてきた。
 浜中が強かったのは早大が夏期合宿に来ていたことも原因していた。橋戸頑鉄の投法を見てこれは恐るるに足らずと感じたが、然し泉谷さんは実にうまいと思った。 当時、捕手にはなかなかなり手がなく私が選ばれてなった。私はオーバーで投げる練習をしていたから軽く投げて二塁へライナーで届いた。然し戸苅隆始、服部源助、風岡憲一郎等が入部して服部が捕手をやるようになったので私は投手、遊撃をやった。
 第七回生を主軸とするチームは投手山本康、捕手服部源、一塁斉藤盛、二塁戸苅隆、三塁山本治、遊撃久野正、左翼藤森、中堅風岡憲等が記憶にある。
 校友会部費 野球部長は村上先生から森部先生にかわり、野球部とボート部は断然幅をきかせて柔道部、剣道部が各々五円なのに、我部とボート部は各々四十円宛であった。
 ボート部は朝倉川畔に艇庫があって一中を破っていた。庭球部は頑として認めず予算はとらせなかった。
 百振りの効能 卒業しなかったかも知れないが、森河という選手がいて通称三振王と呼び、森河がボックスに立つとあああいつの番ではあかんといつもあかんと思っていた。がドカーンと安打を打ってびっくりさせた。それは練習時百振りといってバットを百ペン連続に振ることをやらされたので、そのお蔭だとみんなで話し合った。 話題の中に第一回の島本氏や月岡氏の名が出てくるのでおかしいと尋ねると、いやボールはスピーディであったが、進学の方はスローで、ちょくちょくダブリましてナーと頭へ手をやり大笑いした。

 ・第七回生元海軍中将戸苅隆始氏を牛久保町に訪ねた。 「中学時代の野球か。やりましたなー 毎日暗くなるまで練習をやって豊川の大崎まで帰った。あの頃は汽車は牛久保までしかなく二里歩くんだよ。家に帰りランプの下で机に向うとグウグウで母にとがめられては寝てしまってまた早朝からテクったものだよ」
 野球の組織については 一高の小林コーチが来てくれてから組織的になった。校内の野球も盛んになって森部部長の発案で本校最初の優勝旗ができて校内野球大会をやり、四年の僕達のクラスが最初の栄冠を獲得した。
 野球は好きだったから真剣にやった。今日こうして健康に恵まれているのは中学時代の野球の賜物だ。その頃は脚絆に足袋で親指に穴が空き、小石が入り実に痛かった。
 僕の頃にはクリクリ坊主にはならなかった。それよりか勝つと応援団が集まってきて選手一同を胴上げするのでうれしかった。僕もやってもらったよ。
 僕が入学した年から洋服となりカラスではなかった。 明治三十三年岡中に三戦三敗のあとを受けて十五対十と大勝し、歓声で練兵場も破れそうじゃった。小林コーチの成果ですよ。四中が好きになられたか東大生になってからも来てくれた。当時の四中のマークは4ホワーで( )、グローブもミットも手袋みたいにぴったりしていて今のようにふっくらしていない。
 戸苅氏の日記によると、明治三十七年十一月五日(土)本校対岡中試合は練兵場で挙行せられたり。二時半より日没五時三十分迄に終了せり。
 本校のP山本康平マラリヤの為に去る三戦三敗の時いらい欠席の為、石川君Pとなる。

 ・第八回は、歴代野球部の逸材、温厚篤実の君子、風岡憲一郎氏が主将であった。このクラスには片野金次氏、村田可也氏、服部源助氏、松本正吾氏、宮路豊吉氏など知名人が顔をそろえていた。
 風岡氏は一高野球部で活躍、さらに東大へ進み、東大が六大学野球へ加盟する基礎をつくった一人といわれている。
 村田氏は入部しなかったが時習館野球愛好の古株で、その後四中野球部の夏期合宿は、毎年村田氏の援助で村田屋旅館が合宿所となった。
 宮路豊吉氏は死去するまで、野球部のために物心両面の援助を続けた、隠れた功労者であった。
 片野金次氏(魚町化粧問屋)談―僕が四年三学期の時、中柴の新校舎に移り、風岡君の統率で校庭球場の整備をやったよ。市役所からローラーを借りて来てみんなで引いたもんだ。五年生の時から完全な球場になり、練兵場から本校校庭に本拠が定まり四中のスタートが始まった発展期だ。戸田先輩(一高)のコーチを受け浜中を迎えて三対二で勝った。村上舎監から五円貰って茶話会をやったよ。
 僕は二塁で球をつかむことがうまくて握ったら必ず離さなかった。一高の中野鉄山に似ていると戸田さんから褒められたよ。チームは風岡、服部、杉浦、久野、僕が五年で、三、四年になく、二年の平尾(圭)、山田、星野、本田がいた。
 僕達の時代には全員ミットを用いた。いろいろの形のを使ってみたが、小さいのがよいと小さいのを採用し、ミットの中の毛を抜いて薄皮でやった。少し痛いがこれが一番捕らえよかった。これは風岡君の発案であった。これも風岡君の発案だが、外野がバックの際、従来の前向きに球をみながら後さがりでは自由な活動ができないと、風岡君はフライをみるや勘でバックして走り、ここらでよいと思うところで前向きになって飛球を捕らえたのである。これは今日やっているが当時としては一大発見で奇効を奏した。

 ・第九回は弁護士小木曾丈三郎氏、第十回は陸軍中将になった広田豊氏、田口鉄道監査役の七原佐四郎投手、第十一回は伊藤太郎氏、第十二回は平尾圭一氏らが活躍した。
 平尾氏は偉丈夫の名捕手で、〃平尾の強肩〃ぶりは四中野球部の名を高めた。
 平尾氏は三年から捕手となり、杉浦、近藤、加藤三君の投手の相手をつとめ絶対に盗塁を許さなかった。特に翌年のチームが東海五県を制覇する、いわゆる加藤俊ちゃん時代が現出するのであるが、これは平尾氏のリードに負うところが多かった。私の少年時代、ヒョウカンな平尾氏のマスクは、鮮やかに記憶が残っている。
 平尾氏を牛川町に訪ね活躍時代の話をお聞きする。
 ―四年の時まで外野もミットでしたが、グローブに変わりました。そして足袋はだしから近代野球の足となったスパイクになりました。ズボンの上の兵児帯もバンドになり、原始時代の外装からやっと抜け出た。また技術の面でもぞくぞく変貌し、元来本校は一高「柏の葉」の伝統の精神がみなぎって得るところが絶大であったが欠くるところも出てきた。それは対外試合で分明してきた。

 バントとホームスチール 一高は小策はろうしないのでバント戦なぞは全然とらなかったらしい。やっていたかも知れないが僕達は教わらなかったんです。
 県大会で津一中と対戦したのだが、バットを軽く当てて球を真下に短く落して走るんです。捕手が拾うのか投手が拾うのか判断つかず、私がやや近いので拾うため前進すると瞬間ですから尻もちついたり、走者が邪魔でサンザン苦しめられました。ヘンな打法だと思っていたら、これがバントであることが解った。津一中は慶応大学がコーチしていた。早慶戦もはじまり、技術的にも進歩していたのかも知れない。
 ホームスチール 第二はホームスチールで、捕手が球を受けて投手に返さない間、三塁走者がばく進してきて、打者の後から三塁へ投げようとすれば打者が邪魔になり、打者の前からすべりこまれたんです。
 これに奮起してバントもホームスチールも受入れ、加藤と組んで少しばかり活躍しました。

 明治四十二、三年、戸田、風岡氏が相次いでコーチに来校、盤石に四中軍をつくりあげた。東海五県大会は優勝戦で宿敵愛知一中と覇を争うことになったが、一中は審判に難癖をつけ退場し、事実上四中の優勝に帰した。この大会の前に既に一中校庭で四中が勝っているので、一中は実力を充分知っていた。
 また、この年には明治大学が東海道を遠征し、四中の校庭に迎え一対一で勝敗何れに決するか、左翼手球をとらえながら頭脳的失策で一点を奪われ僅かに勝を譲った。
 これらの話を聞いてみよう。
 ―東海五県大会の前に一中へ遠征した。その時のメンバーは投手加藤、捕手平尾、一塁中原、二塁沖、三塁伊藤、遊撃山田、左翼鈴木イタル、中堅北河、右翼村井、犬飼であった。沖は男爵沖県知事の息子で兄貴は一中にいたが操行治まらず、戸田コーチから何故入部させたかと叱られ、この時一回だけ出場しその後やめた。この沖が二塁を守り盗塁は一つも許さなかった。
 何回目だったか忘れたが一中選手が大飛球を打ち、左翼の鈴木がよく走りラインから二間出て僅かにグローブの先に触れて落球した。その瞬間審判はヒットを宣告した。そんな馬鹿なことがあるかと四中選手は球場に座り抗議したが、審判はレフトが球をとる時足がラインの中にあったとがえんじないないので、再び続行したが、そんなことがあっても勝った。
 ホームランを加藤は二本、私は一本とあとオール安打で敵陣をかき乱した。加藤は投げて良く、打って強い選手だった。東大の豪球投手でならした戸田コーチが三振をとってやると真剣に投げて、絶対三振しなかったのは私と加藤でした。加藤、近藤は大物打ちであったが私は確実主義であった。
 東海五県大会は津一中で行われた。連戦連勝で最後は優勝戦で一中と対戦することになったが、一中は四中のの実力に恐れたか戦わざるに審判を拒否して球場へ来なかった。
 そこで主催者は四中に優勝旗を授与することになり、代表が三名でかけようとしたら、コーチの風岡先輩がお前達は優勝旗を貰いに行く気か、戦いもしない優勝戦で相手が棄権を宣告された以上は本校も潔く辞退せよと優勝旗を貰わずに帰校したー。
 見事なスポーツマンシップで先輩の分別は大したもんです。で明大も来ましたね。
 ―あの時、右翼は誰だっか級長をやっている男を出し、最後の守りに飛球が飛んで思いがけなくうまくとったので、応援団から拍手喝采、本人も喜んでしまって球を握ったままだったので三塁走者にホームをとられた。
 あの試合は私も傍見していた。明大選手は全員美髯をたくわえていたので、応援団からヒゲのオジサンと弥次られていたことを覚えている。このチームには野球評論家の小西得郎氏も加わっていた。
 応援団といえば、四中時代の応援はすばらしく、何れの先輩からも聞いたことであるが、応援団の活躍は部史の数ページを飾るものであった。たとえば岡崎に遠征する場合は、選手を先頭にして応援団は延々と徒歩で往復したというのである。星うつり時かわれどこの質実と団結さを生かしたい。
 平尾氏の同級には白井(北河)三塁、近藤投手がいた。

 ・第十三回加藤俊治氏は変化球を武器として海道に響き、懇望のまま卒業の年に早稲田大学に入り、早稲田の花形投手となった。
 日本で初めてアンダースローを編み出し、早大第一回渡米遠征では、当時アメリカでも強いといわれたワシントン大学を押えて、 日本に早稲田あり と名声を高めた。しかし家庭の事情で、早大から鹿児島高等農林に転校した。
 卒業後、歩兵第十八連隊(一年志願兵)として入隊した。第二回全国大会で本校が緒戦にぶつかった優勝校慶応普通部のエース山口投手も入隊し、大島部隊長の了解で一年生志願兵チームを結成、市内実業団チームの札木町テングクラブ(舞鶴ずし)、本町白狼軍(菊宗)、丸愛製糸(河合寿美吉)、大林製糸(大林保)と硬式でしばしば対戦し、往年の片影を偲ばせた。
 明治四十五年は犬飼三太郎、伊藤武雄、伊藤鶴吉(共に第十四回という四中豪勢な時代であった。
 〃鉄腕の鶴さん〃強肩の犬飼のバッテリーは名コンビで、宿敵愛知一中を初めて撃破した。
 伊藤武雄は頭脳的投手で、あざやかに敵の虚をつきチェンジ・オブ・ペース的な洗練さがあった。秀才で一高、東大と進学し一高時代は投手重任を果たし、一高の伊藤で活躍した。
 鶴さんは鈴木翠軒(十四回卒・芸術院会員)を慕い、書道家となった。なごや市立西陵高校に勤務しているので名古屋に訪ねた。
 ―私は三年で三塁をやり、五年で投手をやった。俊ちゃんは一級上でした。私が投手になったのは犬飼君の熱心がそうさせたので、はじめはワイルドで球が荒れていたが、漸次コントロールできてきた。犬飼君とはずっと一緒に寄宿舎にいて私の為にかばってくれた。冷水摩擦を続けさせられたり、夏なら真綿を肩に着せてくれたり、カンフォルチンキをつけてくれたり並々ならぬものがあった。
 コーチはずっと一高全盛時代の先輩が来校してくれました。四年で三塁の時、戸田さんがノックしてくれて、ダイレクトで私の頭上をかすめて左翼西野君のとこへ流れ、西野君がそれをはっしと受止めたのはよかったが、 指の股へはさまっので手の平が一寸ばかりさけてしまう程豪球でした。
 それだけに練習も猛烈で、三塁にいても二塁へしばしば走らされ、球が見えなくなるまでやったから練習がすんで体操場へ上る時には足がまともに上らず、這って上ったものでした。
 野球部長は星野安蔵先生で、技術はできなかったが好きと熱心で毎日生徒と行動を共にしてファイン・プレーの時は重いきり拍手して激励してくれた。それから犬飼君が自らボールの中から生まれ出たような男で、五分間でも暇があればグローブを持ち出して投球させられ、球さばきがよくなり力がついてきた。それに統率力があって全員を引き締めてくれましたから、つまり先輩と部長と部員がぴったり一つになって部の調和ができて強くなっと思う。
 練習は東海五県大会が目標であったが、明治天皇の崩御で中止されたのはたいへん残念でした。その年最強の四日市商業と対戦したが、俊ちゃんが肩を痛めて寝ているのを起して注射を打ってやったので、クロスゲームだったが、三対二で負けた。
 五年の時、一中と対戦し四対二で勝った。一中は高松ー平井の投捕、一塁花井、左翼加藤高茂等がいて最強を誇っていたが、三振十六を記録した。この年はもう東海道には恐るるものはなく中学校では相手なしというわけで八高へ挑戦し延長戦の上一対〇で負けた。
 明大と二回対戦し、二対一、三対二と二試合とも延長の末負けた。明大は青柳ー斉士の投捕であった。
 一中の高松は後に早大の主将となり六大学の寵児であった。このチームを完膚なきまでにやっつけたのです。私が思う存分投球できたのは全く犬飼捕手のお蔭で、二塁投球など二塁手の膝ヘビュッと真直ぐうなって飛び、それだから走者がいくら出ても私は平気で投られました。 黄金一中を破った時のメンバーは投手伊藤、捕手犬飼、一塁中原、二塁大沢、三塁坂井田、遊撃鈴木憲、左翼西野、中堅西村次、右翼伊藤武、の諸君であった。
 犬飼三太郎氏は平尾圭一氏に続く名捕手で豊橋球界に永く令名が伝わったものである。
 四中卒業後は警察畑に入ったが現在は名古屋の日本軽金属KKの人事課長であり、そこへ訪ねて懐旧談にふけった。
 ―明治四十二年頃といえば中学の付近は桑畑であった。今中配のある四中の前身が寄宿舎にあてられて、そこにお世話になり四中に通ったものです。
 その節の試合相手といえば浜中、岡中、一中、岡師、安城位のものでした。今のように沢山試合をするというわけにはまいりません。一年を通じて二、三回位が関の山で従ってその間は練習ばかりでした。それだから、いざ他校と試合になると大抵の選手は前半戦は足が地についていなかった。
 東海五県といって静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀から集まったものです。岐阜からは飛騨の高山中学が弁当を肩からはすかいにかけて三日がかりで岐阜まで歩いて来たもので、腕前は別としてその意気の盛んなることは大したものです。
 目標はいつも打倒一中で毎年練習したものです。
 当時は浜中、一中、岐阜、大垣、四日市、山田がA級で、四日市は一中と対戦して互角の試合いつもやっていた。それを四中が四日市を負かしたので、間もなく一中が試合を申し込んできたので校庭で迎えうったことがあった。この時の球審は八高三塁手の服部先輩であった。好試合だったので私共選手の喜びは例えようのない狂喜乱舞でした。
 この調子では五県大会は優勝できると思っていたが、明治天皇の崩御のため東海大会は中止となり無念やる方なく卒業してしまった。




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