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           平成5年(1993年) 渥美政雄先生(監督)逝去

 昭和21年(1946年)9月から、昭和31年(1956年)3月まで監督を務められ、昭和27、28年(1952、1953年)2年連続の選抜大会に出場を果たされ、時習館野球に大きな功績を残された渥美先生が、平成5年(1993年)3月 83歳で惜しまれながら永眠されました。ご冥福をお祈り「致します。



                        名監督 渥美政雄先生を偲んで

                            

時習2回生 中村長平(平成12年6月記)

(1)芸術的なノック

 私は野球部員ではありませんが、一〜三年間学級担任としてお世話になり、卒業後の挫折?人生のさ中にも、たびたび一方ならぬ気配りを頂いた生徒の一人です。

 昭和二十三年秋、運動会終了後のいわゆるファイア・ストーム暴力事件のあと学校新聞『時習』の編集長から生徒自治会長に担ぎ出されて右往左往していた頃、本館入り口の二階にあった自治会長室の窓から野球部の練習風景を半ば羨望の眼でよく眺めていたものでした。圧巻は何といっても渥美先生の、それこそ芸術的ともいうべきノックで、選手が左右前後に精一杯追いついて捕球できるかできないかの位置に打ち上げる外野フライや、捕手の林弘くんがしごかれていたキャッチャーフライのノックなど至芸!としか言いようのないものでした。そして私も当然の成り行きとして熱烈な野球(部)ファンになっていました

 生徒会行事の一つとして、先生にお願いし、滝川中学時代の教え子だった巨人軍の別所・青田両選手を招いて、野球部練習場三塁側のあの窓ガラス一つない風吹きさらしの講堂で講演会を聞かせてもらったのも懐かしい思い出です。昭和二十四年九月二十九日のことでした。また、それ以前の新聞部員の時にも豊橋球場に来たプロ野球試合に東急フライヤーズ(だったと思う)の大打者・青バットの大下弘選手(赤バットは川上哲治選手)へのインタビューを、国学院大学時代の知友であった大沢選手に仲介を依頼して下さって実現させてもらったこともあります。この時は後の野球部マネージャー古市良延くんと一緒に取材に行きました。

(2)試合応援の思い出

 時期は定かではありませんが、県内に強豪チームを招いて練習試合をやりましたので、良く応援に行きました。印象に残っているのは東田球場での二つの試合です。一つは半田商工長谷川良平のピッチングで、さほど体格に恵まれているともみえない彼が、つま先立ちして伸び上がるようにして投げ下ろす直球と落差の人きいドロップには、敵ながらほれぼれとして見とれていました。また、さらに印象が深かったのは享栄商との試合で、主戦投手の水野義一選手(後、早大のエースとして活躍)のあと第二投手として登板してきた骨格のしっかりした左腕投手のピッチングに度肝を抜かれました。今まで見たこともない剛速球で、時習館選手のバットはカスリもせず、ただただ空を切るか、少々制球力不足(ノーコン)で四球で出塁するかで手の打ちようもなく、唖然とさせられたことです。後にこの選手がかの大投手・金田正一であったことを知り、さもありなん・・と納得がいったものでした。半田商工の長谷川良平投手もやがてプロ野球・広島カーブのエースとして大活躍することになったことは、皆さんも知っての通りです。

 試合応援の中でも最も熱が入り、悔しい思いをしたのは夏の甲子園大会出場を目指して、有力校(戦前予想では決勝は瑞陵と時習館ではないかといわれていた)の一つとして戦った鳴海球場での愛知大会で、思わぬ伏兵犬山高に準々決勝で延長十一回の末七対四で敗れてしまった時でした。夏の太陽がギラギラ照りつける七月二十七日の三塁側スタンドに立ち尽くし、精魂込めた応援の疲れも忘れて悔し涙にくれた自分の姿を今もありありと思い出すことができます。

 試合内容は、犬山高・本多逸郎左腕投手(四番打者で、六打数三安打)の一人にしてやられたという感じで、彼の内角速球に手を焼き、凡ミスで先取点された三点に九回裏の土壇場て追いついたものの、十回裏は拙攻でチャンスを逃し、十一回表四失点し、その裏一点しか返せず涙を呑んだわけでした。(決勝は瑞陵と犬山で、瑞陵が勝って甲子園に山場した)・・・昭和24年(1949年)の第31回大会

 進学希望を待たずに受験準備をまったくしていなかった私を、知らぬ間に渥美先生は発足したばかりの育英会奨学生(月額五百円)にして下さり、十二月には新城市大海の私宅まで来て両親に私の進学を説得してくれたのです。あわてて一か月ほど、泥縄式の受験勉強らしきものをしただけでしたが幸運にも早稲田大学政経経済学部新聞科に合格し、ジャーナリストへの道を志すことになりました。学校新聞『時習』の編集部員だったことが、この志望選択の主な動機だったでしょうが、東京六大学の名門校という点も選択肢の一つであったことは間違ないでしょう。そして、憧れの早慶戦の応援に応援部員の指導を受けて神宮球場にくり出し、校歌「都の西北」、応援歌「紺碧の空」を高唱し、白熱場面では「早稲田ウエーブ」どいう稲穂が風に激しくなびくという情景をスタンドいっぱいに表現するという独特の応援も何回かやらされ、好試合の熱気に酔ったものです。当時、覚えている名のある早大の選手はショートの広岡達朗、サードの小森、ファーストの石井藤吉郎、投手では亨栄出身の水野、下手接げの末吉といった顔ぶれでした。プロ野球で名を成した広岡選手は、この頃から理知的な風格を備えていたような印象が私の心に強く残っています。

 けれども入学年の夏休み後、私の結核発病で、ジャーナリストの道は、あえなく挫折してしまうのてす。この闘病生活は、昭和三十年四月、愛和学芸大学入学まで、いろんな波乱を含みながら続くことになりました。

(3)卒業してから頂いたご縁のいくつか

 五年回り道して再入学した学芸大時代は、少々頭でっかちで同級生の大部分より年長のせいか背伸びした言動が多く、活発だった学生運動に首を突っ込み、高校時代憧れていた?演劇部にも入部して学外公演活動にも熱中していました。そして…卒業直前の昭和三十四年三月半ば、県教委教職員課人事係長の要職にあられた渥美先生から突然の呼び出しを受け、豊橋駅前のヤマサ喫茶店でお会いすることになりました。
 「俺の力ではどうにもならない。今のうちに方向転換して、教職以外の就職先を考えておきなさい」
と宣告されてしまいました。私はショックで顔が青ざめていたと思います。しかし、冷やかしで受験した国家公務員中級職試験に合格していたのを生かして大学の先生に仲介してもらい、大学事務局職員(文部事務官)に採用してもらうことができ、胸をなでおろしました。それと一寸残念な裏話ですが、これより少し前、 万が一受かれば儲けものという軽い気持ちで応募したCBC・TVアナウンサー採用試験(第一次学科試験受験者が千数百名だった)の最終選考(二十名くらい)まで残り、本局の放送収録室でカメラ・朗読テストを受けるところまで行きましたが駄目でした。憧れの職業だったので、未だに時折未練を感じます。

 ところで国家公務員の給与は低く、当時の初任給は一万円弱でした。さらに困ったことに伊勢湾台風で損壊した自宅の修理で屋根から滑落した父が尻餅を強く突いたのが引き金となって脳梗塞となり療養することになったのですが、同家公務員の家族医療費は半額負担で、互助会組織で全額負担の県公務員(教員も)と大差がありました。この折も渥美先生は特別な計らいと手続きを指導して下さり、父親の医療費を仝額公費負担にできる道を開いてくれました。期待を裏切り続けた私のアフタケアをここまでして下さった先生に、今も感謝と申し訳なさで心が痛みます。

 その後、縁あって、文部事務官は二年で退職。蒲郡市の小中校教職員として二十一年間勤務し、自分のあるべき姿の教師たる様、精一杯の努力をしてきたつもりです。三谷中学校奉職時、進路指導主任として豊橋東高校長だった渥美先生を訪問した折、「偏差値で区分けして進学させ、学校格差を固定させるようなことはせんでくれよ。それに、長平くんのために言うが、私の目から見ると小中校の先生はどちらかというと背伸びし過ぎる・・・お前は自分の持ち味を生かせ。周囲から信頼され支えられ望まれないのに人の上に立とうとするなよ!」と、私の年齢から来る焦りを見透かすように諭して下さったのが、本当に有り難かったです。また、三谷中学校区には野球部先輩の竹内基二郎さん(時1回生)がいて、地区役員としていろいろお世話になりました。

 平成四年三月、教員を定年退職。その後市嘱託の常勤職員として二年間、蒲郡市博物館に勤務し、ここで野球部一年先輩の斉藤了一さん(50回生)と度々接触することになりました。実は斉藤さんは博物館前館長で、私と入れ代わりに市の竹島水族館長に転出されていましたが、よく博物館に見えられ、私たちの仕事(発掘調査・収蔵物整理・企画展展示作業など)を手伝いに来て下さったからです。その斉藤さんから渥美先生が大分弱られたということを聞き、お願いして高師の渥美先生宅へお見舞いに連れていってもらったことがあります。

 平成四年秋頃だったと思います。先生からは、もう、あのメリハリのきいた少し高音の口調を耳にすることはできず、高校時代、女優の岸旗江さんを彷彿させた奥さんが臈たけて静かな笑みで寄り添って見えられました。私はただ何も言えずに悲しくて、頭を何回も下げていとまを告げたことを想い出します。『誠実さ』を生涯貫かれた「恩師」という想いが、今も私の心を離れません。
 先生についてびっくりしたことがもう一つ。何度か行われた県知事選挙で、勿論、落選はしましたが、共産党候補者となった堀場英也が旧制一宮中学出身の医師で、中日新聞が行った候補者へのアンケート調査項目「あなたの尊敬する人」という欄に彼が『渥美政雄』と回答しているので、わが目を疑ったことがあります。思想・信条の違いを問わず、こうした人からも尊敬されているという点に渥美政雄先生の真価があったのだと今更のように熱い心で偲んでいるのです。


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