イチロー選手
(
http://www.cbc-nagoya.co.jp/radio/kibun/2000asapon/hero/000925/index.htmより)
1994年9月20日。オリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸の対ロッテ24回戦。イチローはその夜、右翼線へ鮮やかな二塁打を放ち、200本安打を達成します。すでに6日前には、藤村富美男の日本記録・年間最多数安打191本を破っていました。日本球界前人未踏の偉業を、プロ入り3年目若干20才のイチローが成し遂げたのです。プレッシャーは無かったか、という記者の問いかけに、「自分はバッターボックスに入ると妙に落ち着く。精神が苛立って眠れない日でも、あの四角い長方形の枠に入って相手投手とむきあうと、不思議と落ち着いてすべての集中力が白球に乗り移るんだ。」と答える。イチローにとっては、人生イコール野球なんだと、その記者は感じ取ったといいます。
イチローは、小さい頃からプロ野球に対するビジョンを明確に打ち出していました。小学校の卒業作文では、全国大会に出場したときに確認した自分の投手としてのレベルと、打者としての年間打率などを冷静に評価したうえで、「夢」を語っています。「自分は3才から練習を繰り返し、小学校3年になってからは、365日のうち360日練習している。だから、将来必ずプロ野球選手になる。入団したい球団は、中日ドラゴンズか西武ライオンズ。ドラフト入団の契約金は1億円以上を目標とする。プロ野球選手となって試合に出られたら、お世話になった人々に招待券を配り、応援してもらいたい。」未来予想図はかなり的確に出来上がっていた、と言えます。
結局1994年のシーズン終了後には最多安打数210本となり、連続試合出塁69試合など数々の新記録をうち立てます。「記録は結果にすぎない。一打席一打席を理想のフォームで振り抜くこと、僕はそれだけを考えている」。ストライクゾーンにきたボールを独自のバットコントロールで無心に打つ。どんなボールがこようと、ストライクゾーンにきたボールをヒットにできなければ自分のせいだと悔しがる。そのイチローの野球哲学が、1995年、オリックスをリーグ優勝へと導いたのでした。
イチローの父・鈴木宣之は、その著書「父と息子」の中でこう語っています。「毎日の努力はずっと続けていれば必ず報われる。その遙か彼方の一本のろうそくの灯りにたどり着くことができる。」
イチローのルーツは、紛れもなく父・宣之の指導で練習に励んだ少年時代にあります。実家は愛知県豊山町。家から300メートル離れた町営の伊勢山グラウンドで、学校が終わると毎日日が暮れるまでふたりっきりで練習。それは、軽いキャッチボールに始まって、「50球前後のピッチング」「70個のボールを使い、3クールで約200球打つ、ティバッティング」「内野ノック50球」「外野ノック50球」そして「フリーバッティング」といった、実に合理的なメニューでした。そして親子の練習法でもうひとつ語り草になっているのが、バッティング・センター。夜になると、やはり実家近くにある空港バッティング・センターへ通う。ふつうは120キロまでしか出ないボールを125キロまで出るように調節してもらい、バッターボックスを1メートル前に近づける。父親はイチローの後ろに立ち、「ストライク!」「ボール!」の判定をする。つまり、ボール球を見送りストライクだけを打つように訓練する。狙った球だけを確実に打てる、という一流選手のセンスを、イチローは、このバッティング・センターで培ったのです。
父・宣之の指導は、漫画「巨人の星」の一徹・飛雄馬にたとえられがちですが、決してスパルタではありませんでした。とにかく、ほめる。「よくやった。この調子なら、プロになれるぞ!」無理なこと、嫌がることはやらせず、プロ野球選手への夢を育てる。そのサポーター精神は、朝晩の足裏マッサージに象徴されます。父が息子の足を揉んでやる。実に思い立ってから7年間、その日課は続きました。
足を揉みながら、父親は何度も息子に語りかけます。「人生には、ただ一本のろうそくしかない。その一本の道を求めていけ。」
プロ野球への道。それはまさしく親子で歩み、親子で手にした灯りでした。
「名電高、鈴木選手、オリックス」1991年11月22日。ドラフト会議で、オリックス4位指名。それがプロ野球選手・イチローの運命の瞬間でした。
「自分は将来、プロ野球選手になる。」こう信じて疑わず、努力を重ねてきたイチローにとって、自分の目標とするプロ野球のバッターは、世界的ホームランバッター・王貞治でもなければ、ミスタープロ野球・長島茂雄でもありませんでした。同じ愛知県出身の藤王康晴、そして、現在も実家の自室にただ1枚残っているサイン色紙が物語る、中日時代の田尾安志。やはり、地元中日ドラゴンズの選手達だったのです。父・宣之も祈るような気持ちで中日の指名を期待して、ドラフト会議の中継を見つめていたといいます。
イチローは、愛工大名電時代、エース投手として甲子園に出場しました。しかし、初戦で天理とぶつかり敗退。当時中日のスカウトは、ピッチャー・スカウトの池田英俊でした。イチローに対する評価は、「体も出来上がっていないし、プロ野球の投手としてはちょっと物足りない。」というもの。結局、その判断がイチロー指名をためらわせました。実際、高校時代のイチローは非常に華奢でした。ダイエーの工藤をはじめ11人のプロ野球選手を育てていた同校の中村監督は、1年生のイチローに会ったとき、「この体ではプロ野球はおろか、高校野球でも無理だ」と半ばがっくりしたと語っています。いずれにしてもこのイチローをめぐるドラフト指名は、後に各球団のスカウティングの視点に大きな教訓をもたらすことになりました。
当のイチローは、この日父に次のような感想を打ち明けています。「自分を必要としている球団があったということだけでとても嬉しい。4位指名というのも、みんな注目しないし気楽にやれる。そうしているうちにプロのスピードについていける体力ができてくるから、僕は気にしていない。」そのことばどおり、入団一年目にして早くも一軍入りを果たすことになるのです。
「このままではおまえの持ち味が殺されてしまう。もう一度原点に戻ろう。」入団1年目の秋。河村二軍打撃コーチのその一言がイチローを救いました。
すでに独自の一本足打法でウエスタンの首位打者となっていたにもかかわらず「上で通用するフォームにしなければ」という首脳陣の方針により、徹底的にフォーム矯正指導を受けていたイチロー。本来の打撃コントロールを失いつつありました。見るに見かねた河村は、矯正にストップをかけ、イチローと二人三脚で新打法を作り上げます。自然な一本足から意図的な一本足へ。いわゆる振り子打法の誕生でした。野球技術論の第一人者・村上豊は、「これまでの日本の野球は、後ろ足に体重をためたままで打つ。その一方で腰の回転で打てと教えられてきた。イチローの最大の功績は、技術的に前足軸打法の優位性を知らしめたことだ。」として、「振り子打法」というよりは、体がスライドして前足に体重がかかる、「ピッチング打法」と分析しています。
この打法はイチローを蘇らせました。しかし、再び一軍入りしたイチローに「待った」をかけたのが、当時オリックスの監督だった土井正三。「あんなんでは体の芯が流れてしまっているから打てない。足が速くて左バッターだから、太くて短いバットで地面に叩きつけるバッティングをさせろ」対してイチローはきっぱりと言い放ちます。「僕はこれで高校時代から打ってきた。これが自分のバッティングです。来たボールをしっかりと振り抜くことだけを考えていますから、姑息なバッティングはしたくない。」翌日土井監督はイチローを二軍に落としてしまいます。「このままでは自分の野球生命は終わってしまう。」
半ば絶望的な想いにかられながらも、これ以降、イチローは、何度フォーム改造を命令されても頑なに自分のフォームを守り抜きました。やがて、オリックスは3年間の土井時代に幕を引き、柔軟な野球哲学を持つ仰木・新監督と新井・新打撃コーチを迎えます。そしてそれは、「イチローが打つとオリックスが勝つ」仰木・イチロー黄金時代の幕開けでもありました。
仰木式若手起用法とは、まず、「珠は磨けば必ず光る」「光らせるためには経験する場を与える」「常に白紙の状態で見てやる」「可能性に賭けることに、監督自身が積極的になる」そして、「野球では皆同じ目標を持っている。世代間のギャップは不要」ということ。仰木監督のこの哲学により、かつて、イチローと同じように才能を開花させた選手がいました。イチローにとっても、決して忘れることのできない選手。それは、メジャーリーグで一大旋風を巻き起こした野茂英雄投手です。
野茂とイチローは、実際にはほとんど顔を合わせることはありませんでした。
1992年9月21日、初対決で三振。以降3年間で13打数4安打1本塁打、3割8厘という記録が残っています。野茂が全盛だった翌年はイチローは土井監督に嫌われ、ほとんどが二軍暮らし。逆にイチローが全開した1994年は、野茂は右肩を痛め、二軍落ちしていました。
そんな二人だけに、対戦はわずかでした。
1993年6月12日。イチローはまだ一軍と二軍をいったりきたりしていました。そんな時期の新潟遠征、長岡市の悠久山球場。狭い球場を風に乗った打球がライトスタンドへ吸い込まれる。あの野茂から打ったホームラン。しかも、イチローにとってはプロ野球人生で初めての一発でした。この年、ホームランはこの一本だけ。そのうえ、その一打後に「大振りになった」と言われて二軍行きを命じられたのでした。色々な意味で印象的な野茂対決の一場面だったわけです。その時の興奮を振り返るイチロー。「球は真っ直ぐでした。あのフォークは、僕なんかには投げてくれませんでした。野茂さんのフォークは本当にすごい。」そのことばにはすでにメジャーリーグで活躍している野茂への尊敬と羨望の気持ちが表れていました。「僕もスタミナがあれば、勝負に出たい。」ともらしたのは本音でした。新たな夢をメジャーリーグに求めるイチロー、実現へ向けての挑戦が始まろうとしています。
イチロー
(http://www.webmie.or.jp/~m-yama/より)
本名:鈴木 一朗。1973年10月愛知県生まれ。右投左打。外野手。背番号51(オリックス・マリナーズ)。愛工大名電で甲子園に2度出場し、いずれも初戦敗退。
平成2年 夏の甲子園一回戦
天 理 |
030 000 012|6 |
愛工大名電 |
000 100 000|1 |
3番レフト:4打数1安打1三振(2年) |
1992年、ドラフト4位、年俸430万円で
オリックスに入団。2年間の下積生活を経て、仰木監督就任の1994年、史上初の200本安打(最終成績210安打、歴代1位)を達成し、打率.385で首位打者を獲得。以来、7年連続首位打者を獲得(歴代1位)。
1995年には80打点、49盗塁で打点王・盗塁王も獲得してオリックスをリーグ優勝に導き、MVP。1996年には3年連続MVPを獲得し、チームも巨人を倒して日本一となっている。
2000年は歴代2位の.387を残している。
2000年12月、14億円の移籍金で大リーグのシアトル・マリナーズと契約。日本人野手として初の大リーガーとなる。
2001年、大リーグではルーキーながら打率.350、242安打、56盗塁で、首位打者、最多安打、盗塁王という3つの主要タイトルを獲得してマリナーズの地区優勝に貢献し、新人王とアメリカンリーグMVPにも選ばれた。
2002年も打率.321で206安打と2年連続200安打を達成したが、惜しくも打率は4位に終わった。
彼独特の振り子打法は、足を捕手側にゆるやかに振り上げて、タイミングを取りながら、足が戻る反動を利用し、打つ瞬間の軸足が投手側の足(左打ちのイチローの場合、右足)になるという、これまでの常識を覆した打ち方である。2000年にはこの打法に修正を加え、それほど足を上げないフォームにしている。
通算成績(2003年末現在):(日本9年:1992〜2000)打率.353、118本塁打、529打点。199盗塁。1278安打。首位打者7回(1994〜2000)、打点王1回(1995)、盗塁王1回(1995)、最多安打(1994〜1998)。MVP3回(1994〜1996)。
:(大リーグ3年:2001〜2003)打率.328、29本塁打、182打点。660安打。87盗塁。首位打者(2001)最多安打(2001)盗塁王(2001)
日米通算(12年):打率.344、147本塁打、711打点、320盗塁。1938安打。
数々の伝説
@2軍オールスターMVPの賞金
プロ1年目からイチローは、ウエスタンリーグで高打率を残し、2軍のオールスターに選ばれる(その年、.366でウエスタンリーグの首位打者獲得)。
そのオールスターで3対3で迎えた8回、代打で登場したイチローは有働から決勝ホームランを放ち、9回にもヒットと盗塁を決めてMVPを獲得し、賞金100万円を手にする。
しかし、イチローは、その100万円を自分や家族のために使わず、全額を神戸の養護施設に寄付している。もちろん、2軍選手でそのようなことをしたのはプロ野球初である。
A日本人最高選手の縁
1993年6月、イチローはプロ入り117試合目にして、ようやく初本塁打を放つ。
このときマウンドにいた投手が、現在、大リーグのレッドソックスで活躍する
野茂英雄であった。
この本塁打をきっかけに、一軍に定着するかと思われたが、その後数試合に出場しただけで二軍落ちを言い渡されている。
B一日も休まず
イチローは、チチローの愛称もある父宣之さんとの少年時代からの付ききりの指導で有名である。
宣之さんは、常にイチローの将来を見据え、野球の理論書を読みあさり、毎日練習に付き合っていた。
高校入学後は、寮生活のため、そうしたことはできなくなっていったが、高校三年の夏の大会後、三年間のクラブ生活から解放され、遊びや受験といった普通の学生生活をする同級生達を尻目に、プロ入りまで一日も休まずに父子で練習を続けたという。
C単独行動
イチローの個性的な言動は、マスコミでも紹介されているが、彼は、学生時代もほとんど単独行動をしていたという。
そのため、急に姿を消して他の部員たちを驚かすことがしばしばあったようだが、監督夫人にだけは行き先を告げていたという。
また、イチローは、甲子園で初戦敗退したときもただ一人泣かずに、翌日から普段の練習に戻っている。三年生の夏、県大会決勝で敗退したときも涙を見せず、「自分の評価を下げないためにも(甲子園に)行かなくてよかったかもしれない」と答えている。
イチローは、プロ入りしてからも、他人や世間とはある程度、距離を置いているという。こうした常に冷静なところが超一流選手になっても、以前と全く変わらずにいられる理由といわれる。
D57試合連続出塁
1994年、1軍レギュラーに定着したイチローは、毎試合出塁を重ね、57試合連続出塁という日本新記録を達成する。
その後も記録を伸ばし、最終的には69試合連続出塁となった。これは、3ヶ月間、常に1試合に1度は塁に出ていた、というすさまじい記録である。
E前人未到の200本安打
1994年、9月14日の日本ハム戦でイチローはシーズン192安打目を打ち、藤村富美男(阪神)の191安打を抜いて日本新記録を達成。
9月20日のロッテ戦では、1・2打席でヒットを放ってシーズン通算安打を199本としたイチローは、第3打席でも園川から見事なライト線への二塁打を飛ばし、シーズン史上初の200本安打を達成。
その後も安打を打ち続け、最終戦となった10月9日の近鉄戦第3打席に放った左中間二塁打でシーズン通算210安打としている。
F連続無三振記録
1997年6月、イチローは、209打席連続無三振の日本記録を樹立、日本ハム戦で下柳から三振するまで216打席連続無三振をマークした。
この三振の少なさは高校時代から知られており、3年時の三振はわずか3である。
G7年連続首位打者
イチローは、1994年に打率.385で首位打者になって以来、2000年に打率.387の歴代2位の高打率で首位打者になるまで、7年連続で首位打者になっている。これは、
張本勲の4年連続を抜いて歴代1位の記録である。
残念ながら、2001年からは大リーグのシアトル・マリナーズでプレーすることが決まったため、日本での8年連続首位打者はならなかったが、通算7回の首位打者も張本勲と並んで歴代1位となっている。
H日本人初の野手の大リーガー
現在まで、1995年にドジャースに入団した野茂をはじめとして、長谷川滋利・伊良部秀輝・
佐々木主浩・マック鈴木などの日本人メジャーリーガーが出ているが、野手としては2000年12月に契約したイチローが日本人初の大リーガーである。
7年連続首位打者の快挙を引っさげての大リーグ移籍は、熾烈な争奪戦が展開され、移籍金14億という破格の金額でマリナーズがイチローの交渉権を得た。
マリナーズは、イチローと1400万ドルで3年契約を結んでいる。
I大リーグでも首位打者を獲得し、MVP
2001年、マリナーズの1番打者の座についたイチローは、日本で7年連続首位打者獲得の実力を見せ付けるようにヒットを量産する。
4月2日のアスレチックス戦で先発出場するといきなり2安打。
4月から5月にかけて23試合連続安打を記録し、6月21日にはついに打率.353まで上げて、アメリカンリーグの首位打者に踊り出た。
その後、オールスターにもファン投票で出場し、好投手ランディ・ジョンソンから内野安打を放っている。
オールスター直後は、不調に陥ったものの持ち直し、最終成績は、打率.350、8本塁打、242安打、56盗塁。首位打者と最多安打、盗塁王という3つの主要タイトルを獲得した。日米通算でも8年連続首位打者となった。シーズン242安打も大リーグ新人最多記録で、通算でも歴代9位にあたる記録であった。
さらに新人王を獲得するとともに、マリナーズを地区優勝に導いた功績が認められ、アメリカンリーグMVPに選出される栄誉を受けた。
日米でのシーズンMVP獲得はもちろん史上初の快挙である。
J日本人最速の通算2000本安打達成
2004年5月21日、イチローは、30歳にして2000本安打を達成する。1998本で迎えたデトロイト・タイガース戦で第2打席にセンター前ヒットを放って王手をかけると、第3打席にもゴロで鋭くセンター前に抜けるヒットを放って一気に2000本に到達したのだ。
30歳212日での達成は、榎本喜八の31歳229日を抜いて日本人最年少記録。1465試合での達成は、川上哲治の1646試合を抜いて日本人最速記録だった。
1992年当時、オリックスの2軍打撃コーチだった河村健一郎は、イチローら新人たちにレポートを提出させている。レポートの中でイチローは「12年間で2000本安打を達成する」と書いていたという。常識的には夢のような、馬鹿げた計画だ。
それから12年余り。イチローは、途方もない計画を予定通り達成してしまったのである。
K大リーグ歴代新記録となるシーズン262安打
2004年、イチローの出足は悪かった。4月を終わって打率.255。マリナーズも不調で、新聞紙上にはイチローさえトレード要員になるかも、という過激な記事が踊った。
しかし、イチローは5月から一気にペースを上げる。5月に50安打を放ったイチローは、7月に51安打を放って打率を3割4分台に上げると、8月には56安打を放って3割7分台に乗せた。
しかも、1シーズンに月間50安打以上を3回達成というのは大リーグ史上初の快挙だった。
イチローは、その後も快調に安打を重ねる。そして、10月1日のレンジャース戦、イチローは、第1打席でレフト前ヒットを放ってジョージ・シスラーが1920年に作ったシーズン257安打に並ぶ。そして、新記録のかかった第2打席でも、あっさりセンター前ヒットを放ってシーズン258安打とし、大リーグシーズン安打記録を84年ぶりに塗り替えた。
イチローは、さらにその後、4本のヒットを重ね、シーズン262安打という金字塔を打ち立てる。年間単打225本も歴代1位で、打率も.372で2位に3分2厘の大差をつけて首位打者となった。
L第1回WBCの日本代表として世界一に貢献
2006年2月から3月にかけて真の野球世界一を決める第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開催となった。
これまでアマチュア世界一を決める大会はあっても、プロを含めた真の世界一を決める大会は存在しなかった。そのため、第1回WBCは、世界中の注目を集めることになった。
シーズン直前とあって各国から多くの出場辞退者が出る中、このWBCが持つ意義を理解していたイチローは、日本代表を快諾し、中心選手として活躍を見せる。
日本で1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げる。特にアメリカ戦で見せた先頭打者本塁打、準決勝の韓国戦で見せた試合を決定づけるタイムリーヒット、そして、決勝のキューバ戦での中押しのきっかけとなる2塁打と1点差に詰め寄られた後に突き放すタイムリーヒットは強烈な印象を残した。
イチローがWBCで残した成績は打率.364、1本塁打、5打点、4盗塁。MVPこそ逃したものの、その存在感は他を圧倒していた。
イチロー(鈴木一朗・すずきいちろう)
(
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akichan/main/ichiro.htm による)
愛工大名電高から91年ドラフト4位でオリックスに入団。高校時代は投手として春の選抜大会にも出場したが、際立っていたのは打撃センス。その実力は1年目から抜きん出ており、ウエスタンで打率.366をマークして首位打者獲得。ジュニア・オールスターでは代打決勝本塁打でMVPに輝く。特異な打撃フォームのせいもあり、当時の土井監督とそりが合わず、翌年もファームで.371を打ちながら1軍では43試合で12安打にとどまった。
しかし翌94年仰木監督の就任によりついに大ブレークすることになる。それまでの登録名「鈴木 一朗」を「イチロー」にするというアイデアから始まった1年はまさにイチローに始まりイチローに終わる1年。前人未到のシーズン210安打に打率.385のパ・リーグ新記録。5月21日から8月26日まで69試合連続出塁の日本新記録。文句なしのMVPに選ばれる。
この年から3年連続のMVP、そして史上初の7年連続の首位打者に輝く。また5年連続で全試合に出場していたが99年8月24日の日本ハム戦で死球を受け、歴代14位の763試合連続でストップ。
99年4月20日には史上最速、757試合目で通算1000本安打を達成。従来の記録であるブーマー(オリックス→ダイエー)の781試合を大きく更新した。00年で首位打者獲得回数7度も張本勲(東映−巨人−ロッテ)と並ぶ日本タイ記録となった。同年の打率.387は自己の持つ.385(94年)を更新するパ・リーグ新記録。
00年オフにポスティングシステムによりMLBのシアトル・マリナーズに移籍。01年はマリナーズでライトの定位置を確保。広い守備範囲は「エリア51」と呼ばれ、走攻守3拍子揃ったプレーで人気を集めた。打っては打率.350で首位打者、走っては56盗塁で盗塁王、守ってはゴールドグラブ賞と文句なしの活躍ぶりで史上2人目の新人王とMVPのダブル受賞を果たした。
02年も前半は快調だったが、後半打率を下げてベストテン4位に終わり、日米を通じての連続首位打者は8シーズンでストップした。それでも2年連続200安打を達成、2度目のゴールドグラブ賞にも輝いた。
03年は中盤まで打率争いのトップを走ったが後半戦失速して2年連続の打率ダウン。それでもメジャー3人目となる新人からの3年連続200安打は達成した。また7月18日のロイヤルズ戦では9回二死から逆転満塁本塁打の劇的な活躍を見せた。
4年目となる04年は歴史的なシーズンとなった。5月21日のタイガース戦で出場1465試合目のハイペースで日米通算2000本安打を達成。5月・7月・8月と3度の月間50安打を記録。8月26日のロイヤルズ戦では史上初となる新人からの4年連続200安打を達成した。そして記録へのプレッシャーも高まる中、10月1日のレンジャーズ戦で年間258安打のメジャー新記録。1920年にジョージ・シスラー(ブラウンズ)が記録した257安打を84年ぶりに塗り替えた。最終的に262安打まで数字を伸ばし、打率.372で3年ぶりに首位打者へ返り咲いた。
4割への挑戦も期待された05年だったが、チームは2年連続最下位と低迷。前年は最下位の中で奮闘したイチローも思うような結果が出せず、しばしば3割を切る状態。毎年目標に掲げる200安打も残り2試合という160試合目での達成となり、打率.303とらしからぬ成績に終わった。それでも15本塁打はメジャー自己最多、100得点と30盗塁を5年連続で達成した。
06年も3年連続地区最下位とチームの低迷は続き、その中で6年連続200安打・3割・100得点・30盗塁をクリア。日米通算2500安打も達成した。07年は久しぶりにプレーオフ出場を争う中、メジャー史上3人目となる7年連続200安打とメジャー1500安打を達成。またオールスターでは史上初となるランニングホームランを記録するなど3安打2打点の活躍でMVPに選ばれた。
08年は前半戦打撃が低迷したが後半は持ち直し、8年連続200安打・3割・100得点・30盗塁と渡米以来の連続記録はすべてクリアした。また、7月29日のレンジャーズ戦で日米通算3000本安打も達成した。04年5月の2000本からわずか4年2ヶ月で1000本を上積みした驚異的ハイペースでの達成である。
09年は開幕前の第2回WBC決勝で、延長10回に勝越し打を放ち連覇に貢献。しかし激戦の影響か胃潰瘍を患い、シーズン開幕から故障者リスト入りした。復帰後は出場2試合目に日米通算3086安打を記録し、NPB最多記録である張本勲の3085安打を抜いた。その後も出遅れを取り戻すように打ちまくり、首位打者を争ったが惜しくも07年以来2度目の2位に終わった。それでも4年連続6度目の最多安打でMLB新記録となる9年連続200安打を達成。また、史上2番目のスピードとなる1402試合目でMLB通算2000本安打を達成した。
[日本でのタイトル]
MVP3回(94〜96)、首位打者7回(94〜00)、打点王1回(95)、盗塁王1回(95)、最多安打5回(94〜98)、最高出塁率5回(94〜96、99、00)。ベストナイン7度(94〜00)、ゴールデングラブ7度(94〜00)受賞。月間MVP10回(94年6月・8月、95年6月、96年8月、97年6月、98年6月・7月、99年5月・7月、00年7月)受賞。オールスター出場7度(94〜00)。日本シリーズで96年に優秀選手賞受賞。正力松太郎賞2度(94、95)受賞。
[MLBでのタイトル]
MVP1回(01)、新人王(01)、首位打者2回(01、04)、盗塁王1回(01)。シルバースラッガー賞3度(01、07、09)、ゴールドグラブ9度(01〜09)受賞。月間MVP1回(04年8月)。オールスター出場9度(01〜09)、MVP1回(07)。WBC出場2度(06、09)。
西暦 |
球団名 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁打 |
三塁打 |
本塁打 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
四死球 |
三振 |
打率(順位) |
1992 |
オリックス |
40 |
95 |
9 |
24 |
5 |
0 |
0 |
29 |
5 |
3 |
3 |
11 |
0.253 |
1993 |
オリックス |
43 |
64 |
4 |
12 |
2 |
0 |
1 |
17 |
3 |
0 |
2 |
7 |
0.188 |
1994 |
オリックス |
130 |
546 |
111 |
210 |
41 |
5 |
13 |
300 |
54 |
29 |
61 |
53 |
.385(1位) |
1995 |
オリックス |
130 |
524 |
104 |
179 |
23 |
4 |
25 |
285 |
80 |
49 |
86 |
52 |
.342(1位) |
1996 |
オリックス |
130 |
542 |
104 |
193 |
24 |
4 |
16 |
273 |
84 |
35 |
65 |
57 |
.355(1位) |
1997 |
オリックス |
135 |
536 |
94 |
185 |
31 |
4 |
17 |
275 |
91 |
39 |
66 |
36 |
.345(1位) |
1998 |
オリックス |
135 |
506 |
79 |
181 |
36 |
3 |
13 |
262 |
71 |
11 |
50 |
35 |
.358(1位) |
1999 |
オリックス |
103 |
411 |
80 |
141 |
27 |
2 |
21 |
235 |
68 |
12 |
52 |
46 |
.343(1位) |
2000 |
オリックス |
105 |
395 |
73 |
153 |
22 |
1 |
12 |
213 |
73 |
21 |
58 |
36 |
.387(1位) |
計 |
日本9年 |
951 |
3619 |
658 |
1278 |
211 |
23 |
118 |
1889 |
529 |
199 |
443 |
333 |
0.353 |
. |
2001 |
マリナーズ |
157 |
692 |
127 |
242 |
34 |
8 |
8 |
316 |
69 |
56 |
38 |
53 |
.350(1位) |
2002 |
マリナーズ |
157 |
647 |
111 |
208 |
27 |
8 |
8 |
275 |
51 |
31 |
73 |
62 |
.321(4位) |
2003 |
マリナーズ |
159 |
679 |
111 |
212 |
29 |
8 |
13 |
296 |
62 |
34 |
42 |
69 |
.312(7位) |
2004 |
マリナーズ |
161 |
704 |
101 |
262 |
24 |
5 |
8 |
320 |
60 |
36 |
53 |
63 |
.372(1位) |
2005 |
マリナーズ |
162 |
679 |
111 |
206 |
21 |
12 |
15 |
296 |
68 |
33 |
52 |
66 |
.303(11位) |
2006 |
マリナーズ |
161 |
695 |
110 |
224 |
20 |
9 |
9 |
289 |
49 |
45 |
54 |
71 |
.322(6位) |
2007 |
マリナーズ |
161 |
678 |
111 |
238 |
22 |
7 |
6 |
292 |
68 |
37 |
52 |
77 |
.351(2位) |
2008 |
マリナーズ |
162 |
686 |
103 |
213 |
20 |
7 |
6 |
265 |
42 |
43 |
56 |
65 |
.310(7位) |
2009 |
マリナーズ |
146 |
639 |
88 |
225 |
31 |
4 |
11 |
297 |
46 |
26 |
36 |
71 |
.352(2位) |
計 |
MLB9年 |
1426 |
6099 |
973 |
2030 |
228 |
68 |
84 |
2646 |
515 |
341 |
456 |
597 |
0.333 |
. |
日米計18年 |
|
2377 |
9718 |
1631 |
3308 |
439 |
91 |
202 |
4535 |
1044 |
540 |
899 |
930 |
0.34 |
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