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                            時習館の生い立ち

 時習館高校の歴史は大変古く、源は江戸時代宝暦二年(一七五二)創設の吉田(豊橋)藩藩校時習館に発しており、廃藩置県後一旦は中絶したが、明治二十六年私立補修学校時習館が設立され、同二十八年町立に移管、豊橋尋常中学校時習館の開校となった。実質的な意味での時習館高校の創始期を迎えた。

 藩校時習館
 藩校は藩学校ともいい、江戸時代諸藩が設立した藩士の教育機関で、江戸時代を通じて約二百八十校設立された。
 藩校時習館は、時の吉田藩主松平信復によって宝暦二年(一七五二)創設された。尾張・三河(愛知)では尾張藩校明倫堂に次いで二番目で、隣の田原藩成章館は文化七年(一八一〇)年の設立である。

 時習のいわれ
 時習館の「時習」は、論語学而篇の冒頭、「子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而慍、不亦君子乎。」の初句から採ったものである。
 一般に藩校の名称は、主として中国古典の中から選ばれ、儒教的、道徳的な語句が用いられた。「時習館」という名称は、藩校名としてまことに適切であるので、全国の藩校中で五、六藩名乗っていた。
 藩校時習館は百二十有余年続いたが、廃藩置県に際し明治五年(一八七二)二月に廃止となった。またこの年八月に、わが国最初の国民皆学を目指した、近代的学校制度の基本を定めた「学制」が施行された。

 私立補修学校時習館設立
 二十年余の空白を経て、明治二十六年(一八九二)四月、豊橋町有志三浦碧水、杉田権次郎、児島徳、遊佐発等が、高等小学校卒業後さらに中等教育を受ける者のために、私立補修学校を豊橋町関屋賢養院内に開校した。校名を、旧藩校の名称を採って時習館と称した。

 町立から県立へ
 翌二十七年十一月、豊橋町長小野道平をはじめ補修学校時習館設立発起人等は協議の上、
 名称も第四中学校
 校舎等すべて町に寄附、経費は町費支弁として町立の尋常中学校設立の議を愛知県に出願した。翌二十八年(一八九五)四月に認可され、五月、豊橋尋常中学時習館として、三河でただ一校の中学として豊橋町大字八町に開校した。
 いわば時習館高校の実質的な意味での創始期だった。明治三十二年四月、校名から「尋常」の二字をとり、豊橋中学時習館と改称した。
 これもわずか一カ年で、翌三十三年(一九〇〇)四月愛知県に移管されて愛知県第四中学校と改称した。翌三十四年には愛知県立第四中学校と改称。

 豊橋中学校と校名変更
 これから二十二年を経て、大正十一年(一九二二)四月愛知県豊橋中学校と変更する。
 この時県立第一中学校から第八中学校までの八校が所在地の名称を冠した新校名に改められた。

 愛知県立第一中学校  愛知県第一中学校
 〃   第二〃    〃  岡崎〃
 〃   第三〃    〃  津島〃
 〃   第四〃    〃  豊橋〃
 〃   第五〃    〃  熱田〃
 〃   第六〃    〃  一宮〃
 〃   第七〃    〃  半田〃
 〃   第八〃    〃  刈谷〃

 豊橋高等学校から時習館高校
 敗戦後六三制の学制改革により、昭和二十三年(一九四八)四月、新制高校として愛知県豊橋高等学校として発足したが、新制高校の統合による再編成が行われ、同年十月愛知県立豊橋時習館高等学校と改称。
 昭和三十一年(一九五六)四月、校名を「豊橋」を削り愛知県立時習館高等学校と改称する。


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