e
                             愛知県の高校野球史

(1)黎明期


 愛知県は戦前戦後を通じて、中等学校・高校野球の最も盛んな地域の一つであり、実力的にも全国のトップクラスを常に保ちつづけている。特に戦前においては、愛知県は間違いなく全国一の実力を誇っていた。

 さて、愛知県で最も最初に野球部が誕生したのが愛知一中(現在の旭丘高校)である。明治26年秋に正式に部となったが、当時は対戦する相手がなく、明治30年に滋賀県の彦根中学(現在の彦根東高校)に遠征して試合を行い、21−11で勝ったという記録が残っている。

 明治32年、同校にマラソンで有名な日比野寛校長が赴任した。日比野校長は同校のスポーツを盛んにすることを宣言、東大で名一塁手として活躍した宮内竹雄を野球部のコーチとして招いた。また、名古屋中学で英語教師をしていたD.C.レーマンもコーチに加わり、愛知一中(現旭丘高)の野球部は飛躍的に強くなった。明治34年には慶応大学のチームを降して一躍有名になっている。

 愛知一中(現旭丘高)と並んで古い歴史を誇るのが、東三河の愛知四中(現在の時習館高校)である。「時習館野球部100年史」によると、明治28年に校長として赴任した石川一が野球を取り入れたという。明治32年に正式な部になると、直後に愛知二中(現在の岡崎高校)と対抗試合を行っている。

 愛知二中(現岡崎高)は西三河を代表する中学校で、明治29年に創立されたが、「岡崎高校野球部90年史」によれば、創立直後にはすでに野球が始まっていたという。

 以後、この3校が明治時代の愛知県中等学校野球界を支えていくことになる。当時は愛知一中(現旭丘高)が圧倒的に強く、愛知二中(現岡崎高)や愛知四中(現時習館高)は相手を求めて県外にも遠征した。相手は静岡県の浜松中学(現在の浜松北高)など近隣の学校が多かったが、明治34年には愛知二中(現岡崎高)が京都の第三高等学校が主催した京都近県野球連合大会に出場して大阪の天王寺中学と対戦したという記録もある。

 明治35年愛知一中(現旭丘高)の提唱で東海五県連合野球大会が開催された。実際には三重県、滋賀県からの参加はなく、愛知県からは愛知一中(現旭丘高)と愛知四中(現時習館高)が参加した。同大会は年々盛んになり、一時は20校近い参加校もあった。

(2)戦前

 大正4年の東海五県連合野球大会では愛知四中(現時習館高)と愛知一中(現旭丘高)が初戦で対戦し、愛知四中が7−6でサヨナラ勝ちした。しかし、同校は決勝戦で三重県の山田中学に敗れている。この年、全国中等学校優勝野球大会が開かれることになり、優勝した山田中学が東海代表として参加した。そのため、記念すべき第1回大会に愛知県は代表を送ることができなかったのである。

 翌大正5年の第2回大会の予選では愛知四中(現時習館高)が初戦で前年代表の山田中学を22−0という大差で降し、決勝戦でライバル愛知一中(現旭丘高)と対戦した。この試合も愛知四中が5−4と1点差で勝ち、愛知県初代表は愛知四中(現時習館高)であった。しかし、全国大会では初戦で当時無敵だった慶応普通部と対戦し、敗れている。

 大正6年、愛知一中(現旭丘高)がエース長谷川武治を擁して東海予選を制し、初めて全国大会に進んだ。この年も初戦で長野師範に敗れたが、敗者復活戦で和歌山中学に勝つと、明星商業、杵築中学と降して決勝戦に進み、さらに決勝でも関西学院中学を延長14回の末に破って初優勝を達成した。なお、この結果で、敗者復活制度はおかしいということになり、翌大正7年からは廃止されている。

 この年以降、愛知一中(現旭丘高)は4年連続して全国大会に進み、その後も愛知県勢は他県に代表の座を奪われることなく、毎年東海地区代表として全国大会に出場しつづけた。愛知県勢が夏の大会に出場できなかったのは、昭和11年夏までなく、戦前に行われた26回の夏の大会を通じても愛知県から出場できなかったのはわずかに3回しかない。

 大正11年夏の東海大会では、愛知一中(現旭丘高)と岐阜中学の試合でプレーの解釈をめぐって岐阜中学が激しく抗議し、結局判定を不服として秦権してしまった。続く静岡中学との試合では死球をめぐって愛知一中(現旭丘高)が抗議中に日没を迎え、再試合となったものの両校ともに納得せずに両者棄権という事態になった。実力随一と見られていた愛知一中(現旭丘高)が棄権したため、この年は名古屋商業が全国大会に初出場を決めている。なお、この影響で、静岡県は翌年からは東海大会に参加せず、神奈川県とともに神静大会を開くことになった。

 翌大正12年からは再び愛知一中(現旭丘高)が3年連続して全国大会に進んだ。この間、大正13年に選抜大会が開かれることになり、第1回大会は名古屋市八事の山本球場で開催され、愛知県からは愛知一中(現旭丘高)が選ばれた。

 大正15年夏の東海大会は決勝で愛知一中(現旭丘高)と愛知商業が対戦した。この試合は愛知商業が15−4と庄勝して全国大会初出場を決めたが、試合後、愛知一中ファンが暴走、愛知商業の応援団と乱闘事件を起こしている。甲子園では愛知商業はベスト4まで進出した。

 この年を境に愛知県の中等学校野球界は、愛知一中(現旭丘高)を中心とした中学勢から、愛知商業などの商業学校勢が主導権を握るようになった。愛知一中は昭和4年夏までに12回全国大会に出場して、優勝1回を含む通算10勝という好成績をあげた。しかし、その後は一度も甲子園に出場することができず、新制旭丘高校となって以降は、県大会の上位に食い込むこともなくなっている。

 一方、愛知商業は初出場以降の6年間で、選抜、夏ともに4回ずつ出場した。そして、昭和6年には中京商業が登場することになるのである。

 中京商業は大正12年に創立された学校で、野球部も創立と同時に誕生した。初代校長梅村清光の肝いりで東海各地から選手をスカウト、昭和4年には山岡嘉次監督を迎えて強くなり、昭和6年の選抜に吉田正男―桜井寅二のバッテリーで甲子園に初出場した。初戦の川越中学に圧勝すると、第一神港商業を完封、準決勝でも和歌山中学を2安打に抑えて3試合連続完封し、決勝戦まで進んだ。続いて夏も出場すると、決勝では呉明捷がエースで4番を打つ嘉義農林と対戦、吉田投手が6安打を打たれながら完封して初優勝を達成した。

 以後、中京商業は夏の大会3連覇したのをはじめ、毎年のように甲子園に出場しては、当然のように準決勝・決勝まで勝ち進んだ。昭和8年夏の準決勝では明石中学と対戦、この試合は延長25回まで続くという大熱戦となっている。

 中京商業の活躍もあって、愛知県の実力は折紙つきとなり、昭和8年の選抜では愛知県から3校が出場した。以後4年連続して3校選抜が続いたあと、昭和12年にはなんと4校が一緒に選抜されている。

 この間、昭和9年選抜に東邦商業が初出場した。同校も中京商業と同じく大正12年創立の比較的新しい学校で、野球部の創部は昭和5年のことである。

 昭和9年選抜にエース立谷順一で初出場すると、決勝戦まで進み、浪華商業と対戦した。この試合は浪華南業の納家投手との投手戦で延長に入り、10回表に納家のランニングホームランで1点を勝ち越されたが、その裏、納家を攻めて逆転サヨナラ勝ち、初出場でいきなり優勝した。以後、同校は8年連続で選抜に出場、戦後を通じても圧倒的に選抜で好成績をあげた。

 これ以降、愛知県では中京商業と東邦商業という全国屈指の強豪校が県内で覇を競った。さらに、享栄商業、一宮中学なども強く、愛知商業とあわせた5校が甲子園出場をめぐって激しく戦うことになった。当時の愛知県のレベルがいかに高かったかは、昭和13年と16年の選抜が愛知県勢同士の決勝戦となっていることでも容易に想像がつく。

(3)戦後

 昭和21年夏の県大会には32校が参加した。優勝した愛知商業と準優勝の中京商業が東海大会に進み、決勝で再び対戦、愛知商業が勝って全国大会に出場した。翌22年は準々決勝に勝った4校が凍海大会に進んだものの、3校が初戦で敗退、唯一勝ち進んだ豊川中学も2回戦で敗れて、愛知県勢は甲子園に出場することができなかった。

 昭和23年に学制改革が行われた。中京商業や東邦商業は私立のため大きな影響を受けなかったが、公立の学校は大幅な改変を余儀なくされた。名門愛知商業は、熱田中学、貿易商業、実践女学校の3校と統合されて、新たに瑞陵高校となった。なお、のちに県立愛知商業が別途新設されている。また、この年から愛知県は単独で代表を出すことになり、県大会の優勝校は2次予選なしで甲子園に出場できるようになった。

 新制に移行後、いくつかの新しい学校が甲子園に出場した。その中でも特徴的なことは、戦前の名門中学校が甲子園に山場したことであろう。

 昭和24年の選抜は、ユニークな方法で出場校が選ばれた。まず県内の成績優秀な4校が選ばれ、各チームが選考委員の見守る中で練習し、ピッチングやノック、バッティングを採点されて出場校が決められたのである。その結果、選抜に選ばれたのは岡崎高校(旧制愛知二中)であった。

 続いて、昭和27年の選抜には時習館高校(旧制愛知四中)が出場した。大正5年夏に愛知県初の出場を決めて以来、36年振りの出場であった。前年秋の中部大会では準決勝で敗れていたが、決勝が静岡県同士の対戦となったため、準優勝の静岡城内高校(現在の静岡高校)のかわりに時習館高校が選抜されたのである。この大会では初戦で敗れたが、同年秋には中部大会で決勝まで進み、翌昭和28年に2年連続して出場、名門市岡高校(大阪))を降して初勝利もあげた。

 この時代、愛知県勢で最も活躍したのが享栄商業である。昭和22年から23年にかけて水野義一投手を擁して3回出場し、うち2回準々決勝に進んだ。昭和25年には金田正一がエースだったが甲子園には出場できず、金田は大会後に中退してプロ入りしている。

(4)2強時代

 昭和28年、中京商業に深谷弘次監督が就任した。同校は、戦後選抜に2回出場していたが1勝しかできず苦しんでいた。しかし、深谷監督の就任したこの年に夏の大会に2年生の中山俊丈投手を擁して戦後初出場を決めると、見事にベスト4まで進んで復活した。

 さらに翌29年夏には3年生となった中山投手で全国制覇、再び同校は全国の項点に立つことになった。その後も昭和31年選抜で優勝、33年選抜準優勝、34年選抜で優勝、41年には春夏速覇と黄金時代を築いた。この間、深谷監督は部長に転じ、滝正男監督が就任している。

 春夏連覇した翌年の昭和42年、中京商業は中京高校と改称した。この年の夏はベスト4まで進んだが、翌昭和43年の選抜では初戦で敗退、以後低迷時代を迎えることになった。昭和43年から50年までの8年間で甲子園に出場したのは5回、勝ち星はあわせてわずかに3勝でしかない。

 かわって活躍したのが、東邦商業改め、東邦高校である。戦後全く甲子園に出場することができなくなっていたが、昭和34年選抜で戦後初出場を果たすと、以後はコンスタントに甲子園に出場した。昭和40年代に入ると、選抜だけでなく、夏にも甲子園に進むようになり、昭和36年から48年までの13年間で春夏合わせて10回甲子園に出場、うち6回が準々決勝まで進出するなど、着実に勝ち星を重ねていった。

 昭和51年夏、中京高校がベスト8まで進み、再び強豪校として復活した。昭和53年の夏には準決勝でPL学園高校と対戦、9回裏に一挙に4点差を追いつかれ、延長12回にサヨナラ負けという逆転を喫している。その後は、昭和57年に春夏連続ベスト4まで進んだのをはじめ、58年夏と62年夏はともに準々決勝進出と、出場すればかならず一定の成績を残した。昭和63年の選抜では3回戦で宇部商業と対戦、木村龍治投手(のち青山学院大学一巨人)が9回1死までパーフェクトに抑えていながら、四球で完全試合を逃したあと、2ランホームランを打たれて逆転負けを喫している。翌年以降、同校は再び低迷した。

 一方、東邦高校は昭和52年夏に戦後初めて決勝戦まで進出した。決勝戦では東洋大姫路高校に延長10回裏にサヨナラ3ランホームランを打たれて敗れたが、1年生エースの坂本佳一は“バンビ”と呼ばれて爆発的な人気を獲得した。昭和63年の選抜でも準優勝している。

 この2強の間に割って入ったのが、愛工大名電高校である。同校は名古屋電工といっていた昭和43年の選抜に初山場してベスト8まで進み注目された。昭和56年夏、名古屋電気として出場した同校は、工藤公康投手が初戦の長崎西高校をノーヒットノーランに抑え、ベスト4まで進んでいる。昭和58年に愛工大名電高校と改称、翌59年選抜では準々決勝まで進んだ。

 昭和54年享栄高校(以前の享栄商業)に柴垣旭延監督が就任して、同校が再び強くなった。58年選抜に出場すると、20年振りに勝星をあげ、以後定期的に甲子園に出場、プロにも人材を送りつづけている。

 なお、この4校以外で、昭和30年代から60年代にかけての34年間に2回以上甲子園に出場した学校は、大府高校、岡崎工業のみである。

(5)平成時代

 平成に入ると、愛知県の高校球界の勢力が大きく変化した。中京高校が全く甲子園に出場できなくなり、平成7年に中京大中京高校と改称した。その後、平成9年の選抜には好投手大杉樹一郎を擁して出場して実に29年振りに決勝戦まで進んだが、12年夏は2回戦で敗れている。

 一方、東邦高校は、平成元年の選抜で2年連続して決勝に進み、延長10回裏に逆転サヨナラで上宮高校を降して優勝した。その後も、甲子園に出場する回数は多いが、平成4年夏のベスト4をのぞくと、あまりいい成績はあげていない。特に、平成11年には朝倉健太、岡本浩二という全国的にも注目された2人の好投手を擁しながら、春夏ともに初戦で敗れている。

 愛工大名電高校は、平成2年夏、3年選抜と夏春連続出場したがともに初戦で敗れた。2年夏にはレフトを守り、3年選抜ではエースとして出場していた鈴木一朗選手が、現在のイチロー選手である。

 その後、平成8年夏に愛産大三河高校が初出場、9年夏には豊田大谷高校、10年選抜では豊田西高校と、三河地区の高校が次々と初出場を決めた。特に豊田大谷高校は10年夏の大会でベスト4まで進むなど、今まで尾張勢の後塵を拝していた三河勢の躍進が目立っている。

 中京大中京高校は、甲子園に春夏合わせて49回出場、通算117購で優勝10回というのは他をよせつけない圧倒的な数字である。しかし、平成以降は出場2回で5勝しかあげておらず、他校の激しい追い上げにあっている。昭和の名門校が平成においても名門でいられるかどうかは今後の活躍いかんにかかっているといえる。

(6)著名選手

 愛知県出身の野球人として最も古い人物は、異色の野球人・広瀬謙三である。明治28年の生まれで、名古屋の第七高等小学校を卒業後、新愛知新聞、国民新聞などでスポーツ記者として活躍していた。昭和11年、プロ野球誕生の際に、連盟から依頗されて公式記録員となり、膨大な記録を克明に集計し保存した。昭和48年に愛知県出身者として初めて野球殿堂入りしている。
 一方、選手として最初に名前があがるのが、大正6年夏に全国制覇した愛知一中の長谷川武治投手であろう。敗者復活があった上に決勝も再試合となり、6試合を一人で投げぬいている。早稲田大学でも活躍した後に帰郷、名古屋で広告会社を経営するかたわら、ゴルフ選手として活躍した。

 昭和2年夏、ベスト4まで進んだ愛知商業のエースが水谷則一である。慶応大学、満鉄倶楽部を経て、昭和11年のプロ野球の大東京の結成に参加し、外野手としてプレーした。戦後は社会人野球に転じて三菱自動車川崎の監督をつとめている。

 続いて昭和6年に中京商業の吉田正男がデビューした。この年の夏からエースとして3連覇を達成、特に8年夏の準決勝の明石中学との試合では延長25回を完投し、翌日の決勝戦も完投して優勝している。明治大学に入学後、肩をこわして外野手に転向したが、東京6大学リーグの4連覇にも貢献。卒業後は藤倉電線に進んで投手に復帰し、都市対抗で優勝したほか、橋戸賞も受賞している。引退後はアマ野球評論家として活躍した。

 延長25回の試合で吉田とバッテリーを組んだのが、野口明である。球界で有名な野口4兄弟の長男で、昭和11年のセネタースの結成に参加した。12年秋のシーズンで投手として最多勝を穫得、18年には打者として打点王を獲得した。戦後は中日で捕手に戻ったが、投手がノックアウトされると、プロテクターを外してマウンドにあがるなど、投打にわたって活躍している。のち中日の監督もつとめた。

 野口明の弟の野口二郎も投打両方で活躍した選手である。熱田高等小学校時代は捕手で、中京商業でも当初三塁手だったが、エースの故障で急遽投手に起用され、12年選抜で準優勝、夏は優勝した。プロ入り後、大洋に所属していた昭和17年には1シーズン40勝をあげている。一方、打者としても活躍し、阪急時代の昭和21年にマークした31試合連続安打は、46年に長池徳士(阪急)に破られるまで日本記録だった。平成元年に殿堂入りしている。

 昭和13年に選抜初優勝した時のバッテリーが野口二郎と滝正男であった。滝は、戦後中京商業、中京大学の監督を歴任、45年に大学選手権で準優勝し中京大学の教授をつとめ、「愛知大学野球35年史」を執筆している。

 戦争中の岡崎中学のエースが近藤貞雄である。法政大学に進むが、昭和18年に中退して西鉄に入団、翌年には巨人に転じている。戦後も昭和21年には24勝をあげたが、同年オフに進駐軍のジープをよけて川に転落した際に右手中指を負傷して翌年解雇された。しかし中日に移籍すると、残りの4本の指で投げるパームボールを開発して再起した。引退後は中日、大洋、日本ハムの監督を歴任、投手の分業制を導入するなどアイデアマンとして知られた。平成11年殿堂入り。

 昭和25年夏、享栄商業が県予選で敗れると、エースの金田正一投手は高校を中退して国鉄に入団した。そして、8日23日の広島戦に初登板し、この年早くも8勝をあげている。翌年には18歳でエースとなって22勝をあげ、ノーヒットノーランも達成した。以後巨人に移籍するまでの14年間連続して20勝を記録、史上最多の400勝を初め数々の記録をつくった。また打撃もよく、投手として記録した通算36本塁打(ほかに代打で2本塁打)は史上最高で、代打としても出場したほか、通算7敬遠という記録もある。引退後はロッテの監督をつとめ、リーグ優勝している。

 昭和27年、川島紡績から起工業出身の山内一弘が毎日に入団した。初出場の試合で5番を打ち、以後同球団の“ミサイル打線”の中軸打者として活躍した。35年には本塁打王と打点王の2冠を穫得し、MVPに選ばれたほか、40年には史上初の通算300本塁打、43年には史上初の2000試合出場を達成。31年にマークした1シーズン47二塁打は平成10年に破られるまで日本記録だった。引退後は各球団の監督や打撃コーチを歴任している。

 昭和33年、長嶋茂雄とともに立教大学の投打の柱として活躍した杉浦忠が南海に入団した。杉浦は当時は全くの無名校だった挙母高校(現在の豊田西高校)の出身で、東京6大学リーグで36勝をあげている。南海に入団するや1年目にいきなり27勝をあげて新人王を獲得、翌年には38勝4敗、防御率1.40という駕異的な成績で最多勝、勝率1位、防御率1位と投手部門のタイトルを独占、南海の優勝に大きく貢献し、MVPを獲得した。のち南海の監督をつとめた。

 昭和29年夏、中京商業が戦後初優勝した時のエースが中山俊丈である。甲子園には4季連続して出場しており、決勝戦の静岡商業戦は1安打完封であった。中日に入団して2年目から2年連続20勝をあげるなどエースとして活躍した。引退後は台湾のプロチームの監督もつとめている。

 以後も中京商業は多くの人材を輩出した。昭和34年に選抜で優勝した時には2番打者として杉浦藤文が出場していた。早稲田大学を経て、39年に母校の監督となり、41年に春夏連覇を達成した。58年に引退するまでに14回甲子園に出場し、通算28勝をあげている。

 37年の春夏連続ベスト4の時は、木俣達彦が捕手で3番を打っていた。中京大学に進学し、1年のとき愛知大学リーグの首位打者、MVPを獲得している。2年で中退して中日に入団した。通算1876安打で惜しくも名球会入りはできなかったが、同球団を代表する強打者である。引退後は、評論家、中日コーチなどを歴任。

 翌38年更にエースとして出場した三輪田勝利は早稲田大学で23勝をあげた。42年には近鉄からドラフト1位で指名されたが拒否して大昭和製紙に入社し、44年秋の阪急の1位指名でプロ入りした。しかし、二軍では最多勝を穫得したものの、一軍では4勝しかできずスカウトに転向、愛工大名電高校のエースだった鈴木一朗(現在のイチロー)を野手としてスカウトしたことで一躍有名になった。しかし、平成11年秋、自ら指名した選手の獲得をめぐって自ら命を断ってしまった。41年に春夏連覇したエースの加藤英夫はドラフト2位で近鉄に入団したが、在籍9年間で2勝3Sにとどまった。

 中京商業(のちの中京高校)で活躍した選手は次々とプロ入りしたが、高い評価を受けながらプロを拒否した選手もいる。昭和45年の選抜にエースとして出場した樋江井忠臣選手は同年秋のドラフト会議でロッテから1位指名を受けた。大卒の初任給が4万円強の時代に、契約金として3800万というとてつもない金額を提示されながら三協精機に入社している。翌年も巨人から4位指名を受けたが再び拒否した。しかし3年目に肩をこわして一塁手に転向、都市対抗に8年連続出場したものの、好成績は残せなかった。

 昭和48年は東邦高校が春夏連続出場し、選抜ではベスト8まで進んだ。捕手の山倉和博は同年秋のドラフト会議では南海から2位指名されたが拒否して早稲田大学に進学し、52年のドラフト1位指名で巨人に入団した。以後、長嶋監督、藤田監督時代に巨人の正捕手として活躍し、62年にはMVPに選ばれた。引退後はコーチを経て、NHK・BSの解説者をつとめている。

 東邦高校は昭和52年夏に戦後初めて決勝戦に進んだ。このチームを支えたのが1年生の坂本佳一投手であった。坂本は軟式野球出身で、中学時代には外野手であったにもかかわらず、入学まもなく名門東邦高校のエースとなっていた。決勝戦で大会ナンバーワンの松本正志投手(のち阪急)を揺する東洋大姫路高校と対戦し、1−1で迎えた10回裏に、4番打者の安井浩二選手に決勝戦史上初のサヨナラ3ランホームランをライトのラッキーゾーン打ち込まれて敗れた。この時、1年生だった坂本投手は、「まだ4回のチャンスがある」として、甲子園の砂を持ち帰らなかった。しかし、その後一度も甲子園に出場することはできなかったが、卒業するまで全国的な人気を保った。

 昭和56年の選抜に出場した大府高校の槇原寛己は豪速球投手として注目をあつめた。」同年ドラフト1位で巨人に入団し、2年目に初登板完封勝利をあげ、この年新人王を獲得。以後巨人の先発、抑えの両方で活躍、平成6年には対広島戦で完全試合を達成している。

 同年夏、大府高校は県大会準々決勝で敗れ、甲子園に出場したのは名古屋電気高校であった。同校のエース工藤公康は落差の大きなカーブを武器に初戦の長崎西高校戦で16奪三振のノーヒットノーランを達成した。続く対北陽高校戦では延長12回21奪三振を記録している。準決勝で敗れたが、登板した4試合39イニングで56三振を奪い、三振奪取率は12.9個にものぼる。プロ入りを拒否して熊谷組入社を決めていたが、西武がドラフト6位で強行指名し入団した。1年目の4月から公式戦に登板、以後西武のエースとして同球団の黄金時代を支え、平成5年にはMVPを獲得した。6年オフにFAを宣言してダイエーに移籍、11年にはダイエーの初優勝に貢献してMVPを獲得したが、直後に再びFAを宣言し、巨人に移籍した。

 翌57年春から翌年にかけては中京高校が3回出場し、ベスト4に2回、ベスト8に1回という好成績を残した。この2年間同校のエースをつとめた野中徹博は数奇な経歴をたどった。ドラフト1位指名で阪急に入団、2年目には一軍に上がって7試合に登板したが、右肩を手術して練習生に転落。のち内野手に転向して再起をはかるが解雇され、平成2年からは名古屋でサラリーマンとなるかたわら、水島新司主宰の草野球チームでプレーした。5年台湾に渡って俊国ペアーズに入団、エースとして15勝1Sをあげると、翌年帰国して中日にテスト入団して日本球界に復帰した。さらに9年にヤクルトに移り、同年プロ入り以来14年目で初勝利をあげた。

 このチームで野中の控え投手だった紀藤真琴は外野手として甲子園に出場している。広島に入団して5年目で初勝利をあげると、平成6年からはエースとして活躍した。13年に中日に移籍している。

 野中が出場できなかった昭和58年の選抜には享栄高校が出場した。同校で1年秋から4番を打っていた藤王康晴は、初戦の高砂南高校戦1回表の2ランホームランから、3試合目の東海大一高戦の2打席目まで11打席連続出塁を記録した。ドラフト1位指名で中日に人団したが、日本ハム時代と合わせて在籍9年間で92安打しか残せなかった。

 藤王の3年後輩が近藤真一投手である。昭和61年の選抜では優勝候補と目されていたが、初戦で新湊高校を3安打に抑えたものの1点を失い、打線が酒井投手に完封されて、まさかの初戦敗退を喫した。夏は1回戦の唐津西高校を1安打完封、毎回の15奪三振を記録し、ドラフト1位指名で中日に入団した。プロ入り1年目の8月9日対巨人戦に先発投手として初登板するや、史上初の初登板ノーヒットノーランを達成した。しかし、その後はあまり活躍できず、12勝をあげただけでスカウトに転じている。

 そして、平成2年更に愛工大名電高校の3番レフトとして2年生の鈴木一朗選手が出場した。翌年の選抜にはエースとなって再び出場したが、1回戦で松商学園高校の上田佳範(のち日本ハム)と投げ合って敗れている。同年ドラフト4位でオリックスに野手として指名されてプロ入り、平成6年に登録名を“イチロー”として一軍にあがるや、独特の振り子打法で打ちまくり6月には一時打率を4割にのせて注目された。この年打率.385という高打率で首位打者を獲得すると、以後7年間パリーグの首位打者を独占、一度も明け渡すことはなかった。在籍9年間の打率は通算で.350を超えるという驚異的な成績で、平成12年オフ、大り一グのシアトルマリナーズに移籍し、1番打者として活躍している。

 平成9年夏に初出場した豊田大谷高校の4番打者は2年生の古木克明であった。古木は初戦の長崎南山高校戦で9回に同点ホームラン、12回に勝ち越しホームランを放って一緒有名になった。翌年は3番に入ってベスト4に進み、横浜からドラフト1位指名を受けてプロ入りしている。


                          「時習館と甲子園」メニューへ

inserted by FC2 system