第22〜27回 夏の予選の成績
第22回(昭和11年・1936年) |
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第23回(昭和12年・1937年) |
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第24回(昭和13年・1938年) |
1回戦 |
岡崎中 |
4:3 |
豊橋中 |
1回戦 |
岡崎師範 |
11:0 |
豊橋中 |
1回戦 |
一宮中 |
6:1 |
豊橋中 |
(延長15回) |
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第25回(昭和14年・1939年) |
第26回(昭和15年・1940年) |
第27回(昭和16年・1941年) |
1回戦 |
明倫中 |
9:4 |
豊橋中 |
1回戦 |
一宮中 |
6:1 |
豊橋中 |
支那事変の拡大、長期化のため、7月初め
全国的運動競技開催の中止命令が発令。
愛知予選は大会寸前に中止となった。
各地では予選が終了し、代表校決定もあり。 |
不出場問題起きる |
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大戦で野球部が抹殺される直前の野球部員(昭和17年) 昭和18年3月卒業(44回卒)の野球部員
昭和11年度(1936年)
昨年度、東海予選まで進んだメンバーは、バッテリーをはじめ主力選手が残り、年があけて正月の六中等学校選抜リーグ戦で中京商を四対二で破るという実力があった。
だが新年度の四月、春の三河リーグで成章中学に四A対三で敗れた。
成章館(明治三十四年四月創立)時代、記録では明治四十四年の六月対戦して以来、町立成章中(大正五年四月)、県立(大正十二年四月)と変わったが、この大会まで何十回と戦ってきたが一度も負けたことはなかった。成章が決して弱かったのではなく、後に野球部ができた豊橋商業が加わっての三校リーグ戦では、たびたび勝ってはいたが、豊中にはどうしても勝てなかった。
成章は野球部創立以来「打倒豊中」を目指していた。ここにその功なり、実現したといえる。
第22回選手権野球大会(昭和11年・1936年)東海大会愛知予選
、七月二十一日から八月二日まで二十九校が参加して鳴海球場で開催された。
豊中は一回戦岡崎中学と対戦、押し気味ながら延長十五回の末四A対三で惜しくも敗れた。
一回戦 七月二十三日
豊中2000000100000000 −3
岡中0000100200000001A−4
東三のホープ 豊橋中もやぶる 十五回補戦で岡中に
(新潮報)攻の豊中は下山三振後前沢遊撃右へ、高柳三遊間へ何れも安打を続け、中野の二匍で高柳封殺される間に前沢は俊敏よく本塁を奪ひ、続く松井の中越二塁打に中野も還り、二点を先んじて必勝の気構へを見せたが、その裏岡中岩瀬四球、服部のバント野選で無死二走者をおくの好機を得たが、高柳二塁走者を計って挟撃シ辛ふじてピンチを脱した。されど昨秋以来肩を痛めてプレートを退いてゐた高柳が懸命の投球も練習不足は争へず、前途に多分の不安を抱かせたのである。
かくて試合は豊中が幾度か機を逸しつつある間に、岡中は五回一死後四球三つを奪い服部の右飛で一点を酬ひ、二対一で八回に入った。この回豊中は一死後高柳右翼を越す三塁打を放ち、中野遊飛したが、松井の三匍は野手の送球横へ流れて高柳得点、豊中勝利と見へたが、その裏岡中は無死にして四球二つを奪ひ、鶴田のバントを中野よく突っ込んだがハンブルして生かしたので無死満塁となり、高橋の二匍と山本の一、二間安打で二点を入れ、かくて三対三の同点となり、試合は遂に補回戦に入り、豊中は十回二死ながら高柳三塁に寄ったが中野投飛して点とならず。
十三回に二死後中野の右中間を破る二塁打あったがものにならず、補回千に入ってから豊中は機会らしい機会から見離された形だった。
これに反して岡中は補回戦に入ってからは十回、十二回、十三回、十四回と殆ど毎回無死にして走者を出し、豊中を圧した。何時かは来るべき高柳の破綻はそれでもよく十四回まではバックの好守と岡中の貧打に救はれたが、遂に十五回来るべき破綻は来た。即ちこの回岡中一死後祐延三塁線を破り、岩瀬四球に都築、服部の遊匍を下山ハンブルして更に二塁へ悪投、祐延は決勝の一点を奪ったのであった。
この試合、豊中の決定的勝利を予想されてゐたのだが、試合の運行余りにも拙く、しかも岡中をナメ過ぎた感あり、守っては期待し得られない高柳の不安な投球と相俟ち、遂に四球禍のため敗退するの止むなきに至った。
しかし補回戦に入るに先んじ豊中は幾度か得点機を逸してゐる。これなぞ第一回の好打に酔って岡中をナメ過ぎた結果といはねばならぬ。この積極的戦法も五回敵に一点を許して差一点となっては変更されねばならず、六回一死後松井が中前安打、竹腰の遊匍トンネルとなって走者三、二塁に寄るの好機を迎へて石田にスクヰズさせたのは肯ける。しかし石田は低めのスローボールをバットに当て得ず松井を徒死させた。
十回には三塁安打に出たが暴走して徒シし、得点の芽を自ら摘みとるの愚を演じた。あとで長坂、下山の二安打が続いたことに思い合せてこの暴走は惜しまれてならぬ。さあれ、高柳の不調にして今日の如くであるならば、この敗退もまた止むを得ぬものとあいなければなるんまいが、攻撃に当っての失策は致命的だった。
東海代表は、岐阜商業が享栄商業を二対〇で敗り出場した。東海代表は第一回大会に山田中学(三重)が出場して以来、これまで全部愛知県が占めていたが、岐阜県から出場するのは初めてのことである。
全国大会も岐阜商業が初優勝した。
昭和12年度(1937年)
新チームはメンバーも揃わず、三河リーグには参加しなかった。
立教大学に入った小山先輩の骨折りで、黒田主将、景浦選手らがコーチとして来校してくれたが、それに応える力も発揮できなかった。
第23回選手権大会(昭和12年・1937年)東海大会愛知予選
七月二十一日から八月四日まで、鳴海球場で開催された。
豊中は、岡崎師範に五回コールドゲームで敗れた。
一回戦 七月二十三日
豊 中00000−0
岡崎師6320A−11
(校友会誌)全国大会初陣の意気溌剌と鳴海球場に岡師と相見えしが、誕生後間もなきチームの事とて十一A対〇コールドゲームにて敗退す。
東海代表は中京商業が岐阜商業を二対〇で敗り四たび出場
全国大会も中京商業が優勝した。中京は東海代表でこれまで四度出場し、四度とも全国優勝を遂げた。
昭和13年度(1938年)
第24回選手権大会(昭和13年・1938年)東海大会愛知予選
七月二十一日から八月七日まで、鳴海球場で開催された。
豊中は一回戦、一宮中学と対戦、六対一で敗れた。
戦前予想では、一宮中学の林投手が好調なだけに、彼に牛耳られなければといわれたが、林投手を打ち崩すことができなかった。
一回戦 七月二十三日
一宮中013101000−6
豊 中000010000−1
豊中健闘して散る 6ー1一宮悠々勝つ
(大阪朝日)一宮の林投手は直球にアウドロを交へて最初から豊中の打者を抑へ、豊中の佐藤投手も大きなインドロで拮抗したが、二回一宮は敵失と安打に一点を先取し、三回木全、牧と続く二本の三塁打と林の右前安打に堂々の三点を加へ、四回にも一死満塁の好機にスクイズの一点を挙げて悠々リードすれば、豊中五回小林よく直球を狙い打ちに続く佐藤、藤井も安打に都築敵失もあって一点を還し、さらに八回二つの四球に好機と見えたが、林の快腕よくバックの凡失を補ひ、外角を切るアウドロに猛威を逞しうっして三振実に十七個を奪ひ、投手力に格段の相違があったのと打棒にも一段とすぐれた豊中の健闘空しく結局六ー一で一宮が快勝した。一宮は続く内野の凡失を戒心すれば優にA級チームを脅かすに足らう
東海代表は、岐阜商業が三対二で東邦商業を敗り出場した。
全国大会は大島投手を擁する岐阜商業が優勝戦まで進んだが、平安中学に二対一で惜敗した。
昭和14年度(1939年)
不出場問題起きる
春の三河リーグ戦は、一勝三敗と新チームの多難さが感じられた。
七月に入って、夏の大会参加をやめようということになった。不出場問題は五年生の一部選手が成績不良につき学校当局が出場を認めなかったのである。出場停止者を仲間から出して、とても出場する気にならないという選手側。先輩はこれを憂慮し、学校側や選手と話し合った結果、出場することに決ったが、全国中等学校野球大会が始って以来、県下で連続出場しているのは愛知一中と豊中の二校のみで、野球部の伝統と歴史が中断するか否かの分岐点でもあった。
第25回選手権大会(昭和14年・1939年)東海大会
愛知予選は、 七月二十一日から八月四日まで鳴海球場で開催された。
豊中はこの大会にともかく出場したが、一回戦で明倫中学に敗れた。
一回戦 七月二十一日
豊中001000012−4
明倫30000213A−9
開戦一時四十五分 閉戦三時三十七分
審判 間(球)倉林、久末(塁)
【メンバー】 5藤井八郎 4小林甫 1小篠静夫 8近藤 6佐々木幸夫 2青木親穂 3天野六二 9竹村幸久 9高橋敏男 7森山敬典
東海大会は、東邦商業が愛知一中を6−3で敗り初出場した。
全国大会は、海草中学が全試合を嶋投手が完封して優勝した。(予選参加校六〇八校)
昭和15年度(1940年)
戦争の激化とともに野球の大会も減り、なお、豊中野球部の不成績で大会参加も減少した。
第26回選手権大会(昭和15年・1940年)東海大会愛知予選
七月二十日から八月四日まで三十一校が参加して鳴海球場で開催された。
豊中は一回戦で一宮中学に敗れた。
一回戦 七月二十三日
白陽蒼空に燃え 大会最初の本塁打飛ぶ
(朝日)長棍一振、炎天下の熱球乱れ飛んで球興いよいよ沸く本社主催第二十六回全国中等学校優勝野球大会愛知県予選は二十三日早くも第四日を迎へて球技は一入の冴えを見せる。この日一片の雲もなく鳴海原頭の相変らず真夏の白陽がぢりぢりと燃える。第一陣尾張の雄一宮中学対三河の古強者豊橋中学千では劈頭一宮一番打者祖父江が一閃左中間に大会初の本塁打を飛ばして万丈の気を吐き一宮中堂々と勝ち進む。
豊中000000010−1
一宮12200001A−6
豊橋中学対一宮中学の試合は午前八時三十分から芦原(球)杉浦、浜(塁)三氏審判、豊中の先攻で開始
豊中チームに往年の愛知四中の意気は見られず、剛球林投手を擁する一宮中学の前に玉砕した。
一宮中学は準優勝候補の呼び声にたがはず攻守にきびきびした溌剌さを見せ劈頭祖父江の左中間を抜く大会最初の本塁打をはじめ全員よくあてて終始試合に活気を添へ楽な得点を重ねて快勝はしたがあまりにも打気に出て無死あるいは一死で走者一塁の場合走者の盗塁を待たずに凡打してあたら封殺を喫したこと数回におよび下位打者の拙走とともに未完成の感じを深からしめた。愛知一中、愛商などと同じゾーンにあるこのチームとしてこの点よほど慎重を期さねばならない。林投手は春以来の指の負傷も全快して久しぶりに会心の投球を見せた。
一方豊中ははじめからいささか呑まれた形で萎縮していたが三回までに五点を献じてからやや落着きを取り戻し反って楽な気持で試合を進め打撃にも生気が加はって八回は一点を返したが大勢は如何んともし難く6Aー1で敗退した。試合終了十時九分。
東海地区代表は、東邦商業が中京商業と熱戦の末七対六と僅差で敗り、連続出場した。
全国大会は、海草中学が真田投手の好投で連続優勝した。予選参加 六一七校
昭和16年度(1941年)
夏の大会 東海大会・愛知予選を中止
第27回全国中等学校優勝野球大会は前年どおりに八月十三日から甲子園で開催されるはずだった。
だが支那事変は拡大、長期化されて、七月中旬、文部次官通達で全国的運動競技開催の中止命令が発せられた。 各地では予選は終了し県代表校の決定を見たところもあったが、愛知予選は大会寸前で中止となった。
戦前予想では、春の選抜に出場し全国優勝した東邦商業を筆頭に、享栄商業、一宮中学、愛知商業、中京商業、岐阜商業らが有望視されていた。特に東邦としては連続優勝が断たれ残念なことであったろう。
伴吉衛監督の死去
「野球の伴さん」で豊橋市内の野球フアンに有名であった伴吉衛氏は昭和十六年十二月十一日死去された。
伴氏は大正五年四中が夏の大会に参加したときの選手で、その頃盛んであった少年野球の監督として活躍していたが、昭和四年から十三年まで豊橋中学の監督に就任、昭和初期の黄金時代をつくり、特に昭和八年の夏の予選で小山常吉、夏目米二のバッテリーで、中京商業を一対〇に追い込んだ伴監督の采配は今でも語り草になっている。
三河リーグの審判をしても、伴氏の判定は正確無比で、判定に避難があったためしはなかった。
伴氏の当地方野球界に遺した足跡は大きく、先輩の冥福を祈るのみである。 (享年四十二歳)
昭和17年度(1942年)
英語が敵性語ということで排除されるようになり、ストライクは〃ヨシ!イッポン、〃ボールは〃ダメ〃、三振は〃ヨシ!ソレマデ〃というようになり、野球部そのものも、報告団組織(昭和十六年九月結成)の中の鍛練部の中に組み入れられた。
こんな事情の中で、春の三河リーグ戦が開催された。
文部省主催の全国大会
春の選抜野球大会も、夏の全国大会も文部省の指令で中止された。
そして全国中等学校野球大会は新たに文部省及び大日本学徒体育大会に統合され、各種目の競技大会の一部門として行われることになった。
文部省、大日本学徒体育振興会主催 昭和十七年度全国中等学校体育大会野球予選兼愛知県中等学校野球大会は、七月二十日から二十七日まで鳴海球場で開催された。
豊中は一回戦で起工業に敗退した。
一回戦 七月二十日
豊中000001210−4
起工50001200A−8
東海大会は、愛知から一宮中学と享栄商業が出場、優勝戦は一宮中学と岐阜商業で行われ接戦の末、3−2で一宮中学が夏の大会も含め初出場に輝いた。
幻の優勝 徳島商業
同じ「夏の大会」を制覇しながら、徳島商業は優勝旗は優勝旗を手にすることなく甲子園を去った。そればかりでなく、この優勝は大会球史にも記録をとどめていない。
これは、いったん中止と通達した文部省が外郭団体の大日本学徒体育振興会を動かして行われたもので「文部省、学徒振興会・全国中等学校体育大会野球大会」とし、いままでの二十三地区を十六地区に変更して行われた。優勝は徳島商業が平安中学を八ー七で敗り栄冠を勝ち取ったが、優勝旗はなく文部大臣の表彰状が一枚だけであった。
この大会は、たった一度だけ開かれただけであった。
秋の三河リーグ戦優勝
秋からの新チームは、四年生部員は一人もおらず三年生のみで編成した。
新チームの主力メンバーは
【メンバー】 2河合(三浦)武雄 6小栗幸郎 5城所(野口)恒彦 1間瀬誠一 7及部昭夫 8河合昭夫 3河辺正美 4天野満雄 9竹内尚則
らで、リーグ戦を戦い全勝で優勝した。
三河リーグ戦 豊川球場 九月二十七日 豊中十一ー〇岡崎中
十月四日 豊中 四ー〇豊商
十月十一日 豊中十三ー二碧南商
十月十八日 優勝戦 豊中 九ー三岡崎師
久し振りに優勝し、有終の美を飾ったともいえる。
野球の公式試合も事実上これが最後となり、野球部そのものも消え去った。
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