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  明治四十年度(1907年)

 東海五県連合野球大会の規則制定

 明治三十五年東海五県連合野球大会が発足した頃から、野球は殆ど全国の中学校にも知られるようになり、東海に続いて、第二高等学校(仙台)主催の東北大会、第三高等学校(京都)主催の関西大会などが行われ、これが後の朝日新聞主催の全国大会(大正四年)の誘因にもなった。
 東海五県連合野球大会は、明治四十年八月六日、諸学校代表が会し、本会の成文の規則のないのを遺憾として、この大会の規則を協定した。これに賛同した諸学校は、愛知医学専門、岐阜中学、大垣中学、東濃中学、斐太中学、三重中学、同二中、同三中、愛知一中、同二中、同四中、明倫中学、豆陽中学の十三校。
 規則は、
 一、本会は東海五県聯合野球大会と称す。
   東海五県は三重、愛知、静岡、滋賀、岐阜とす。
 二、本会は国民的品性の涵養、体育の奨励、質素、剛健の気風を養成するを以て目的とす。
 三、本会へは東海五県の中等以上の諸学校加入することを得。
 四、本会は毎年一回八月上旬を期して開く。
 五、開催地は前年の大会に出席せる諸学校代表者の協議により之を定む。
 六、大会に関する庶務は質素を旨とし、主催校専ら之に当る。
 七、本会の趣旨に違背せするものと認めたる時は主催校に於て之を参加せしめざることを得。

 この大会は後の朝日新聞主催「全国中等学校野球大会」の東海予選を兼ねることとなり、その優勝校が東海代表として全国大会に参加した。

 東海五県連合野球大会

 第五回東海五県連合野球大会は、新しい規則に基づいて愛知一中主催で八月六日から五日間にわたり、同校校庭で開催された。参加校は愛知一中、明倫、豊橋、岡崎、津島、愛知医専、岐阜、東濃、斐太、大垣、滋賀師範、山田、津、上野、静岡、掛川、韮山、豆陽、浜松の十九校。

 四日目 八月九日
  四中(豊橋)十一ー四 上野中
 慶応の高浜氏審判者たり。
 豊橋の先攻に初まり、第一回は上野一、豊橋二の得点に終り、第二回に豊橋二点を収め、第三回に豊橋又三点を得て七点を数え、上野得る処なく、第四回に入って豊橋二、上野三を収め、爾後上野軍の気勢すこぶる振はざるに反し、豊橋いよいよ勢いを得て二点を入れ、結局十一に対する四の差にて豊橋中学の勝に帰したり。

 五日目 八月十日
  津中 九ー一 四中
 十日午前十時十分、第三高等学校の久野氏審判の下に津中対四中の試合を開始し、津中はさきに岐阜中を破りたる勢に乗じ、一挙にして敵をたおさんと衝天の意気を以て当り、四中又前日の試合に於て上野をたおしたれば英気津中に劣らず、互いに秘術をつくして奮闘せしが、第四回頃より豊橋の気勢大いに衰え攻防共に振わず失策相つづき、幾度か津中の士気に乗ぜられ九に対し一を以て津中の大勝に帰したり。
 四中は一勝一敗に終った。

 第五回東海五県連合野球大会結果

八月 六日 三重一中   六ー〇 岐阜中学
        明倫中学   二ー〇 大垣中学
八月 八日 愛知一中 十六ー四 愛知二中
        斐太中学   五ー〇 上野中学
        山田中学   五ー四 愛知医専
八月 九日 山田中学   六ー一 東濃中学
        愛知四中 十一ー四 上野中学
        岐阜中学 十二ー〇 愛知医専
八月 十日 愛知一中   二ー〇 大垣中学
        明倫中学 十八ー〇 愛知二中
        津中学    九ー一 愛知四中
        東濃中学   四ー二 斐太中学
八月十一日 愛知一中 十七ー二 三重四中
八月十二日 優勝試合
        明倫中学   五ー四 三重一中
        明倫中学   六ー三 愛知一中
 優勝試合に残ったのは三校で、明倫中学が優勝した。


  明治四十一年度(1908年)

 (校友会誌)七月二十六日、東京H倶楽部(慶応普通部生)を、校庭に迎ふ。彼にとりては昨夏の復讐戦なり。我が広田、名古屋にありて出ず。白川、一塁を守り、加藤入って右翼に備ふ。審判官風岡君。
   H軍201010010−5
  本校000003200−5

 同日午後、一師範友会、二師範友会を迎えて戦ふ
  一師範友会 五ー三 二師範友会
  一師範友会00000−0
  本    校 20303−5
    (五回にて打切り))
 一、二師範友会いずれも渥美出身者より成るもの。

 東海五県連合野球大会

 第六回東海五県連合野球大会は、愛知二中を主催校として、八月一日から四日間にわたって同校校庭で開催された。 四中は、四日市商業、曹洞宗第三中学に勝ち、優勝戦に進んだ。
 二日目 八月二日
  四中   300023222−14
  四日市商000000200−2

 (新朝報)審判田中氏、四中の先攻を以て戦いは開かれ、四中軍の勢い猛烈にて一挙三点を収め、四日市軍代わりて攻むるも振わず、四中は一瀉千里十四点を収むるに対し、四日市軍は僅か二点を得たるのみにて四中軍の大勝に帰せり。
 三日目 八月三日
  四中   013021000−7
  曹洞三中000000000−0

 三日目は午前八時より開く。この日の成績は優勝者たる運命を定むる事として、両軍の選手は最も熱心に戦へり。曹洞対四中の決戦は喝采盛裡に花々しき激戦は開始せられ、この試合は実に東海五県に誇るべきスコンクゲームに尾張を告げ七対〇の大勝にて曹洞の投手力失せて四中の投手がよく獰球につくせしと。
 ショート山田の敏活なることは実に他校に冠し、第一、二、三の何れもよく戦い、二回目四日市商の二対十四の比にあらずして大いに振いたり。
 四中は見事に二勝した。二勝したのは四中と愛知一中のみで、二校で優勝を争う事になった。
    試合結果
 八月一日 四日市商  四ー三 岐阜師範
        三重二中  十ー七 愛知二師
        明倫中学  二ー〇 愛知二中
        大垣中学  四ー二 浜松中学
    二日 岐阜中学 十二ー八 愛知二師
        曹洞三中  六ー二 三重二中
        愛知四中 十四ー二 四日市商
        愛知一中  四ー〇 浜松中学
    三日 愛知四中  七ー〇 曹洞三中
        愛知二中  十ー三 大垣中学
        愛知一中  八ー四 明倫中学

 東海五県連合野球大会の優勝戦は、八月四日、愛知一中と愛知四中との間で行われた。
 四中にとって一中は、年来の宿敵であるとともに、これまで一度もかったことのない強敵であるだけに、今度こそは是が非でも勝たねばならぬ決意に燃えたのであった。
 だが試合は両軍共バッテングは良好だったが、豊橋軍ミス続出したのが敗北の原因となった。

  愛知一中対愛知四中優勝戦

 (校友会誌)八月四日、名古屋一中と見ゆ。彼は浜松、明倫を破り、我は四日市、曹洞を破り、共に優勝者たり。正に本日を以て、東海五県の最優勝を争はんとす。
 慶応勝、早稲田長屋両氏審判たり。午前十時三十五分戦を宣す。

  一中 120200130−9
  四中 000000100−1

 第一戦、近藤悠々長棒を狙ひて立ち、一撃直に遊撃三塁間を抜けば、七原絶好のバンドを三塁ラインに送りて出て、敵軍の色動く。新立つや、弱球投手に至りて近藤三塁に憤死す。而も未だ一死なり。強打平尾、飛球に左翼を襲ひ、七原既に三塁にあり、何事ぞ、新逡巡して二塁に徒死せんとは。広田遊撃にグラウンダーを打つと雖も、一塁にたほれて得点なし。一中中嶋四球を利し、野々垣三振に生く。島田のグラウンダー三塁に至り、中嶋本塁にたおれしと雖も、神谷また三塁をついて野々垣生還す。新球を一塁に送りて神谷を刺し、広田、平尾に投じて島田を合せ間一髪殺す。
 第二戦、白川死球に出で、杉浦、山田のバンドの三塁に達せしも後援続かず。一中川村安全球に、村瀬投手を失せしめて出で、北村の左翼フライに遂に二点を占む。
 第三戦平凡。
 第四戦、村瀬、北村我が失に乗じて生還し得点合せて五。
 第五戦、六戦無為。七戦山田四球に進み、近藤の猛打三塁を破るに及んで生還せしと雖も、一中中嶋安全球に出でて、神谷の安全球に本塁に入り、一中六我軍一。
 第八戦、第九戦、我が最後の悪戦苦闘も、機去りて如何ともするなく、加ふるに軍陣乱れて更に三点を奪はれ、遂に九対一を以て敗れ終んぬ。鳴呼、宿敵一中の為に謀られて三度辱を受く。彼が老獪なる、事になれざる我が少壮のチームを惑乱し去りて、守備に、攻撃に、功なからしめたるなり。されど三度の敗、讎は報ゐざるべからず、辱は雪がざるべからず。起てよ、力めよや。来夏、金城の地に会する日をして、願くば報復の時たらしめん哉。

  一高野球(母校の選手活躍)

 野球を広めた始祖ともいうべき一高は、明治三十年代から大正初めにかけて、三高と共に学生野球の花形として君臨していた。我が四中は、早くから一高野球を学び、コーチにもしばしば招いていた。
 母校からも戸田保忠(六回卒)風岡憲一郎(八回卒)村井操(十三回卒と同期)伊藤武雄(十四回卒)らが一高の球史を飾った。これら先輩はまた母校野球部のコーチとして第二期の黄金時代を築きあげてくれたのである。 一高対三高野球部史の中から(明治四十一年四月九日一高対三高三回戦 二Aー一で一高勝)
 一球血を吐く戸田投手 この勝因は一にかかって投手戸田保忠の好投と、一高軍の統率にあった。前年の弱体投手は全くここに別人の如し、正確なコントロールをつけた曲直臨機の投球に、三高打者の健棒をくじき、一高の守備を泰山の安きに置いたのである。―中略―
 それにしても僅か一年にして、輝かしい勝利投手の栄冠をかち得た、戸田投手の精進と云うものはどうであろう。これこそ一高野球の伝統的精神のみが、よく為し得るところであろう。
 元来戸田選手は、一年生の当時は左翼手だったが、第一回の三高戦後、嶺田丘造選手が退部してしまったので、その年の早慶戦には一塁手となり、次いで投手となって、野球部再建の十字架を背負わされたものなのである。
 中堅から捕手へ、風岡選手 田代氏の豪放無類の人となりとコントラストを為すのが、田代選手の負傷で捕手を譲られた風岡憲一郎で、後に電気工学会の第一人者となった学者だけに、秀才肌の緻密な頭脳の持主で、帝大当時向陵に通ずる校庭を、三時になると部厚な洋書を読みながら、コーチに現われる。風岡がきたから三時だと云うわけだが、選手を待つ間に寸刻でもベンチに掛けて、書物から眼を離さないという人であった。後年鴨緑江ダムの発電機設計者として朝日文化賞を受け、電機技術者として世界的にも名を知られた人である。好学的な几帳面な性格は、秀才型選手の一つのタイプと云えるであろう。
 大正四年四月の一高対三高戦のメンバーをみると(一高六対〇で勝)
 村井操、伊藤武雄の先輩の名があるが、村井さんは投手芦田、捕手平山氏等を伴って母校のコーチに任じ、この年は全国大会に進めることができなかったが、翌年夏も、今度こそと必勝を期してコーチされ、全国大会へ出場することができた。
 村井氏は大昭和製紙に進まれ、ノンプロ界で幾度か優勝を重ねて、大昭和の名を不動にした。

  明治四十二年度(1909年)

 東海五県連合野球大会

 第七回東海五県連合野球大会は、八月一日から五日間にわたり、津中学の校庭で行われた。
 四中は二戦二勝して準優勝戦に臨んだ。
 八月一日 斐太中学  三ー一 富田中学
        彦根中学  六ー一 神宮皇学館
        愛知一中 四Aー三 愛知二中
    二日 曹洞三中  五ー三 三重工業
        山田中学  四ー二 彦根中学
    三日 愛知四中  六ー三 斐太中学
        愛知一中  四ー三 津中学
    四日 愛知二中  四ー二 岐阜中学
        三重工業  五ー二 三重師範
        愛知四中 十一ー八 神宮皇学館
        山田中学  十ー二 富田中学
    五日 曹洞三中  五ー二 三重師範
        岐阜中学 十Aー四 津中学
    六日 優勝試合
        曹洞三中  五ー四 山田中学
        愛知四中    ー   愛知一中(棄権)

 八月三日
  四中六対二で勝
 (新朝報)愛知四中対斐太中学の対戦は、斐太軍の振はざる甚だしく、四中は、一、三、四、五の四回に凡て六点を得たるが、斐太中は四、六回に各一点を収め、結局六対二にて四中の大勝に帰したり。

 この日の午後行われた愛知一中対津一中の試合は、接戦の末四対三で愛知一中の勝利に帰したが、この試合開始前より愛知一中と大会主催校たる津一中との間に審判官問題でもめごとがあり、試合後もなおそれが尾をひき面白からざる空気がみなぎっていた。
 八月四日
  四中十一ー八神宮皇学館
 愛知四中と神宮学館との試合は、四中方は凡て十一点を収め、皇学館はは八点にて皇学館の敗陣になれり。 今日迄の全勝校は愛知一中、四中、山田中なり。

 八日午後には明八日目の優勝試合に関する主将会議があり、準優勝戦の組合せを曹洞宗第三中学林対山田中学、愛知一中対愛知四中と決定した。

  二校の試合放棄
 だが愛知一中は、津一中との間に起きた審判官問題のもつれをいよいよ深め、遂に対四中戦を放棄して帰校した。また曹洞宗第三中学林は、予定の通り山田中学と対戦してこれを五対四で破ったにもかかわらず、相手を失った愛知四中と優勝戦を行うべしとの命令を受けたことを不服とし、これまた試合を放棄して帰校した。
 これらの事情は「新朝報」の記事に詳しい。

  野球大会の破裂最後の決戦をみず
 既報の如く東海五県聯合野球大会は、去る六日を以て優勝試合を行ひ、最優勝校には伊勢新聞社寄贈の優勝旗を授与せんとの予定なりしも、審判官の件につき津中学本部と愛知一中と譲合はず、事遂に破談となりぬ。其顛末を記さんに、津中は慶応小山氏のコーチを受けたる事とて一にも慶応、二にも慶応てふ始末にて、当日の審判官も箕輪、村上、小山の三氏と決定せり。愛知一中方にては先日の二試合に於て小山、村上両氏が公平を欠きたる審判の為に非常なる逆境に立ち、殊に対津中側の観者すら其の余りに不公平なるを憤りし程なれば、今回とても到底かかる審判の下に責任ある試合を為すべくもあらず。再三審判官の変更を懇請したりしと雖も、津中本部は専任の権を主張して応ぜず、小山、村上両氏も亦自らその位置の退くの意なかりしかば、愛知一中は断然兵を収めて帰途につかんことを決せり。
 又第一回曹洞宗中学林対山田中学の試合は五対四の結果をもって首尾よく中学林の勝利に帰し、慶応方の立策まず瓦壊せしが、村上氏は中学林選手に要求するに直ちに愛知四中と決戦試合を行ふことを以てせり。然れども中学林選手は既に三勝の結果を収めながら、二勝の四中に当るは不服なりとして更に応ぜず、これ亦矛を収めて帰途に就くこととせり、ここに至って後に残されし愛知四中のみとなり、伊勢新聞社寄贈の優勝旗は宙ぶらの形となれり。知らず此の責は何人に帰すべきか。
 かくて、慶応一辺倒の本年度大会運営責任校津一中の推す審判官に端を発した愛知一中の試合放棄、それに関連して三勝した曹洞宗中学林の、二勝した愛知四中と優勝戦を行うことの不合理さを理由とした試合放棄、あとに残された愛知四中の立場はすこぶる奇妙なものとなり、大会そのものも前代未聞の優勝戦のない大会として終ったのである。


  明治四十三年度(1910年)

 四月二十四日、愛知一中の校舎新築落成祝賀野球大会が行われ、四中は一中と戦った。
  愛知一中九Aー四愛知四中
 (一中野球部史)今歳、花笑ひ鳥歌ふ弥生の頃、老将中島、北村、神谷の三士を失ひたる一中野球部は、新進気鋭の勇士を以て愛知四中と、四月二十四日、一中校庭に激戦す。審判は八高生菱田鑒二氏、午後二時半戦の火蓋を切る。結局九A対四にて一中の勝利となる。

 東海五県連合野球大会に四中は不参加

 明治四十三年の第八回東海五県連合野球大会は、八月一日から五日間にわたり岐阜中学校庭で行われた。参加校は、愛知一中、曹洞宗第三中学、彦根中学、斐太中学、津中学、四日市中学、富田中学、浜松中学、岐阜中学、四日市商業の十一校。
 特に四中が参加しなかったのは、前年度の苦い経験が然らしめたものであろうか。
 この大会は愛知一中だった。
 年があけ明治四十四年一月十日に、愛知一中へ遠征試合をし、延長十四回接戦の末、六対五で敗れた。続いて二月一日、愛知一中を本校に迎えて戦ったが、これも六A対五で惜敗した。
 この頃から、愛知一中とも好試合を展開するようになってきた。

  明治四十四年度(1911年)

 昨年(明治四十三年)野球部を創設した成章館を六月本校に迎え試合を行った。

  四中004032000−9
  成章000001000−1

 東海五県連合野球大会

 第九回東海五県連合野球大会は、七月二十六日から五日間四日市商業学校校庭で開催された。昨年度不参加であった我が校も参加し、第一日目に四日市商業(記録不明)。 第四日目(七月二十九日)に愛知一中と対戦、延長十二回の末四A対三で四中が惜敗している。

 夏に、明治大学が東海道遠征し、本校校庭に迎えて二対一で負けたが、大学生相手に健闘した。


  黄金時代を迎える

  明治四十五年度・大正元年(1912年)

 ことしの東海五県連合野球大会は、八月十一日から五日間にわたり愛知一中校庭で開催の予定であったが、七月三十日明治天皇が御崩御になられたので中止した。

 遠征試合 六月十二日 岡崎

  四中142120011−12
  二中200003000−5

 (校友会誌)我軍存外失多ク敵ヲシテ五点ヲ入レシメシハ惜ムベシ。投手伊藤君ノ球例ニヨリ猛、敵辟易、中原一塁手トノ連絡索制存外ヨク盗塁誠ニ尠カリシハ功ナレド、其他ノ点ニ於テ功ヲ急キシ傾向アリテ犬死アリキ。全体の成績トシテハ立派トイフニハアラズ、コノ景気ニテハ一中トハ危キモノナリ。
 選手次ノ通リ
 四中 西野、大沢、鈴木、犬飼、中原、坂井田、森田、伊藤、伊藤。
 二中 大橋、高野、横井、山田、藍原、前田、蜂須賀、渡辺、村瀬。
 午後直チニ農林と接戦ス。
 一同大イニ疲労セシモ伊藤投手益々元気ニ火ノ出ル様ナ熱球、一同元気ヅケラレテ守リ攻メ、九合ノ戦ハ十四対〇。

  安城農林000000000−0
  四 中 00614030A−14

 平凡、唯感ズベキハ伊藤投手ノ球ノ終程激シクナリシコトナリ。
 久振リデ勝利ノ顔ヲ見テ一同怒ラザル顔ヲ車中ニ托ス。

  初めて愛知一中を撃破
 しかし四中野球部にとってはもっとも記念すべきであったということができる。それは六月三十日名古屋に遠征して愛知一中と対戦、野球部創設以来勝って一度も敗ることのできなかった一中を初めて撃破したことである。それも激闘十一回の末四対二で快勝したのである。
 「校友会誌」の野球日誌には、
 吾人ハ勝ッタ、ズット昔ノソノ昔カラ連戦連敗、ウラミ重ナル猛者一中ニ立派ニ勝ッタ。先祖以来ノ仇ヲ見事トッタ。ウレシイ、ウレシイ、アンマリウレシイノデ日頃ノ筆モマハラヌ。
 と、文字通りの欣喜雀躍ぶりを記している。

  四中00100000102−4
  一中00020000000−2

 メンバーは、P伊藤鶴吉、C犬飼、1B中原、2B大沢、3B坂井田、SS鈴木、LF森田、CF西野、RF伊藤武雄。
 愛知一中のメンバー不明

 県下の強豪豊橋中学

 この頃の模様を愛知一中の秋田藤一氏(大正四年卒)「愛知一中野球部史」によれば、 明治が大正の年に代る頃の春、新チームは猛練習をやっていた。一学期の間は殆ど対抗試合は行はず、練習に練習を重ね、唯一度県下の強豪と目された豊橋中学(豊橋の加藤投手は一流投手として後、早稲田大学の投手となる)と戦い、この試合で私は三塁にすべり込んだ走者に、右足をスパイクされ、出血多量の為め交代した。然し之が動機になって、従来の地下足袋をやめ、スパイク付きの靴を使用する事を校長が許可することになりましたが、ストッキングは華美なものとして尚使用は許されなかった。 ―中略―
 然しこの年は、明治天皇の御崩御に遇い、諒闇の為め大会並に一切の対抗試合は中止となり、唯々練習にのみ没頭し、毎日電燈がともる迄鍛えられたもので、年中日曜、祭日もなく唯正月の三日間位、家に居たように思います。雨の日はルールの研究、チームワークの図解、バットの素振り等、よく身体が持ったものと考へられます。毎学期、年学期、試験の場合は二週間位前から練習は休み、試験勉強をやったものです。

 第十回東海大会中止は残念           (四中10回卒) 伊藤武雄

 明治四十三年頃には対抗試合の相手は、浜松中学、二中(岡崎)、愛知一中だった。バッテリーは近藤憲一、平尾圭一。
 明治四十四年の東海五県大会は、四日市商業で行われた。記録は覚えていないが、主将は松本(加藤)氏で、バッテリーは加藤俊治、犬飼三太郎。
 明治四十五年は、明治天皇崩御により大会停止、永年東海に覇を唱えていた愛知一中に対抗試合で勝っていたから、この大会の優勝が予想されていて残念であった。主将伊藤武雄、バッテリー伊藤鶴吉、犬飼三太郎。
 この年新たに野球部を創った明治大学野球部の東海道及関西方面の遠征試合で、四中校庭で試合した。いずれも接戦で惜敗。
 田原の成章館へ牟呂からボートで行って試合したこともある。
 当時コーチには先輩風岡憲一郎(一高)、服部源助(八高)、久野正一(三高)、蔵掛鱗次郎(九回卒業生)らが指導してくれた。
 部長は星野安蔵先生(早稲田出身)で若くて熱心であった。
 また私は、一高の選手で村井、芦田、北村氏などとコーチとして(富田浜)へ行った記憶もある。
 なお、当時、選手の学業成績の下位の者にはやらせないという校則ができたが、校長と談判して、野球部には適用させなかった。(昭和50年春記)

  大正二年度(1913年)

 新年度となり五月には、愛知二中と対戦し十二対二で勝ち、また二師とも戦い勝ったが、六月に愛知一中と対戦二十一対一で大敗した。

 東海五県連合野球大会

 第十回を迎えた東海五県連合野球大会に新作応援歌「三州の野に」をひっさげ出場した。大会は八月十一日から五日間愛知一中の校庭で開催された。
 八月十一日  山田中学  十一Aー三 斐太中学
          膳所中学    二Aー〇 四日市中学
          岐阜中学   十一ー七 岡崎中学
          愛知一中 二十八ー一 彦根中学
    十二日  山田中学   十二ー九 岐阜中学
          大垣中学  十三Aー十 豊橋中学
          斐太中学    六ー一 曹洞中学林
          富田中学   十三ー五 彦根中学
    十三日  大垣中学    九ー六 津中学
          愛知一中   十四ー〇 四日市商業
          膳所中学  十七Aー十一 豊橋中学
          富田中学   十一ー六 岡崎中学
    十四日  曹洞中学林 十八ー十 津中学
 四日間で二勝した学校五校で優勝試合を行う
    優勝試合
          膳所中学   十八ー一 大垣中学
          富田中学    四ー二 山田中学
    最優勝試合
    十五日  愛知一中 二十三ー〇 膳所中学
          愛知一中    四ー〇 富田中学

 東海五県連合野球大会は愛知一中が全勝して優勝した。 四中は新応援歌まで用意し敢闘したにもかかわらず、二敗してしまった。
 その試合経過は次の通りであるが、大垣戦での敗因は「新朝報」によれば、「主として四球の連発とサード及びショートの失策多きにありしもののごとし」と記し、 膳所戦では特に記してないが、校友会誌では、キャプテンの大沢捕手が大会前の練習中に右手指を負傷し、弱音をはいたら士気に影響すると秘して試合に臨んだが、捕球できず、急遽投手の青山三が捕手に、中堅青山定が投手に、大沢は中堅に代わった、とありそれらが試合に影響したのかも知れない。

  豊中20000062−10
  大垣2115040A−13  十一時開始菱田氏審判。

 一回豊中の青山定、戸倉四球に出で伊藤三振後大沢Pゴロに生き、岸上Pフライに死せしも青山三左翼に安打し青山定、戸倉生還、大沢三塁に刺さる。大垣攻む平手四球に出で、伊藤三塁ゴロに生き中村遊撃ゴロに斃れ平手生還、富山二塁オーバーの安打に伊藤生還、精松三振、富山三塁に刺され止む。
 二回豊中振るはず。大垣変る、二死後、三輪の二塁ゴロに岩崎生還、平手一塁の失に生き三輪本塁に刺さる。
 三回青山定、戸倉三振し伊藤Pゴロに死し止む。大垣攻む、伊藤一塁ゴロに生き、中村二塁ゴロに出で精松一塁フライに斃れ、河瀬の遊撃ゴロに伊藤生還、岩瀬Pフライに斃る。
 四回大沢、岸上四球に出で青山三、三振し渥美四球を利しフルベースとなる、大沢冒険に出で三塁に刺され下山Pゴロに斃る。大垣攻む、尾崎四球に三輪二塁安打に出で、平手左翼フライに斃れ伊藤遊撃ゴロに尾崎生還、富山四球に出で三輪生還精松三塁、投手の悪球に伊藤生還、河瀬の遊撃ゴロに中村富山生還岩越二塁ゴロに斃る。
 六回の裏大垣奮戦安打連続し、一挙四点を得て、合計十三点となる。
 七回渥美、牧野四球に出で下山三塁ゴロに続いて安打連続し、一挙六点を得、計八。大垣攻む、得る処なし。
 九回豊中戸倉四球に伊藤三振、投手の悪投に戸倉生還す、大沢四球に出で岸上三振、青山三遊撃飛球に大沢生還し、青山二塁に刺され十対十三プラスアルハーにて大垣中学の勝利に帰す。午後二時。

 二回戦
  豊中002100008−11
  膳所72001250A−17

 一回豊橋先攻得る処なく、膳所攻む中畑松本若林四球に出で後続安打連発四球連続の為め二回迄も影回りを演じ、一挙七点を得て変る。
 二回豊中得点なく、膳所永元右翼ゴロに死し、南部遊撃ゴロに出でPの失に南部生還、尾田瀬川四球に出で北川ハーブルに斃れ止む。
 三回豊中青山定四球に出で戸倉中堅をおそって出で岸上三振、Pの失に青山定生還、大沢右翼ゴロに死し戸倉生還、後続続かず止む。膳中得点なく終る。
 四回豊中渥美牧野四球に出で下山三振、青山定三塁安打に渥美生還、戸倉Pゴロに生き牧野三塁に死し岸上斃れ止む。膳中得点なく止む。
 五回豊中得点なく、膳中二死後永元三塁ゴロに出で南部中堅安打に永元生還、尾田斃れ止む。
 六回豊中無為、膳中瀬川三塁ゴロに出でPゴロに死し瀬川生還、奥村三塁ゴロに出でPの失に乗じ奥村生還、中畑、松本斃れ止む。
 七回戸倉岸上大沢枕を並べて斃れ止む。膳中若林四球に出で永元左翼安打に後続安打、連続一挙五点を得て、得点計十七。
 八回両軍得点なく
 九回豊中牧野三振後、下山二塁ゴロに青山定三塁失に出で後続安打連発し、守備狼狽の極に達しエラー続出せし為め一挙八点を得て終る。結果十七プラスアルハー対十一にて膳所中学の勝に帰す。

  大正三年度(1914年)

 新年度当初は、大沢をはじめ青山定次、伊藤、岸上、渥美選手を送り出し、メンバー的に衰えたようである。だが対抗試合で愛知二中には九対八、名古屋一師五対四、農科大学九対六といずれも接戦で勝ったが、愛知一中には十対一で負け、昨年の二十一対一で負けたよりは少しは上達したと自己満足しているところもあった。
 夏の大会前には、先輩の青山、伊藤鶴吉らがコーチに来校し、猛練習を重ねた。

 東海五県連合野球大会

 第十一回東海五県連合野球大会は、八月十日から三重県山田中学校の校庭で開催されることになり、四中選手は前日蒲郡から船で、伊勢へ向った。
 四中は四日市商業には七対四で負け、二戦目は膳所中学に五対一で勝ち、一勝一敗に終った。
 昨年度の優勝校愛知一中は岐阜中学に敗れ、岐阜中学は四日市商業に敗れ、優勝戦は三重県同士の四日市商業と富田中学で行われ、四対三で四日市商業が優勝した。

 四中対四日市商の試合経過
  四  中200020000−4
  四日市12001003A−7

 (新潮報)八月十一日午後三時半豊橋先攻にて開始。戸倉、投手のワイルドスローにて生還。四商大矢、加藤の中堅打にて生還。二回に入り四商二点を加へ、三回双方得点なく、五回豊橋の下山、戸倉生還し、七回四商の川瀬、佐野、加藤生還し一挙三点をとり、八回豊橋善戦恢復に努めたるも甲斐なく九回また振はずゲームセットとなり、七アルフアー対四にて四商の勝に帰す。時に午後五時十五分、試合時間二時間二十五分。
 この試合、六回まで同点だったが、七回我軍のただ一つのエラーが大きな事になってしまったのは、誠に惜しかった。四日市には敗れたが、目指すは昨年の仇敵膳所だと、軍容を改めて対戦した。

 二回戦 八月十四日
  四中000030003−5
  膳所000100000−1

 (新潮報)第二戦は雨の為二日間延期になっが、反って大いに元気を養うことができた。
 我等は見事昨年の仇敵膳所中学を破ったのである。下山の投手振り、戸倉の守備、小栗(兄)・小柳津のバッテングは仲々振った。



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