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           時習館3回生 卒業50周年記念誌「寄稿文集」より・・・平成13年(2001年)

転校生のひとり言

田嶋義雄

 卒業25周年を迎えたときには次は50周年、遥か遠き将来の感覚、果してその時までこの世に存在していることができるものなのかと、特に希望をもたぬままに平々凡々と過ごしてきたが、この度、50周年を迎えることができるのも幸せな人生である。
 小生は昭和23年(1948)に大連(現中国)から親父の出生地である豊橋市に引揚げてきた(取り敢えずは親戚の援助にすがるしかなかった)。早速、転校の手続をしなければと在学証明書(これがあれば日本の中学校に転校できるとの説明であった)を探したところ、引揚船から下船するとき、米国兵による手荷物検閲で没収されたようで見当たらず、転校を諦めていたところ、新聞で在学証明書紛失者に再発行ができるとの記事があり、この手続きで何とか入手できた。しかし、豊中も二中も簡単には受け入れてはもらえなかった(証明書には信憑性がなかったのか、引揚げ者の受入れは拒否されたのか、ガキの小生には理解不可能)。親父も豊中出身のため、知人を頼りにわが子のためと東奔西走してくれた。そのお陰か、豊中で転入試験を受けさせてもらえることになった。しかしながら、大連の中学では、一年生のときには授業があったが、二年生になると学徒動員により塹壕掘りの肉体労働で過ごしているうちに敗戦、そして校舎は中国に接収されて他校で午前・午後の交互使用、挙げくの果は二校の中学が併合となり、すし詰めの授業で学業らしきものは無いに等しいものであった。それに加えて、果して日本へ帰ることができるものなのかと不安感が重なり、勉強どころではなく、ただ登校しているに過ぎない状況で、引揚げが始まると学校は自然消滅となった。このように敗戦濃厚となって以降、学力の進捗は殆どなく、これでは受験させてくれても合格は期待できないと思い、一学年下の転入試験を目標として(そのため三回生諸兄姉より一歳年上である)、また時間的にも多少の余裕があったので、すこしでも学力をつけなければと、現豊城中学の所に、兵舎の一角に夜学があったので受験まで通学したが(期間は記憶にないが数カ月ぐらいか)、いざ試験を受けてみると、合格にはほど遠いものであった。それでも転校を受け入れてもらえたのはお情けであったと思う。転校後初めての成績簿を受けた時だったか、「よく頑張った」と担任に言われたとき、その喜びは格別なものであった(学業空白時代を過ごしてきた小生としてもその時の成績には満足していた)。この転入試験の時、図らずも大連で同学年であった竹尾卓雄君(学区制で国府高校へ)と共に受験した奇遇な出来事もあった。
 小生の出生は旧満州国の奉天で、親父の仕事の関係で中国を転々と移動していたが、子供達が就学する時期には大連に定まった住居を構えたので、転校は初めての経験であった。併中三年の諸兄に暖かく受け入れてもらえたことは感謝の念で一杯であったことを今でも覚えている。
 環境にも慣れた頃、斉藤信夫君から野球部に誘われ、小学生時代からの選手としての自負もあったのか翌日には入部していた。故渥美政雄先生の指導の下で卒業まで部活動に熱中したことは、社会人になってからも大きな支えになったと言っても過言ではない。50周年を迎えずに故人となった芳村亮雄鶴見崇両君のことを考えると誠に残念である。
 戦後の農地改革で先祖からの農地はタダ同然で他人にわたり、また、弟妹六人の大家族のため、経済的にも就職を選択し(学力的にも進学不可)、国立豊橋病院に就職した。病院関係のことで小生を頼ってきてくれた学友もおられ、微力ながらできるだけのことはしたつもりだが、下っ端のためご期待に添えないこともあったと思う。これについては申し訳ないと今でも悔いが残る。
 国立三重病院を最後に定年退職し、現在は斉藤惇君のお誘いで歯科医師会で仕事をしているが、本誌発刊時にはどうなっていることやら。残る人生、諸兄姉と共に介護保健のお世話にならないよう頑張りたいと念じている。


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