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      渥美政雄監督の教え子 別所毅彦と青田昇選手

 渥美政雄先生が滝川中学時代(兵庫)に育てられた選手に別所毅彦、青田昇氏がある。
 昭和24(1949年)年9月29日、この両選手が来校し、講堂(講堂といっても兵舎あとの窓ガラスもない粗末な・・)で講演会を行った。



 別所毅彦

http://www.webmie.or.jp/~m-yama/ による)

 1922(大正11)年10月、兵庫県生まれ。別所昭での登録時もあり。右投右打。投手。背番号22・12(南海)→29・11(巨人)。1941(昭和16)年春、滝川中(現滝川高)で甲子園に出場した。
 1942(昭和17)年、南海に入団。2年目に14勝を挙げて頭角を現す。
 戦後の1946(昭和21)年には19勝13敗防御率2.46でチームを優勝に導いた。(この年のチーム名は近畿グレートリング。翌年からチーム名は再び南海に変更)
 1947(昭和22)年には30勝19敗、防御率1.86、191奪三振で最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得。創設されたばかりの初代沢村賞投手の栄冠も手にしている。
 1948(昭和23)年には26勝10敗の成績を残し、南海を優勝させている。
 しかし、その年のオフに巨人に引き抜かれて移籍。巨人がシーズン中に交渉したため、協約違反とされて1949(昭和24)年開幕から2ヶ月間の出場停止処分を受けた。
 それでも、別所はその年に14勝し、巨人に戦後初の優勝をもたらした。
 セ・パ分裂後の1951(昭和26)年から1953(昭和28)年には日本シリーズ3連覇を達成。特に1952(昭和27)年は、ペナントで33勝13敗、防御率1.94を残してシーズンMVP、日本シリーズでは3勝0敗、防御率1.64でシリーズMVPという超人的な活躍を見せた。
 1955(昭和30)年からのリーグ5連覇にも大きく貢献。1955年には防御率1.33で最優秀防御率のタイトルを獲得し、日本シリーズでも3勝1敗、防御率1.16でシリーズMVPになっている。さらに1956(昭和31)年には27勝15敗で3度目の最多勝を獲得すると同時に、2度目のシーズンMVPに選出されている。 
 1959(昭和34)年10月、国鉄戦で通算300勝を達成し、1960(昭和35)年限りで現役引退。巨人・大洋のコーチを経て、サンケイ・ヤクルトの監督も務めた。
 1979(昭和54)年、野球殿堂入り。

 長身から豪快に投げ下ろす重くて速いストレートを中心としたコンビネーションで故障せずに長期間にわたって投げ続け、巨人の第二期黄金時代のエースとして君臨して「豪腕」と呼ばれた。

 通算成績(実働17年):310勝(歴代5位)178敗、防御率2.18(歴代7位)。1934奪三振。シーズンMVP2回(1952・1956)日本シリーズMVP(1952・1955)最優秀防御率(1955)最多勝3回(1947・1952・1956)最高勝率1回(1948)最多奪三振1回(1947)沢村賞2回(1947・1955)

数々の伝説

 @泣くな別所、センバツの花

 1941(昭和16)年、滝川中のエースとして春の甲子園に出場した別所は、岐阜商業戦で本塁にスライディングした際に左肩を脱臼。利き腕は右だったため、左腕を肩から三角巾で吊り下げた状態で先発した。
 左腕は、全く使えないため、キャッチャーから返ってくる球はすべてゴロにしてもらったという。
 試合の方は、右腕だけで投げる別所が好投し、接戦となったが、結局延長14回1−2で惜敗した。
 そのプレースタイルは、「泣くな別所、選抜の花」と称えられた言葉とともに伝説となった。
 第二次世界大戦の激化があって、この年を最後に甲子園大会は中断。大怪我をおしてまで投げ抜いた別所の支えは、いつ召集されて戦死するかもしれないから、やれるときに野球をやり抜きたい、という一途な想いだったと言われている。
 別所の力投は、今でも純粋さや精神力の修養を重視する高校野球の象徴として語り継がれている。

 Aノーヒットノーラン達成

 戦争が激化していた1943(昭和18)年5月26日、別所は、大和戦に先発し、2−0で完封するとともに無安打に抑え、ノーヒットノーランを達成した。
 投げた球のうちのほとんどが直球で、カーブは10球程度しか投げなかったという。
 別所の投球は、長身から投げ下ろす重くて速いストレートを中心に組み立てていた。人々は別所を「豪腕」と呼び、別所の球を受けた捕手の手は腫れ上がったという伝説も残っている。

 Bシーズン47完投

 1947(昭和22)年、別所は、南海のエースとして55試合に登板している。そのうち先発で投げたのが50試合にも上っている。
 そして、50試合中で完投したのが実に47試合。これは、現在でも林安夫(朝日)と白木義一郎(東急)の44完投をしのいで日本記録となっている。
 現在のような中5日、中6日が当たり前になったローテーションでは今後この記録を破る選手は出てくることは考えられず、不滅の記録と断定しても良いだろう。
 当然、この年の別所は、30勝19敗、防御率1.86、191奪三振という好記録を残し、最多勝と最多奪三振の2冠に輝いている。

 C控え選手に打たれ、完全試合を逃す

 1952(昭和27)年6月15日、別所は、松竹戦に先発し、8回まで松竹打線を完全に抑え込んだ。9回も簡単に2アウトをとった。
 松竹は、ここで代打に控え捕手で入団2年目の神埼康隆を出す。選手を使い果たし、他に適任の代打がいなかったためである。
 松竹も神崎も、最初から打てないと踏んだのか、初球、2球目とセーフティバントを試みるが失敗。たちまちカウントは2−0となった。
 しかし、あと1球で完全試合というところまできて、別所も力が入ったのかボールが続き、カウントは2−3になる。
 完全試合のためにはもうボールが許されない。別所のストライクをとりにきた球を振った神崎の打球は、ボテボテのゴロとなった。
 しかし、別所は横を抜かれ、前進してきたショートが捕ったものの、一塁には間に合わなかった。
 別所は、完全試合達成寸前で運に見放されてしまったのである。
 そして、この神崎の放った内野安打が彼のプロ野球生活唯一の安打となったことで、後にこの試合はクローズアップされることになる。神崎の通算成績は、実働4年で9打数1安打、打率.111。まさに、別所の完全試合阻止のためだけにプロにいたような選手なのだ。
 記録記者の宇佐美徹也がプロ野球の記録を分析し始めたのも、この伝説がきっかけだと言われている。

 D別所引き抜き事件

 別所は、戦後に入ると1946(昭和21)年に19勝、1947年(昭和22)には30勝を挙げ、南海の大エースになりつつあった。そして、当時は、こうした一流選手に対して、球団が一軒家や自動車をプレゼントするという風潮があった。しかし、南海は、別所に対して一切そのような優遇措置を行わなかった。
 別所がそれに不満を持っていることを知った巨人は、1948(昭和23)年のシーズン中であるにも関わらず、別所に接触。このとき、巨人は、戦後3年間でまだ一度も優勝できていなかったため、エースを必要としていた。
 巨人の動きを知った南海も、慰留に努めたが、別所は巨人入りを決断。翌年3月に別所は巨人と契約した。
 しかし、南海在籍時のシーズン中に交渉を行ったことが協約に触れるため、別所は、コミッショナーから2ヶ月間の出場停止処分を受けた。
 この別所引き抜き事件が後の巨人の強引な選手集め体質の原点になったと指摘する者も多い。

 E好打者

 別所は、打撃でも非凡なセンスを持っていた。通算では投手としては金田正一の36本塁打(それ以外に野手で2本)と米田哲也の33本には及ばないものの彼らに次ぐ31本塁打(それ以外に野手で4本)を放っており、投手で歴代3位の記録となっている。
 1948(昭和23)年には150打数51安打4本塁打で打率.340という首位打者を狙えるような打撃成績を残している。また、1952(昭和27)年にも151打数52安打4本塁打で打率.344であった。
 また1955(昭和30)年6月9日には中日の杉下茂からサヨナラ本塁打まで放っている。

 Fスタルヒンを抜いて通算勝利新記録達成

 1955(昭和30)年にスタルヒンは、通算300勝を達成し、303勝で現役を終えている。これが当時の日本記録であったが、別所は、1958(昭和33)年までに294勝を挙げていた。
 しかし、球威の衰えから登板数は減らされ、勝利数も減ってきていたため、別所は、1958年オフの契約更改で35試合登板を条件として要求した。
 この前代未聞の要求は、当時の野球界を騒がせたが、1959(昭和34)年の登板は22試合にとどまり、7勝に終わっている。
 この時点で301勝。
 別所は、1960(昭和35)年、最後の力を振り絞って力投し、35試合に登板して9勝を上積みし、ついにスタルヒンの303勝を抜いて通算勝利新記録を達成した。
 しかし、記録は破られるためにあるもの。その3年後に金田正一が別所の記録を抜き、通算勝利を400勝まで伸ばしている。

 G中村投手殴打事件

 1962(昭和37)年7月10日、名古屋でその事件は起きている。
 中日との試合後、巨人ナインは、旅館へ宿泊した。
 巨人のコーチになっていた別所は、その日の深夜、用を足すために起き出し、中村稔投手の部屋に電気が点いているのを発見。中をのぞくと、中村は球団が禁止している酒を飲んでいる。
 怒った別所は、中村を川上哲治監督の元へ連れて行き、中村の首を押さえて川上監督の前に座らせた。
 別所自身は、殴打しなかったと主張しているが、1ヶ月後、週刊誌がこのときのことを「殴打事件」として報道したため、事が大きくなり、球団は別所に謹慎処分を課した。
 別所は、球団に弁明したものの聞き届けられず、2軍コーチ降格を拒んでそのまま巨人を退団した。
 この事件は、川上体制から別所を外そうとする陰謀との説も出ているが、未だにその内情は謎に包まれている。

http://www.inter.co.jp/Baseball/jp/player/register/great/01120404.html による)
年度 所属球団 登板 勝利 敗北 セーブ 投球回 奪三振 防御率
1942 南海 2 0 1 . 13 8 2.08
1943 南海 45 14 23 . 319 0.1 128 2.25
1946 近畿グレートリング 42 19 13 . 325 115 2.46
1947 南海ホークス 55 30 19 . 448 0.1 191 1.86
1948 南海ホークス 42 26 10 . 319 0.1 120 2.05
1949 読売ジャイアンツ 25 14 9 . 180 91 2.35
1950 読売ジャイアンツ 43 22 11 . 314 157 2.55
1951 読売ジャイアンツ 47 21 9 . 301 0.1 131 2.44
1952 読売ジャイアンツ 52 33 13 . 371 0.1 153 1.94
1953 読売ジャイアンツ 32 16 8 . 191 0.1 75 2.63
1954 読売ジャイアンツ 50 26 12 . 330 158 1.8
1955 読売ジャイアンツ 50 23 8 . 312 152 1.33
1956 読売ジャイアンツ 54 27 15 . 340 0.1 185 1.93
1957 読売ジャイアンツ 40 14 11 . 219 0.2 100 2.5
1958 読売ジャイアンツ 26 9 5 . 126 0.1 42 2.55
1959 読売ジャイアンツ 22 7 7 . 110 56 2.86
1960 読売ジャイアンツ 35 9 4 . 129 0.1 72 3.05
通算 662 310 178 . 4350 0.2 1934 2.18

(別所毅彦氏は1999年・平成11年6月24日、76歳で永眠)



 青田昇

http://www.webmie.or.jp/~m-yama/ による)

 1924(大正13)年11月、兵庫県生まれ。右投右打。外野手。背番号32(巨人)→12(阪急)→23(巨人→大洋)→1(阪急)。滝川中学から1942(昭和17)年に17歳の若さで巨人入団。
 その年、規定打席未満ながら打率.355という好成績を残し、巨人の優勝に貢献した。
 1943(昭和18)年は打率.233ながら42打点を挙げて打点王のタイトルを獲得。巨人も優勝している。
 しかし、その年のシーズン終了後、戦争激化のため大刀洗陸軍航空隊へ入隊。
 戦後、阪急に入ってプロ野球復帰。1948(昭和23)年には巨人へ戻った。
 その年に打率.306、25本塁打、99打点、174安打という活躍で、首位打者と本塁打王、最多安打というタイトルを獲得した。
 1950(昭和25)年には.332、33本塁打、29盗塁という活躍をし、3割30本塁打30盗塁にあと一歩という成績を残した。
 1951(昭和26)年には32本塁打、105打点で本塁打王と打点王の2冠王となった。そのおかげで巨人は2位に18ゲーム差をつけて独走優勝し、日本シリーズでも南海に4勝1敗で快勝する。
 巨人は翌年にも日本シリーズ連覇を果たし、青田は、戦前戦後の巨人黄金時代の一翼を担った。
 1953(昭和28)年、洋松に移籍し、1954(昭和29)年に31本塁打で本塁打王、1956(昭和31)・1957(昭和32)年にも本塁打王を獲得している。
 しかし、1958(昭和33)年6月の中日戦で試合中に左足首を骨折。1959(昭和34)年、阪急に移籍するが、故障箇所は癒えず、その年限りで現役を引退した。
 引退後は阪神、阪急、巨人のコーチを歴任した。

 野武士のような野性味あふれる構えから球を巻き込むようにしてレフトポール際に運ぶのがうまく、大下弘と並ぶ戦後のホームランバッターであった。またパワーだけでなく、強肩・好守・俊足をも兼ね備えた選手だった。

 通算成績(実働16年):打率.278、265本塁打、1034打点、1827安打、155盗塁。首位打者1回(1948)本塁打王5回(1948・1951・1954・1956・1957)打点王2回(1943・1951)最多安打1回(1948)ベストナイン4回(1950・1951・1956・1957)

数々の伝説

 @転向

 青田は小学校時代は、柔道をやっていた。そのため、高等小学校でも柔道をしたかったのだが、あいにく柔道部は存在しなかった。
 青田は、仕方なく柔道から野球に転向。
 すると青田は、野球で大活躍し、特待生で名門滝川中学に進学することができた。
 しかし、青田は、滝川中学では控え投手だった。なぜなら、そこの先輩にはあの別所毅彦(後に巨人入団)がいたからである。
 青田は、野手としての素質に目をつけられ、外野手に転向させられる。
 それがプロ野球史に残る名バッターを生むことになったのである。

 A本塁打ゼロの打点王

 1943(昭和18)年、青田は、42打点で打点王になっている。しかし、本塁打は1本も打っていない。打率も.223である。
 同じ42打点で打点王を分け合った野口明も本塁打は0本である。
 これは、太平洋戦争の激化に伴い、試合数が84試合と少なかったのと、バットやボールが粗雑なものになっていたのが原因である。
 本塁打王ですら4本しか打っていない。
 また、戦前は、本塁打王というタイトルすらなく、ゴロやライナーを打つことが最も良い打撃とされていたという時代背景もあった。
 そのため、この年の2人の打点王だけが本塁打0本という珍しい記録を残してしまったのである。

 B大下弘に対抗して屈指のスラッガーに

 戦後、突如現れた天才アーティスト大下弘は、1946(昭和21)年に20本塁打を放って本塁打王を獲得した。これは、今までのシーズン本塁打記録を10本も塗り替える偉大な記録であった。
 これにより、プロ野球の人気は一気に火がつき、それまでゴロや強いライナーを打つことを志していた他の打者たちも、本塁打を狙うようになる。
 青田も、大下に何とか対抗しようと、バッティングを研究。1948(昭和23)年の春季キャンプでは毎晩旅館の地下室で川上哲治・千葉茂・三原脩監督とともにバットを振りながら打撃を語り合ったという。バットを体に巻きつけるような独特のフォームを編み出し、レフトスタンドポール際へ最短距離で運ぶ技術を身に付けた。
 それをマスターした1948(昭和23)年、青田は、後楽園球場で行われた10月22日の大陽戦の井筒投手から21号本塁打を打ち、大下が打ち立てたシーズン最多本塁打記録を塗り替えた。
 その年は、本塁打を25本まで伸ばし、本塁打王を獲得している。
 以後、4度の本塁打王に輝き、通算では5度も本塁打王となっている。

 C満塁サヨナラ本塁打を2度達成

 1947(昭和22)年、阪急にいた青田は、0−0の9回裏に走者3人を置いて満塁サヨナラ本塁打を放っている。
 そして、その7年後の1954年4月27日の洋松×巨人戦で、洋松にいた青田は、5−8とリードされた場面で打席に立つ。2死満塁である。
 青田は、笠原投手からセンターへ逆転満塁サヨナラ本塁打。9−8という大逆転勝利となった。
 満塁サヨナラ本塁打を2度記録しているのは、青田と広野功の2人だけである。

 Dじゃじゃ馬

 青田は、じゃじゃ馬という愛称をもっている。
 本塁打王5度を獲得したパワーもさることながら、元々投手をやっていたから強肩で、しかも通算155盗塁を記録した俊足でもあったからである。打法も、豪快にレフト線に引っ張る打法を得意とし、「野武士」という別の異名も残っている。
 太平洋戦争の激化によって野球が統制されると、自ら陸軍航空隊に入り、これまた自ら特攻隊に志願するという情熱的な闘争心の持ち主でもあった。だが、特攻隊として旅立つ前に終戦になったことがプロ野球界にとって幸いした。
 また、大下弘や別所毅彦と毎晩、銀座で遊び回り「銀座の三悪人」と呼ばれた。
 何事に対しても豪放であり、それらが「じゃじゃ馬」という愛称に集約されているようである。

 E壮絶な首位打者争い

 1948(昭和23)年の首位打者争いは1厘1毛を争う好勝負となった。
 小鶴誠が打率.305で全日程を終えて1位となっており、1試合残して巨人の青田が.304、南海の山本(後の鶴岡)一人が.303であった。しかも最終戦は巨人×南海戦という直接対決であった。
 青田は第一打席は凡退したが、第二打席はヒット。逆に山本は第一打席は二塁打で第二打席は凡退。
 第三打席は青田がセーフティーバントを三塁を守る山本の前に放ち、この時点で小鶴を抜いて.306でトップに踊り出た。
 山本も第三打席は、右中間に安打を放って食らいついた。
 しかし、山本の第四打席は敬遠気味の四球。
 青田は、第四打席に立つことなく、ベンチへ退いて首位打者が確定した。
 最終結果は青田が.3057、小鶴が.3053、山本が.3051であった。

 F金田の野望を打ち砕く

 1958(昭和33)年、国鉄の金田正一は、開幕から破竹の9連勝と絶好調だった。この年は、開幕戦で巨人のルーキー長嶋茂雄から4打席4三振にきってとり、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手3冠王を獲得する年である。
 4月27日の大洋×国鉄戦は金田が開幕10連勝をかけての登板となったが、大洋にいた青田は、金田から先制2ランホームランを放つ。
 国鉄も、佐藤孝夫の同点2ランで追いつき、そのまま延長に入った。
 11回表に大洋は、走者を二塁に置いて青田が打席に立った。青田は、金田の直球を上手く流し打ち、ライト前の勝ち越しタイムリーとなった。
 11回裏の国鉄の攻撃は0点に終わり、3−2で大洋の勝利。青田は、試合の全打点を一人で叩き出し、金田の連勝は9でストップした。
 試合後、悔しさを隠せない金田は、取材に来た記者に水をかけ、あの政治家吉田茂と比較されて、大きな話題となったそうである。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~akichan/miman/aota.htm による)
 兵庫・滝川中(中退)から42年巨人に入団。17歳ながら42試合に出場し打率.355を残す。規定打席不足だったが、首位打者の呉波(巨人)が.286だったのだから青田の打棒の凄さがわかる。翌43年には打点王獲得。戦後は阪急でプレーするが、48年に5年ぶりに巨人へ復帰。いきなり首位打者と本塁打王の二冠に輝く。51年にも32本塁打と105打点で2度目の二冠王。
 53年、洋松に移籍すると54、56、57年と本塁打王に輝き、通算5度の本塁打王は王貞治、野村克也に次ぐ歴代3位タイ。いまだ殿堂入りも果たしていないが、「じゃじゃ馬」と言われた奔放なプレースタイルで、一時代を築いた豪傑選手である事は間違いないところである。
 53年4月23日の巨人戦でサイクルヒット達成。54年4月27日の巨人戦で笠原投手から逆転サヨナラ満塁本塁打。56年5月6日の広島戦ダブルヘッダー第1試合から第2試合にかけて4打数連続本塁打。59年8月5日の近鉄戦で代打満塁本塁打。
 首位打者1回(48)、本塁打王5回(48、51、54、56、57)、打点王2回(43、51)。ベストナイン5度(48、50、51、56、57)受賞。オールスター出場6度(51〜53、55〜57)。

年度 球団 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 四死球 三振 打率(順位)
1942 巨人 42 124 20 44 4 0 1 51 18 7 7 5 0.355
1943 巨人 84 323 25 72 10 6 0 94 42 10 22 21 .223(13位)
1946 阪急 96 411 57 121 28 5 3 168 51 21 21 23 .294(11位)
1947 阪急 118 473 55 110 19 4 11 170 63 22 34 26 .233(33位)
1948 巨人 140 569 95 174 31 2 25 284 99 19 22 52 .306(1位)
1949 巨人 134 557 93 153 28 3 28 271 102 6 41 58 .275(32位)
1950 巨人 137 557 94 185 22 3 33 312 134 29 44 41 .332(3位)
1951 巨人 114 471 101 147 27 2 32 274 105 22 50 39 .312(8位)
1952 巨人 114 427 77 111 18 1 18 185 79 6 40 32 .260(30位)
1953 洋松 105 404 45 99 18 4 9 182 40 2 32 30 .245(26位)
1954 洋松 124 469 65 138 23 0 31 254 74 3 36 52 .294(11位)
1955 大洋 103 381 40 102 23 1 17 178 54 3 31 45 .268(13位)
1956 大洋 129 502 48 130 13 2 25 222 65 1 35 69 .259(12位)
1957 大洋 129 497 53 136 19 1 22 223 61 1 29 56 .274(6位)
1958 大洋 76 260 21 67 8 0 7 96 30 1 15 29 0.258
1959 阪急 64 141 9 38 5 0 3 52 17 2 8 15 0.27
1709 6566 898 1827 296 34 265 2986 1034 155 467 593 0.278

(青田昇氏は1997年・平成9年11月4日、72歳で永眠)





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