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                  昭和21年度(1946年)

戦後の混迷と豊橋中学校

 昭和二十年六月二十日の豊橋空襲で、豊橋中学校はすべてが焼失した。当時学校には二年生以上は軍需工場等に動員中で一年生のみが登校していた。八月十五日終戦、二十一日学徒動員は解除されたが、豊橋中学校の生徒には帰るべき校舎がなく、九月からは戦災を受けなかった牛川町の豊橋第二中学校の教室を借用して、二校の、午前、午後に分かれての二部交替の授業が続いた。

 昭和二十一年一月三十日、豊中は豊橋陸軍第一予備士官学校砲兵生徒隊跡に移転した。

 校内には幾十台もの軍用自動車、牽引車、砲車などが半壊のまま残され、教室として使用できる部屋も、日当り悪く、窓ガラスは割れ、天井も破れ落ち、雨が降れば教室の片隅により集まっての授業だった。

 またこの広大な荒れ地は、次々に開墾、主にさつま芋を植えて食糧の補給をはかった。当時ともに苦労した人々にとっては生涯忘れることのできない思い出であろう。こうしたなかで、二十一年春に豊中復興後援会が結成され、内外相応じて学校の復興促進に当たった。それより前、校友会再編に関する件が通達され、運動部がいち早く活躍を始めた。

いち早く野球部が復活

 昭和二十一年一月末、豊橋二中との同居生活から現在地へ移ってまもなく、生徒の間て手製の布のボールに棍棒のバット、グラブなどはもちろんなく、素手で広い荒れ地の中でそれぞれクラス内で三角ベースがはやり出した。そのうち、どこからともなくスポンジボールを手に入れ、よくはずむためにゲームの規模は大きくなり、クラス内がクラス対抗に、さらには学年対抗にまで進展し、校内の野球熱は高まっていった。

 その年新学期の始まる春、戦争によって中断されていた野球部を筆頭に他の運動部、文化部も復活し始めた。
 野球部の志望者は余りにも多く、入部テストを行わざるを得なかった。テストは二人ずつ互いにキャッチボールを行って選んだのであるが、その審査は戦時中暗い野球部生活を送られた第四十六回卒の城所(野口)先輩らであった。

 テストの結果五十名近い部員も、グラウンドは、一面芋畑で内野が精いっばいの広さ、ボールはしばしば芋畑に飛び込んで蔓をかき分けてのボール探し、ユニホームもスパイクもなく、シャツにはだしでの練習、ボールはもちろんスボンジで天野菊雄先生がノックバットを振るっていた。また筒山(平野)先輩らも時々コーチに来校したが、楽しい娯楽としてしか野球を解さなかった部員は次第に去り、二十数名となった。

朝日の大会復活

 朝日新聞社は昭和二十一年一月二十一日の社告で「社会情勢の許す限り、今夏から復活開催」を告げた。
 全国中等学校野球大会復活は「朝日新聞社と野球競技団体の共催という形が望ましい」という文部省の意向もあって、同年二月に全国中等学校野球連盟が結成された。
 愛知県中等学校野球連盟は三月三十一日に結成。

 だがこれだけで大会ができるわけでなく、その日の食料に困る毎日で、野球どころてはなく、関係者は、「野球をする学校があるのか、選手はいるのか、ボールは、軟式でもいいが、一校でも二校でもよい、予選はできるのか・・・」と心配していた。

 再開のめどがついたのは六月頃で、「十九地区の代表をもって、八月十五日から西宮球場で開催する(甲子園球場は米軍に接収されていた)と正式決定の社告七月二日だった。
 いざ予選を再開したところ、参加校は七四五校と予想をはるかに超え、大会始まって以来の盛況であった。

戦後初の対抗試合

 豊中野球部は、一面の芋畑の片隅で練習に励んだ。
 先輩達の奔走や好意で、グラブや、バット、見るのも珍しいキャッチャーのプロテクタなども集められた。

 七月上旬、豊中チームは岡崎に遠征し岡崎中学と対戦した。対抗試合はこれが始めてであり、当時試合に使用する硬球ボールがなく、軟式ボールで行った。試合は七対二で敗れた。

 予選が近ずくにつれ、軟式ボールから、闇市などで数少ない硬球を揃え、宝物のように扱って練習した。試合二、三日前にはじめてのユニホームが配給された。それまでは練習用のユニホームは勿論なく、ズボンに大半が上半身裸で練習していたのである。

                     
 昭和21年7月 夏の愛知県予選前 (左より)後列 兵藤・林・??・磯村・大嶽・山崎      早稲田時代の安田正一郎
    中列 安田・杉田・尾崎・星野   前列 高橋先輩・佐藤先輩・山田          (時習館3回生:斉藤信夫提供)



■第28回選手権大会(昭和21年・1946年)の愛知予選 ”1回戦敗退”

 第28回国中等学校優勝野球大会東海大会愛知予選は、七月十六日から八事球場で開催された。

 豊中は四日目の第一試合のため、交通事情悪く、部員は食事をバッグの中に詰め、名古屋の先輩輩達の家に分宿させていただいた。

 当時の朝日新聞によると、参加三十二校、選手の晴れ姿は衣料品の不足がまざまざと現れて、同じチームに運動帽と学生帽が混ざっていたり、ストッキングも色柄が三色、四色に分かれており、ユ二ホームが九人分揃わないため借り着しているものもある。スパイクはいけない規則、選手の履き物は、ズックの運動靴あり、地下足袋あり、炎天下にはだしで健闘する元気な選手も多い。皮革ボールは貴重品、バットの用意も一チーム三、四本、先輩達が奔走し、用具を揃えた。と記している。

愛知県大会(第1回戦敗退)
起工業 0 1 2 0 1 1 0 0 4 9 豊橋中メンバー 東海大会 全国大会
豊橋中 1 0 3 0 0 0 0 0 0 4 守備位置 選手名 卒年 東海大会は、愛知から愛知商業、
中京商業、岐阜は多治見工業、
三重は四日市商業が出場、
決勝戦は愛知同士の戦いとなり、
愛知商業が中京商業を敗り
全国大会に出場。
愛知商業は初戦沼津中に 2:0 で
勝利、次の下関商に 6:2 で敗退
全国大会は、浪華商業が平古場の
快投で京都二中を 2:0 破り優勝
再開された記念すべき試合は先取点
を挙げたものの、敗れた。
五年生は、公式試合はただこの
試合のみで卒業したのであった。
6 星野豊治 49回
7 大嶽 保 時2回
5 山崎和夫 49回
3 尾崎恒雄 49回
1 安田正一郎 49回
4 兵藤 睦 49回
8 山田勝久 49回
2 林 弘 時2回
9 磯村安雄 50回
9 杉田隆一 49回

 監督の平野昌治(筒山)氏、及びセンターで出場し、気魄溢れるプレーで後世迄の語りぐさになっている山田勝久氏は当時の模様を次のように記している。

再開第一回大会出場想い出の記

豊中第44回  平野昌治

 昭和二十一年七月、焼失した中柴の旧校舎に変わって、新校舎となった元予備士跡のグラウンドに立った私は、豊中野球部二十数名の組む円陣の中で挨拶をした。

 「諸君は古い伝統をもつ豊中野球部選手として再開される大会に、出場される事になった。名誉ある母校の歴史に恥じない真摯なプレーをして貰いたい。私は他に人がいないので本大会だけでも是非という校長の要請で監督をお受けしたが、大会開幕まで二週間、食う物もないが、ボールもバットも数がない。ないないづくしだが、幸いに我々には伝統の豊中野球部精神がある。豊中魂をボールにぶつけて、遮二無二頑張れ」と。

 三州の霊気に魅せられた安田、山崎、尾崎、兵藤、星野、山田、磯村、林、大嶽らの円な瞳は燃え、固く結んだ口許には異様な迄の闘魂が満ち溢れていた。青春の栄光をこめ野球から何かを学ぼう、何かを極めようとする溌剌の気概が私にも伝ってきた。

 「抑々、長く受け嗣がれた豊中野球部精神とは、本校創立の心とも云うべき学即行の精神に淵源し、知行一致、即ち知と体とは本来が一体であるべき事を説いているもので、この実践をいうのである。よく学ぶ者は常によく習い、又よく習う者は常によく学ぶ者である。諸兄の胸にある○マークは、この豊中野球部精神である知行一致をデザイン化したもので、藩黌以来二百有余年のシンボルでもある。豊中に有形の三宝があった戦前、野球部員は、無形の至宝と自他共に許し、校の内外で『粋』と迄呼ばれていたのである。」私は在学中、幾多の先輩から語り伝えられた事を、その侭教えていった。

 「明治三十三年、町立中学時習館が、県立第四中学校と改称せられた当時、已に野球部は活動していたことや、今次の大戦中、学業の継続すら意の如くならなかった状況下、野球部だけは学校の存続する限り永劫不滅と、甘藷畑の中でもその活動を止めなかった事実は、学即行の豊中野球部精神を如実に物語るものである。」と。

 その時の私の話は、数百の野球部先輩の魂魄が乗り移ったのではないかと思われる程の迫力であったと。選手の杉田、今井らが後で語ってくれたが、偽りのない実感であったのであろう。

 陰惨を極めた永い戦争は終ったが、廃墟と瓦礫の中で国民は失望と混沌の中にあった。教育も例外でなく、戦争という桎梏から解放された喜びが、率直に再建の芽生えというわけには行かなかった。学校行政も試行錯誤の厳しい試練の毎日が続く中、全国中等野球大会の再開は占領軍統治下、最も明るいニュースであった。

   いつとせの いくさに死なず かへりきて
        ボールをにぎる われはもにぎる

 後輩選手も同じ心であったにちがいない。天をつく掛け声と共に猛練習が始まった。

 大会出場に際してもう一つの悩みがあった。それは大会の開催球場の鳴海が占領軍が接収中という事で、交通不便な八事大学球場であるという事である。現在では考えにくい事であるが、当時の交通事情は全く逼迫、完全麻痺の状態であり、豊橋から名古屋迄に三時間以上かかるという事は珍しくなく、名古屋から八事迄市電で二時間近くかかった時代であった。従って、抽選で第一試合を引き当てた時は棄権も止むを得ないという状況であった。

 抽選の結果はまことに皮肉、最も恐れていた事が的中、第四日目の第一試合を引き当ててしまったのである。担当の先生を通じて大会本部に試合の差し替えを打診する傍ら、選手の宿泊所を探すのに大童となった。私も名古屋の縁故を訪ね、必死に宿泊を頼む手紙を書いた。そうした中で、同級生の野球部員、中川泰三君から「全員引受ける」という朗報を受け取った時は、地獄で仏に会った様に嬉しかった。昨年、時習館高校野球部が旭丘高校野球部と共に、連続六十回出場のかどで朝日新聞社から表彰を受けたが、その陰で中川君御一家が御自身たちは家族全員外泊してまで、この時の出場選手諸君十数名を宿泊せしめ、心暖まる御歓待を賜った事を心から御礼申し上げる次第である。

 試合は安田、林のバッテリーの健闘も及ばず、宿敵起工業に惜敗したものの、選手諸兄は堂々の豊中野球を展開、特に山田勝久の気魄溢れるプレーは後世迄の語りぐさになっている。時の流れは早いもので往時から已に三十五年の歳月が経とうとしている。思えばこの試合に出場した五年生は、在学中この一試合だけで卒業された人々で野球部史上、稀少価値の人々でもある。今は各自皆、それぞれの分野で御活躍の事であろうが、御自重御自愛、一層の飛躍を祈ってやまない。


戦後野球部事始め (豊中第49回生の卒業50周年の寄稿文集より)

豊中第49回   山田勝久

 昭和21年1月21日のことだった。未だ終戦後間もなく社会・経済共に混乱して、日本人が自信喪失の極みにあった頃、突然、朝日新聞がその社告で昭和17年迄続いた伝統の全国中等学校野球大会を、その夏から復活すると発表した。

 当時、豊橋中学は、豊橋二中での借り住まい授業を経て、今の時習館高校の敷地に移転を終え、そこで授業が行われていた。そして形ばかりの野球部の復活も果たしてはいたものの、実体は同好の士が集まって作った軟式の草野球チームであり、道具も戦時中を生き延びた古いボール、バット、グラブ等の寄せ集めであった。

 そこで、いざ硬式ボール使用の本式野球に変身するとなると大騒動であった。道具一式を整える資金問題もさることながら、当時は金よりも物がなかった。グラブは各々が秘蔵して戦争中を何とかくぐり抜けて来た軟式用のもので我慢するしかなく、硬式野球用のバットも、ボールも豊橋では調達出来なかった。キャプテンの尾崎恒雄君は中学2年の時に疎開で東京の山水中学から転校して来た人で東京に詳しいということから、はるばる東京迄満員の夜行列車で揉まれてボールを買い出しに行ってくれた。確か、”玉沢”のボールだったと記憶している。今のボールに比較すれば随分粗悪なものであったであろうが、白い皮に赤い縫い目のボールは正に貴重品であり、感激して手にとって見たものである。バットでさえも名古屋まで出向いて調達したが、木質が悪く、すぐ折れて補充するのが又一苦労であった。

 元々予備士官学校の営庭で戦時中一旦畠になった学校の新グラシドは石ころだこらけであった。戦火に焼失した豊中の校舎ばかりでなく、ビロードのような中柴の豊中グランドが本当になつかしく恋しかった。東京から大切に運んで来た硬球は、練習が始まると一回で傷だらけになり、縫目が破れて、雨が降れば濡れたソフトボールのようにふくらんだ。スパイクシューズなど論外であった。殆どの人は下駄履きで通学していた時代である、ゴム底の運動靴も当時は夢の又夢であった。大方は石ころだらけのグランドの上で素足でそしてしばしば上半身裸で練習に励んだが、時として足の裏には血が滲んだ。

 本格的な野球部生活を経験したことのある指導者もいないままに、素人部員だけで古い野球本など頼りに手探りで練習していた時、復員軍人風でガッシリした体格の人がグランドの片隅で熱心に練習を見守っていることに気が付いた。よく見ると我々が入学当時(昭和17年)の豊中野球部のキャプテンで投手の筒山さん(現平野昌治氏)ではないか。筒山さんは、卒業後陸軍士官学校へ進み、当時復員されて間もない頃であった。早速監督になっていただくよう久野校長を通じてお願いした所、本大会だけならという条件付で快諾を得た。かくして戦後の野球部の初代監督が誕生したが、その筒山さんの監督就任第一声は次のようなものであった。

 「諸君は古い伝統をもつ豊中野球部選手として再開される大会に、出場される事になった。名誉ある母校の歴史に恥じない真摯なプレーをして貰い度い。私は他に人がいないので本大会だけでも是非という校長の要請で監督をお受けしたが、大会開幕まで二週間、食う物もないがボールもバットも数がない。ないないづくしだが、幸いに我々には伝統の豊中野球部精神がある。豊中魂をボールにぶつけて、遮二無二頑張れ」

 やがて戦後復活第一回の全国中等学校野球大会の予選が始まり、7月19日我々も意気揚々と名古屋鉄道局(現JR東海)の八事グランドでの対起工業戦へ臨んだ。

 試合は林捕手の好リードや安田投手の懸河の如きドロップもキャプテン尾崎の強打も及ばず9対4で敗れはしたが、筒山監督によれば「選手諸兄は堂々の豊中野球を展開」したのである。

 当時戦争直後のことでもあり、中等野球の技術レベルは全国的に低く、この大会の予選開始前に早稲田大学の野球部の大御所であり、元同大学監督の飛田穂州氏が全国を巡回行脚した結果、平古場投手を擁する浪華商業が優勝するであろうと早々と予言し、その通りになった。浪商チームの実力がズバ抜けていたのである。

 愛知予選も御多分に漏れず、まともにカーブの投げられる投手は少なく、ノーストライク3ボールから確実にストライクの取れる投手は一流であった。にも拘らず、打者も時としてこのような投手を打ちあぐねたのである。

 しかし、一方で戦時中の特攻体当たり精神は未だ健在で、我々は打てなければデッドボールでも塁に出ようという覚悟で打席に立ったものである。私の最後の打席もデッドボールであったが、伊達球審は、何故か私にアウトを宣告した。球を避けなかったというのである。

 かくして昭和21年の全国中等学校野球大会は終り、我々5年生は、この大会を最後に選手を退き、新しいメンバーに入れ替わった。この頃新たに藤田良彦君(時習一回、後に時習館高校教諭で野球部監督)竹内基次郎君(時習一回、後に時習館野球部OB会会長)を始め優秀な選手諸君の参加入部があり、その上、愛知県立一宮中学から転勤して来られた国語の渥美政雄先生が監督に就任されるに及び、時習館野球部の戦後の全盛期の基盤が固まったのである。

 渥美先生は田原の成章中学から国学院大学に進み、同大学の投手として活躍された方で、卒業後国語の教師として東邦商業、滝川中学、一宮中学で教鞭をとられた。就中、滝川中学では野球部監督として、別所投手、その他優秀な選手を育て上げ、既に甲子園出場7回の経歴を誇る中等野球界では知る人ぞ知る名監督であった。しかも授業は謹厳そのもので国文法の授業など先生の裂帛の気合が肌に感ぜられる程であった。又、先生の華麗なシートノックは天下一品で、内野手は勿論外野手も前後左右に捕手でさえ思うように動かされるのに目を瞠ったものである。我々五年生はノックバットを通して直接指導を受ける機会に恵まれなかったが、その言動から数々の教訓をいただいた本当に立派な先生であった。

 時習館はその後間もなく渥美先生の下で愛知県下で頭角を現し、やがて2度(昭和27年春、昭和28年春)に亘って甲子園に駒を進めることになったのである。戦後の野球部の再建に携わった者達にとって、ここに夢が実現したと言うべきであろう。(完)



東三河リーグ戦はじまる

 夏の大会以後、新チームに変わった東三河地方の中学校も野球に力をいれてきた。東三リーグは、豊橋中、豊川中、豊橋商、豊橋工、成章中らで、主に豊橋商グラウンド(現愛大)で行われた。
 当時の対戦成績資料がないのが残念だが、豊中、豊商が強かった。

全三河大会は東三河から豊商と豊橋二商が、西三河から岡崎中と西尾中の四校で争われ西尾中が優勝した。
 その西の代表となった岡崎中を十二月二十六日、豊商グラウンドに迎えて戦った。
  豊中六Aー四岡中   (豊)芳村ー林
             (岡)近藤ー大村

 野球復活とともにOB戦も華やかで、現役選手もたびたび参観したが、その球場は殆ど豊商グラウンド(現愛大)グラウンドであつた。
 そのグラウンドのいきさつは、東田にあった豊橋商業は戦災で焼失、昭和二十一年四月旧陸軍予備士官学校跡(現愛大)に移った。運動場が広かったので野球の試合も多かったが、豊商は愛知大学設立のため二年たらずで向山町に移転した。



★昭和21年9月 渥美政雄先生(監督)赴任、・・・教え子「別所毅彦・青田昇選手」が来校

                        
                       渥美政雄先生(昭和25年)後の校舎が懐かしい

 昭和21年(1946年)9月、渥美政雄先生が一宮中学から当校に赴任された。東邦商業で2回、滝川中学で3回、一宮中学で2回と計7回も甲子園に駒を進められた名監督である。「選手である前に生徒であれ」とあくまで学業優先の「渥美野球」は、成績が下がる部員には厳しい面もあったが、部員の先生に対する信頼も強く、じわじわと実力をあげ、昭和27、28年(1952、1953年)の2年連続の選抜大会に出場となるのである。

 先生は国語を担当されていたが、筆者は先生の授業を受けたことはなかった。先生は昭和31年(1956年)3月まで監督を務められたが、4月1日付けで、県教育委員会に転任された。そして、監督は、時習館1回生の藤田良彦先生(遊撃手・主将)に引き継がれた。そして、時習館野球に大きな功績を残された渥美先生は、平成5年(1993年)3月 83歳で惜しまれながら永眠されました。

 尚、先生のご子息である時習館14回生の渥美博康先生(国語)が、教頭先生として時習館におられることを知り、驚いた次第です。(平成15年現在)

 別所毅彦、青田昇氏は渥美政雄先生が滝川中学(兵庫)で育てられた選手である。昭和24(1949年)年9月29日、この両選手が来校し、講堂(講堂といっても兵舎あとの窓ガラスもない粗末な・・)で講演会を行ったことがあった。当時両選手とも「巨人」に在籍し、別所投手は文字通りの大エース、青田選手は押しも押されぬセンターを守る 3番バッターだった。ちなみに4番は一塁川上哲治選手だった。




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