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       「野球部創部100周年」&「野球部100年史」発刊によせて

 時習館野球部創部百周年によせて  実行委員長         大沢輝秀 時習 8回
 健児が腕に力あり  豊中クラブ世話人     牧野喜八郎 豊中39回
 我が青春の野球部  野球部OB会 名誉会長  竹内基二郎 時習 1回
 野球部100年史刊行にあたって  野球部OB会 名誉会長  岡田 互 時習 6回
 OB会会長就任をかねて  野球部OB会 会長     高津政義 時習10回
 発刊を祝して  時習館高等学校長     小野田章二 時習11回
 発刊を終えて(あとがき)  野球部史 部会長     林  弘 時習 2回

                            「時習館と甲子園」メニューへ



時習館野球部創部百周年によせて

実行委員長 大沢輝秀(時習8回)          

 私が時習館高等学校に入学が決まったのは昭和二十八年三月のことである。

 その時、わが母校は昭利二十七年春に引き続いて二年連続で甲子園に駒を進め、その年は大阪府代表市岡高校を打ち破り、二回戦へ進んでいたのである。

 二回戦は、優勝校の洲本高校に惜しくも一対○で負けたが、相手は一安打のみ、負けた気がしない敗戦であった。

 私は野球大好き少年であったが、入学式も済ませておらず、しかも、宝飯郡一宮中学からのたった一人の新入生で友人もいなかったので甲子園に応援に行く友人仲間もなく、「来年?又、行けるさ」と気軽に考えていたのである。それから早くも四十七年の歳月がたったが、母校の甲子園行きは遥かかなたである。「ああ、あの時、行っておけば良かったなあ」との想いは残っている。

 そんな折、一九九九年三月にゴルフ敵の小野喬四郎君(時10回)から会わせたい男がいるので会って欲しいと高津政義君(実行副委員長・時10回)を連れてやってきた。
「来年、時習館野球部が100周年を迎えるので、その実行委員会を作ろうと思うが、実行委員長をやってもらえないだろうか」と高津君から話があった。
「大澤さん、昨年(平成十年)夏の八十回記念大会に招待され、校旗が甲子園を一周したのを、知っとるかん」「身体を動かすことはわれわれ若いものが(時10回以降)手足になるで、頼む」とそれからは彼の野球にかける少年のようなその情熱に圧倒され、実行委員長を引き受けることになった。

 委員長としてまず考えたことは、資金集めと調整役とが自分の役目と決めた。資金集めについては、心配は要らないと思えた。それは野球部OB七百名(含む物故者)も居ること、加えて時習館OBは二万数千名がいるのである。問題は地元に居る野球部若手OBと私(時8回生)の上(時5、6、7回生)は、神様のような甲子園出場組なのである。高校野球の世界で甲子園出場の重みは何にも変えがたい。勉強が出来ようが? 野球の腕が上であろうが? 甲子園の重みには勝てないのだ。

 私は甲子園組たちと一緒に練習をしてはいたが、けがのため、三年生の春には新入部員が入ると同時に野球部から去ったし、最後まで野球をやらなかっただけに甲子園出場の先輩にも憶する心理は持っていないのである。八回生の私はその意味で実行委員長は適役なのだ、と腹をくくったのである。

 私が野球部OB席に居るのは不思議な話なのである。村田敬次郎代議士の野球部OBと同じくらいであろうか? 野球部の練習に加わったのは、甲子園出場組の後の8回生はOB名簿を見ても、私を含めて六名が載っているが松下亨は応援のみ、実質は四名であり練習にも事を欠く状態であった。見るに見兼ねた七回生の菅沼光春(キャッチャー)先輩が飯田線で野田城から毎朝同じ電車で通学しており、「おい、大澤、お前野球やれよ」と何時も声がかかっていたのてある。と言うわけで勉強にも身が入らない私は練習に加わった。そして、後に愛大−熊谷組で活躍した坂田繁君(当時はノーコンで有名)とペアーキャッチボールでのワンバウンドボールを受けそこね、眼窩に当たり練習復帰には全治一月となり、野球部応援練習に終りを告げた。高校三年の四月のことであった。卒業後、そんなわけで野球部OBの名簿に入ったのは何時のことか? 野球部史が発刊された時に、菅沼光春先輩が私の骨を拾い、強引にOB名簿に付け加えてくれたのであろう、と感謝している次第である。

 人と人とのつながりを思うと不思議な縁で結ばれており、私が実行委員長の重責を担い、皆様の応援を得て100周年記念事業に参加できたことは誇りでもあり、身に余る光栄であった。

 実行委員諸君と10回を超える会合で、時間を忘れて議論を重ねた豊橋市職員組合会館は忘れられない場所となった。 そのなかで時習館野球部100年史刊行の計画が生まれた。

 明治三十二年に校友会の成立と同時に発足した野球部は、多くの試練を克服し、百年という長い年月のなかで、先輩諸兄は輝かしい歴史と伝統を築き上げて来た。その闘魂と感動の記録をとどめることは、私の念願でもあった。

 発刊にあたり、皆様のご指導、ご協力に感謝を申しあげるとともに、時習館野球部が一層の成長、発展を祈念する次第である。

                                    


健児が腕に力あり

豊中クラブ世話人 牧野喜八郎(豊中39回)     

 時習館野球部史”健児が腕に力あり”をみると、創部100周年の基礎を偉大な先輩が築いてくれたことを痛感できる。

 野球部は明治二十九年、豊橋町立尋常中学時習館時代に創設されたと云われているが、明治三十二年に校友会が成立されると同時に生徒の体位向上、団体行動に必要な犠牲的精神、全力を出し切る敢闘精神などが評価され、運動部として正式に発足した。

 技術の習得によってチーム作りに、愛知県の中学校で先駆けとなった愛知一中に挑戦して指導を受ける。愛知一中は日本マラソン界の始祖である日比野校長が着任し、スポーツと学業を両立した模範校として名声を高めていた。

 また、当時実力一流といわれていた第一高等学校に進学してレギュラーとなった先輩が、一高の著名選手をコーチに迎え指導を受け、気力と根性の充実した野球を教え込まれ、伝統として戦前までその気風は残っていた。

 大正四年にスタートした全国中等学校優勝野球大会が、わき上がる野球熱に応え各地で予選会を行い、その勝者を一ケ所に集め試合を行い、日本一のチームを決める雄大な催しであった。東海地区は明治三十五年に愛知、岐阜、三重、静岡、滋賀を加えた東海五県連合野球大会がスタートしていたので、予選会に振り替え代表校を決めた。

 第一回大会に豊橋中学は三重の山田中学に決勝で惜敗するが、第二回大会には強敵愛知一中を決勝で五対四で破り、愛知県で初の栄冠をつかみ仝国大会出場の夢を果たした。

 これは大会史上に永久に残る快挙として、近隣の中学校の目標となり、対外試合が多くなり野球の競技の普及と振興に貢献した。

 豊中倶楽部を起こしたのはその頃で、学校との連絡にあたることと、活躍を継承することに必要な援助を行い、同時に活動推進の母体となり、各地で催される対抗試合の参加に、また盛り上がる野球熱にグラウンドの建設が進み、球場開きに招かれることが多くなり好成績を記録した。更に評価を高めたのは、鳴海球場で”夏の大会”に愛知代表校になった中学のOB戦が、朝日新聞社の主催で行われ豊橋中、愛知一中、明倫中、名古屋商、愛知商、中京商のOBによるクラブ戦が行われ、第一回大会に優勝したことである。

 実業団、大学で活躍している懐かしい馴染みの選手に拍手をおくり人気を呼んだ。こうした機会があるとクラブのメンバーが学校に立寄ることも多くなり練習の励みにつながった。

 一世紀にわたる時習館野球部の前半を支えてきたのは豊中クラブてあったと思う。それにも増して豊中野球部を熱狂的に愛し、支援を贈ってくれた多数の方の好意を忘れてはならない。

 もともと現役とOBの連絡のために起こした豊中倶楽部であるので、物資面の支援ばかりでなく、選手の個人的相談にも応じる関係が発生したことは、大きな人間の深まりを作り出した人も数少なくなったが、交流するものは大切にしたい。

 先輩が後輩の面倒をみるのは当然のことで、少しも自慢することではないが、思いつきで行動する世話人制にかわり、総会による組織となったOB会は、心強い現役の励みとなって、趣旨は末永く引き継がれることを切に望みたい。

                                    


我が青春の野球部

野球部OB会名誉会長  竹内基二郎(時習1回)   

 「我が人生に悔いはなし」とつくづく感じている。ふり返ってみると私の人生に「野球」の二文字は切り離すことはできない。時習館高校時代は大好きな野球に身も心も打ち込んだ。それは私の青春のすべてであった。多くの同じ心を持つ友人と出会い、すばらしい後輩たちにも支えられた。

 野球に巡りあえたことで、私の人生はどれだけ充実したものとなっただろう。終戦直後、母校の運動場はすべて芋畑であった。まず芋のつるを取り除く作業から野球は始まった。畝(うね)をならし大小の石を拾い、土地を平地にした後、直径五十センチほどの石ローラーの真ん中に棒を通し両端を綱で結び肩にかけ二、三人で何回も何回も地ならし、汗と涙の重労働だった。しかし今思うと非常に懐しく、当時の様子が昨日のことのように思い出される。

 特に印象に残っているのは昭和二十三年鳴海球場で開催された第三十回全国高等学校愛知大会一回戦の対津島戦だ。七回まで五対一の負け試合を八回の攻撃で一点を返し、なお二死満塁で私に打順が回って来た。バットが一閃し、打球は右中間を破った。球は転々外野の塀、走者一掃の二塁打で同点となった。ベンチでは全員が万歳万歳、ベース上の私は感無量! 思わず身震いするはどの感動であった。同点で迎えた九回は両チームとも得点なく日没のため再試合。翌日の再試合は津島に大勝した。勢いに乗って南山、強敵愛知商、名文理、千種工を破り、勢いに乗った時習館は、優勝戦まで駒を進めた。相手は優勝候補随一の享栄商業。惜敗はしたが、ここまで来て悔いはなかった。

 昭和二十七年、時習館高校は春の選抜でついに甲子園への切符を手にした。選抜の決定から甲子園出場まで約一カ月の期間があり、その間一週間ほど合宿練習があった。当時立教大学三年の私も生徒と生活を共にして緒練習に参加した。その時、市内の竹内孝一さん(本町竹内病院長)、一平ずしの店長さんなど、たくさんの方から差し入れがあった。大変な食糧難の時代だったので、本当にうれしかった。今でも忘れることはできない。

 私は大学卒業後、同期の藤田良彦君、故斉藤了一君、二回生の荒島昭吾君、三回生の松永整二君などと相談して夏の地区大会が終った三年生を紹待して三河大島で海水浴、蒲郡竹島の食堂での会食を十年ほど続けた。当時は野球選手の海水浴は禁止されていたので、大島での楽しさは今でも後輩たちの語り草となっているという。

 昭和五十三年大先輩の豊中野球部OB会長・牧野喜八郎さん(豊中39回)から「野球部史」を作製せよと指名され、時習館野球部OB会長に就任。完成までに五、六年かかると思ったが、二回生の林弘君をはじめ多くの方々の熱意と努力で三年後の昭和五十六年発刊にこぎつけることができた。ご協力下さった方々に対し心から敬意を表したい。

 また、ここに百周年を記念して部史が刊行されることは、輝かしい歴史と伝統を伝えるために喜ばしい限りであるとともに、責務でもあった。

 最後に愛する母校の野球部が今後、ますます発展されるよう祈念して、お祝いの言葉としたい。

                                    


野球部100年史刊行にあたって

野球部OB会名誉会長  岡田 互(時習6回)      

 我が時習館高校野球部は、明治二十二年創部以来、本年で百周年を迎えました

 この時に当たってOB会会長の重責を担っていたことを、大変光栄に思います。

 旧制中学時代を含めて三度の全国大会出場を果たし、全国高校野球選手権大会に、第一回から現在まで連続出場(全国で十五校)を重ねている実績は大変誇りに思うと同時に、各時代に白球を追って甲子園をめざし、情熱を傾けていただいた皆様に改めて敬意を表する次第です。

 百年の間には、その時代、時代に多くの苦労があったり、楽しみも喜びもあったことと思います。この事はチームの強弱に関係なく、青春時代の貴重な金字塔として、いつまでも私共の心に残したいと存じます。

 この意味でこの度昭和五十六年に著した、時習館野球部史「健児が腕に力あり」に続き、林弘氏(時習二回)がその後の部史を書き加えていただけることとなり、感謝の気持でいっぱいです。

 この書が、多くの同窓の皆様に愛読され、それぞれの時代の思い出にしていただければ幸と存じます。

                                    


OB会会長就任をかねて

野球部OB会会長  高津政義(時習10回)        

 今年(平成十二年)八月十五日、時習館野球部OB会総会で会長に推挙されました。

 創部100周年記念という節目に会長を仰せつかったことは大変名誉であるとともに、歴史の重さをひしひしと感じます。伝統ある母校野球部の止まない歴史の存続と、現役後輩達の応援に力を尽くしていく覚悟です。よろしくご協力をお願い申し上げます。

 時習館はこの100年間に三度甲子園出場を果たしました。大正五年に東海五県地区大会決勝で宿敵愛加一中(現旭丘高校)を破って甲子園に。残念ながら、優勝した慶応普通部に一回戦で惜敗。二回目は昭和二十七年の春の選抜大会に出場。三回目昭和二十八年の春の選抜大会。大阪の市岡高校を破り初の一勝を挙げ、時習の校旗が甲子園に翻りました。

 ところが、それ以来、甲子園は遠い存在になってしまいました。東三河をみても、昭和四十七年の成章高校、昭和五十年の国府高校のみです。一方西三河では今年の春の選抜大会に愛産大三河高校をはじめ、豊田西高校、豊田大谷高校と最近は甲子園の出場が目立ちます。

 再度母校を甲子園へ送り出したいものてす。平成十年夏の八十回の記念大会。第一回から予選会に連続出場している全国十五校の一つとして時習館は甲子園で入場行進した。「時習」の校旗がグラウンドを一周した。その感激は今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。甲子園の魅力を改めて感じました。その日がもう一度訪れる。とても分かりやすい夢だ。”若者たちにも挑戦しがいのある大きな夢だ”私達OBは、若者の夢の実現に向けて、その環境作りに、関係者の協力体制を一層強力にし、全面的にバックアップしていきたいと思っています。

 100周年記念式典は、去る平成十二年二月十三日、野球部OB、関係者が多数出席して盛大裡に終えました。また記念試合も三月十九日、野球部創設以来のライバルでもある旭丘高校を時習館グラウンドに招いて挙行しました。

 残された記念事業の一つである野球部100年史が、このたび発刊の運びとなりました。 これもひとえに100周年事業にご協賛をいただきました皆様の贈物と、厚く御礼申し上げます。100年史は記念実行委員会で急遽発刊が決められ、昭和五十六年発行の時習館野球部史の迫補を中心に編集することになりました。早速OB諸兄には貴重な資料や寄稿を賜りありがとうございました。

 明治の創部から大正、昭和、また平成と100年の間には幾多の困難に遭いながらも、歴史と伝統を先輩から後輩へと受け継がれてきました。この100年史も一つの節として、これからも重ねられいく未来への中間報告書と思っております。輝かしい記録が次々と書き加えられていくことを期待しています。

 終わりに今後の母校野球部の健闘を祈願し、さらにOB会への一層のご協力を重ねてお願い申し上げて、会長就任と兼ねて発刊のことばとします。

                                    


発刊を祝して

時習館高等学校長  小野田章二(時習11回)     

 愛知県立時習館高等学校の野球部が設立100周年を迎えられ、この度記念誌を発刊される運びとなりました。まことにおめでとうございます。

 野球がアメリカから我が国に伝えられたのが明治六年で、東海地方において最初に野球部がもうけられたのは、その後二十年を経過した明治二十六年の秋、愛知一中(現旭丘高校)に誕生したのが始まりであると手元の資料にあります。その後、本校をはじめ、愛知二中(現岡崎高校)などの旧制中学校で野球部が次々と設立され、時に盛衰はあったものの若者の最も愛好するスポーツとして今日を迎えております。

 日本の野球は伝統的に学校の教育活動の一環としてその育成が図られてきたこともあり、技量とともにマナーが重視されてきました。そのため、高校野球は心身とも発達段階にある高校生が自らを鍛え、高めることやルールを守ることの大切さがその指導の重点とされてきました。それ故、若者が一つの白球を夢中に追いかけ、技量が少々不足していてもその真剣さの心うたれる面があり、プロ野球とは違った魅力となって今日の高校野球の隆盛があるものと思っています。

 本校野球部の長い歴史の中で、全国大会への出場などの輝かしい戦績がある反面、部員不足でかろうじて地区予選会へ出場できたという時期もあったことと思います。平成十年夏の大会第八十回全国高等学校野球選手権大会で表彰を受けたように連続八十回、休まずに予選会に出場するということは並大抵のことではありません。この八十回記念大会の開会式で「皆勤」出場している全国の該当校十五校の中の一校として当時の林泰盛主将が「時習館の旗を掲げ堂々入場行進をしている姿を甲子園球場のバックネット裏から見る機会に恵まれ、本当に感激しました。私は愛知県高野連会長という立場で甲子園に出かけておりましたが白地に墨書ききれたシンプルな時習の旗はひときわ目立ち、伝統の持つ重みと時習館高校野球部のOBの皆様一人ひとりの野球への熱い思いがひしひし感じられました。後輩達も必ずこの伝統を受け継いでくれるものと確信しています。

 本校は公立のいわゆる進学校として大学進学の面でも素晴らしい実績をあげています。それに加えて部活動も活発で多くの部が全国大会等へ出場しています。変化の激しい、また国際化を迎えた今日、人間的に幅の広いたくましい人材の育成が強く求められています。そういった面から今後とも部活動を大いに奨励していきたいと考えております。野球部も監督以下、一生懸命練習に励んでおります。OB会の皆様からも物心両面にわたりご支援をいただいておりますので、これからの活躍が楽しみです。今後ともよろしくお願いいたします。

 最後になりましたが、本校野球部のますますの充実・発展と全員の皆様方のご健勝、ご多幸を祈念申し上げお祝いのことばといたします。

                                    


発刊を終えて(あとがき)

野球部史 部会長 林 弘(時習2回)

 時習館野球部100周年記念実行委員会で、事業の一つに野球100年史の編集が決まりました。昭和五十六年発行の「時習館野球部史」から約二十年、それを追補する形で取り掛かりましたが、中等及び高校野球は夏の大会が目標であり、この記録と、公式試合の東三リーグ、全三河大会の資料を集め直し、これらを中心にし、特に戦後は招待・遠征試合は大部分を省きました。

 部史を記していて、先輩から後輩へと絆が100年も連綿と続いていることに改めて感動を覚えました。

 記録偏重を避けたつもりてすが、青春を白球に捧げた皆さんの、一球一打にそれぞれの思い出があろう、それを語っていただくことに、もっともっと重きを置くべきべきではなかったか。記録では読みとれないみなさんの情熱を・・・。

 今回比較的若い会員の寄稿が少なかったのは残念です。それと前回の野球部史に掲載し、今回寄稿がなかった方には再掲させていただきました。

 資料は大部分各社の新聞記事と、「時習館史」を多用させていただいたことと、現部長の菰田俊英先生、藤城義光監督、実行委員の白井啓示、高田智弘、光島稔、前沢完一、夏目英樹の各氏らにもお手数をわずらわしました。

 終わりに、先輩の栄光を讃えるとともに、時習館高校野球部諸君の先輩に劣らぬ歴史を築かれんことを祈ります。

(平成十二年十月一日記)

                                

上の写真は、林さんが打ち込まれた「時習館野球部100年史」の全文章の収録されているフロッピーディスク6枚です。大変な労力だったことと思います。本当にご苦労様でした。

                                    




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