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第12〜14回 夏の予選の成績
第12回(昭和1年・1926年) . 第13回(昭和2年・1927年) 第14回(昭和3年・1928年)
2回戦 中京商 3:0 豊橋中 1回戦 豊橋中 11:1 愛知工 2回戦 豊橋中 6:5 岡崎師範
. 2回戦 豊橋中 6:4 愛知一中 3回戦 豊橋中 7:1 一宮中
東海大会 名古屋商 12:3 豊橋中 東海大会 岐阜中 4:3 豊橋中
10月、鳴海球場完成 .
 昭和2年から、愛知・三重・岐阜各県ごとに一次予選を行い、各県の代表校が二次予選を行って東海地区代表の選出

            
               昭和2年8月渥美電鉄主催 県下中等学校選抜大会で優勝



                       大正15年(昭和1年)1926年度

 第12回選手権大会(昭和1年・1926年)東海大会
 
 七月二十七日から八日間、三十四校が参加して八事球場で開催された。
 好成績をあげていた我が校は、ことしこそはと、合宿練習に早大主将の氷室氏をコーチャーに迎え、牧野氏等先輩指揮の下猛練習を重ねて大会に臨んだ。
 豊中は一回戦不戦勝、二回戦で新鋭の中京商業に三対〇で負けた。試合は投手戦となったが中京の投手が優れ、三振十四を取られた。

 二回戦 七月二十八日

  豊中000000000−0
  中商00010002A−3

(校友会誌)中京商に惜敗
 第一回 豊中金子三匐一塁暴投に二進し、榊原遊匐の後三盗塁せしも刺さる、市川四球、田中三振。 中商近藤右前安打に出でしが間宮、水野共に三振、中村二飛。
 第二回 豊中竹内、長広共に三振、服部四球に出でしが疋田三振。 中商岡三振、江崎二匐、戸田三振。
 第三回 豊中都築中飛失に生き、金子三邪飛後榊原三遊間安打に二進せしが、市川三振、田中二飛。 中商後藤左飛、大野遊飛、近藤遊匐。
 第四回 豊中竹内三匐、長広三振、服部遊匐。 中商間宮遊匐失に生き二盗し、水野二飛後二盗し、中村の遊匐に生還、一点を許す。岡三匐。
 第五回 豊中疋田三振、都築二匐、金子左中間安打に出でしが榊原三振。 中商江崎一匐、戸田遊匐後藤投匐。
 第六回 豊中、市川三塁を失せしめて出でしも一、二塁間に挟殺、田中三匐、竹内三匐失に出でしが長広二匐。 中商大野遊匐、近藤三匐、間宮投匐。
 第七回 両軍無為
 第八回 豊中三者凡退。 中商江崎投匐、戸田四球に出で二盗せんとして田中の強肩に斃る。既に二死となり後藤又もや四球に出で大野打てば飛球となり、服部之を捕へんとして巧みにバックせしも外野余りにも狭く柵に到りて唯球の行方を見るのみ。豈我等の自由に活躍するに足る球場ならんや。かくて敵は僥倖を得て二点を増す、近藤中前に出で二盗せんとして田中に刺さる。
 第九回 我軍最後の攻撃に入り最後の意気を物見せくれんとナイン憤然としてたちしも三者凡退。此時我等相擁して泣く、かくて我軍の奮闘も空しく涙を呑んで球場を去る。

(新愛知)ネット裏から
 最後まで火の出る様な投手戦を演じファンをうならしたが上手の手から水がもれ、豊中名遊撃手竹内の千慮の一失が貴重なる一点となり、最後の中商の大野の幸運の本塁打が更に二点を生んで、豊中涙を呑んで去った。
 東海大会は愛知商業が十五対四で愛知一中に快勝し、宿願の全国大会に出場した。
 全国大会は静岡中学が優勝。予選参加校三三七。

  中京商業の台頭

 中京商業野球部は大正十二年に創立、十四年頃から力を入れはじめた。
 東海の中等野球は、一中時代。愛商時代。中商時代。中商、岐阜商、東邦、愛商の四商業時代。戦後の五期とに分けることができると思う。
 一中時代にかわり中商が台頭しはじめたわけである。



  華々しい野球部の活動

 我が四中・豊橋中は、大正五年の全国大会の黄金時代を頂点に、成績は低調となり東海大会に二勝を挙げたのは三度のみであった。殊に愛知一中には一度も勝ち得なかった無念さを忘れることはできなかった。
 だが、昭和に入ると少しずつ力が上がってきた。進出目覚ましい私立校にも対抗する力を備え、数がふえた各種野球大会の常連校ともなった。

  各種野球大会に参加

 大正から昭和にかけて、数ある校友会運動部のうち、最も華々しい記録を残したのは、何といっても野球部であった。毎日の放課後の練習でさえ、時には数百人の見物人が集まるという有様であるから、どうしてもその活動は世上の話題にのぼり、そして華やかであった。
 また試合する機会も他の部とは比較にならぬほど多く、個々の対校試合のほかに、昭和に入ると大会と称するものだけでも、大阪朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会東海大会、同愛知大会、新愛知新聞社主催の近県中等学校選抜野球大会、名古屋新聞社主催の全国中等学校選抜野球大会、豊川電気鉄道会社主催の全国中等学校選抜大会、同社主催の三遠中等学校野球大会、同じく全三河中等学校野球大会、渥美電気鉄道会社主催の近県中等学校選抜野球大会、同社主催の東三中等学校リーグ戦、岡崎朝報社主催の全三河オリンピックの野球大会。
 さらには遠く金沢、長野、大阪等で行われた選抜野球大会等々と、大会出場の数だけでも、試合数は他の部よりもはるかに多かった。
 だが昭和七年の野球統制令でその大会の数は減ったけれども、なお数個の大会には参加出場し、その間における戦績も全国中等学校東海大会では、今一歩というところで、愛知一中、中京商業などの強豪に阻まれ、甲子園の晴れの舞台を踏むことはできなかったが、その他の各種大会では、優勝旗を獲得しただけでも枚挙にいとまがなく、東海における〃名門〃の名を辱めなかった。
 特に、昭和五年の第十五回全国中等学校野球大会東海予選では三年連続全国制覇の未曾有の大業をとげた中京商業と、七回まで〇対〇の接戦を続け、惜しや一点の差で敗れたが、天下に讃嘆の声をあげしめ、時に消長はあったとはいえ、常に東海に確固たる存在を占めており、栄光に包まれた野球部であった。

                          昭和2年度(1927年)


 第13回選手権大会(昭和2年・1927年)東海大会

 愛知予選

 今年度から東海大会は、愛知、岐阜、三重の各県大会を行い、東海大会(第二次)は愛知が上位四校、岐阜、三重が上位二校の計八チームで行われることになった。
 本校は、 愛知予選で一回戦、愛知工業コールド勝ち、二回戦では宿敵愛知一中を敗り、東海大会に駒を進めたが、六月の近県選抜で負かした名古屋商業に、十二対三で敗れた。

 一回戦 七月二十六日 八事尾電球場

  豊中3202040−11
  愛工0100000−1

(校友会誌)
 一回、豊中金子四球捕手失に二進、榊原四球、都築の中前安打に金子一挙生還。戸苅の二匍失に榊原又本塁を陥れ、都築二進、伊藤の三匍失に無死満塁となり疋田衆望を負ふて立ちしが、投手の暴投に都築還り、戸苅伊藤二三進、浦山三振、中林のスクイズバント投飛となり戸苅共に重殺さる。愛工、加賀二飛内野安打となり伊藤のバントに送られ二進、服部中飛、山田二飛。 
 二回、豊中大野中飛、金子四球に出でて二盗、榊原都築四球を得て一死満塁となりてまたまた我軍にチャンス来る、戸苅フアストボールを戞然と響かせば左翼を襲ふ大飛球となり塁打と見えしが野手の好捕に金子犠牲球となして本塁を襲ひて一点を見舞ふ。伊藤遊匍野手チョイスとなり榊原生還、疋田遊飛。愛工、寺西三匍、塁手落球して生き二盗、加藤捕飛、吉村遊飛、鬼頭四球、吉田の中前安打に寺西三進し野手失に生還、鬼頭誤って二三間に挟殺さる。
 三回、豊中中林四球、浦山、大野、金子三者中飛。愛工、加賀三匍失に出で、伊藤の遊飛の後、服部の投匍に封殺さる、寺西捕邪飛。
 四回、豊中榊原投手の足もとを抜く安打に出で、都築の四球に二進、戸苅の三遊間安打に榊原生還、伊藤の左前安打に都築三進、疋田一邪飛、浦山スリーバント、フアウルとなり、二死後中林三遊間安打して都築を還し、戸苅本塁に冒険して三塁手の好投に刺さる。愛工、加藤三振、吉村投匍、鬼頭一匍。
 五回、豊中凡打。愛工、吉田四球、加賀左直安打と見えしが伊藤好捕し、一塁に吉田を重殺し美技を振ふ、伊藤投匍。
 六回、豊中都築三塁線を抜く二塁打に愛工の堅陣を崩し戸苅四球、投手暴投に都築還り戸苅三進、伊藤三振、疋田のバントに戸苅生還し、三塁手暴投に疋田一挙三進、浦山のバント投匍に疋田本塁に見事刺され、中林三匍一塁手失に生き、大野の一塁線上を抜く三塁打に浦山中林生還、金子三振。愛工、寺西左翼に安打せしが後援なし。
 七回、豊中榊原投直、都築三匍失に生きしが戸苅左飛、伊藤三振。愛工、三者凡打に空しく、十一対一コールドゲームとなる、時に午後一時。
 かくして我軍は十年怨敵一中と対する事となった。

 二回戦 七月二十七日

  豊中010000032−6
  一中001020010−4

 開始午後四時十五分、閉戦午後六時四十分。球審小笠原、塁審松田、豊橋中学先行

(新愛知)プレーボールからゲームセットまで二時間三十五分は息詰まる様な接戦を演じた。第八回までは、追いつ追われつ結局四対四でエキストライニングに入るかと思われたが、ラストイニングで豊中は一本の二塁打と二本の安打で堂々二点を奪取して勝敗を決め、常勝軍愛知一中を見事倒した。準決勝まで残った三チームは大体において予想通りであったが、最後の試合であるこのゲームは九分通りは一中のものと下馬評は決っていたのがこの結果になるとは番狂はせも甚だしいと云はねばならぬ。

 東海第二次予選 八事尾電球場で

 第二次予選は三重県津市の三重高等農林学校グラウンドで行う予定であったが球場の都合で、名古屋の八事尾電気球場で八月一日から三日間行うことになった。
 参加校は豊橋中学、東海中学、名古屋商業、愛知商業、津中学、四日市商業、岐阜中学、岐阜師範の八校、組合せは三十一日の主将会議で決定。

 二次予選 八月一日 八事尾電球場

  豊中000021000−3
  名商40124100A−12           豊中         名商 
                           6金子 34打数40  6小池  
                           5榊原  5安打13  8倉林  
                           31都筑  0盗塁0  51小山  
                           2戸苅  0犠打3  15小幡  
                           7伊藤  4三振1  4豊田  
                           8疋田  5四球4  2森川  
                           4浦山  9失策4  9林   
                           4間瀬         7渡辺  
                           9中林         3井上  
                           13大野          
                              本塁打 小池      
                              三塁打 小池、小幡   

 開始午前九時五分、閉千午前十一時四十分、球審小笠原、塁審田内、豊橋中学先攻、常勝愛知一中を破って大いに気をよくし豊橋中学は一気に名商を屠る気概を以て先づ攻める。

(新愛知)
 一回、豊中金子左翼フライ榊原二塁ゴロ後、都築三塁を強襲して失策に生きたが戸苅投手ゴロに終る。 名商小池遊三間の安打に出で、倉林定石のバントで小池を二塁に置くらんとするを一塁失策し、小山の中堅安打に小池生還、小幡中堅フライの後、豊田のバントと捕手のパスボールに倉林小山生還、森川遊三間安打に出で林の左翼二塁打に生還、渡辺遊ゴロ。
 二回、豊中伊藤三振、疋田三塁ゴロ、浦山左翼フライ。 名商井上ピーゴロ、小池三塁ゴロ、倉林二塁ゴロ。
 三回、豊中、中林左翼フライ失に生き一塁への投手牽制球暴投に二進したが油断して投手牽制球に刺さる、大野二塁ゴロ後、金子遊ゴロ一投失に生きたるも榊原の二塁直球に空し。
 名商小山一塁右の安打に生き、小幡中堅フライ失に生きたが小山封殺され、豊田遊撃を衝いてイレギュラーバウンドに安打となり、小幡盗塁と捕手のパスボールに生還、森川四球、林三塁ゴロ失に生きたが渡辺の中堅フライに止む。
 四回、豊中都築二塁フライ、戸苅遊ゴロ、伊藤三ゴロ。 名商井上三ゴロ後小池左翼越の本塁打を飛ばし、倉林三ゴロ一投失に生き、小山遊三間安打に倉林生還、小幡左飛、豊田三ゴロ。
 五回、豊中疋田三振、浦山三ゴロ後、中林遊ゴロ失に生き、大野金子榊原都築共に四球に出で二点を得、戸苅ピーゴロ。
 名商森川三ゴロ失に生き、林の三ゴロに森川を封殺せんとして失策し、渡辺の遊撃安打に森川生還、井上三振の後小池中前安打、倉林投ゴロ失に林生還、小山中堅フライの後、小幡四球に渡辺押出し、豊田投直失に小池生還、森川遊ゴロニ小幡封殺。
 六回、豊中伊藤三ゴロ安打に出で、疋田浦山の安打に生還、中林三振、大野遊フライ。
 名商林左翼前安打に出でながら渡辺のピーゴロに封殺、井上中堅フライ後、小池右中間を抜く三塁打に生還、倉林二塁ゴロ。
 七回、豊中榊原二塁フライの後、都築中前安打に出でたが戸苅の遊ゴロに封殺、戸苅又伊藤の三ゴロに封殺。 名商小山中堅フライ後、小幡右翼越三塁打に出でしが後援なし。
 八回、豊中疋田四球を利したが浦山の二ゴロに封殺、浦山又中林の遊ゴロに封殺、大野一塁ゴロ。
 名商林四球を得たが二者凡退。小池又四球を得たが倉林左飛に終る。
 九回、豊中最後の攻撃であるが、金子三振、榊原ピーゴロ、都築又三振。結局十二A対三で名商の勝に帰す。

 東海大会は愛知商業が7−0で津中学を敗り昨年に続いて甲子園へ。
 全国大会は高松商業が優勝。予選参加校三八九校。


 中等・高校野球の殿堂、鳴海球場、昭和二年できる

 愛知電気鉄道(現名古屋鉄道KK)が自社直営の球場をと、愛知県鳴海町に、総工費三十六万円で、両翼一〇六メートル、センター一三六メートル、収容人員二万人を目標に野球場を建設した。昭和二年十月十七日、愛知一中などの名古屋市内の中学校の対抗試合でオープンした。当時愛電球場と称したがすぐに鳴海球場と改め、中学野球のメッカとなり、昭和十二年の全盛時代(中京商四度目の優勝)には伊吹スタンドなどを増設した。
 戦争たけなわの昭和十八年には、バックネットや鉄傘も献納、球場は高射砲陣地の弾薬置場などになった。
 戦後、昭和二十一年からドラゴンズのホームグランドとなったが、名古屋地方に進駐した米軍第五空軍が優先利用したので、スケジュールをたてるのに当事者はたいへん苦しんだようである。昭和二十三年中日スタジアムが完成し、プロはそちらへ、そして高校と愛知六大学などアマチュアスポーツのみの使用となっが、昭和三十三年第四十回全国高校野球愛知県予選を最後に閉鎖、翌三十四年四月名鉄自動車学校となった。



                         昭和3年度(1928年)

 第14回選手権大会(昭和3年・1928年)東海大会

 愛知予選は、二十校が参加して七月二十四日から三十日まで八事、鳴海球場で開催。豊中は一回戦不戦勝、二回戦岡崎師範に辛勝、三回戦一宮中学に延長の末降し、東海大会へ進んだ。

 一回戦 不戦勝

 二回戦 七月二十九日 八事球場

  豊中002031000−6
  岡師005000000−5

(校友会誌)憧れ待ちし戦ひのこの日、夏空朗らかに晴れて大日輪は赫灼と大地に照り輝いて居た。八千の観衆スタンドを埋む。
 一回 金子遊飛、浦山投匍、伊藤遊匍。岡師今井二匍、片山二直、小久保四球を得て二盗す、近藤の二遊間安打に小久保三進近藤二盗せしも太田三振。
 二回 戸苅四球に出で石田のバントに二進、中林三振後間瀬の四球に続きしも伊藤三振。岡師三者凡退。
 三回 大野死球を喫して出で、金子の二塁バント内野安打となりて大野三塁を得、金子二盗す。浦山の三匍に大野生還、続く伊藤、金子とのスクイズバント二塁安打となり金子生還、伊藤二盗せしも戸苅中飛、石田遊匍、豊中二点を先取す。この後をうけて岡師夏目三匍失に意気、今井のバント内野安打となり、片山四球に続きて満塁の好機至る。小久保の二匍塁手ハンブルして夏目生還、近藤第一球高目の球を戞飛ばせば左翼頭上を抜く本塁打となり、走者一掃さる。太田三塁線上に沿ふて安打せしが、中神捕邪飛、鈴木遊飛、山本中飛に止む。岡師五点。
 四回 中林左翼右にクリーンヒットを放ちて出でしが後者凡退して無為。岡師三者凡退。
 五回 金子二ー一の後左翼オーバーの大本塁打を戞飛ばして気を吐く。浦山又投手足元を狙う安打に生き、伊藤のバントに二進、戸苅の遊匍暴投に浦山三進、戸苅二盗石田左翼右にタイムリーヒットを放ち、浦山戸苅生還、石田二盗後二三間に挟殺され、中林遊匍。岡師無為。
 六回 豊中二死後大野左翼線近く二塁打して出で、金子又中右間に二塁打を放ちて大野生還、浦山投匍に止む。岡師無為。
 七回、八回 両軍無為。
 九回 金子左前安打に出でしが、浦山の投匍に二塁に封殺、伊藤の二遊間安打に浦山を進めしが、戸苅一邪飛、石田三匍に終る。岡師軍総攻撃の意気物凄く今井先づ一二塁間を抜いて出で二盗に成功す。続く片山猛烈なグラウンダーを遊撃に送りしも野手の好捕好殺にアウト、小久保の遊匍は今井を三塁に封殺。近藤投手ゴロ岡師軍遂に退く。

 三回戦 七月三十日

  豊中00000001006−7
  一宮00000010000−1

 開始一時。審判酒井(球)長谷川(塁)豊橋先攻

(新愛知)経過
 第一回から六回までは両方共ガッチリした守備振りを見せて互いに犯せしめず予期通りの接戦を演ず。
 七回 豊中無為の後、一宮中一死後増田四球を利し、鈴木の一塁ゴロで型の如く二塁で封殺されんとしたが三塁手あせって高投し球は右翼に転々する中敢然本塁を衝いて成功し息詰まるシーンを先づ破れば、八回豊橋復讐の念に燃えて間瀬遊撃ゴロ一塁暴投に一挙にして二塁を奪い、山中の定石バントに三進更に大野のバントに牙城を陥れ同点となる。
 九回豊中三者凡退して一宮代り、増田四球を得て鈴木のバントに二進、近藤の遊三間を抜き絶好の安打に更に三進、機は熟して勝は一宮郡の掌中に落ちたるものの如くであったが、浅井二球目をスクイズに出て、豊中投手に見破られてスイフトを投ぜられ惜しくも縮尻って増田挟殺、かくて大会初めてエキストラインニングに入り、第十回両軍零。第十一回豊中一死後浦山投手足元を襲ふ安打に出で伊藤戸苅は遊ゴロ失に生き、其間に浦山本塁を陥れんとしたが刺され、二死となって危機先づ去れりの観あったが石田、中林、間瀬は連続して安打し、山中は遊ゴロ失、大野、金子、更に投手安打を放って一挙六点を収めて勝利の鍵を完全に握る。この裏一宮軍無為、大接戦のこの試合は竜頭蛇尾に終って七対一で豊中の勝に帰し、三時五十分閉戦。

 東海大会、岐阜商に敗る

 八月三日から鳴海球場で開催。愛知代表は豊橋中学、愛知商業、中京商業、愛知一中の四校。岐阜は岐阜商業と大垣中学、三重は山田中学と松阪商業が出場。
 豊中は引続き東海まで進出したが、一回戦岐阜商業と対戦、一点差で惜敗した。

 一回戦 八月三日 鳴海球場

  豊中000110001−3
  岐商00400000A−4              豊中          岐阜商
                             6金子  36打数26  7吉田
                             5浦山   6安打7   8大野
                            717伊藤   2犠打3   6柴田
                             2戸苅   7三振6   1安田
                             3石田   2四球9   9安藤
                             8中林   2盗塁8   2村山
                             4間瀬          9棚瀬
                            979山中          4服部
                             19大野          5加藤

 午前九時三十分、球審高松、塁審伊藤、水野。豊中先攻で開始

(新愛知)経過
 一、二回両軍にチャンスなく、三回豊中無為の後を享けて、岐商服部投手バントに出で一塁暴投に一撃二進、加藤の犠打に三進、吉田遊ゴロ失に服部生還、二死後篠田三塁を猛ゴロで衝いて吉田を進め、豊中投手伊藤と代る、安田、安藤、村山、棚瀬各々四球を得て三点を入れ、(豊中投手又大野に代る)一挙四点を得る。
 四回 豊中二死後中林二越安打、間瀬又中前にテキサスを放って中林を進め、山中左前に快打し野手失する間に中林長駆本塁を陥れ間瀬三塁に進む、山中二盗したが後続空し、岐商無為。
 五回 豊中金子遊三間安打に出で、浦山の投手バント一塁暴投に金子三塁に進み、浦山一挙二塁を占めんとして刺さる、その間に金子生還一点を酬ゆ。岐商無為。
 六、七回 両軍無為。
 八回 豊中無為の後、岐商村山四球を利したが後援なし。
 九回 豊中一死後金子四球にでで素早く二盗、浦山の遊越安打に三進、伊藤左翼フライに二死となったが左翼手三塁へ低投し金子生還、更に浦山還らんとしたが本塁で刺さる。閉戦十二時 結局四A対三接戦で岐商の勝に帰す。
(短評) 豊中技倆に勝って試合に敗けた。敗因は投手の不出来とチーム全体の元気がかけて居った為めで、ココ一番と云ふ所で頑張りが無かった。最後のインニングに浦山が左翼手の三塁暴投で本塁に猪突し乍ら空しく刺されたのは愚だ。

 東海大会は、愛知商業が8−7の僅差で愛知一中を破り、三年連続の出場。
 全国大会優勝は松本商業。


  豊川球場できる

 昭和三年三月二十一日豊川球場が完成、三河中等学校の殿堂となった。豊川閣が総工費五万円で、豊川町に両翼三五〇フィート、センター三七〇フィート、観覧者一万五千人。外野は陸上競技場と兼用、約四十人収容の合宿所も設置された。

  豊橋商業野球部夏の大会初参加

 市立豊橋商業は、昭和二年四月野球部を創設し、今年の夏愛知大会に初参加した。




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