■第1回選手権大会(大正4年・1915年)の東海5県連合大会 ”準優勝”
東海5県連合大会は、愛知一中・斐太中を破り、優勝戦は三重県の山田中と対戦したが、5:4
で惜敗し、記念すべき「第1回選手権大会」に出場出来なかった。
「第1回選手権大会」に出場した山田中は、初戦に秋田中と対戦、9:1 で破れ、優勝したのは「京都二中」であった。
東海5県連合大会(準優勝) |
. |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
計 |
. |
愛知四中 |
山田中 |
. |
愛知一中 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
0 |
1 |
3 |
6 |
守備 |
選手名 |
打数 |
得点 |
安打 |
三振 |
四球 |
盗塁 |
失策 |
残塁 |
守備 |
選手名 |
打数 |
得点 |
安打 |
三振 |
四球 |
盗塁 |
失策 |
残塁 |
愛知四中 |
0 |
1 |
3 |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1A |
7 |
2 |
牧野 |
4 |
1 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
1 |
2 |
菊川兄 |
5 |
1 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
. |
愛知四中 |
5 |
3 |
4 |
5 |
1 |
7 |
4 |
. |
. |
29 |
4 |
今泉 |
3 |
0 |
0 |
1 |
2 |
1 |
0 |
2 |
3 |
置塩 |
5 |
3 |
3 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
斐太中 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
. |
. |
0 |
1 |
下山 |
4 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
1 |
西川 |
5 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
優勝戦 |
愛知四中 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
3 |
4 |
5 |
小栗 |
5 |
0 |
1 |
3 |
0 |
0 |
2 |
1 |
6 |
沢山 |
4 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
山田中 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
A |
5 |
6 |
小野田 |
5 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
7 |
堤 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
東海5県連合大会の出場校は
愛知一中・愛知四中・富田中・
山田中・岐阜中・斐太中 |
3 |
早川 |
3 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
5 |
前納 |
4 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
2 |
7 |
馬場 |
3 |
0 |
0 |
2 |
1 |
0 |
1 |
1 |
8 |
田中 |
3 |
0 |
0 |
3 |
1 |
0 |
0 |
1 |
9 |
村井 |
3 |
1 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
9 |
菊川弟 |
4 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
8 |
久田 |
4 |
1 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
鷹森 |
4 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
計 |
34 |
4 |
4 |
9 |
7 |
2 |
5 |
9 |
計 |
38 |
5 |
7 |
8 |
1 |
2 |
4 |
7 |
記念すべき第1回選手権に出場した山田中は 9:1 で秋田中に敗退。
優勝は秋田中を 2:1 で破った京都二中。 |
東海五県連合野球大会の前評判(新朝報)
本大会は三重二中(富田中)校庭にて八月十日から開催。同大会はその名称に示す如く滋賀、三重、岐阜、愛知、静岡の五県下各中等学校連合主唱の下に成立せしものにて、全国におけるこの種の大会中最も古き歴史を有しおりしが、数年前よりある事情のために静岡県の各学校は殆ど出場せず、滋賀県もまた本年より同県知事の訓令に依り京都を除く他府県と対抗試合をなす能はざることとなりしとかにて一校をも送らざれど、今次の大会に参加し覇権を争はんとするチームは七校あり。同大会後大阪朝日新聞社主催の全国優勝大会もあることとて各チームの意気まさに天を衝くの概あり。
現に愛知一中は花井早大選手、岐阜中、斐太中は横山早大選手、三重二中は橋本旧早大選手のコーチを受け、その他の三校も帝大或いは高等学校等に在学中なる先輩の指導を受けつつ、去月下旬より何れも猛烈なる練習をなしつつあり、殊に本年は各チームの技倆著しい懸隔なく、攻守共に実力伯仲なるものの如くなれば、定めし最後まで緊張せる好試合の連続を以て終るべし。
夏の大会と東海五県連合野球大会
朝日新聞社主催の第一回大会予選と、第十二回東海五県連合野球大会を兼ねた大会は、優勝戦まで進んだ。
愛知一中に勝つ
実力伯仲のなかで試合が行われ、第一日第一試合山田中対岐阜中は四対一で山田中が勝、第二試合の四中対愛知一中は接戦の末四中が七対六で勝ったのである。
午後四時横山、長屋両氏審判の下に一中対本校の試合開始す。此れ本年に入りて第三の会戦。然も一勝一敗の成績、是が非でも勝たざる可からず。意気頓に昂る。
一中先攻す。
第一回表。松山二塁ゴロ伊藤宗、花井共に三塁ゴロで終る。
裏。牧野遊撃飛球、今泉又遊撃ゴロに死し、下山立ちて中堅越しの二塁打に出づ。しかし小栗敢なく三振にて終る。
第二回表。小川四球に出でしが長谷川、伊藤太凡打し、伊藤慶三振にて終る。
裏。劈頭小野田左翼越の本塁打を飛ばして大いに気をはく。されど次打者凡死。先づ一点を先んず。
第三回表。福田、三輪共に三振、松山中堅に打ち、久田の名を成さしめしのみ。
裏。久田四球に出で牧野三振、今泉遊撃を突きて生く。下山又中堅に安打し、久田本塁迄暴進して死す。小栗二塁を抜く安打に出でて今泉、下山生還、小野田左翼の失に生き、早川遊撃を抜く安打に出で満塁となる。馬場タイムリーヒットを二塁に放ちて小栗生還。されど村井左翼に飛球を上げて終る、合計四点。
第四回表。伊藤宗遊撃に打ちて生き、花井三塁に打ち、小川遊撃に打ちて死す。その隙、伊藤生還。長谷川Pゴロに死し、伊藤二塁飛球で終る。
裏。久田三塁を突きて死す。牧野中堅オーバーヘンスの本塁打を飛ばし、悠々生還す。されど今泉下山共に凡打、此の回より花井投手に、小川捕手に、長谷川一塁に変る。
第五回表。伊藤慶二塁の失に生く。福田バントし、三輪遊撃に打ちて其の隙に伊藤生還。松山中堅飛球に終る。 裏。三者共に凡死す。
第六回表。伊藤宗右翼に上げて死し、花井左翼を抜く二塁打に出でしが、小川一塁に、長谷川二塁に打ちて終。 裏。馬場二塁を抜く安打にで出でしが、惜しくも二塁に突進して殺さる。村井、久田共に三振。
第七回表。三者共に凡死。
裏。牧野自重し過ぎて三振し、今泉遊撃の失に生く。下山再度中堅越しの二塁打を飛ばして今泉入塁。小栗Pフライ、小野田遊撃に打ちて終る。
第八回表。三輪Pフライに死す。松山右翼オーバーの二塁打に生く。伊藤宗三塁に打ちて死す。花井三塁を襲ひて其の失に依り松山生還。小川左翼に上げて終る。
裏。馬場中堅へ安打せしのみ、三者共に凡打す。
第九回表。長谷川遊撃の失に生く。伊藤太三振、伊藤慶四球、福田三振、三輪投手を抜く安打に出で、長谷川、伊藤共に生還。松山中堅越しの二塁打に出で、三輪生還す。伊藤宗遊撃飛球して終る。同点となる。
裏。久田左翼に上げて死す。牧野一塁を抜く安打に出で、今泉右翼越しの二塁打に出づ。下山自重して安打し、牧野歓呼の内に生還、遂に勝利を得たり。ああ吾等は遂に三回戦に於て勝つ。喜び何に比べんや。凱歌を挙げて帰る。得意思ふべし。
四中、斐太中にも勝つ
第二日目の第一試合富田中対斐太中は十二対二で富田が勝、第二試合愛知一中対岐阜中は九対八で愛知一中の勝、第三試合の四中対斐太中は二十九対〇大差で四中が圧勝した。
八月十二日午後四時より吉沢、米富の両氏複審の下に開始する。我軍先攻。
第一回。皆よく打ち五点を得、中にも早川の三塁打あり。彼無為。
第二回。又三点を得、彼零。
第三回。四点を得、中にも小栗の本塁打有り、彼無為。 第四回。五点を得、彼無為。
第五回。一点を得、彼依然として零。
第六回。七点を得、彼零。
第七回。又々四点を算し、彼零。即ち二十九対零。大会規則に由りて遂に七回に於て吾軍勝利を得遂に優勝す。ああ明日は最優勝戦と思えば寝ても寝られず。
四中対山田中の優勝戦
二勝した四中は優勝試合出場資格を得たが、一方山田中学も富田中学を十五対三で破って二勝したので、十三日午後から両中学で優勝を争うことになった。
なお十二日には各学校のキャプテン会議を開き、来年度の第十三回東海連合野球大会は、愛知四中で挙行することを決めた。
東海連合野球大会の優勝決戦は、岐中、富田を破りたる山田と、愛知一中、斐太を破りたる豊橋との間で争はるることなり、前日の戦よりみて何れが優劣とも定め難く多大の興味を以て迎へられ観戦客亦最後の決戦を観むとて午後より続々と詰掛け、両軍は巧妙なる練習振りを見せて、午後四時四十分球審橋本氏、塁審伊藤氏によりて開始せられたるが、最初より山田軍優勢七回に至り五対一にて豊橋軍稍々絶望の色を表せしが九回に至りて勢力を挽回し一挙三点を得て益々振い、勝負危まるるに至りしが、山田軍よく防ぎて五A対四にて優勝の月桂冠を得たり、山田軍の投手西川最後に狼狽して四球を続出せしも善く敵の打撃を封じるたると、外野手の活躍とは名誉の勝を得たる原因の大なるものとなるべし。
第一回
山田軍 菊川三振後、置塩左翼安打に出で、西川フライを二塁手に取られ、沢山の三塁ゴロ一塁に投げ損じて置塩生還、堤遊撃ゴロで終る。
第三回
山田軍 置塩、西川右翼ヒットに出で、沢山の犠牲球に送られ、堤のバンドに置塩生還す。
第五回
豊橋軍 小野田三塁飛球に、早川四球に村井の投手ゴロに出でて満塁となり、久田イーリガルプレーに死せしも小野田生還す。
第七回
山田軍 鷹森三振後、菊川三塁打、置塩、西川安打に出でて満塁となり、堤の遊撃ゴロに菊川生還し、前納の遊撃越安打に置塩、西川生還し五点を算するに至り、山田軍大いに振い勝色己に見ゆ。
第九回
豊橋軍 死力を尽して奮戦し、馬場三振に倒れし後、村井ヒット、久山投手ゴロに出で、牧野四球に出でて満塁となり、今泉、下山亦四球に出で、押し出しにて二点を得、小栗安打を飛ばして牧野生還し、未だ満塁の姿なりしが、小野田の投手ゴロに今泉本塁に、小野田一塁に併殺され、豊橋軍惜しくも四対五Aにて敗を招く。
優勝戦敗北陳謝の辞
戦いは五対四、わずか一点差をもって惜敗した。ことしこそはと必勝を期して出場したにもかかわらず敗れ去った。
野球部選手らは、次のごとき謝辞を「校友会誌」第二十三号に掲載して今回の敗戦を陳謝するとともに、今後の努力を誓ったのであった。
謝 辞
僕等駕鈍自ら揣らず、敢て選手の栄任を涜してより、日夜東海の覇を志し、苦心惨澹只管練習を重ぬる事茲に一歳、曩日二師範を破り、又一中に出馬して惜しくも破れぬ。されど一週間ならずして校庭に於て先輩諸兄の懇切なる御指導と、校友諸君の熱誠なる御後援とに依り、幸にも一中を退け又富田中学に出場して再び一中軍を破り、斐太軍を屠り、校名を辱しめざるを得、積年の雪辱漸く其の緒に就かんとせしも、山田との役事誤りて敗衂を蒙り、遂に往年の歴史を汚す。僕等顧みて慚愧措く所を知らず。
只それ僕等優勝の事遂に成らずと雖も、内に凛乎たる意気の存するあり、今日以後、臥薪嘗胆錬磨倦む所なく、誓って他日の報復を期す。校友諸君幸に僕等の魯鈍を憐れみ、益々督励鞭撻の任に当られん事を。敢て蕪辞を陳して諸君に謝す。
大正四年十月 野球部選手一同
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