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                 時習館2回生「早咲きの花」碑に献花

終戦の8日前、勤労学徒で動員されていた豊川海軍工廠で爆死した
同級生33名の痛恨の思いを胸に、集まった2回生63人・・・東愛知新聞より
豊川海軍工廠殉難供養碑
(昭和22年建立)
 あの日もこのように暑かった―。63年前の昭和20年(1945)8月7日(終戦の8日前)、豊川海軍工廠の被爆で同級生33人を失った、時習館高校2回生(JJ会)の63人が命日の7日、同校の校庭に建つ慰霊碑「早咲きの花」碑に献花し、めい福を祈った。
 米軍機B29の波状攻撃で数千発の250キロ爆弾が投下され、2300余人の命が奪われた豊川海軍工廠の空爆。勤労学徒で動員されていた当時豊橋中学の生徒も、同33人と上級生4人の計37人が帰らぬ人に。
 全員が喜寿、76〜77歳の一行はこの日、被爆当日のようにうだる暑さ、せみ時雨の中、同碑前に集まり、堀田正幸さん、高橋栄さんが輪花を捧げた。
 山本哲司代表世話人が「早咲きのまま散華された、懐かしき友よ」と祭文を奉読。「紙一重の差で、かく生き残れるわれらが、この地に集うことができるのも、君たちの尊い犠牲があってこそ」と学友の御霊を慰め、全員で黙とうを捧げた。
 新堂幸司さん(日弁護連法務研究財団理事長)が「北へ逃げた。爆風の砂煙で前が見えず怖かった。西へ逃げた友人の多くを失った」など、惨劇を思い起こす参加者ら。
 この後、大林淳男さん(元同校教頭)の案内で校内を見学。グラウンド横、母校100周年時に建立の野球部の甲子園出場の戦歴碑では、「渥美政雄監督」の名を見つけ、「国語の先生。懐かしい」。同碑裏に刻まれている応援歌「三州の野に」を、当時野球部の高橋光雄さん、林弘さんの音頭で合唱した。
 また、校庭に移築保存の旧制豊橋中学の正門や、校舎の新築工事、2回生が卒業50周年記念で同校に寄付した井戸「時習の泉」など見学。母校の発展を誓った。

 2回生が旧制の豊橋中学に入学したのは昭和19年4月、そして一年生の途中から学徒動員で豊川海軍工廠へ。ホ−ムペ−ジ管理者(3回生)が入学したのは、昭和20年4月であるが一年先輩の2回生は学校へ登校はしていなかった。登校していたのは私たち1年生のみだった。
 6月19日豊橋大空襲で校舎焼失、8月7日豊川海軍工廠被爆、8月15日終戦。

 平成12年(2000年)には、創部100周年を迎え、「時習館野球部100年史」 が発行されたが、著者は2回生の林 弘さんである。

 高橋光雄さんは、昭和24年、高校三年生に進級するとき、学区の統合が行われ、越境している生徒はそれぞれの学区の高校に戻された。時習館に残りたい人は寄留という手段を選んだが、高橋さんは蒲郡に戻ることにして、早速蒲郡高校に野球部を創設した。

 2回生が高校2年生の昭和23年夏、愛知県予選決勝戦で享栄商と戦ったが惜しくも敗れた。



「野球の思い出ー(2)」の中に高橋光雄さんの手記が掲載されている。ダブッテの掲載となるが下に掲載する。

野球部 豊中から時習館へ
(豊中51回・昭和24年卒) 高橋光雄   (時習館3回生:斉藤信夫くん提供)

 昭和十九年四月、私達が豊橋中学一年生に入学した頃の豊中野球郡は影も形もなくなっていた。敵国スポーツの野球は禁止同然で、五年生の元野球部の先輩達は、戦場運動班という班に属し、手榴弾投擲や城壁登りなどと戦争の練習みたいなことをやっていた。グラウンドでは配属将校の指揮をする軍事訓練で気合がはいっていた。勿論野球の練習する姿はなく、運動部は柔道、剣道、銃剣術と、戦場運動位なもので、何故か、何々部という名前は使わず、何々班という呼び方に変えられていた。
 豊中に入り、柔道班に入ろうか戦場運動に入ろうかと迷っている間もなく、私達一年生にも学徒動員令が下り、慌ただしく豊川海軍工廠に出動してしまった。

 あの懐しい新川べりの中柴町の校舎にほんの数カ月通学しただけで、軍隊の宿舎に変った後、豊橋の空襲で焼失してしまった。しかし、数ヵ月だけの中柴校舎ではあったが思い出は深い。重厚な感じのする正面からみえる校舎は厳めしくそびえ、中央廊下に掲げられた「時習館」の額、天皇陛下の御真影のあった奉安殿、式典の行われた講堂、雨天体操場、階段教室、理科実験室と、どれもこれも伝統を誇った名門豊橋中学そのものだった。

 しかし、帽子は戦闘帽、ズボンにはゲートルを巻き、先生に対する挨拶は挙手による停止敬礼、上級生にも挙手による歩行敬礼、帽子の校章も、国防色(カーキ色)の制服のボタンも、金属は使用されず陶器になっていた。日本は大東亞戦争に突き進んでおり、それで私達も満足していた。

 敗戦ですべてが変った。中学二年の私達はそれまで戦死することを至上の栄誉と考えており、大和魂のかたまりで立派な軍人になろうと願っていたが、豊川の海軍工廠が大空襲を受け、爆弾により、目の前で大勢の学友を失ったその凄まじさを目のあたりに見て、死の恐ろしさに肝をつぶした。終戦により空襲がなくなったときは本当に嬉しかった。

 終戦後間もなく、学校には陸軍幼年学校に入っていた友達や、予科練に入っていた先輩達が戻ってきたが、授業をはじめる校舎がなかった。私達二年生は取り数えず牛川の豊橋二中へ(現青陵中学校舎)に同居することになり(一年生も行きましたよ)、やがて陸軍予備士官学校の跡地、高師ヶ原の現校舎に決まるまで落ち着かない毎日だった。中学三年生になっていた。学校は旧兵舎そのままで、窓にガラスはなく、荒れ放題のボロ校舎だった。

 その時、五年生の先輩達が野球部の復活に動き出した。グローブもスパイクもない時なので各自が家に残っていたものを持ち寄ったものだと思う。これで時習館野球部の戦後の第一歩が始まったのである。

 野球に続き蹴球(サッカー)、送球(ハンドボール)、庭球(テニス)、排球(バレーボール)、籠球(バスケットボール)、陸上競技等々次々と運動部が復活し、みんなで芋畑のグラウンドの整備を始めた。中でも野球部の人気は圧倒的だった。殺到した入部希望者を五年生がテストをやって部員を決めた。指導者がいないのでOBの先輩達が次々と来校し、練習をみてくださった。そしてその年、戦争で中断されていた全国中等学校野球大会が戦後はじめて西宮球場で開催されることになった。(当時甲子園球場は進駐軍に接収されて使用できなかった)わが豊橋中学も東海大会愛知予選に出場することになったのだが、辺の事情は私達三年生でレギュラーだった捕手の林弘君が詳しい。もう一人三年生でレギュラーだった大嶽保君(故人)という名手もいた。

 この時豊橋中学が出場したことにより、第一回からの連続出場の記録が途絶えなかったことはまことに喜ばしい限りである。多分静岡中学とか、第一回大会の優勝校京都二中という時習館より古い歴史を持つ名門野球部も、この戦後のどさくさで出場出来なくなって、記録が消えたと思う。

 名将渥美政雄先生が、昭和二十一年九月一宮中学から転任され、その指導を仰ぐようになってしばらくして新制高校になった。私たちは高校二年ということで新しい校名を生徒から募集した。当然豊橋一高という名前がでたが、県の方から一高、二高という差別的な校名をつけてはいけないとお達しがあり、結局豊橋高校ということで落ち着いた。

 昭和二十三年、私は渥美先生からマネージャーをやれと言われ引き受けた。予選の抽選会に行き、何となく津島高校あたりと当たりそうな予感がしたが的中した。その年から愛知中等学校野球のメッカ鳴海球場が米軍から開放され、ここで試合が行われた。
 津島高校は佐脇という好投手を擁し強敵だった。敗色濃厚だった終盤戦に雨が降り出し、雨に強い三年生の竹内基二郎さんたちが俄に元気を出し、一気に同点に追いつき引き分けに持ち込んだ。再試合は我が豊橋高校が圧勝した。津島高校は我々を舐めていた。渥美先生の指示により前の試合が終わるまでスタンド下の日影で体を休めていた豊橋高校に対し、津島高校は炎天下のスタンドに陣取りアイスキャンデー等をなめて気勢を上げていた。

 この勝利から決勝まで進み、享栄商業と甲子園をかけて戦うことになったのだ。しかし新聞記事には戦前の予想では、豊橋有利と書かれたことによって、名鉄吉田駅(当時の呼称)には市長をはじめとして歓迎の準備が行われていた。決勝当日、グラウンドに出てびっくりした。 我が豊橋高校は連日の熱戦で一着しかないユニフォームは泥だらけなのに対し、享栄はあの物資不足の時代に純白のユニフォームを着て颯爽とあらわれた。更に享栄の名投手水野義一君(のち早大のエース)を打てなかった。折角決勝まで進んだがやはり伝統校の享栄はしぶとかった。有利と見られた豊橋高校は鳴海球場原頭に散った。当時は愛知の名門で甲子園百勝の中京商や東邦等はまだ充分に整備されていなかった。

 思い出の遠征試合が二つある。当時は県外遠征など大変贅沢なことであったが、愛知県大会の成績が買われ愛知、静岡、岐阜、三重の東海選抜大会が静岡市で開かれた。遠征といっても当時は食糧難の時代であったから、各自お米を持参せよということであった。野球用具に米を持って静岡の旅館に着いたときは修学旅行のように嬉しかった。

 第一戦の相手は静岡城内高校(現静岡高校)で、森山君という好投手がいて、これを破って一挙に優勝という望みをもっていたものだが、あいにく雨が降り中止の日が続いて三日目にとうとう大会延期ということになってしまった。その時、一年生の芳村亮雄君が残っていた米を金に換えようようと云い出した。芳村君は旅館の下を通るおばさんと交渉し残った米を売り払ってくれた。その金を持って松坂屋に行きおみやげを買ったりした。昭和二十三年はそんな時代だった。(斉藤信夫君が語った思い出;静岡では雨で試合できず、夜静岡駅まで帰りの時刻表を見に田嶋義雄君と出かれたが、明るいところで良く見ると、.田嶋君がユカタを裏に着ているのに気が付き、大勢の中で裸になって着替えたのを覚えています)

 大会はその後豊橋球場で行われたがエースの青木伸次君が静岡の打線につかまりメッタ打ちに遭い完敗した。しかし静岡での思い出は楽しいものだった。

 もう一つ、長野県の飯田高校から招待の報せがあった。こちらは米の心配はいらないといううことでホットした。当時の飯田線は怖かった。岩肌の露出したトンネルが不気味だった。無事飯田に着いて驚いた。「愛知の強豪豊橋高校来たる」という貼り紙が町の中に何か所も見えた。飯田のエース山崎君は町の英雄らしく写真館にその投球フォームの写真がパネルになって飾ってあった。宿泊は飯田高校の校舎だった。心配しためしは白米のおにぎりで信州味噌がついていた。信州ではこれがもてなしの料理だと云い、事実大変おいしかった。(斉藤信夫君が語った思い出;飯田遠征では朝宿舎で芳村亮雄君が皆に布団蒸しにされたことを良く覚えています)

 飯田高校のグラウンドには町のファンが大勢観戦に来た。第一試合の飯田商業戦は外野手兼任の大嶽保君が完封して勝った。飯田高校との決戦を青木伸次君が好投し二戦二勝で遠征試合を飾った。

 米を持参した静岡遠征、おにぎりを腹いっぱいご馳走になった飯田遠征。共に楽しい思い出になっている。この後校名が豊橋高校から豊橋時習館高校に変ったが、当時は時習館の上に豊橋がついていた。いつから現校名の時習館高校になったかはわからない。(昭和三十一年からです)

 昭和二十四年、三年生に進級するとき、マッカーサーの命令により学区の統合が行われ、越境している生徒はそれぞれの学区の高校に戻された。時習館に残りたい人は寄留という手段を選んだが、私は蒲郡に行くことにして早速蒲郡高校に野球部を創設した。そして私が監督になり二年生以下でチームを編成し県大会の出場に備えた。豊中野球部のOBで東大に在学していた山田勝久さんに同郷の先輩ということで、選手の指導をしていただいた。合宿もやった。夏の大会一回戦で旭丘高校と対戦し善戦したが敗れた。蒲郡高校の野球部が現在も続いているので、あれから五十年を過ぎようとしている。早いものだ。

 時習館高校野球部は戦前の豊橋中学から戦後は豊橋高校に変わり時習館へと移ってゆき、数限りない多くの選手を輩出している。私も兄貴が豊中の野球部にいたことで、戦前の豊橋中学の試合を豊川球場で何回か見ている。そのころは岡崎中学が強く、東三河と西三河で三河リーグを結成し、リーグ戦をやっていた。当時は応援歌にもあるように”東海五県十余校”と歌われているように野球をやっている学校は少なく、ちょっと年長の感じのする岡崎師範が加盟していた。

 何といっても戦後渥美政雄先生が監督に就任されてからの時習館の活躍は目覚ましく、その薫陶を得て指導者になられた藤田良彦先生は私の一年先輩で主将だった。当時、享栄の小島選手と並び名二塁手として活躍した竹内基二郎先輩は戦前のレベルに達していると評された。又蟹のような形をした進駐軍のグローブを使ってセンターを守った故人の斉藤了一先輩。同級では野球部復活の草分け林弘君、エースの青木伸次君、ファイターの今井明君、シュアーなバッテングの荒島昭吾君、左利きでセカンドもこなした投手の水藤勝君、名外野手で四番を打った故人の大獄保君。一年後輩では強肩のショート松永整二君、クリーンナップを打ったサードの芳村亮雄君、外野手でムードメーカーの斉藤信夫君、キャッチャーの田嶋義雄君等々、みんな私と年代を同じくしてお互いに辛酸をなめ、時習館野球部百年の歴史の一翼を担ってきた大切な人達である。
 時習館野球部の未来永劫の栄光を祈る。(平成12年1月記)

田嶋義雄くんが語る高橋光雄(ミッチャン)の思い出(2005年6月)
 ミッチャンの、スコアブックの記載は天下一品でした。そのスコアブックを見ながらラジオアナウンサーのまねをしたりしてもいましたが、これもなかなかのものでした。このスコアブックは火災ですべて焼失し、惜しいものを失いました。
 飯田へ遠征に行ったとき、学校へ宿泊し、その朝芳村亮雄くんがいつまでも寝ていたので、その上へ敷布団や掛布団を乗せ、さらに諸兄が乗っかり、布団蒸しにしましたが、そのきっかけを作ったのがミッチャンではなかったかと思います。
 また、静岡遠征の時は、夜間、他校の宿舎周辺に様子をうかがいにこまめに外出しておりました。
 なにしろ、ミッチャンは、野球に詳しい方でした。



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