”銀傘にほえる”

                             (.渥美政雄先生一代記)

 ”銀傘にほえる”(.渥美政雄先生一代記)は、週間スポーツとよはし=編集中日新聞豊橋支局・発行中日折込=が創刊二周年特集として、昭和五十五年十二月七日から四週にわたり連載された。

                             

渥美政雄の甲子園遠望

石川弘之

 甲子園。この球場の土の上にどれほどの少年の汗が流れ、歓喜の声が飛び、そして涙が吸いこまれたろう。甲子園。今も高校球児たちのあこがれ。彼らは”甲子園に自分の青春をかけ、白球を追っている。兵庫県西宮にある銀傘に輝く球場に、戦前戦後を通じ九回も少年らを引き連れ土を踏んだ老教育者がいる。渥美政雄−明治四十二年五月六日、渥美郡田原町生まれ七十一歳。彼は東邦商業(現東邦高校)、滝川中学(現滝川高校)、一宮中学(現一宮高校)、そして時習館高校で国語教師として勤めるかたわら、野球部監督となり、すべての学校を甲子園に送りこんだ。現在、豊橋市高師町に住む。この物語は高校(旧制中学)野球に情熱を打ち込んだ渥美政雄氏の一代記である。(文中敬称略)

”選手である前に生徒であれ”

 甲子園球場全体が静まり返った。マウンド上では、左腕に白布を巻いた滝川中学の別所毅彦投手が、激痛に顔をゆがめながら立っていた。左腕骨析のためグラブを捨て、右腕から下手投げでくり出す投球に観衆はかたずをのんだ。バックネット裏でかっての教え子の姿を見つめていた渥美の胸に”選手である前に生徒であれ”という自らの教えが去来していた。

 昭和十六年三月二十六日。第十八回選抜中等野球大会(後の選抜高等学校野球大会) の準々決勝は、神戸の滝川中学と前年優勝の岐阜商業との争いとなった。

 試合は大方の予想を裏切り滝川別所、岐阜鳥居の投げ合いとなり1一0岐商リードのまま九回表、滝川の攻撃。先頭の尾西信一(阪急)が中前打し二盗。一死後、別所昭(毅彦、南海−巨人−野球評論家)は敬遠で一塁へ。四番青田昇(巨人−野球評論家)に一打出れば同点、長打ならば逆転。このピンチに鳥居はカーブを連投し、青田を三塁ゴロに打止めた。「勝った」誰もがそう思った。ところが、ここで大波乱が起きた。

 滝川にヒットエンドランがかかっていたため、岐商の名三塁手橋本市次郎は二塁間に合わずと見て一塁へ送球、これが大暴投となり尾西が生還。球が転々とするのを見て取った別所は「かえれる」と思い、三塁コーチャーの制止を振り切って本塁へ。

 だが、右翼手加藤政一からは絶好球が返って来た。本塁寸前タッチアウト。1m81、75kgの巨体がもんどり打って転倒した。その時、彼の五体にしびれるような激痛が走った。左腕を下に転がったため二の腕を骨折してしまったのだ。

 泣くな別所、センバツの花

 「ポキリ、と大きな音が払のところまで聞こえましたよ」と渥美は述懐する。当時、渥美は三年間在職した滝川中学を辞し、愛知県の一宮中学校に転任していた。同校はこのセンバツ大会に出場、準優勝する(後に詳述)が、渥美はかっての教え子たちの戦況をバックネット裏から見守っていた。

 そのころのチームに控え投手はいない。別所は続投を願い出た。左腕を布でまきグラブを捨て、捕手からの返球はゴロで受ける。左腕をだらりと下げたため、右腕の反動を失い下手投げに変えた。彼は苦しみながら以後、二回と三分の一を投げ続けた。

 ”選手である前に生徒であれ”これは渥美政雄が滝川中野球部監督時代、選手たちに教えたことばの一つだった。今、夕闇迫る甲子園のマウンドで、その教えを忠実に守り、苦悶の表情で力投する別所。渥美は教師となったことの意義を再びかみしめていた。

 試合は結局、延長十二回の半ば投手経験ない捕手小林章良が救援したが十四回の裏、岐商が貴重な一点を挙げ滝川は涙を存んだ。翌日の新聞はうたった。”泣くな別所、センバツの花”。別所投手を語る場合、必ず引き出される有名なエピソードである。

 昭和十六年の同大会は、太平洋戦争に向けてひた走る日本の国内情勢がセンバツ野球にまで影響を及ぼし、戦時色の濃い大会となった。そんな雰囲気の中での別所の力投は見る人に、甲子園に咲いたけなげな一輪の花のように見えたのかもしれない。

 後に、別所はこの時のことを「目標を求めて不断の努力を重ねる、その尊さを教えてくれたあの敗戦に、私はいま満足感すら感じている」 と述べている。彼のプロ野球での通算310勝は金田正一投手に次ぐ快挙となっている。

 甲子園の初出場は東邦高校

 渥美政雄が野球を本格的に始めたのは成章中学(現成章高校)時代から。投手として活躍し五年生の時には当時の強豪名古屋商業(現名古屋商業高校)をも苦しめた。

 大正十三年、国学院大学に入学。野球を続けた彼は昭和四年から七年まで同大の監督に就任した。男七人、女一人の八人兄弟の四男として生まれた政雄は、田原の町に帰省しても兄弟でチームを作って楽しんだ。

 渥美が名古屋の東邦商業(現東邦高校)に勤めだしたのは昭和九年のことだ。これ以後の三年間は、二十代の若さも手伝って教鞭のかたわら、ただ夢中になって野球を教えた。東邦は昭和九年のセンバツで初出場、初優勝をやってのけ日の出の勢いだった。

 当時の東邦商業(五年生甲種実業学校)は名古屋市東区赤萩町にあり、グラウンドは狭くキャッチボールができるほどしかなかった。そのため大曽根にあった三菱重工のグラウンドを週に三日ほど借り受け、その他は桶狭間の野球場へ授業のすむのを待って走った。

 「そこは今の中京競馬場の隣りにありましてね、学校から遠いため時間を惜しんで練習しました。月明かりの下でも白球に飛びついて行きましたねェ」という。

 そのころは正月の三日から、センバツ大会の予選リーグが始まることになっていた。だから元旦の日から練習となる。
 「新年のあいさつもそこそこに、モーニングをぬぎ、砂場でスライディングの見本をしてみせたのもこのころ」と、その熱烈な指導ぶりを説明する。

 「東邦時代は、若かっただけに学ぶこともたくさんありました」当時、東邦の野球部長は愛知一中(現旭丘高校)から神戸高商を出た隅山馨だった。隅山はすでに五十歳を越えていたが、渥美は彼から教育というものを知った。隅山部長の想い出を渥美は次のように語る。

 先生は運動部の選手に限らず、何か問題のある生徒をよく武道場へ連れて行かれた。二人は防具を着けないで、竹刀だけ持って向かい合う。そして生徒に『力いっぱい打って来い』という。おつむの薄くなったところを打ったら、けがをするに決まっているから生徒は打っていかない。

 すると『よし、打ってこねば行くぞ』と言って先生の方から打って出る。生徒は一生懸命に防ぐが先生は真剣だから頭や肩に強くあたる。生徒はたまらなくなって目の色を変え、守備から攻撃に移る。その時だ。先生はいともおごそかに『よし、それだ』と言ってすぐ『その真剣さを忘れるなよ。勉強もスポーツも同じだ』と付け加える。

 これはほんの一例ですが、先生の指導法は全身全霊でぶつかり合い、そのなかから何かをつかませている気がしました。

 初めてのグラウンドであがる

 昭和十年、東邦は春のセンバツに出場した。前大会優勝の自信は試合にも表れ準決勝に進出。しかし、広島の広陵中(現広陵高校)に敗れた。

 初めて甲子園に出場した渥美は当時をふり返って「レギュラー選手の中には六人ほど甲子園経験者がいましたが、私は初めて、うれしくて、うれしくて、甲子園そのものの雰囲気には神戸に叔父がいた関係で、何度も足を運んでいたので知っていましたが、やっぱり上がりましたね」。

 バックネットの上にスズメが止まっているのが見えれば一人前といわれた。渥美は守備練習で、いつもはわけなくできる捕手へのフライを打つのに何度も失敗した。「監督の私がこんなことでは、と恥ずかしくなりました」生涯のうち九回も甲子園を経験した男も、初めてのグラウンドはさすがに大きかったのだ。

 再び甲子園へ

 翌昭和十一年、東邦はセンバツに再び出場。一回戦不戦勝、二回戦利歌山中を接戦の末、8−7で下したが、桐生中に1−0で完封敗けを喫した。ところで昭和八年の岐阜商以来、戦前センバツ最後の大会となった昭和十六年大会まで東海勢は大健闘。十二年の浪華商業を例外として、すべて東海勢が優勝している。

 渥美は十一年のセンバツ大会がすんだ四月、神戸の滝川中学へ転任することになった。話が急だったことと、春休みの関係で生徒も知らない者が多かったが、知ると下宿先に飛んで来て帰ろうとしない。荷作りもできない。「私は、この時はど教師のありがたさと、自分の未熟さを感じたことは生涯なかった」とこの時のことを思い出す。

 ”気は優しくて力持ち”=別所毅

 ”選手である前に生徒であれ”このことばを口にするようになったのは昭和十一年、滝川中学に転仕してからのことだ。野球ができれば学園生活がおくられる、渥美はこんな環境に強い反発を覚え、学業第一の理念を野球部選手にうえつけた。

 これを身をもって実行したのが別所だった。当時は、日曜祭日といえば大阪、京都、和歌山と試合に出かけた。渥美は月曜日には必ず前の週の復習の意味で十分ほどのテストを行った。

 昨夜は試合で遅く帰ったので、いくら別所でもと思って答案を見ると満点だ。彼は一年から三年まで二百人中二番の成績だった。彼の努力家ぶりは住居が近かっただけによくわかった。別所は単に勉強だけでなく掃除当番から学校の行事にいたるまで、生徒としてやるべきことは卒先してやり、そのうえで野球練習に打ち込んだ。

 冒頭の彼の力投も、努力と責任感が生んだものといえる。”鬼軍曹”というのは戦後、別所のプロ野球におけるコーチ、監督ぶりを評してジャーナリストがつけたあだ名だ。渥美はこの別名を聞くたびに複雑な気持ちになる。

 別所は一年生の終わりごろ、渥美のところへ来て野球部を辞めたいと申し出た。聞くと、理由は三つあった。一つはもっと勉強して希望する大学へ入学したいこと、もう一つは野球部内の人間関係だった。当時、彼の気の小さいことも有名だった。

 人生の分岐点

 渥美は、勉強と運動の両立にはいろいろのケースがあり、可能であることから中途の退部は今までの例で失敗が多いことなど、時間をかけて説明し人間関係の改善にも触れて、あとは彼の判断に任せた。

 「今から考えれは、これは別所君の人生にとって大きな分岐点になったばかりでなく、場合によってはプロ球界の歴史を変えていた事件でもあったわけですね」と渥美は思う。

 ”気は優しくて力持ち”この愛すべき性格が別所の投手としての欠点でもあった。こんなエピソードがある。夏、合宿所の裏手にあった墓場で試胆会(きもだめし)をしようということになった。

 墓場に置かれたノートに自分の名前を書いて来るのだが、途中は暗い松林の中を通る細い道で焼き場の横に通じていた。渥美もこの時、一役かって死にかかった酔っ払いになりすまし、道路の真ん中に寝ていた。

 「おっかなびっくりの歩き方で別所君が近づいて来ました。私の姿を見つけるとびっくり。ヒヤーツといったまま尻もちをついて動かない。『オィオイ』といって声をかけゴールまで行かせましたが、墓場でリンが燃えるのを見て、よっぽど驚いたんでしょう。墓石にまきついて離れない。とうとう帰っちゃいました」

 だから別所の”鬼軍曹”を聞くたびに何か胸につかえるものがある。彼は今だに年賀状を毎年、渥美に送ってくる。対するに青田昇は気が強く、ものをズバリという選手だった。荒削りの魅力があった。

 滝川中では甲子園へ三回出場

 昭和十二年一月、渥美は長兄の雄助の紹介で今泉菊枝と結婚した。新郎二十八鹿、新婦は二十一歳だった。

 甲子園に夢をかける夫を、四十三年間、支え続けた菊枝は語る。

 「この人のことですか? そうねェ、今となっては、お互い空気みたいなものですから。(渥美は)家じゃあ、クギ一本打った事ないんですよ。もう家のことなんか全然。私も昔の人間ですし、外で働く人に家のことで神経を使わせないよう付いてきた・・それだけですよ」。甲子園での試合も「ハラハラするから」と、家で勝利を祈っていることの方が、多かったという。
 滝川での甲子園出場は合計三回。十二年春のセンバツ、同年夏、十三年の春と三回連続して甲子園の土を踏んだ。十二年春のセンバツでは順調に一回戦を勝ち取った。

 韋駄天、三田の活躍

 この時の五番、三田政夫は脚が速く一つのスクイズで二塁から生還した。バンドエンドランも一塁から三塁へ。すばらしい走塁に観衆はド肝を抜かれた。この三田の活躍などで一回戦、浦和中との試合は27−0という大差で勝った。

 このチーム一試合最多得点記録は未だに破られていない。十三年、将来を嘱望された三田は巨人軍に人団。しかし韋駄天(いだてん)三田も応召され戦死、故人となった。

 川上に敗る 吉原の強肩

 続く十二年夏の大会では準決勝で川上(元巨人監督)吉原 巨人、故人)のバッテリーで名高い熊本工業と対戦した。試合前日、川上のピッチングを見た渥美は「これならいける」と思った。

 なぜなら滝川のカーブ投手、湯浅なら熊本の打線を二点以内でくいとめられる力量と経験があった。それに渥美は川上のシュートを打ち下す打法を考案していたからだ。しかし、ゲームは思わぬ方向に動いた。湯浅が病身で球に威力がなく、大量六点を献じてしまったのだ。対する川上のシュート打ちも思うにまかせず、結局完封負けを喫した。

 「負けたという記憶よりも川上君が三塁打を二本放ち、三塁ベースの上で童顔をほころばしている姿の方が印象に強い」と渥美は思い出す。吉原正喜も天下一品の捕手だった。強肩でリードが良く、巨人に入団してから沢村栄治と組んだバッテリーは史上最高。吉原のファイトはファウルを追ってベンチに飛び込み、髪の毛が壁にこびりついたといわれる。

 別当と別所の対戦

 十三年春は二回戦、浪商に9−8で敗れた。別当薫(現野球評論家)は甲子園球場のすぐ隣の甲陽中学の出身。同じ県内で渥美とも親しかった人が野球部長をしていたため、よく練習試合をした。

 「おとなしい子でね、いつも二コニコして優等生でした」と渥美。別当が中等球界で投手として知られ出したのは四年生のころからで、ツルのような上品なフォームからくり出す速球はホームベースの上でホップして、なかなか打てなかった。

 十二年、夏の大会には別当に打ち勝って滝川が出場権を得たが、十三年の同大会予選では逆に完封された。この時の試合に二年生の別所は大会の初陣ながら五回から投げて、別当投手に一歩も譲らず最後まで投げ通した。翌日のスポーツ紙はいっせいに「中等球界に本格的投手出現」と書きたてた。

 別当は翌年慶応に進み、戦後第一回の東京六大学リーグ戦でホームラン打者として活躍し慶応を優勝に導いた。後、プロ入りスマートな強打者として人気があった。

 幻の大会に出場 昭和十七年一宮中が東海代表

 愛知県立一宮中学校に転任したのは昭和十四年四月、渥美三十歳のことだ。赴任早々、各方面から聞こえてくるのは「岐阜商業と中京商業を一度でよいから倒して欲しい」という声。

 岐商はこれ以前にも春三回、夏一回、中商は春一回、夏四回優勝していた。特に中商は昭和六年から夏の大会三年連続優勝の快挙を成し遂げていたほどの強豪。対する一宮中は昭和五年、八年にセンバツに出場していたが二回戦まで進出したのが最高だった。渥美の双肩にどしりと重い期待がのしかかった。

 熱心な野球ファン

 一宮は少年野球の盛んな土地で、ここで育った良い選手はみんな岐商か中商に流れていく。それは一宮中が弱いからだという。「こんな話をしても信じてもらえないと思いますが・・・」一宮の野球熱をほうふつとさせる話を渥美は語る。

 「熱心な野球ファンが多かったてすねェ。午後一時を過ぎると学校の運動場にぼつぼつ姿を現してくる。練習の始まる三時半になると、三百人ぐらいのファンで運動場の北側が埋まってしまう。これが毎日のことだから、私も驚きました」。

 選手が練習でミスをすると必ずファンから、その原因になるような昨日の選手の行動が渥美の耳に聞こえよがしにはいってくる。それは氷を飲んでいたとか、夜どこそこを歩いていたとか・・・たわいのないことだが、監督はいながらにして選手の動きを知ることができた。

 中京商を倒して”大将”に

 一年たって岐商と中商を倒して大将になった。”大将”というのは中商(将)を倒したから昇格した渥美のあだ名だ。昭和十六年のセンバツは珍しく、一宮と東邦の愛知県同士で決勝戦を争うことになった。準々決勝で別所が力投したあの大会だ。

 一宮・林、東邦・玉置両投手の投げ合いは二回までに五点を奪取され試合は決った。安打の数では打ち勝ったにもかかわらず5−2で敗れた。しかし全国の競合相手に準優勝。この大活躍に地元は狂喜した。

 渥美も相手が思い出深い東邦であり、隅山部長との対戦となったことに負けはしてもある種の満足感があった。センバツは以後、太平洋戦争で戦後二十二年まで中止となった。優勝した東邦は戦災で校舎が焼失したが、隅山らは七年の間、優勝旗を守り通した。

 バックネットは弾丸に

 昭利十七年の夏の大会は主催が文部省に移り、優勝旗の返還もなかった。渥美率いる一宮中は再び岐商を破り東海地区代表として駒を進めた。一宮は二回戦で敗退したが、優勝した徳島商業もその成績が認められず幻の優勝になってしまった。

 戦争も徐々に拡大していったある日、生徒の教練(軍事訓練)の検閲があった。検閲官の陸軍大佐は講評の最後に運動場のすみにある野球ネットを指さし、激しい口調でいい渡した。「ただちに弾丸にせよ」

 こうして野球部は廃部になった。戦争で戦死した教え子は多い。そのなかで東邦と滝川が特に多い。もはや何も応えてくれない生徒たちではあるが、その一人、一人のプレーは今でもまるで映画の一コマ一コマのように渥美の脳裏によみがえる。

 戦後は時習館へ

 渥美自身も召集を受け、内地を転々として何度も命拾いした。終戦を一宮市で迎えた渥美は昭和二十一年九月、豊橋の豊橋中学校(現時習館)に転任した。

 ”僕たちは何時甲子園に行けるのでしょうか”

 時習館高校時代

 運動場で行われた就任式は久野新松校長のときで、暑い朝だった。中柴町にあった校舎は戦災を受け、現在地の元第一予備士官学校砲兵隊跡に移って間もないため、校庭には数十台の軍用自動車、・索引車、砲車などが半壊のまま集積され野ウサギがはねていた。

 就任式を終えて職員室に戻ろうとすると廊下で野球部の上級生らしい生徒につかまった。渥美の経歴を知り近づいて来たのだ。昼、部員を集めるから何か野球の話をしてくれという。

 承知して、昼休みに部室に行くと七、八人の生徒がいるばかり。渥美が「他の人はどうしたの」と聞くと先ほどの上級生が、「これで全部です」という。面食らっている渥美に彼はさらに、「僕たちはいつごろ甲子園に行けるでしょうか」とたたみかけるように聞いてきた。

 渥美はしばらく生徒らの顔を見つめていた。驚いたというより突然のことばの内容にとまどった。彼らは真剣だ。うそ気がない。終戦、その後にきた解放感、そのなかで若者は何か支えになるものを模索していた。そのなかの一つに甲子園への夢があっても不思議はない。

 イモをかじって空腹をおさえる

 部屋の壁には”甲子園への夢を実現しよう”と大書してあった。それは愛知四中時代の大正五年、豊中球場で行われた”第二回全国中等学校野球大会”出場の夢よ再びであった。

 こうして東邦商業いらい、渥美の四度目の試練が始まった。この戦いはまず空腹との戦いであった。イモをかじって空腹をおさえ、勉強と運動の両立を考えなければならなかった。しかし、生徒はやる気十分だった。”選手である前に生徒であれ”渥美の一貫した指導方針にも生徒はよくついてきた。

 新チーム作りは順調に進んだ。旧本館前には約一カ月かかって形だけのグラウンドができた。左翼後方にあった本館に誰が一番早くボールを打ち込むかの課題も練習開始一週間を経ずして学校側から、うれしい苦情が出たほどだった。

 渥美の人柄を知る

 しかしベテラン監督といえども甲子園への道は遠く六年を待たねばならなかった。赴任四年目の夏の大会県予選でこんな事件がおこった。渥美の人柄を知る格好の例となる。

 その日、時習館(昭和二十三年に改称)は旭丘と対戦。試合は五回の裏、九点差の優勢裏で時習館の攻撃。一死、走者二、三塁で一点入ればコールドゲームとなる。夏の陽射しが容赦なく頭上から照りつける。じつとしているだけでも汗がしたたるような晴天だった。

 だが、一点を取るためのスクイズは渥美の気持ちが許さなかった。強攻策に出た結果、点にはならず試合は続行。この作戦はいろいろと評価された。

 学業優先

 夏休み明けの九月になって、対戦相手だった旭丘の斉藤監督に会う機会があった。斉藤は尊敬をこめて「試合ではたいへんなご指導を・・・」といった。

 「あのことばで斉藤さんも私の立場になったらやはり同じように打たせたなと思うと、さわやかな風が胸の中を吹き抜けるような気がしました」と渥美はつぶやく。

 渥美の指導方針は、あくまでも学業優先。成績が下がると部を辞めさせた。練習は当時のバンカラな校風とは異なり、精神的鍛錬よりも合理的な技術の進歩をめざした。

 ノックも取れるか取れないかギリギリの所に打ち、エラーすると素手でつかませ、体の中心でボールをとらえることを覚えさせた。連携プレーを教え、個人に目をかけることはなくチームプレーに徹することを選手に諭した。選手らは「この先生についていけば必ず甲子園に行ける」と誰もが思った。

 昭和二十七年になって、ようやく渥美の育てた時習の花は開花した。翌二十八年と二年連続して春のセンバツに出場したのだ。長く苦しい歩みだったが、まさに”甲子園への夢”が実現した。

 昭和27年 甲子園出場

 それだけにチームも充実していた。二十七年のチームには投手に軟の
渡辺修(主将)、剛の内藤治夫、捕手には努力家の故加藤主税、一塁に強打者故原田始、二塁には華麗な守備を見せる大岩張二、遊撃によく動いた芳村徳夫、外野には好打者の鈴木孝康、好守の佐原吉美、それによく面倒をみてくれた植村弓捷マネージャーと洗練された好守好打の理想に近いチームだった。

 このメンバーが一年生に入ってきた時、渥美は奇しくも一同を集めて断言した。「君たちがこのまま二年、三年と伸びていけば甲子園に必ず行ける」と。それが現実となったのだ。

 同年四月一日、夜来の雨も上がり春の陽光ふりそそぐ、あこがれの甲子園に時習館チームは立っていた。開会式に臨んだ選手らはスタンドを埋めた観衆にも、ワーツという熱狂にもおじけつかなかった。過去七回、この土を踏んできた”我らの監督”を信頼しきっていたのだ。

 時習館は大会三日目の第二試合で群馬の桐生工高と対戦することになった。当日、甲子園の空は青く大鉄傘は春の光を浴びて銀色に輝いていた。

 一点の重みに泣く

 午前十時二十一分、時習館先攻でプレイボール。試合は無得点のまま三回裏を迎えた。四球と犠打で一死二、三塁のピンチにセンターに抜ける痛打を浴び一点を取られた。時習館はその後、どうしても一点が取れずそのまま押し切られた。渥美は改めて一点の重みをしらされた。

 「初陣らしい負け方でしたね」と渥美は語る、この出場を記念して学校では懐かしいオンボロネットから立派なバックネットが作られた。夏の県下大会では決勝まで進んだものの愛知高校に敗れた。

 
昭和28年続けて甲子園へ 時習館最強チーム

 昭和二十八年出場のときは投手にボールの重い
大山敏晴、二塁に確実な守備を見せる白井勉、三塁に好守の岡田互(主将)、遊撃には強肩の徳増浅雄、左翼には好打者竹内和男と甲子園経験組がおり、昨年センバツ出場の余勢もあって気を許していた。

 中京商を下す

 だが、新チームは初戟以来、悪戦苦闘でどこのチームとやっても楽勝はなかった。このチームがフラつきながら勝ち星を挙げ、秋の中部地区大会で不敗を誇った中京商業を4−3で下したのだから世間はアッと驚いた。

 渥美らは再び甲子園にいた。彼にとっては九回目の甲子園だ。一回戦は地元、大阪の市岡高校。時習館は四回裏、相手のミスに乗じて二点を挙げ、守っては左腕大山が11三振を取る好投で七回にも一点を加え3−1とリードした。

 
時習館校旗 甲子園にひるがえる

 だが勝利を焦ったか九回の表に二死二塁、三塁の大ピンチがやってきた。大山の願いをこめたボールを打った市岡高の一打は、二塁手白井の頭上を抜くかと思われた一瞬、一世一代の白井のジャンプが白球をグラブの中に吸い込んでいた。「あの白い球は、今でもまぶたに焼き付いている。」かくて時習館の校旗は甲子園の空にひるがえった。

 夜行列車でかけつけた八百人の応援川は狂喜乱舞した。海老茶に白く”時習”と染め抜いた旗と団扇が三塁側アルプススタンドで揺れた。

 洲本高校に惜敗 甲子園との別れ

 二回戦はこの大会に優勝した洲本高校と対戦した。洲本・北口、時習・大山の投手戦となり安打は洲本一、時習三。六回に一本の安打と巧みなバントによって一点を取られた。対する時習館も九回に二死ながら二、三塁の好機をつかんだ。
 六番・
中西克哉の打球は浜風に乗って伸び、左中間を破るかと思われたが、洲本・長尾中堅手が力走して好捕し惜敗した。渥美にとっても甲子園との別れになった。
 
 教え子藤田良彦にバトン

 夏の県下大会ではダークホース岡崎工業に意外な敗北をした。このころから指導のバトンは教え子の藤田良彦に移った。
藤田良彦は名古屋大学を卒業し、時習館に赴任してきたのだ。

 渥美は、昭和三十一年四月、時習館を離任した。

 前豊橋市長の河合陸郎は試合を見た後、渥美によくこういった。「どうも君の野球は定石を踏みすぎて面白味がないよ」。また、ある野球評論家は「あなたの野球は教育的な角度からと、勝負の角度からの二方面から見ないといけませんね」ともいった。

 一球快打 飛田穂洲もうなずく

 野球界の大御所、故飛田穂洲は甲子園の旅館の一室で、渥美の願いに応えて扇子に”一球 快打”と書きながら「わかる、わかるよ」とうなずき「学生野球はあれでいいんだよ」と話した。渥美はどれも本当ではないかと思う。渥美の野球は結局、彼の性格から抜けることができなかった。

 
銀傘にほえる

 昭和九年の東邦商業をふり出しに、二十二年間を高校野球とともに過ごしてきた老教育者は思う。「手塩にかけて送り出した教え子たちが、それぞれの社会生活のなかで高校時代の野球を思い出し人生の糧としてくれれば幸いだ」と、甲子園の銀傘に向かって吠え続けた一人の男は思うのだ。



 
思い出は鮮やかに(後書きに代えて)

  渥美政雄

 一生をかけた若き日の思い出は、何を取り上げても、胸に込み上げてくるものがあります。中等野球から高校野球−東邦・滝川・一宮・時習館と、辛苦を共にした当時の教え子は、今はもう五十代、六十代になって社会で活躍しています。

 「銀傘にはえる」を読んで、その中に出て来る悲喜こもごもの一コマ、一コマは忘れがたいものばかりであります。

 東邦時代の隅山部長の全身全霊を打ち込んだ指導法、滝川時代の別所投手の生い立ち、一宮時代の恵まれた野球環境。時習館時代の最後のチーム作り、いずれも私の野球指導のなかから切り離すことはできません。

 考えてみれば、このいろいろな要素が生かし合って、晴れの甲子園に歩を進めたものと思います。

 最後に、豊橋市体育協会理事長の神野信郎氏から、身に余る立派な題字を頂き、お礼を申し上げるとともに、二十二年間にわたる私の断片的な野球の史料に肉をつけ、血を通わせて頂いた記者の石川さんに感謝を申し上げます。




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