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  明治時代(四中時代)

 明治二十六年(一八九三)四月、私立補修学校時習館が開校
 明治二十八年五月、町立となり豊橋尋常中学時習館ととなる。
 明治三十二年四月、校名から「尋常」の二字をとり、町立豊橋中学時習館となった。
 明治三十三年四月、県立に移管され愛知県第四中学校と改称した。

  時習館野球部の創設

 野球そのものは、明治二十八年五月、町立豊橋尋常中学初代校長として着任した石川一が採り入れ、はや生徒の間に野球が親しまれ、一応野球部も結成された。
 なお、今も続く「時習」と墨書したのみの校旗も石川校長が決めた。
 明治三十二年五月に校友会が設立され、組織だって活動を始めたのがこのときからで、名称は「豊橋中学時習館校友会」と呼ばれた。
 この校友会設立と同時に野球部は運動部中の一部として正式に発足した。
 校友会は、職員、旧職員、生徒、卒業生の四者によって組織され、その目的は、会員相互の厚誼を厚うし、知識を錬磨し、かつ身体の強健を図り、活発有為の精神を養成し、もって善美の校風を樹立するにあった。

  明治三十二年度(1899年)

  最初の対抗試合

 明治三十二年、校友会発足直前の春、岡崎の第二尋常中学校と対抗試合を行い敗れたことが記録されているが、その年の十一月十二日、時習館野球部創設初の対抗試合を、再び第二中学を相手に同校校庭で行った。
 前日から雨、当日昼近く晴れて、昼ごろ「ゴゴヤルセンシュコイ」という電報が届き、急ぎ選手を集め停車場に駆けつけたが、一瞬の差で汽車に乗り遅れ、午後二時半の急行で岡崎に乗り込んだ。帰ろうとする二中選手を呼びとめて試合を始めたのは午後五時であったという。 その実況は次の通りであるが、野球に対する生徒等の情熱が行間に満ちあふれていて、青春の気迫をひしひしと感ずるのである。

  我校対二中野球試合

 頃ハ霜月ノ初旬、宮路山ノ紅葉錦シテ、本宮嵐ニ飄フ落葉二ツ三ツ豊川ニ浮ビ、衣ケ浦ノ漣モ一際高ク晒フ、真ニ麒麟児ノ一腕ヲ試ムルノ好時機、加フルニ今春立花ノ候ニ於テ、みごと敗衂ヲ取リタル我校野球部選手の耻辱、何時カ雪ガデ措クベキカト肉動キ骨鳴る時、後ルヽ勿レト宿敵岡軍ニ檄ヲ飛バス数回、茲ニ於テカ十一月十二日ヲ卜シ第二中学ノ運動場ヲ以テ開戦スルコトトハナリヌ。十一日、秋風颯然トシテ天宇暗シト見ル中ニ、無情ナル村雨ハしょぼしょぼト降リ始メヌ。意気負選手ノ心中如何ゾヤ。明レバ十二日、午前十時ト思スル頃金風一陣払フト共ニからっと霽ルレバ、選手ノ面々ほやほやト意気アガレルモ道理ナレ。時已ニ十二時、食ヲ喫スル酣ナル折柄ナリ、一巾ノ電報飛来セリ。見レバごごやるせんしゅこいトノ事、スハヤト喰フ哺ヲ吐キ立テ転々ノ急仕度、或ハ袴ナク帽子ナキモアリ、然レドモ時ノ矢先ハ止ム由モナク、真一文字トすてーしよんニ到レバ、悲シヤ咄嗟ノ喰違イ、ぷらっとほーむハ静且寂、一声ノ汽笛ハ空シク天ヲ貫キヌ。一同ノ唾手流汗又徒労、止ムナク二時三十分ノ急行車ヲ以テ一同岡崎ニ到ル。時已ニ遅シ今ヤ帰ラムトスル第二中学選手ヲ呼ビ止メ、茲ニ試合ハ始マルコトトハナリヌ。其選手及ビ其職務ハ左ノ如シ。

        投手 捕手 一塁  二塁  三塁 遊撃 左翼 右翼 中堅
    豊軍 小岩 加藤 野沢 小久保 八木 古溝 大木 安井 村田
     岡軍 田中 山本 内藤  秋山  広瀬 大岡 三浦 前田 森久

 用意ノ一声喧噪ヲ拭ヒ、将ニ復始ノ号令響カントスル。之レ山雨来ラント欲シテ風楼ニ満ツルノ光景、未ダ干戈ヲ交ヘザルニ、惨憺タル殺気早ヤ場内ニ満チタリ。今ヤ時恰モ五時、金光西ニ傾キテ暮雲其名残ヲ遮リ、天涯ノ一朶雲、四遶ノ藍山、共ニ好敵手カト疑ハレ、粛殺ノ気層一層ナリ。今迄嘖々嗷々タリシ岡軍弥次隊ハ、拠ヲ西ニ構ヘツヽ、石油箱ヲ持チ出スアリ、或ハ棒ヲ手ニスルアリ、蓋シ声援以テ味方ヲ擁セムト兼テ思ヒ設ケシナル可シ。始ノ号令発セラルヽヤ、広キ運動場唯秋風ノ觝ムルアルノミ。劈頭第一、彼ノ田中氏ばっとヲ把ツテ立チ上リ、凛タル身構いざや来レ一打ノ下ニ臍脱ギクレントノ勢凄マジ。練リニ練リタル我すゐふと飛ムテ来レバヨシト一匕空ヲ切レバ、かんトばっとノ響キト共ニ、球ハ三塁ノ前ニト飛ブ。我ノ八木氏ハット取リ、一塁ニ投ジタルモ其効ナシ。次ニ立チシハ忽如恐ルベキ山本氏、物セヽリ顔ニテばっとヲ斜ニ足踏張リ、投手ノ姿勢ヲ睨一睨シテ、唯一打トアルヤヨシ、ヤヲラト打チタル球ハ高ク天ヲ突キ、術知ラヌモノヽ目ヲ引キタルモ、アハレハカナヤ我ノ古老ノ其名高キ古溝氏ニ受ケラレテ、青息ハット出ヅルモ詮ナシ。次ニハ敵ニ猛将勇士ト呼バレタル大岡氏、意気揚々ト控ヘル処ニ、熱球ノ飛ビ来ルヤ見事打テ、球ハ投手ノ右ヲ逸シテ三塁ニ喰ヒ止メラレタル間ニ走者田中氏ハ恙ナク入城セリ。次ニハ内藤氏英姿颯爽トシテ顕ハレ出デ、警戒峻厳、形勢轉タ凄然タルヲ見テ平然タル状、双龍爭球ノ活劇アラムカト思ウ程ナク、サモアラデふあうるヲ打テ加藤氏ニ受ケラル、惜哉。次ニ立チタル若殿ハ、秋山トナン申ス物、励声一番打ツモ見事一塁ニ死シ、茲ニ三度ノあうとヲ出シ、攻守各代ルコトトハ成レリ。其間弥次ノ罵言讒謗言語道断、石油ノ箱モアワレヤ凹凸破衝ヲ生ズルニ至レリ。以テ如何ヲ了知スルニ足ラムカ、暫クアリテ厳粛ナル審判官本多氏ノ一声令セラルルヤ野次馬辟易三歩場内復寂寥トシテ声ナク、敵ハ片唾ヲ呑ム。防禦堅ク、我ハ腕ヲ拱キテ虎視竜睨、敵ノ隙ヲバ窺ヘリ。初メニ出デシ武夫ハ、老気沈々其名高キ古溝氏ナリ。豪宕ノ間閑雅ノ意ヲ挿ミツヽ、身ヲソラシテゾ構ヘケル。彼レノ投手迅隼ノ球ヲ放チテ、我ノドツキヲ抜カントスルモノヽ如シ。然レドモ投手ノ球上下遠近大方定マラス二三ノ空響ヲ傳ヘシ後ニ打チタル球ハ遠クモ飛バズアリケレド、疾走一塁ヲ領セシ為メ、死ノ関ヲ凌グヤヨシ。次ニハ名アル軽快機敏ノ大木氏、難ナク一塁ヲ取ル。次ニハ運動シャツノ装男々シク凛々シキ身堅メ、イザヤ来レトアリシ小久保氏、如何ナル鬼神ノ祟リニカ空シク三度振ヲナシ、咨嗟ノ音ヲゾ発シケル刹那、古溝氏空シク二塁ニ死ス。我ノ顔色遙グ斜ナラズムベナル哉。次ニハ巧妙怜悧ナル八木氏、コント打チテ一塁ニ走リ、敵ノ計画ハヅレシ間ニ大木氏入城セリ。次ニ小岩氏三度ヲ振リ颯ト計リニ飛ビ出デシ間ニ、飛鳥ノ如ク入リ来リシハ八木氏ナリ二点ノ得点アリ。小岩氏如何ト案ズル甲斐ナク遂ニ一塁ニ斃レ、戦場ノ露ト消ヘテ、其ノ惨状我ノ戚蹙又盛ナリ。此ニ早ヤ三死アリ、交代セムトスル時シモアレヤ審判官島本氏ハ、日ノ迫リ来ルガ為メカ号虎ノ音ヲゾ嘯キケルハ、気ヲ付ケノ命ナリ。
 始メノ令ト共ニ、オヽト投ズル二回三回、ヨシト打テ走ルハ広瀬某、陣中ニテ疾呼我ヲ罵ルガ如キ、根カラ食ヘヌ豺目狼頭ノ者、甚ダ以テ潔シトセザルナリ。次ニハ身ノ丈五尺ニ足ラヌ小武者一人、勢ニ似モセズ一閃ノ下ニ飛電流星ノ球ヲ遊撃手ニ飛バス。流石ノ古溝氏モ瞬間燕来ノ球ニハ応ジ難クアリケム、ポット落ス間モ隙サズ一塁ニ突入ス時ニ広瀬ハ入城セリ。続テ森久氏悲哉三度ヲ振リ、次ニハ三浦氏来ル球弱シトアラム斗リノ顔色モテ投手ノ前ニ打ツ。此レモ我ノ不運絶命遂ニ失敗ス。シタリヤ得ト一塁ヲ取ル。次ニハ田中氏打テ走ル間モ隙サズ前田三浦両氏ハ入城シ、彼レノ調子従テ調ヒ来リ、我ノ応変当ヲ失ス。秋風錚々トシテ神気快カラズ。結果如何ト憂フル折柄、山本氏遊撃手ニ取ラレ、大岡氏虚ヲ狙フテドント打チ一塁ヨリ三塁ニ至ルモ、惜シヤ内藤氏ノ打球投手ニ取ラレテ一塁ニ死セシカバ大岡氏三塁ニ立チ往生トナリ、茲ニ又三死ヲ以テ交代スルコトトナレリ。同審判官ノ号令ノ下ニ彼ノクバリモ整イタレバ、まねいじやあノ注意ニテ加藤氏立テリ。眦裂ケ眼光炯々トシテ人ヲ射ル。隙サズ身構ヘハ彼ノ胆ヲゾ寒カラシム。投手此レガ為メカアラヌカ空シク五球ヲ投ジタルヲ以テ一塁ヲ取リ、次ニ安井氏仝ジク五球ニテ一塁ヲ領シ、次ニ野沢氏村田氏古溝氏武運拙ナク打死ス。
 時ニ天朦朧晩鴉己ニ塒ニ帰リ夕陽西ニ入リテ蒼然タル暮色四方ヲ包ミ兎光時ニ薄クシテ紅白ヲ辨ゼズ仍テ審判官中止ノ旨ヲ傳フルヤ人影逶遙トシテ雑沓ヲ極ムル中ニ、本館選手一同ハ審判官島本氏先唱ノ下ニ第二中学選手萬歳ヲ三呼シテ堂々試合ヲ中止セリ。

        一回 二回  計
 豊 軍   2   0    2
 岡 軍   1   5    6

 此日ヲシテ時尚アラシメバ、電光石火ノ快戦モ或ハ見ルヲ得ベカリシガ、悲哉天時ヲ借サズ二ゲームヲ以テ中止スルコトトハナリ、結局我二点対六点ノ差アリタリ。然レドモ二ゲームノ蹟ヲ以テ技術如何ヲ知ルニ由ナク、思フニ彼我ノ差甚ダ多カラズ唯彼ハばつていんぐニ稍長ズ。而レ共当日我投手ノ球至ツテ弱カリケレバナラム。各個ノ技術ニ至ッテハ蓋シ日ヲ同シウシテ語ルベカラザルナラムカ、之レヲ要スルニ当日ノ結果又声援ノ如何ヤ大ナリ、我ガ弥次ナルモノ果シテ幾何カアル。飜テ彼レヲ見ルニ挙校殆ンド来ッテ声援ニ熱ス。而シテ其多ナルニ乗シテ罵嘲散々、而モヨシ勢ニ乗ジテ審判官ヲ誹謗罵詈スルニ至ッテハ、眞ニ忍ビザル所又甚哉。吾聞ク、運動ハ礼ヲ以テ始マリ礼ヲ以テ終ルト。之レヲ以テ礼アリトスルヤ否。
 茲ニ余白ヲ借テ寸言ヲ告グ。本館運動生ヨ、今ヤ到ル処ニ運動ハ奨励セラレ、漕艇ニ野球ニ一々数フベカラズ。而シテ之ガ発達ノ旨ヲ遂ゲンガ為メ、競フテ他ト技ヲ争フニ到ル。就中野球ノ如キハ挙校ノ競技、校ト校トノ優劣ヲ論ズルナレバ従テ其審判ノ任ヤ重シ。此栄誉アル大責任ヲ帯ブ審判官ヲ罵詈讒謗スルニ至テハ、素ヨリ運動ノ道ニ戻ルハ勿論、実ニ対校ヲ罵詈スルモノトシテ、其過ヤ至ツテ大ナリ思ハザルベカラザルナリ。 抑運動ナルモノハ暴虎ノ勇ヲ養フガ為ニ非シテ体躯ヲ練リ元気ヲ発揮シテ神州男児タルモノノ品格ヲ高ムルニアリ。然ルニ今罵詈讒謗其意ニ任セ対手ノモノヲ憎ミ対校ヲ怨ムカ如キハ不感服ノ至リナリ。

 選手の陳謝

 日が落ちてボールが見えなくなったため、二回、岡中六点・豊中二点という所で試合は中止となった。
 選手等はこの試合結果について、次のように校友会会員一同に陳謝するとともに、今後の決意の程を示したのだった。

  校友会諸君ニ謝ス        野球選手一同

 去ル十二日岡崎ニ於ケル本館対第二中学校野球試合ニ於テ、不熟ナル生等茲ニ最モ名誉アル選手トシテ競技スルコトヲ得タリ。謹デ本校友会員諸君ニ鳴謝ス。然ルニ天時宜シカラズ以テ充分ナル競技ヲ行フ能ハズ、無念僅ニ二回ニシテ中止シタリ。然ルニ之ヲ云フモノ本館ノ敗ヲ以テス。何ソ其レ謬レルヤ。元来野球ノ勝敗ヲ定ムルヤ正々堂々九回ノ戦ヲ積テ而シテ決スルモノナリ。然ルヲ一、二回ノ競技ヲ以テ其勝敗ヲ云々スルハ、以テ共ニ其技ヲ談ズルニ足ラザルナリ。乞フ、其実相眞色ヲ諸君ニ報セン。此日ヤ雨後ノ地盤泥濘田ノ如ク、球泥ニ汚レ恰モ土塊ノ如ク、之ニ加フルニ落光地ニ没シテ四山朦朧タリ。是ヲ以テフライノ何處ニアルヲ識ル能ハズ、ゴロノ那邊ニアルカヲ明ニシカタシ。故ニ眞ニ技倆ノ半ヲ出ス能ハズ、空シク二回ヲ試ミシニ過ギスシテ、此試合ハ双方談議ノ上審判官ノ中止ノ令下ニ中止サレタルナリ。時ニ彼ノ六点ニ対スル我ノ二点ニ当リ、若強テ勝敗ヲ云ハバ正ニ我ノ敗ナリ。然レドモ事皆前記ノ如シ。諸君乞フ之ヲ察セヨ。然レドモ此試合ニ於テ唯此ノ中止ヲ以テ元来ノ本望ヲ折屈スルガ如キハ、以テ我等一同ノ好マザル所、愈々千錘萬練、以テ他日ノ成功ヲ期シ、誓テ生等ノ責任ヲ盡サン。諸君乞フ之レヲ諒セヨ。

 以上が時習館野球部発足最初の試合であった。この日グラウンドもひどい状態であったが、応援も石油罐を破れる程叩き散らして大騒ぎしたひどいものであった。
 この頃は、現在のフォアボール(四球)がファイブボール(五球)、又ファウルはストライクに数えていなかった。
 ボールが草むらに消えたり、溝に落ちたりすると「ロストボール」が宣告され、試合はそっちのけで球探しをしたことがわかる。

  運動会でも野球試合

 秋季大運動会 明治三十二年十月十二日、八町の歩兵第十八聨隊の練兵場で、時習館の秋季大運動会が華々しく挙行された。運動種目は、野球試合・野試合(撃剣)・障害物競争・短距離競争・飛脚競争・長距離選手競争・短距離選手競争・一人一脚・二人三脚・源平遊・綱引きの十一種目で、運動会に部活動だけでなく野球が取り入れられているのも珍しい。

  秋季大運動会景況

 明治三十二年、時方ニ金風颯々梧葉ヲ吹ヒテ商声切ニ到ルノ時、十月十二日豊橋中学時習館ハ、三百二十有餘黒衣黒袴ノ健児ヲ以テ、運動会ヲ練兵場ニ開キタリ。此日午前校友会談話会アリ。畢テ午前十時整々粛々伍ヲ為シテ練兵場ニ到ル。豫定皆成リ規矩整然タリ。仰ゲバ長キ一棹ノ立テルアリ、其レヨリ三條ノ萬國々旗ハ謖々タル朝風ニ翩々トシテ翻リ、鮮紅タル朝暾ニ迎ヘエラレ瀰々タル所、自然ノ勢迸ツテ余等ヲ向フルモノヽ如シ。其レヲ中央標トシテ、周囲凡テ一町四十間、一條ノ縄ヲ引ク。東部ニ當ツテハ一流ノ長幕蕭然トシテ張ラレ、中ニハ来賓者職員其他事務員ノ列席儼然トシテ備ハリ、決勝点其ノ直前ニ設ケラレタリ。其東ニ当ツテハ野球技挙行ノ計畫成レリ。
午前九時當ニ快活壮嚴ナル運動ハ左ノ如キ順序ヲ以テ始メラレタシ。
第一野球 四ゲーム
 野球部員第一選手第二選手ヲ混合シテ、相互火花ヲ散ラシテ防戦守鬪、伏屍野ニ横ハリテ吹風漸ク腥キヲ覺ユ。茲ニ四ゲームノ試合ハ十時「エンド」ノ令ト共ニ終ラレタリ。其經過表ハ左ノ如シ。
  以下略          (校友会誌第一号)

 明治三十三年四月本校第一回の卒業生を送り出した。中に、加藤健一、加藤平左衛門、島田宗一郎、島本竜一郎、月岡新治、神藤純一郎等が最初の野球部員としてボールを握り、野球部創設の苦難の道を開かれたと偲ばれる。


  明治三十三年度(1900年)

 第四中学校野球部

 明治三十三年四月、豊橋中学時習館は県に移管されて第四中学校となった。この時運動部を改めて野球・撃剣・柔術の三部を独立させ、新しく端艇(ボート)を加えて四部となった。
 
 野球部の独立は、生徒に対して大きな刺激を与え、野球熱はますます盛んになったが、それは主として校内での試合であり、対抗試合は滅多になかった。他校と試合をしたくても東三河には四中以外に男子中等学校はなく、もっとも近くの学校でも岡崎の第二中学校(現県立岡崎高校)・静岡県の浜松中学(現県立浜松高校)くらいであり、時にこの二校と試合する程度であった。
 ほかに名古屋の愛知一中(現旭丘高校)は球歴も古く、技倆も全国屈指の有名校で、到底我が校の敵とする相手だはなかった。
 
  一中・二中・四中・浜松中

 明治三十三年十月十八日、四中野球部は、岡崎の二中と浜松中を豊橋練兵場に招いて試合をした。
 浜中対二中は二十三対三、浜中対四中は二十一A対七で、いずれも浜松中学校の大勝利となったことを「参陽新報」十月二十日付で報じているが、さらに一か月を経た十一月二十日付の同紙は、「中学生徒の運動会」と題して次のように記述している。
 一昨日雨天の為延期したる愛知県立第一中学校と浜松中学校とのベースボールの運動競走は、来る木曜日豊橋練兵場に於て実施の由なるが、今回は過日岡崎第二中学校生徒及び豊橋の第四中学校生徒が浜松中学校生徒に敗を取りたる為、その仇討ちをなさんが為なりと云う。
 この試合の結果がどうなったか明らかでない。しかし愛知二中と四中がともに浜松中学に敗れたその仇を、愛知一中が討つという対県意識は強くあらわれている。

 この日の少し前十一月四日に二中と四中の三年同士が対抗試合を行い、我が校は十五対八で勝ったが、その時のスコアーブックであるが、現在と全く記入方法が違っていて興味深い。
 当時はまた、全校生徒の中から選抜した選手のチームで戦うのは数少なく、同学年選手で対戦する試合が多かった。
 学年対抗は対外試合はもとより、校内での学年対抗、例えば一年対二年、一年対三年などのほか、職員もこれに加わって優勝旗の争奪戦を行った。この対抗戦は昭和の初期まで続けられていた。

  明治三十四年度(1901年)

 四月三十日、慶応義塾野球部が、初めて東海道遠征を行い、愛知一中校庭で、愛知一中、愛知二中、愛知四中と対戦したが記録は不明。
 この時代、大橋勲氏(二回卒)、中村正司氏、川出麻須美氏(四回卒)、大林正志氏(五回卒)等がそれぞれ中心となって野球部を育てた。


  明治三十五年度(1902年)

  第一回東海五県連合野球大会

 東海五県連合野球大会は、愛知一中が主唱して明治三十五年九月六・七日、同校校庭で開催された。
 この大会は、我が国中等野球大会としては最も古いもので、明治四十年大会規則ができるまでは、一定の主催者があったわけでなく、各参加校が回り持ちで当番校となり開催された。
 記念すべき第一回大会は、愛知、岐阜、三重、静岡、滋賀の五県に呼びかけたが、愛知、静岡、岐阜の三県下から五校が参加して行われた。その成績は、

  浜松中学  十A対三 愛知一中
  岐阜中学  十A対五 愛知四中
  浜松中学   十対二 大垣中学
  愛知一中 十一対〇 岐阜中学
  愛知四中 十八対〇 大垣中学
  参加校先輩混合 四A対〇 後輩混合

 我が四中は一勝一敗という成績であった。


  明治三十六年度(1903年)

  四校連合野球大会

 明治三十六年に愛知一中、同二中、同四中と、浜松中学の四校が「四校連合野球試合」なる名称の会を結成し、毎年一回、会場回り持ちで試合を行うことにした。
 この最初の大会を「新朝報・六月十日付」は「野球競技」と題して次のように報じている。
 七日午前九時由り第二中学校運動場に於て催されたる四校聯合野球試合は、四面拍手の中に開始せられ、第一回第一中学対第四中学の試合は第一中学の勝利となり(十三Aー二)、第二回第二中学対浜松の試合は二中選手が勝利を占め(五Aー四)、第三回第一中対浜松中の試合は第一中の名誉に帰し(十一ー八)、第四回第二中対第四中の試合なりしが、勝算は優に第二中にありしが試合半ばに中止せられ、万歳声裡に閉会を告げられたり。天は近来稀なる此の盛会を幸しけむ、終日曇り勝にて小雨は吹き立つ塵をおさへ、戦ふもの観るものにも幸の日なりき。当日の試合を観んとて集まりし各学校生徒は千人以上なりし。
 これによれば、一中二勝、二中一勝、四中及び浜中は一勝も得ることなく終った。

 第二回東海五県連合中等学校野球大会

 八月二十五日から、浜松中学校で開催され、浜松中学校が優勝したが、本校は参加しなかった。

 学年対抗の試合

 野球部発足以来、全校生徒の中から選んだ選手で戦った試合のほかに、学年対抗の試合も数多く行われ、二中三年選手対四中三年選手という風に記録されている。
 明治三十六年九月二十五日、二中との対戦記録をみると、
 第二中学校二学年選手より対戦を挑まれたり、我校二年選手直ちに応戦。練兵場にて「ゲーム」を行へり。
  当日選手左の如し

    第二中学校選手  本校選手
 投手  島村       山本
 捕手  加藤       中村
 遊撃  角田       久野
 一塁  築山       金田
 二塁  大岩       橋本
 三塁  榊原       服部
 右翼  村松       井本
 中堅  山川       三輪野
 左翼  山本       風岡

 かくして両校の選手は互いにその技を振い、一勝一敗終局の勝利は何れにあるか知るべからず。午後に至り我校の選手優勢となり、最後に至り七点に対する九点にして即ち二点の差を以て、我校二学年選手の勝利となれり。 学年対抗は対外試合はもとより、校内での対抗試合、例えば一年対二年、一年対三年のほか、職員もこれに加わって優勝旗の争奪戦を行った。この対抗戦は昭和の初年まで続けられていた。

  明治三十七年度(1904年)

 第二回四校連合野球試合

 明治三十七年十月八、九の両日、豊橋練兵場で開催された。参加校は愛知一中、四中、浜松中と、今回は愛知二中が抜けて明倫中学(名古屋)が加わった。

 十月八日
  一中413101000−10
  四中000000210−3

 第一回 一中先攻ム 菱田木村加藤ハ四球ニ、安田ハSSフライニ出デ菱田既ニ生還シ、早川ノLFCF間セーフヒットニ又二騎本塁ニ入ル。伊藤山森ノ三振アリシト雖モ渡辺ハ四球ニ久保ハセカンドノ後ニフライヲ遣リテ生キ、更ニ四点ヲ奪ヒシガ菱田ノキャッチャフライアウトニテ軍ヲオサム。 我ハ石川サードゴロ伊藤三振ニ斃レ、戸田SSゴロニ出デ、サードニアリシモ山治ノPゴロニテ還ルモノナシ。
 第二回 彼ハ木村四球ニ出デテ二塁ニ刺サレ、安田ハSSゴロニ還リテ一ヲ増加ス。加藤又木村ノ徹ヲフミ早川SSゴロニ斃ル。我軍〇
 第三回 一中伊藤ノデイレクトハLFノ名ヲナサシメシノミ、我ハ小木曾SSゴロニテ一塁ニアリシガ藤巻ノサードフライニダブルプレイヲ演ゼラレ、石川ノサードゴロニテ得点ナシ。一中八、我軍〇
 第四回 一中ハ菱田デイレクトヲLFニ送リソノ逸ニ乗ジテ本塁ニ突入ス。我ハ伊藤セカンドニ戸田SSニ山本ハPトCトノ間ニゴロヲ呈シテ一人モ一塁ニ達スルモノナシ。
 第五回 両軍〇、我ハ戸苅服部再度ノダブルプレイヲ演ゼラル。一中九、我〇アヽ遂ニスコンクノ汚名ヲ免ルル能ハザルカ。
 第六回 彼ハ山森更ニ一点ヲ加ヘ、我軍〇
 第七回 木村Cニフライヲ上ゲ、安田SSヘデイレクト、加藤Pーゴロニ死シ、一中ノ攻撃漸ク衰フ。
 我ハ戸田サードノ頭上ヲセーフヒットニ破テ出デ続テ山治ハフアウルラインニ近クゴロニLFヲ貫キテ一挙ホームランシ二点ヲ収ム、然レドモ山廉以下攻撃頗ル振ルハズ皆一塁ニ屍ヲ曝シテ退ク。一中十、我軍二。
 第八回 一中ノホーム、我ハ藤巻SSノ失ニ還リテ得点三トナル。
 第九回 山森ノPゴロニテ一塁ニ達スルアリシモ二塁ニ斃レ、久保三振菱田セカンドニゴロヲ呈シテ退ク。  我軍ハ山治ノPフライ山廉ノPゴロ、服部ノLFフライ、得ル所ナクシテ止ミ、十対三ヲ以テ勝敗ハ決セラレヌ。 (校友会誌第十号)

 十月九日
  四中401000022−9
  明倫01102204A−10

  浜中414200000−11
  四中010212300−9

 四中の成績は三戦三敗といった芳しくない結果に終ったが、一中は別として他の二校とは、実力にさして差があるとは思われなかった。

 対二中戦

 連合大会は不振であったが、十一月に入って二中と豊橋練兵場で対戦し、十五対十で大勝した。

  二中311310001−10
  四中80301300A−15

 十月は我野球部ガ拭フベカラザル汚辱ヲ蒙リシ忘ル能ハザル月ナリシガ、十一月ニ入リテ二中ヨリ挑戦状来リテ幾分前月ノ名誉回復ヲ計ランモノト選手ノ意気ハ天ヲ衝キ西風颯爾トシテ砂塵高ク空ニ舞ヒシ五日ノ午後今橋城東ニ技ヲ戦ハシヌ。
 第一戦 我先ヅ守ル。敵ハ四球ヲ利シフルベーストナリテ三点ヲ収メシモ芳賀ノ三度振ニヨリテゲーム終リ。我ハ敵ニ三点ヲ輸シタル故慎重ニバットヲ擁シテ立チシ石川フオアボールニヨリテ生キ、小木曾ハ大フライヲ飛バシLFヲ貫カント試ミシニ敵モサルモノ三四間走ルト見ルヤ球ハ辛クモミットニ支ヘラレタリ。戸田ハ四球、山治ハSSゴロニ生キテフルベース、伊藤四球ニ出デテ石川官費旅行シテ本塁ヲ陥レ、戸苅一ー二ベースヲ縫ヒテ戸田ヲ生還セシメ、久野サードゴロニ山治ヲ入レテ同点ナリ、然カモオンリーワンアウトニシテ走者三人アリ、我軍ノ鋒先益々鋭クシテ校友ノ声援亦盛ナル時服部ノセーフヒット能クSSヲ越ヘ、藤巻ゴロヲサードニ獲ラレシモフアースト焦リテ球ヲ落シ陣形漸ク乱レタリ。サレバ石川Pゴロニ一塁ヲ取リテ小木曾戸田続ケテサードニゴロヲ送リ、後者ノソレハ石川ヲホームインセシメシモ藤巻ヲ三塁ニ殺シ、山治四球ヲ以テフルベースタリシガ伊藤セカンドゴロニ死シテ第一回ヲ終リ我得点実ニ八。
 第二戦 敵ハコノ頽勢ヲ輓回セント鈴木ノフライハフアウルトナリテ飛ブヲ藤巻数間ノランニングキャッチニ喝采ノ声シキリナリ、続キテ峯田LFヲ襲フ今度ハ飛球高ク烈風ニ駕シテバックセル藤巻ノ頭上ヲ過ギホームインノ功名ヲ為サシメヌ。 田中ノゴロヲ山治捕ヘシト雖モ投球正鵠ヲ欠キテ一塁ニ生キシガ冒険シテ二ー一線上ノ露ト消エ、加藤四球ヲ利セシガ渡利二塁ゴロノ為メニ伊藤ニ止メヲ刺サル。
 我代リテ攻メシモ得ル所無シ。
第三戦 敵ノ一塁守谷沢某味方ノ不利ヲ見テ怒レル折カラ毛髪逆立シテ目眦裂ケ打チ振ルバット獰猛ニサードゴロニ生キ、冒険シテ二塁ヲ衝クヤ我キャッチャーノ投球少シク高カリシモ伊藤ノモーション素敵ニテ、確ニ肘ニ触レタレバ審判官金山氏アウトヲ宣告セリ。谷沢氏曰ク「付カズ」ト、金山氏曰ク「然ラバセーフ」ト、我二三ノ士之ヲ詰リシモ兎ヤ角アンパイアニ反抗スルハ面白カラズト位置ニ戻リシ時、島村CFニフライヲ飛バシテ一点ヲ得。後ノ三者続キテ倒ル。
 我ハ石川ヲ先鋒トシテ攻メシガ小木曾戸田相続キテ斃レシ時、伊藤一塁線上ニ小フライヲ送ル彼ノ谷沢某之ヲ掴マントシテ逸シタレバフアウルト云フ、サレドミットニ触レタルヲ如何セン審判官島本氏ハ断然フエアーヲ宣告セリ。戸苅サードニゴロヲ呈シタルニサード芳賀ノ投球ハ正シカリシモ、谷沢氏今ノ失敗ニ苛立ツ折柄球ハ転々ミットニ跳ネテ終ニ落下シタレバ、ソノ間ニ山本牙城ニ突入シ伊藤ガ之ニ僅カ三間ヲ距テテ相続キタリシ敏捷サニハ人々感ジ合ヘリ。
 第四戦 敵ノ攻撃今回ハ尤盛ニシテフアーストバッターハPフライに死セシモ四球ヲ利スルコト三得点、亦三アリテ猶且フルベースタリ、観客ガ手ニ汗ヲ握ッテ鳴ヲ静メタルハ正ニコノ時ナリキ。P石川ノ老巧慧眼ハ一塁ノ走者ニ隙アルヲ見ルヤ之ヲ追窮シ一塁小木曾手早クホームニ球ヲ送リシタメ本城ヲ陥レントセシ古内ハ敢無キ最後ヲ遂ゲテサイドアウトトナレリ、コノ間眞ニ髪ヲ入レザリキ。
 我コノ回ノ攻撃ハ服部SSオーバーノ安全球ニ生キシモPニ狙ハルルコト二回、遂ニ匐ヒ損ジノ醜体ヲ演ジテヨリ倒ルルモノ頻々一点ヲモ得ル能ハズ。
 第五戦 彼一点ヲ得、我亦然リ。
 第六戦 敵ヲ三人続ケテ団子刺ニテ、我ハ余裕綽々三点ヲ収メヌ。
 第七戦 敵ハ敗勢ヲ盛返ヘサント急リシガ守ハ固キ我陣地、千山萬嶽何ノソノト縦横無尽ニ踏破セリ。我ハ間モナクツーアウトトナリシモフルベースニテ、打者ハ左手ノ伊藤ナレバ一人ハ生還スベシト期シタルニPゴロニ終リヌ。
 第八戦 ニ移リ敵将谷沢SSオーバーニセーフヒットヲ飛バシタルモ成功ヲ焦リテ二塁ニ尸ヲ曝シ、次グ二人ノ打力振ハズシテ止ミ、 我軍程ナク二ツノアウトヲ生ゼシモ二塁三塁ニ走者アリテ打手ハ石川ナリ、コンドコソハト思ヒシ甲斐モナク、コレ亦フライヲSSニ呈シテ敢果ナキ最後ヲ遂ゲタリ。
 第九戦 ニ入レバ短日ノ十一月五時に垂ントスレバ、夕陽西巒ニ舂キテ黒キ帷幕ハ漸ク練兵場ヲ閉ジ込メントシ、ゴロノ如キハ方向スラ判明セズ為メニ一点ヲ彼ニ与ヘタルモ大事ニ至ラズシテゲームヲ終リ凱歌ヲ奏セリ、時ニ西天ニ一星アリテ光輝燦然恰モ野球部ノ前途ニ一縷希望ノ光ヲ与フルガ如シ。

 第一期の充実した時代

 明治三十七年、一高の小林コーチの指導を受けて野球部も組織的になり、一方森部部長の発案で本校最初の優勝旗もでき、校内の野球大会も盛んに行われた。
 この時代石川正六(六回卒)時代ともいわれ当時の活躍ぶりは語り草となっているが、全国大会がなかったので、実力を広く発揮する機会に恵まれなかった。
 石川氏は卒業後約十年間母校野球部のコーチとなり、四中の名を高らしめた。


  明治三十八年度(1905年)

 校内野球大会

 (校友会誌第十一号野球部報)五月二十九日四日市商業学校ヨリ試合見合セノ報来りリシカバ、吾部ニテハ六月三、四日両日ヲ以テ本校優勝旗試合ヲ行フコトニ決セリ。然ルニ三日ハ雨天ナリシタメ行フヲ得ズ。翌四日ハ晴天ナリシモ選手ノ集合頗ル遅ク漸ク十一時頃ヨリ開始セリ。
 第一回 一年級ノ試合二年級ノ試合ニテ其ノ得点次ノ如シ。 二年級十三、一年級五。
 右ノ如キ始末ニテ一年級ノ大敗ニ帰シタリ、其ノ重ナル原因ハ四球ノ多キト打方ノ振ハザリシニ依ル。即チ杉浦ノ四球ヲ投ズルコト十有三、加藤八。
 第二回 二年級対四年級ノ試合ニテ四年級ハ人ノ集合殊ニ悪シクタメニ外野手中、右翼ト中堅トヲ缺ク。其ノ状況ハ、四年級九、二年級〇。ニシテ実ニ不平均ナリシモ一方ハ老練ノ者ノミ故是非モナシ。
 第三回(五日)五年級対三年級ノ競技ニテ其ノ得点ハ、三年級十七、五年級十六。ニテ五年の敗ニ帰ス。
 第四回(六日)愈々最終ノ試合ナリ、即チ四年級ハ二年級ヲスコンクゲームニシ余勢天ヲ突ク。三年級モ既ニ五年級ヲ倒シ騎虎ノ勢ヲ以テ迫ル。
 然レドモ投手ノ四球ヲ出ス十三加フルニ打撃ノ拙ナルヲ如何セン、遂ニスコンクゲームヲ以テ(五ゲームニシテ)終ル。忽チ起ル萬歳ノ声ト共ニ名誉アル月桂冠ハ四年級選手ノ頭上ニ下リヌ。今其ノ光栄アル士ヲ挙グレバP山本、C服部、SS久野、1B岩上、2B鈴木、3B藤巻、RF河合、CF井本、LF風岡ナリ。
 五年級 P伊藤、C戸村、1B横山、2B竹尾、3B河合、SS久野、LF比留間、CF戸苅、RF浅井。

 東海五県連合野球大会

 第三回東海五県連合野球大会は、明治三十八年度には参加校も八校に増え、当然試合日数も増え、浜松中学の校庭で八月十八日から四日間の日程で開催された。
 当時の新聞では、参加校の関係から、東海三県と称している。
 試合の組合せは、
 18日 大垣中学校 対 岡崎中学校
     明倫中学校 対 見付農学校
     名古屋中学 対 静岡中学校
 19日 名古屋中学 対 岡崎中学校
     大垣中学校 対 浜松中学校
     豊橋中学校 対 静岡中学校
 20日 大垣中学校 対 明倫中学校
     名古屋中学 対 浜松中学校
     豊橋中学校 対 見付農学校
 21日 岡崎中学校 対 浜松中学校
     見付中学校 対 静岡中学校
     明倫中学校 対 豊橋中学校
 なお、校名は正式の名称ではなく、地名を冠称したもので、愛知一中を名古屋中学、愛知二中を岡崎中学、四中を豊橋と記している。
 八月十八日開会予定が、前日の雨で校庭不良のため延期となり、組合せも変えて十九日開会された。
 (新愛知・八月二十二日付)東海五県聯合中等学校野球大会は、既報の通り去る十九日より浜松中学校運動場に於て開会せり。同日の結果は、第一回岡崎七に対する名古屋十三にて名古屋勝、第二回豊橋零に対する明倫五アルハーにて明倫勝、第三回見付二に対する静岡十二にて静岡勝。一昨二十日は午前九時より静岡中学対明倫中学を以て二日目を開始し、静岡の二点に対し明倫十二点にして明倫の勝に決し、午後二より大垣中学対浜松中学の試合を開始せしも、中途降雨のため勝負を決するに至らずして中止せり。

 豊橋対明倫戦(第四中学校の不成績)

 十九日第二回、四中対明倫中学は共によく打ちよく働きたるが、遂に四中一点を得るなく明倫五アルフアーの勝利を占めたり。此の戦僅かに一時二十分、四中四球六、安全球一、三度振六に対し、明倫四球七、安全球二、三度振七にて両軍選手の技術余り隔てなしといえども、明倫の方場所馴れたるだけ、どこかに巧者な点ありし。

  四中000000000−0
  明倫12000200A−5   審判第一高等学校選手小西氏

 大会三日目は前日の浜松対大垣の試合を再開したものの、四回浜松七点、大垣一点の時、またもや降雨の為中止となった。
 二十二日は明倫対静岡は十四対一で明倫が大勝した。次いで中止となった浜松対大垣は六対一で浜松の勝利となった。

 豊橋対見付戦

 第三試合豊橋対見付は、三十対八で四中の勝利となり、十九日の汚名をそそぐことができた。
 (新朝報・八月三十一日付)今その模様を記さんに、競技開始後見付軍に負傷者を出し志気喪失したれども、続いて立合に第一戦は見附得るなきに反し、豊橋九点を占む、既に勝敗の技は見たり。而して第三戦までは、十〇対三にて七点の差に減じたれども大勢如何ともするなく、第四戦以後豊橋二十点を加ふるに対し見付僅に五点を増すのみにて大勝を得たり。
 此の戦二時三十分の長時間を要せしは、四球(豊九、見十九)の多きと、両軍共にエラーを数ふるにいとまあらざりしによる。見付の敗因は打方(豊安全球六、三度振七に対し、見安全球一、三度振十一)を初め、守り方、走り方すべて豊橋に及ばざりし。  審判官は元七高選手鵜飼氏にして得点表左の如し。

  見付030100130−8
  四中91024446A−30

  明治三十九年度(1906年)

 本年度の第四回東海五県連合野球大会(大垣中学主催)に、本校は参加しなかったが、校内試合は数多く行われ、夏休みには戸田保忠先輩や、一高選手梶井氏らがコーチに来校、技を磨き、対抗試合も行われた。

 主な記録(校友会誌から)  明治三十九年自四月至十二月試合一括

四月二十七日 混合試合      〇ー〇 無勝負
    同  日 混合試合      一ー一 延期
五月 十六日 一、二年練習試合 六ー六 延期
    十八日 一、二年練習試合 三ー四
    十九日 一、二年対寄宿舎 〇ー十一一、二年負
   二十二日 二年対四年    二十三ー八 二年勝
   二十四日 一、二年対三年  十四ー八 一、二年勝
   二十五日 一、二年対四年 十九ー九 一、二年勝
   二十六日 二年対五年    十ー二十四 二年負
   二十八日 五年甲対五年乙  九ー四 甲勝
   二十九日 混合試合     三ー三 延期
     三十日 混合試合     四ー六 左軍勝
   三十一日 一、二年練習試合 二ー三
六月   一日 一、二年練習試合 〇ー六
  *六月三日(一、二年級対抗)二中運動場 四中14ー7二中
 期日不詳  二、三年練習試合 六ー五
 期日不詳  二、三年練習試合 五ー十二
 *六月十日(一、二年級対抗)本校運動場  四中2ー2安城農林
    十一日 一年対二年    一ー十一 一年負
    十三日 一年対三年    三ー一 一年勝
    十四日 二年対四年    二ー〇 二年勝
十五、十九日 一年対二年    二ー八 一年負
    二十日 二年対五年    〇ー二 二年負
   二十一日 寄宿舎対通学生  六ー八 寄宿負
七月   三日 混合試合     二ー八 左軍勝
   二十二日 対一年生志願兵  九ー〇 本校勝
九月   一日 選手練習試合  十六ー一
 期日不詳   選手練習試合   四ー七 左軍勝
 期日不詳   選手練習試合  十八ー三

九月八日 四  中500100010−7
       浜松中002100000−3

     十九日 選手練習試合   四ー十一左軍勝
  期日不詳  選手練習試合   二ー三

九月二十四日 四中00000000100−1
           二中00001000000−1
        延期試合となり十二月二日再試合

十月   九日 一年対三年    六ー十二 一年負
    十二日 二年対五年    一ー八  二年負
十一月 五日 三年対四年    三ー七  三年負
      七日 四年対五年    〇ー二  四年負
      八日 五年対校友会   六ー四  五年勝

十二月 二日 四中 000020010−3
          二中 00050000A−5

この試合に野球部応援歌があり、いかにも明治調らしいので記しておく。

       明治の応援歌              四中の門下六百の
                              丈夫男子の五体には
                              三河武士てふ名も高き
                              父祖に血潮の踊るなり
                              如何なる敵の寄せ来とも
                              などで後れを取るべきぞ



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