第3〜8回 夏の予選の成績
第3回(大正6年・1917年) |
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第4回(大正7年・1918年) |
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第5回(大正8年・1919年) |
1回戦 |
愛知一中 |
5:0 |
愛知四中 |
1回戦 |
愛知四中 |
23:1 |
四日市 |
1回戦 |
愛知四中 |
棄権 |
滋賀師範 |
2回戦 |
愛知四中 |
13:3 |
岐阜中 |
2回戦 |
愛知一中 |
20:0 |
愛知四中 |
2回戦 |
大垣 |
10:3 |
愛知四中 |
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米騒動で全国大会中止 |
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第6回(大正9年・1920年) |
第7回(大正10年・1921年) |
第8回(大正11年・1922年) |
1回戦 |
山田中 |
10:2 |
愛知四中 |
2回戦 |
愛知五中 |
5:4 |
愛知四中 |
1回戦 |
豊橋中 |
2:2(ドロン) |
富田中 |
2回戦 |
四日市商 |
13:2 |
愛知四中 |
. |
再試合 |
豊橋中 |
棄権 |
富田中 |
. |
2回戦 |
豊橋中 |
3:2 |
山田 |
3回戦 |
名古屋商 |
8:7 |
豊橋中 |
4月、豊橋中学校に校名変更 |
大正6年度(1917年)
前年度全国大会に出場した四中は、大半の選手が卒業したとはいえ、実力が落ちたとは思えず、対抗試合は、一中には二対〇で負けたが、二師には十五対四、浜松とは十五対一、岐阜に四対一といずれも完勝していた。
東海大会直前七月二十日に慶応が遠征来豊し、四中校庭で対戦七対五でこの大敵を破った。
第3回選手権大会(大正6年・1917年)東海大会
夏の大会 第十四回東海五県連合野球大会(第三回全国中等学校優勝野球大会東海大会)は、八月一日から愛知一中の校庭で開催され、昨年度優勝の我が校から優勝旗が返還された。残念ながらこの優勝旗は以後我が校が手にすることは現在までなかったのである。 四中は、愛知一中に五対〇で敗れ、岐阜中学には十三対三で大勝するも一勝一敗で、二勝者戦に残れなかった。
日比野代議士の始球式、観衆場に満ちすこぶる盛会
(新愛知)東海野球大会は八月一日午前八時、一中校庭にいよいよ序幕を切って落された。開会に先立って優勝旗の返納式あり。第四中学の選手一同整列して前年得たる優勝旗を主将小栗捧げて石邨一中校長に返納し、いよいよ開会朝来の薄曇り絶好の野球日和に観衆場に満ちて、大変な景気である。かくて始球式となり前一中校長、新代議士日比野寛氏運動服姿をプレートに現わし、雪白の球を投げるとゆるく捕手のミットに入り、曹洞中学の第一打者渡辺は大きく振って直ちに試合に入った。
一中001013000−5
四中000000000−0
一中復讐す、五対零にて四中を破る
今大会の勝敗を決すると称せらるる愛知一中対愛知四中はけだし絶好の好取組なり、正午を過ぐる五分にして開戦、加藤(球)久野(塁)両氏審判たり。
第一回一中先攻し一柳四球に出で、伊藤バントを仕損じて投手飛球となり、小島の直球遊撃に得らるるや一柳と併殺を喫し、四中代れば関、下山三振、小栗の直球左翼の掌中にあり。
第二回一中長谷川四球に出で(代走加藤)二塁を盗み、前納の三振後、山本の四球に出づると共に捕手の逸球にて長谷川三塁に迫り一死にして三、二塁に走者を控ゆるの好機を捉へしも、加藤、安藤続いて馬場の妙腕に屠られ、折角の機会を失して投手戦の実顕然たり。 豊橋攻むれど馬場の死球に出でたる外三者三振して空し。
第三回前回攻勢の後を承けたる一中軍は一死の後一柳、伊藤四球に出で小島のゴロに遊撃の失に満塁となりし時、長谷川の巧妙なる犠牲バントに一柳生還、最初の貴重なる一点を収む。 其の裏豊橋金田の安打ありしも後援続かず。
第四回一中馬場のコントロールを失せるに乗じ、四球、四球を得しも得点なく、
第五回小島三塁右の安打に出で長谷川の一打を小栗失するや後を擁したる伴、下山に送球すれば、下山呆然として球は右翼に転々たる間小島生還し、
第六回に至りては一中大いに振ひ、安藤遊撃の失に出で、石井の二塁ゴロにフォースアウトされたるも一柳は遊撃の失に、伊藤は死球に満塁となり、小島の三塁ゴロに石井本塁に刺されたるも依然満塁となれる折、長谷川の一打右翼への見事なる安打に一柳、伊藤相次いで本塁に躍進し、前納の一塁飛球幸に安打となって小島生還、一挙三点を得たるより満場の歓呼裡に勝者の地位を獲得す。山本四球に未だ機会ありしも加藤三振して止む。 豊橋方は爾後意気阻喪して長谷川に弄せらるること甚だしく、殊にドロップは有効にて三振又三振。
一中第八回に二本、第九回に一本の安打ありしも共に豊橋の攻守に阻まれ生還なく、午後二時四十五分閉戦、五対零にて愛知四中は一人の三塁を踏めるものなく、無残の零敗を喫し、愛知一中は昨年の仇を酬いて確実なる大勝を博す。豊橋の三振実に十六個、打撃振はざりしだけにこの敗も当然とすべく、守備に於ても主将小栗が三個の失策を出せるなど、何となく元気なきの観あり。
八月三日 烈風中に対陣
東海野球大会第三日は三日朝来の暴風雨模様にて降雨一しきりづつ狂風に伴はれて来り、到底試合を行ふべくも見にざりしが、午前九時愛知四中対岐阜中学の試合始まる。
岐阜中学対四中 雨の為試合半に中止
花井(球)久野(塁)両氏の審判にて両軍烈風裡に陣を布き、岐中先攻して先頭の二者三振後、主将細田三塁に凡飛球を揚げしに夏目失し、次いで一塁二塁間に挟撃されしも幸に一塁の失に生き、重ね重ねの命拾ひせし処へ、佐々木の二振後に打ちたる球右翼中堅間への飛球となり、細田長駆して生還し、岐阜方喜ぶこと限りなく、而も尚小川は二塁ゴロの失に桑原は死球に二死満塁となり好機未だ去らざりしも野村三振して止む。
代りし豊橋は佐々木のコントロールを失せると打たれまじと焦慮せるに乗じて四球を得る事六個、打者一巡して走馬燈を演じ、一挙三点を加ふ。
第二回岐阜攻めて得点なく将に豊橋の攻撃に移らんとせし時驟雨激しくして到底試合を続行する能はざるより午前九時四十分、審判官は一時休憩を命じ、午後晴天とならば試合を続行すべく宣告したるも、降雨やまず止むなく中止と決したり。四日朝晴天ならば此試合を続行し、引続き第三日の試合を挙行するはずなり。
八月四日
昨日の台風名残なく晴れて吹く風肌に快よく、一日の雨に傷んだグランドの修理を終った後、その乾燥を待って午前十時から昨日の岐阜中学対愛知四中の試合を引続いて行はれた。
岐中10200 −3
四中30505A−13
岐中大敗す、五回ゲームにて四中の勝利
午前十時花井(球)久野(塁)両氏の審判にて、第二回の裏豊橋の攻撃より開始せらる。スコアは三対一なり。 豊橋四死球に二死満塁となりしも無為の後を承けて第三回、岐阜大いに振い、主将細田右翼に快球を送り三塁打となり、佐々木のバント悪しくして本塁に刺されしも岐阜軍の意気俄かに昂り、小川左翼飛球に死したる後、桑原死球、野村の中堅安打に満塁となりし折、吉田の一撃右翼への二塁打となって佐々木、桑原勇躍して生還、ここに両軍同点となる。
その裏佐々木の肩依然定まらず四死球のあと村井の左翼安打に一点、爾余の打者すべて内野に凡球を送りしに岐阜の内野手あせってことごとくフアンブルし、一挙に五点を奪はる。
第四回岐阜再び豊橋の調子を下せるに乗じ二死満塁に迫りしも効ならず。
第五回は三者凡死して豊橋の攻撃に移る。小栗二塁越の安打し、塩瀬は直球三塁の失、村井四球にて満塁となり押出しにして一点、夏目は中堅飛球に一死となりしも金田三塁遊撃間に安打して塩瀬、村井の両者生還、伴の三塁ゴロ三塁手本塁に低投して馬場生還、更に金田の三塁に進むを制せんとして捕手の投ぜし球高く、豊橋はここに一挙五点を得て計十三点となり、十点の差を生ぜしに依り、ここに試合終結の令下り五回ゲーム十三アルフア対三にて岐阜中学の大敗となりたり。
時に午前十一時三十分。岐阜中学の大敗は技倆の差と佐々木投手の不出来に依り、止むを得ずとするも、一度同点迄こぎつけしはなかなかのお手柄なりき。
東海大会の試合結果
第一次戦 明倫中 10−6 曹洞三中
愛知一中 5−0 愛知四中
岡崎師範 18−4 愛知工業
岡崎師範 4−0 三重四中
愛知一中 25−0 四日市商
曹洞三中 16−9 愛知五中
愛知四中 13−3 岐阜中
岐阜中 (棄) 愛知二中
明倫中 (棄) 愛知二中
愛知工 4−3 三重四中
愛知五中 2−1 四日市商
二勝者戦 愛知一中 13−0 明倫中
岡崎師範 (不戦勝)
決勝戦 愛知一中 14−1 岡崎師範
全国大会で愛知一中が初優勝
全国大会で愛知一中は一回戦で長野に四対三で敗れたが、敗者復活戦で和歌山中に一対〇で勝ったのに勢いづき、いずれも一点差で四試合を勝ち抜き、優勝戦で関西学院を敗り全国制覇した。
なお、このため
敗者復活という変則的な試合方法は、この大会を最後に廃止された。
またこの大会から会場を鳴尾(西宮)に移し、入場式を取り入れた。
東海大会はしばらくは愛知一中時代が続き、この年から四年連続出場し、第七回明倫中、第八回は名古屋商業に譲ったが、あと、また三年連続出場した。
大正7年度(1918年)
第4回選手権大会(大正7年・1918年)東海大会
夏の大会 第十五回東海五県連合野球大会(第四回全国中等学校優勝野球大会東海大会)は、八月一日から岐阜中学の校庭で行われた。
四中は一回戦、四日市商業に二十三対一で大勝したが、二回戦で愛知一中に二十対〇で大敗し、二次戦に残ることができなかった。この大敗に、校友会誌では「未曾有の大敗を招き、先輩の恩顧に背き校友の好意をなみす生徒の罪死にあたいす。特に部報を省き謝罪の意を表す。」とあり、試合記録を掲載しなかった。
(新愛知)東海野球大会は一日午前八時四十五分より岐阜中学校庭に催された。連日の炎暑煌くが如きにも屈せず、大会第一日のこととて戦ふ者見る者等しく意気昂り、服部岐阜市長の始球式に大会の序幕は開かれた。
豊橋 3630164−23
四日市0000100−1
豊橋大勝す (四日市商の大敗)
豊橋中学対四日市商業の試合、長屋(球)河井(塁)両氏審判の下午後三時豊橋の先攻で開戦。若年選手多き四商もとより豊橋の敵にあらざるべしとは予め推測に難からざりしが、戦始まるや四商の守備の技倆は吾々の意表外に出で、内野球に対して防ぎ切れず、打てば必ず一塁に達するという有様にて、投手七家の最後迄敢闘して時々インドロップを投げ、捕手市川と孤軍奮闘したるは健気なりしも、打てば失するといふ有様にて、豊橋方は第一回三点、第二回六点、第三回三点、第五回一点、第六回六点、第七回四点と得点を重ね、七回迄に二十三点を得たるに、四商は第五回四死球の押出しにて一点を得しのみ。
結局第七回二十三対一にて豊橋中学の勝利となり、悪戦三時間、午後六時閉戦せり。
〔概評〕豊橋は勝つには勝ったが、安打僅かに五本とは心細い、却って打撃の薄弱を示したものといってよい。四日市商は物になっていなかった。あの大敗も止むを得まい、豊橋も三、四回頃から大分調子を下していたが何にしても気の毒の至りであった。
八月三日
東海連合野球大会の第三日は三日午前八時四十分より開始、連日の炎暑にも臆せず、殊に愛知一中対豊橋中学の試合は今大会の優勝権を定むべき、注目の焦点となっておることとて、名古屋、豊橋等より此一戦の観覧に望者多く、競技場の両側、右翼側は勿論、三塁側の校舎も人に埋められて、大会随一の賑ひであった。
一中1439120−20
豊橋0000000−0
一中の快捷 豊橋中学の大敗
愛知一中隊豊橋中学の試合は今大会、関ヶ原と称せられ、豊橋の応援隊は一塁側に白旗、蓆旗を翻し、一中の応援は三塁側にありて声援し、緊張の色満場に漲り始まらんとする激戦を待つものの如し、両軍の練習終りて開戦令の下りしは午後三時三十分。 石井早大選手球審、伊藤氏の塁審なり。
愛知一中先攻し第一回小島(島)四球に出で、小島(憲)のバント一塁二塁間をゆるく抜いて絶好の安打となり、小島(島)一挙に三塁迄至り、安藤とスクイズプレーを図りて失敗せし捕手の投球三塁に高く却って一点を得。
第二回日比四球にで、後藤の犠牲打に送られ、大島四球、小島(島)左翼に安打して満塁なる時、小島(憲)のゴロ三塁左翼の連失に二点、捕手の逸球と加藤の中堅安打に更に二点を得四点を算したるに、豊橋は第二回に塩瀬が中堅に安打せしのみ。
第三回愛知一中無死にて四球四個を得て一点を得るや、馬場は金田(弟)にプレートを譲りて右翼に退きしが、安藤の遊撃ゴロ三塁悪投に二点を加へ京八点となり、第四回に入りて豊橋方は投手の弱球と陣容の混乱甚しく、一中四個の四球と六個の失策、二個の安打に打者十三人を立て、一挙九点の多きを得られ、再び馬場を投手とせしが、第五回には右翼垣越の三塁打あり一点を加へ、その裏豊橋は金田(弟)四球に、征矢野の投手ゴロ遊撃の失に無死にて一、二塁に走者控へしも、三者三振に屠られて三塁に進む能はず、徒らに小島の強球に制せらるるのみ。
一中は更に第六回敵失と小島(島)の安打に二点を加へ、豊橋馬場左翼飛球の失に出で、二塁を盗みしが山田三振して一中の守備は牢として抜けず。
第七回はそのまま終りて、豊橋は昨年の如く一人の三塁に進む者なく、今年は二十対零の大スコアーを残したるぞ無残なる、午後六時四十五分終れり。
〔概評〕期待された豊橋対愛知一中の試合も、極めてあっけない二十対零のスコアーを残すに至った。豊橋方は投手の成績面白からず、愛知一中の猛打を蒙るに至って、其陣は崩れに崩れて、二塁手の如きは失策続出という有様で十四個の失策を出すに至っては、二十対零、泣くに泣かれぬ大敗である。今年愛知一中の勝利は予想せられた處であったが、このスコアーは意外であった。豊橋の守備に於てバッテリーと二塁が劣ったのが目立った。
東海地区代表は、愛知一中が十三対三で明倫中を敗り全国大会に二年連続出場した。
全国大会は、選手は大阪入りしていたが、
米騒動で市内は無警察状態で、朝日新聞は八月十七日社告で中止を決定した。
大正8年度(1919年)
第5回選手権大会(大正8年・1919年)東海大会
夏の大会 第十六回東海五県連合野球大会大会(第五回全国中等学校優勝野球大会東海大会)は、八月二日から大垣中学校校庭で開催された
一回戦は滋賀師範が棄権、二回戦は大垣中学に十対三で敗れ、成績は低調であった。
(新愛知)第十六回東海野球大会は八月二日大垣中学校庭に催された。連日の早朝晴れて四囲の山々紫に白雲揺曳す。大会は競技場の乾くを待って午前十一時二十分名和大垣中学校長の始球式あり、直ちに大垣中学対四日市商業の試合を開始す。
四中不戦勝
滋賀師範対愛知四中の試合は滋賀師範の棄権に依りて四中は戦はずして勝利を得た。
八月四日
東海野球大会第三日(四日)は三日夜驟雨ありて競技場乾かず、加ふるに陰晴定まらずして時々驟雨あり漸く午前十一時より第一回戦大垣対四中の試合を開始した。
四中0000003 −3
大垣1500022A−10
共に一勝者同志なる大垣中学対愛知四中の試合は午前十一時より池永、仲両氏の審判にて、四中の先攻にて開始されしが、四中の投手大谷四死球を続出し、第一回四球と投手の失策に一点、第二回には四個の四死球を連出し、塩瀬と代りしも同じく四球続出して、其素姓良き速球は小川に左翼を貫かるるあり、前後七個の四死球にて一挙五点の多きを得らる。
四中は竹中の投球に対して可成りの当りを見せ、第一回伴、金田内野安打に出で、塩瀬安打したるも不正打球を宣せられて得点を得ざりしが、大谷の球は第六回に至りて又乱れ四球の押出しにて二点を得られ八対零の大差を生ずるに至る。四中奮起第七回二死後、伴、金田シングルし征矢野、塩瀬続いて左翼に二塁打を飛ばし三転を得たるは痛快なりしが、其裏又もや四球と小川のシングルに二点を加へられ、規定に依り七回戦十A対三にて大垣中学の勝利となる。大垣は之にて優勝戦に加はるの資格を得たり。
〔概評〕四中は四死球の連出に依って敗れた。大垣は相変らず打撃不振であって得点の多くも四球の押出しに依るものである。四中の敗一掬の涙なき能はず、打撃では四中流の元気を見せて可成りの成績をみせた。
東海大会は、愛知一中が十九対一で岐阜を敗り、三年連続して全国大会に出場した。
全国大会は神戸一中が優勝。全国予選参加一三四校。
大正9年度(1920年)
第6回選手権大会(大正9年・1920年)東海大会
夏の大会 第十七回東海五県連合野球大会(第六回全国中等学校優勝野球大会東海大会)は、八月五日から四日間、四日市商業の校庭で行われた。
四中は一次戦の一回戦で山田中学に十対二、二回戦は四日市商業に十三対二と大敗し、一勝をも上げ得ず、四中野球部の低迷時代に入った。
一回戦 八月六日
(新愛知)東海野球大会第二日の六日は朝方降雨があったが、間もなく止み薄照りの日和であった。山田中対愛知四中の試合が最初として午前八時から試合に入る。
山田2233000−10
四中0001010−2
山田中学対愛知四中の試合は午前八時十分、山本(球)松村(塁)両氏審判の下に山田の初攻で開始、四中方は投手の球に球速無く、山田打撃振ひて一、二両回各二点、三、四回各三点を入れて計十点を得。
四中は敵投手北島の投球に打撃を封ぜられて三振又三振、外野球すら飛ばず、四回と六回に敵失を利して一点宛を入れしのみ、十対二、七回にてコールドゲームを宣せられ山田中学の大勝となる。山田中学は彦根中学に対する不戦勝とにて二勝者となり優勝戦に加はる資格を得たり。
〔概評〕愛知四中は昨年の様に振は無かった。投手も球速の無い上にプレートに生気無く、山田方の為に兎たれ内野の失策も多く、一方打撃面でも打ち得なかった。山田は元気であった。
二回戦 八月七日
四日市商20344−13
四 中 00020−2
四日市商業対愛知四中の試合は七日午前八時十分より、猪内(球)沢山(塁)両氏審判にて挙行、四中は依然として振はず、四商は打撃不振なりしも一回二点、三回三点、四、五回各四点を入れ計十三点となり、四中は四回二点を得しのみ、十三対二にて准試合となり四日市商業は之にて二勝者となる。
東海地区代表決勝戦は雨中の決戦となったが、五回雨が激しくなりコールドゲームとなり、愛知一中が七対一で四日市商業を敗った。
愛知一中は四たび連続して全国大会に出場。
全国大会には、代表十五校が参加、関西学院が優勝。
大正10年度(1921年)
第7回選手権大会(大正10年・1921年)東海大会
夏の大会 第十八回東海五県連合野球大会(第七回全国中等学校優勝野球大会東海大会)は、二十校が参加して七月二十九日から第八高等学校校庭で開催された。
四中生徒はこの日午後汽車で熱田駅まで行き、八高までの長い道のりを歩き、近くの旅館明治館に宿泊した。一回戦不戦勝、二回戦愛知五中と対戦したが、接戦の末五対四で惜敗した。
(新愛知)東海五県連合野球大会第四日は、八月一日午前八時半より第八高等学校校庭に於て引続き一勝者戦を続行せり。
五中100201010−5
四中020001010−4
愛知五中対愛知四中の試合は午後一時半開始両軍の技倆匹敵し、五中は投手よく奮闘し、しかも四中はしばしば当りよき安打を見せて接戦したり。
五中一回敵失に一点、四中二回二個の安打と敵失に二点を得、五中は四回倉橋の左翼三塁打、坂野の右翼二塁打と一塁の三塁暴投に二点を得、六回更に両軍共に一点宛を加へて四対三となり、八回五中無死満塁となりて右翼犠飛に一点、なお機会ありしも入らず、四中又その裏山本、大林の安打に一点を得、好機を掴みしもバンデイングに出でずして尚一点を敵に輸し、息をも継がせぬ接戦を演じ、九回五中無為の後、四中最後の攻撃にて二死後川合安打し三盗に成功せしも、小川の遊匐に終り五対四の接戦にて愛知五中の勝となる。午後四時半閉戦(審判安宅、小沢)
之にて一勝者戦全部を終り、二勝せし学校は愛知一中、静岡中学、明倫中学、大垣中学、愛知五中となる。
東海地区代表は、明倫中学が三ー〇で愛知五中を敗り初出場。常勝愛知一中は二次一回戦で明倫に敗れた。
全国大会優勝校は和歌山中学。予選参加校は二〇七校。
三河オリンピック開催 初優勝
豊橋中学の成立(大正十一年四月)
愛知県下の中学校入学志願者数は、明治期から大正期に入ると年々増え、大正中期以後になると益々増加の一途をたどり、県は中学校の新設に力を入れた。
大正七年、県立第六、第七、第八の三中学校が新設され、また私立の県立移管等で大正十一年四月、県立中学校から第八中学校までの八校が所在地の名称を冠した新校名に改められた。
愛知県立第一中学校 愛知県第一中学校 (第一中学校のみは「愛知県立」の「立」を省いたのみであった。)
〃 二〃 〃 岡崎〃
〃 三〃 〃 津島〃
〃 四〃 〃 豊橋〃
〃 五〃 〃 熱田〃
〃 六〃 〃 一宮〃
〃 七〃 〃 半田〃
〃 八〃 〃 刈谷〃
なお、豊橋第二中学校は県立十三番目の設立で、大正十五年四月開校した。
大正11年度(1922年)
前年度後半活躍したメンバーは、今年度に入っても強く、五月十九日、本校に愛知一中を迎えて五対二と敗り、六月には浜松中学に遠征これも五対一と敗った。
第8回選手権大会(大正11年・1922年)東海大会
夏の大会 第十九回東海五県連合野球大会(全国中等学校野球大会東海大会)は七月二十九日から、八高、熱田中学の校庭で行われた。
東海大会に必勝を期し、選手一同七月十九日、学期試験終了と共に寄宿舎に合宿。慶応大学から迫水兵策氏をコーチとして迎え、先輩も東京から塩瀬、大場、関、伊藤等、地元から牧野、征矢野、河合、小川等も来援し、猛練習の十日間が続いた。
豊橋中学は、一回戦富田中学と二対二のドロンゲーム、再試合は富田の棄権。二回戦山田中学を敗り、準優勝戦にのぞんだが、惜しくも名古屋商業に八対七の僅差で敗れた。
第一勝者戦 七月三十日 熱田グラウンド
豊中00001001−2
富田10100000−2 球審安宅 塁審青山
(新愛知)富中は同校先輩伊藤氏のコーチを受けているだけに投手江上のドロップ巧妙を極め、豊中は全然これが打てなくて富中の守備を侵す事が出来なかった。チーム全体としては豊中に強味がある様で、豊中も富中にこんなに苦戦するとは思はなかったろう。八回迄両軍二対二で午後七時半暮色四辺をこめて仕合の続行不可能となったからドロンゲームが宣告された。
尚仕合に富中側から審判の宣告に対し不服の抗議がでたが、理由もないところに理由をつけて味方を有利に導きたいなどの吝な根性は一切廃してもらいたい。
富中棄権 三十一日同校庭で再試合をなす筈であったが 富中側の棄権により豊中二勝者となる。
第二勝者戦 八月一日 八高校庭
山田001001000 −2
豊中000200001A−3 球審飯島 塁審丸岡
(校友会誌)この試合初めより猛烈なる投手戦を演じ、豊中大林投手の出来すこぶる良かりしも、山田中学北島投手もすこぶる猛者にて強肩に委せて速球曲球物凄く、共に三振を喫し合い、両軍共十五宛の三振を得らる。この試合東海大会中の最も伯仲せるゲームにて、見物人をして自然に手に汗を握らしむ。されど吾軍鈴木遊撃手の奇智功を奏し(二盗、捕手暴投し球は転々の間に駿足を利し一気に本塁へ)、遂に彼を挫く。
第三勝者戦 八月二日 八高校庭
名商000060110−8
豊中122101000−7 球審小島 塁審 富永、近藤
名商辛じて捷を占む、三勝者戦に豊中敗る(新愛知)
第一回名商先攻無為、豊中山口内野安打に出で大林の安打に生還。
第二回成瀬、加藤安打名商に好機来りしも後打者三者三振又は凡打に止む、豊中上村四球、太田三塁ゴロ失に出で捕手のパスボール三塁暴投に二者還る。豊中得点計三、名商零。
第三回名商土居崎遊撃ゴロ失に出でしも樋田の遊撃ゴロにフォースアウトとなり、関三振、伊藤の二塁凡打に無為。豊中鈴木四球、河合左翼安打、森の投手ゴロに鈴木三塁に死に、山本の遊撃ゴロを成瀬失策し河合生還、上村の三塁ゴロを三塁手失して森還り太田の三振に終る。
第四回名商無為、豊中一死後山口二塁打、河合の安打に一点、豊中合計六点。
第五回名商鈴木、栗田二塁三塁を襲い土居崎の内野安打に満塁となり、樋田の二塁打左翼手エラーして三者生還、樋田捕手の逸球に還り、伊藤四球加藤の二塁ゴロ失に伊藤還り、中島中堅安打し加藤生還この回名商六点を占め同点となる
第六回名商無為、豊中一死後松井四球に出で二塁を盗まんとせしもならず山口、鈴木共に四球を得て河合の安打に山口生還、豊中に好機来りしも大林の三振に終る。
第七回樋田投手を誤らせ、関三振後二塁に刺され、伊藤二塁失、成瀬、加藤四球に満塁、中島四球を得て成瀬押出され名商一点、豊中零。
第八回土居崎内野安打、関の中堅飛球を中堅手失し土居崎生還、成瀬の二塁を抜く快打に関本塁を衝きしも中堅手の好投に得点をなさず、豊中零、名商豊中に一点を勝越す。
第九回名商無為に退きし後、豊中最後の攻撃にうつる、強打者大林二塁を強襲するも及ばず、森のバウンド、山本のファウルフライに万事休す。八対七名商勝つ。
東海地区代表は名古屋商業が九対三で明倫中学を敗り初出場。
全国大会は和歌山中学が昨年に続き二連勝。
十四戦十勝 太田 稔
当時の主将太田稔氏は、校友会誌に「部を去るに当って」と題して次のように記している。(抜粋)
此の一年間には随分戦った。今迄に例がない程に…十四戦十勝と云う結果を作った。其主なるものは二師範、渥美教員、曹洞中学、浜松師範、四日市商業、愛知一中、浜松中学、富田中学、山田中学、岡崎中学、名古屋商業等であった。先づ一中に勝ったのは永久に頭から離れない。部を去るについても感慨深い思ひ出である。
今春三月名古屋新聞社主催中部日本野球大会における鈴木君の奮闘、一中戦において大林、上村君の活躍、今夏大会における河合、山口両君の健闘等走馬灯の様に私の頭に浮んで来る。かう考へて来ると今年は近年になく幾多の戦績を踏んだ事を痛快に思ふ。是実に選手諸兄の結束と校友の絶大なる応援との賜物である。かかる時に部に籍を置いた私は非常に幸福であったと信ずる。然てもう再び豊中選手としてあのグラウンドに立つ事は出来ない。
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