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            ●第24回選抜大会出場(昭和27年・1952年)

                     ”華開く 時習館野球部 渥美野球実る”

選抜高校野球大会に推薦

 昭和二十六年秋季愛知県高校優勝野球大会に優勝した時習館高校は、春の選抜大会へ出場する有力な条件を獲得した。
 昭和二十七年一月十人日、県高校野球連盟理事会が開催され、時習館高校は満場一致で第一候補に選ばれた。
 ついで二月二十三日の中部日本代表選考会による第二次選考で出場が決定した。

 選抜校は単に実力だけでなく、「品位あるチームの集結」で、”実力と品位”の両面選考、プラス地域的なバランスが加味されている。中部日本では、愛知県推薦の時習館高校のはかに、静岡県推薦の静岡商業、長野県推薦の松商学園があり、この地区から二校の出場校と決まれば、三校のうち一校は出場不可能となることになったが、幸いに三校とも出場を認められた。
 今年度から二校増え、晴れの精鋭十八校で争われる春の第五回選抜大会(現在は通算して数え第二十四回大会)に東海代表として豊橋時習館高校が決定、学校はじめ地元豊橋市はこの朗報に沸き立った。

昭和26年(1951年)秋季県高校野球選手権大会 . 昭和26年秋(1951年)中部四県大会
. 時習館 3:2 東邦 . 時習館 6:2 山田
. 時習館 2:2 岡崎 . 静岡城内 6:4 大垣北
. 時習館 7:2 岡崎 . 静岡商 4:1 岐阜工
. 時習館 7:1 市立岡崎 . 豊川 5:0 宇治山田商
優勝戦 時習館 4:3 豊川 準決勝 静岡城内 9:2 時習館
. 準決勝 静岡商 4:3 豊川
優勝戦 静岡商 4:0 静岡城内

後援会結成

 時習館高校では二月二十四日同窓会理事会を開き、緊急問題として選抜高校野球大会後援会を設立し、大会出場の経費捻出と施設整備に資金百万円募集を決めた。後援会た河合孜郎(PTA会長)、副会長に加藤健一、大林正志、磯村得弥の各氏が選ばれた。
 後援会事務所は市内広小路通りミカド運動具店に設けられ、事務局牧野喜八郎を中心に、四中、豊中、時習館の卒業生らが、こぞって募金運動に乗り出した。東京にも同窓会支部の協力で後援会事務所が設けられた。


時習館野球部壮行会

 三月二十日、毎日新聞中部支社主催の時習館野球部壮行会が、豊橋市総合グラウンド内クラブハウスで行われた。熊谷校長以下全選手と、芝村高校野球連盟会長ら多数が出席、大賀報道部長の挨拶、野球連盟代表川畑真夫氏、大竹豊橋市長らの激励の辞、選手紹介、熊谷校長の謝辞で壮行会を終えた。
 またこれより先に、生徒会でも午前十一時から校庭で野球部激励壮行会を行った。生徒会副会良小林和子の司会で、応援団長太田幸市の激励の辞、熊谷校長の挨拶、渥美監督と渡辺主将の敢闘を誓う謝辞などの後、応援歌の合唱、拍手のうちに閉会した。


選抜大会へ

 三月二十四日午後、先輩、ファンの見守るなかで、最後の練習を豊橋球場で行った時習館ナインは、二十五日午前十一時、豊橋駅頭で行われた市体育協会主催の壮行会に臨んだのち、多くの人々の見送りを受け、選抜への壮途についた。

         
                      選抜大会出場前、選手父兄、先輩と(豊橋球場)

                
                  破れたネットから甲子園へ(前列左から2人目が渥美監督、その右が磯貝先生)

 大会は四月一日から甲子園球場で開催された。
 時習館は四月三日第二試合で、優勝候補の桐生工業と対戦した。
 三月二十六日から甲子園球場と、芦屋市の神戸銀行球場で練習に励んだナインは、4月二日午前中西宮球場で総仕上げを行い、大会に臨んだ。

                    
                                                 

      
                選手宣誓                          対桐生工戦:中堅西崎の好投でタッチアウト

                      昭和27年(1952年)の第24回選抜大会
                 

第24回選抜大会出場メンバー . 回数 桐生工 時習館 . 桐生工 時習館
メンバ− 守備位置 卒業年次 1 0 0 守備 選手名 打数 安打 失策 守備 選手名 打数 安打 失策
内藤治夫 投手 時5 1953(昭和28年) 2 0 0 7 園田 2 0 0 5 岡田 互 3 1 0
加藤主税 捕手 時5 1953(昭和28年) 3 1 0 9 高橋 4 2 0 6 芳村徳夫 4 1 0
原田 始 一塁 時5 1953(昭和28年) 4 0 0 5 斉藤 4 1 0 9 渡辺修(主将) 3 0 0
大岩張二 二塁 時5 1953(昭和28年) 5 0 0 1 島津 4 1 0 8 鈴木孝康 4 0 0
岡田 互● 三塁 時6 1954(昭和29年) 6 0 0 2 大島 2 1 0 1 内藤治夫 4 0 0
芳村徳夫 遊撃 時5 1953(昭和28年) 7 0 0 4 佐藤 3 1 0 3 原田 始 3 0 0
竹内和男● 左翼 時6 1954(昭和29年) 8 0 0 3 金井 3 0 0 7 竹内和男 2 0 0
鈴木孝康 中堅 時5 1953(昭和28年) 9 A 0 6 石岡 2 1 1 2 加藤主税 3 0 0
渡辺修(主将) 右翼 時5 1953(昭和28年) 1 0 8 中山 1 0 0 4 大岩張二 2 1 1
佐原吉美 補欠 時5 1953(昭和28年) . 8 高野 1 1 0 .
白井 勉● 補欠 時6 1954(昭和29年) 26 8 1 28 3 1
大山敏晴● 補欠 時6 1954(昭和29年) 二塁打:高野(桐生工)
徳増浅雄● 補欠 時6 1954(昭和29年)
服部吉也● 補欠 時6 1954(昭和29年) 桐生工は2回戦で鳴尾(兵庫)に 1:0 で敗退。
優勝は鳴門(徳島)を 2:0 で破った静岡商
(●は24・25回両大会出場)

            

試合経過

一回
(時)岡田遊ゴロ安打、芳村遊ゴロ失、渡辺投前バントで走者二・三進、鈴木三振、内藤二飛。
(桐)園田遊飛、高橋二ゴロ失に出たが、斉藤の二飛で併殺。
二回
(時)原田三邪飛、竹内、加藤遊ゴロ。
(桐)島津 中前安打、大島投前バントで島津二進したが、佐藤、金井三振。
三回
(時)大岩四球、岡田投前バントに大岩二進、芳村三振、渡辺投飛。
(桐)市岡、中山四球、園田の投前バントで二、三進、高橋の二塁左安打で石岡生還、中 山も続いて本塁をついたが刺さる。斉藤打者のとき高橋二盗、斉藤二ゴロ。
四回
(時)鈴木左飛、内藤投ゴロ、原田投ゴロ。
(桐)島津二ゴロ、大島左前安打、佐藤の右前安打で大島一挙三進、金井三振、石岡打者のとき佐藤二盗で刺さる。
五回
(時)竹内右飛、加藤三振、大岩中前安打に出て二盗、続いて三盗したが刺さる。
六回
(時)岡田遊ゴロ、芳村右前安打、渡辺右飛、鈴木捕邪飛。
(桐)島津三ゴロ、大島中飛、休藤投ゴロ。
七回
(時)内藤三振、原田三ゴロ、竹内四球、加藤三ゴロ。
(桐)金井三振、石岡遊越え安打、中山の代打高野中堅左二塁打、園田打者の時石岡スクイズのサイン違いで本塁に刺さる。園田三振。
八回
(時‥桐生工中堅高野となる)大岩中飛、岡田三飛、芳村遊飛。
(桐)高橋三ゴロ、斉藤三前内野安打、島津二直で併殺。
九回
(時)渡辺二ゴロ、鈴木遊飛、内藤遊ゴロ。


不運・・初回の逸機

(毎日新聞)島津のプレート度胸のよさは桐生の緒戦を飾る殊勲者であった。彼は浮かばせたり、沈ませたりする下手技げの球癖を思う存分有効に操った巧みさだった。彼の一番重大な危機は一回であった。すなわち走者を二、三塁においた彼は悠々カーヴを連投することなく防ぎとめた。豊橋とすれば、絶好の機先を制する機会であり、しかも四、五番だけに期待されたが、二死後内藤治夫の遊ゴロは横にはじき、これが二塁の前に飛び刺される不運だった。一回を切り抜けた桐生工は調子づき、三回内藤治夫投手の乱れによる二個の四球を足場に高橋の一撃で一点を先行して優位に立ちそのまま押し切った。


 この日地元豊橋からは、応援団長の三年太田幸一以下男子百六十名、女子五十二名が応援にかけつけたほか、河合後援会会長、選手父兄、ファンなど総勢五百名が三塁側スタンドにつめかけ、手に手に「時習」と書いた団扇を持ち、「頑張れ時習」の大声援をおくるなど賑やかな応援風景を展開したが、三回裏で一点を先取されたまま挽回の機なく、敗れ去った。

 この大会は静岡商業が優勝した。


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