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                    時習館野球部創部100周年座談会(平成12年2月13日)

                    伝統を受け継ぐ一世紀 ”野球、青春、甲子園”

                          

                     
      牧野         竹内        岡田         西崎       大沢       中野        山口

出席者
 豊中クラブ世話人  牧野喜八郎(豊中39回)  記念事業実行委員長  大沢輝秀(時習8回)
 OB会前会長  竹内基二郎(時習1回)  ベースボールマガジン社記者  中野聖巳(時習43回)
 OB会会長  岡田 互(時習6回)  慶応大学野球部4番打者  山口大輔(時習48回)
 東京六大学野球理事  西崎若三(時習7回) .
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 東愛知新聞社 社長  藤村圭吾  東愛知新聞社 営業局長  樋口幸広

 創部百周年を迎えた時習館高校野球部。同野球部は大澤輝秀氏(オーエスジー社長)を実行委員長に平成十二年二月十三日ホテル日航豊橋で、創部百周年記念講演会と祝賀会を開催する。そこで、記念事業実行委員長の大澤輝秀氏、現役の慶応大学四番打者ら野球部OB代表を招き、思い出や後輩への期待など語り合ってもらった。


 司会 牧野さんは豊中三十九回卒、豊中野球部のOB会の会長、そして、親子二代野球部だということですね。
 牧野 OB会長は、竹内君が初代なんです。私の場合は昔の豊中クラブ、大正五年の第二回の選手県大会へ出た直後に、OB連中が後輩の面倒をみようというようなことからつくったんです。うちの親父が口火を切ったらしいんだけれども、それが初代の世話役。だから、申し合わせでつくったということで、会則も何もないです。それからいろんな方が引き継いでいって、私が最後の豊中クラブ世話役ということです。

 司会 竹内さんは、時習館一回卒、時習館の初代のOB会長をやられたんですね。
 竹内 昭和二十七年、春の選抜ですね。私は立教大学の三年生でした。そのときに監督の渥美先生の補助的な役割で私が現地監督ということでやりまして、練習のグラウンド探しが大変でした。一つのグラウンドで、例えば一時間しかとれないんですね。多くても二時間しかとれない。例えば、県立尼崎市営球場とか、日本生命の球場だとか、そういったところを探すわけです、そういう役目もありましてね、大変苦労したという思い出がありますね。

 司会 岡田さんは時習館六回卒業で、選抜大会に二度出場され、主将だったわけですね。
 岡田 そうです。竹内さんの後、時習館のOB会の会長をやらせてもらっています。私どもは、運良く二年つづけて行けたんです。三塁手として出場しました。二回目のときは、優勝した洲本高校と対戦、バントヒット一本で一対〇。時習館はヒット三本、相手は一本、悔しかったですよ。

 司会 西崎さんは時習館の七回卒で、選抜大会の出場時の主将であったわけですね(これは間違い)。そして、立教大学へ進まれたわけですが、立教では完全優勝されたわけですね。
 西崎 四年生の春ですね、いま巨人の監督の長嶋さんとか、杉浦さんというそうそうたるメンバーが抜けた後、十戦全勝で完全優勝でした。三回連続、ベストナインにも選ばれました。高校時代は甲子園というのが夢でした。私は老津の中学からですが、中学時代はほとんど練習はしていませんでした。野球部に入ったら人数が少いし、とても練習が厳しかった。それでもう、ほとんど、夏のシーズンが終わるまで一年生、新チームになるまで三分の二ぐらいさぼりましたね(笑い)。たまたま渥美先生が素質を認めてくれたのか、電報が来まして呼び出された覚えがあります。

 司会 今回の百周年実行委員長をやられます、大澤さんは、時習館第八回卒業で、当時はプレーイングマネジャー。
 大澤 実は、甲子園へたまたま二十八年の春に、岡田さんと西崎さんのチームが二回目の出場をされた。私は、その二十八年の四月一日の入学で、入学が決まったときに甲子園へ行っているんです。二十七年、二十八年と連続して二回も行けば、また行くだろうと思いますよね。甲子園なんて近いものだと思って悠々としておりました。そんなことで、甲子園へは一度も行っていないんですよ、応援にも。(笑い)西崎さんたちが三年生になったとき、私どもの学年が二年生になりますね。チームが編成できないほど数が少くなっちゃったんですよね。それで、私が野球部室へよく顔を出していたら、お前も付き合ってやれよって(笑い)。それで私が今言った、変なマークだなって当時思ったんですが、あの継いだぼろぼろのユニホームかなんかを着込んで、一緒になって野球の練習をやりました。今、西崎さんが言われるように、私はいつもバッティング練習のキャッチャーですよ。そんなことが私と野球の関係ですね。三年生になったときに、ちょっとけがをして野球をやめました。

 司会 けがは、その野球のけがですか。
 大澤 ええ、野球でね、実は坂田っていうノーコンのピッチャー。後に熊谷組で活躍していますが、あの男のボールを怖がる選手がいて、藤田監督が、短い間隔で思い切り投げ合ってキャッチボールをやれと。あのノーコンめが、私の目へ当てた。それで結局、練習どころじゃなくなってね。野球部中退(笑い)中途入学、中退なんていうそういう選手です。

 司会 では、中野さんに伺います。四十三回卒業で、現在はベスボールマガジン社へお勤め。野球部のマネージャーを当時やられたんですね。そして、東京六大学、立教大学女性初のベンチ入り経歴ですが。
 中野 黄金時代の先輩方と私ははなれているんですが、もう、私が高校生のころは進学校という色が大変濃かったので、部活は二の次で、全部勉強っていう空気が学校の中にあったんですけれども、私がちょうど一年生ではいったときに、監督が、今の高野連の理事をやっていらっしゃる菰田先生が監督に就任されて、練習の仕方とかもがらっと変わりまして、勉強もするけれども、部活も負けないぐらいテスト期間中もずっと休まず練習をやってました。小泉という好投手がいたこともあったんですけれども、すごくまとまったチームで、三年生のときにはベスト16。オール三河でも準優勝になりまして、それまで二次リーグのもなかなか行けないような感じだったんですけれども、もう二次リーグの常連になりまして、すごく恵まれた環境でした。

 司会 子どものときから野球は好きだったんですか。
 中野 小学生のときに、よく父親に名古屋球場に連れて行かれて、中日ファンに自然になって、きっかけはそういうことなんですが、自分でもソフトボールを二年ぐらいやっていたんで、野球に関(かか)わりたいなと思って、高校にはソフトボール部がなかったので、野球の一番関われるのはマネージャーかなと思いまして、それがきっかけですね。

 司会 山口さんは四十八回卒。慶応で四番打者をやられて、今年卒業して東京ガスへ入社と、もちろん、東京ガスでも野球はやっているんですね。
 山口 当時は、甲子園と縁がなくて、東三河では、九年ぶりか十年ぶりに優勝をすることができたんですけれども、その後、県大会でもベスト8まで進んだんですが、五対〇からさよなら負けしまして(笑い)。その試合に勝てばベスト8で、四強リーグって、それにベスト三チームが東海大会に出るという感じなんですけれども、でも、五対〇になりまして、これは東海大会に出れるというよりも甲子園に近づくんではないかと、チームの中でも多少、この試合はもらったなというような雰囲気だったんですよ。結局、自分たちのミスでさよなら負けで終わってしまったんです。今、同期で集まってもその話が出るんですよ。

 司会 牧野さん、野球道具など、当時は今と大分違うと思いんですが。
 牧野 昭和七年当時、今と比べれば相当の差がありますけれども、創設当時の話を聞きますと、道具がない、グラウンドがない、それから、服装、そういうものは一切ないということで、ストッキングをはかないのが自慢だったら思惟。ストッキングをはかなくて、足の黒いのを見て、ああ、あそこのチームはよう練習やっとるなという、こういう判断をされたということを周りから聞きました。当時、万井信太郎さんとかいう部長さんが、これが一高、東大の野球部ですよね、それが部長になってきた。

 司会 大正二年野球部応援歌「三州の野に」をつくられた監督ですね。
 牧野 当時は四中。校歌も無い時代で、その満井さんが作った応援歌が校歌がわりだった。大正四年と五年、これが第一期野球部の全盛期でした。

 司会 ボールは。
 牧野 それは硬式ボールです。これはみんな手縫いです。もう今は機会で、ミシンで縫うんですけれどもね。それがすぐ、バットの摩擦でもって傷むんです。だから、みんな自分でボールを縫ってね。なかなか高価なものだったからね。初めは硬かったけどね(笑い)。そういうボールだとか、今でこそグラブ、ファーストミット、キャッチャーミット、こういうふうに分けてあるけど、どこのポジションでも同じような指のくっついたようなグラブでやった覚えがあります。

 司会 昭和七年に野球統制令なんていうのがあったそうですね。
 牧野 いわゆる大正の末期から昭和の初めぐらいに野球がものすごく隆盛した。野球があまりにも過熱して、数多く大会が開催され有名校は遠征が多く、学校体育からかけ離れたためでしょうね。

 司会 戦後になりますと、竹内さん、当時の野球部というと。
 竹内 まずグラウンドづくり、校庭は、全部芋畑。その芋の蔓(つる)をまず取る。大きい石、小さい石がいっぱいあるのを取り除く。そして、平地にしたところへ石のローラーに棒を通して、両端を綱で結んで、前の人間がそれを肩にかけて、後ろから二人ぐらいで押して、これは本当に辛かったですね。それはまあ、汗と涙、涙ですね。そのグラウンドづくりというところから始まったので、今思い出すと大変いい経験であった。今、牧野先輩がおっしゃった、バットはね、二本しかなかったですね、そのうちの一本が竹バットで練習した。
 西崎 わたしらが使っておった竹バット、恐らくあれを使っておったと思うよ。あれは折れないもんな。
 岡田 そのかわり手がこんなにはれちゃうもんで(笑い)真っ直ぐ当たらない限り、ここへバカーンとくるんですよ。
 竹内 今、ボールの話が出ましたけれども、そのボールは、縫うんですよ結局、あの糸が切れるわけですからね。それを二つ三つうちへ持ち帰って、縫い目に合わせて家で縫うわけ。それが、三、四回やりますと、それがぶよぶよになるんですね。芯(しん)は硬いが、革がぶよぶよになると。その練習のときに白いボールは絶対握れなかったですね。だから、試合前、内野にボールを回すんです。そのときが一番うれしかったですね。真っ白いボールで。
 牧野 竹内君たちのころにはそろわなかった。もう、岡田君たちのころには大分そろってくる。

 司会 その当時は大分中身も変わっていますね。
 岡田 僕たちは、昭和二十七年と八年に甲子園へ出場できたんですが、そのころは先輩と後輩の機能がうまくつながっておって、今のことを思うと雲泥の差ですが、それこそ牧野先輩が全国から優秀なチームを連れてきて模範試合をやらせてくれたりなんかして、また、立教の竹内さん、それから法政大学、慶応、東大、日大の先輩たちが、休みになると、もう必ず指導に来るんですね。だから、先輩と後輩とのつながりが本当にうまくいっておったと思うんです。それで、その人たちに憧(あこが)れては、僕らも野球をやっていったという、そんな感じでした。
 二十七年のときは、私の一年先輩が、愛知県で中学校の野球大会で優勝したチームなんですね。だから当然、高校へ来ても優勝するというような感触でした。僕らの同級生というと、白井勉君って、羽田中のベーブルースですね、そんなのがおったり、竹内和男くんっていうのは愛知県で相撲で優勝しましたし、大投手の大山敏晴くんは中学時代は小さな大打者、徳増浅雄君は中部中の大型ショートと言われ、僕自身のことを言いますと、豊城中学で青陵に一回だけ勝ったんですね。それが、僕が二塁打を打って勝った試合なんですけれども、そんなことがあって、それぞれの世界のリーダーだったような気がします。
 その後は、ここに見える西崎若三君を初めすごい素質の選手ばっかりだったので、西崎君などは、校内体育大会で二百も四百も八百も全部優勝している。蛇足ですが、僕らのときも校内マラソンではいつもナンバーワンでした。菅沼光春君と中西克哉君は校内遠投大会で一、二位を争っていた。なお、大羽義人君、小柳津正君は今、軟式野球を楽しみ現役で活躍している。だから当然、甲子園へ行けるなという感触は得ていたわけです。
 竹内 西崎君のことで思い出すのは、バットをタイヤに打ちつけるでしょう。西崎君のバットは、バーンと当たってとまっちゃう。普通は、ボーンと跳ね返るんだけど、西崎君のバットは、ぴたっととまる。全身ばねっていう感じだったね。

 司会 待望の甲子園へ行かれたということで、華やかな時代があったわけですね、大澤さんがプレーイングマネージャーをなさったのは。
 大澤 そうなんです。行くもんだぐらいに思いましたよ。ただその当時の甲子園っていうのは、今ほど甲子園の価値がそりゃあ、野球人にはあったんですけれども、一般的にはまだまだそんなに、地元が大いに燃えるという雰囲気じゃなかったですね。今思い出してみると、詳しいことはわからないんですが、私どもの学年の八回生卒業が、この年度で、実は野球部に私を含めて五人しか行っていない。それは、なぜかというと、実は野球のうまい連中は結構いたんですよ、中学のときやっていたやつが、なぜか、甲子園へ行ったために、ものすごく練習が激しくなったんですね。それで、野球部は厳しいぞというようなことがあって、どうも野球部は厳しいぞというようなことがあって、どうも野球部入りする選手が少くなっちゃったんだろうと思いますね。渥美政雄先生の後を藤田良彦先生が、まだ二十三、四でしょうね、大学を終えて来たばっかりでしたからね、ものすごく激しく、甲子園へまた行こうというつもりだったんでしょうけれども、激しい練習のときもあったと思うんですね。そんなうわさがさあったというのは私も思い出せませんけれども、多分野球は大変だ、練習が激しいぞというようなことで部員が少くなったんだろうと思います。
 きっかけは、菅沼光春というキャッチャー。甲子園で西崎君と同期で名キャッチャーで、飯田線組なんですね。朝はいつも一緒になるし、それから、帰りも、いつも野球の練習をやれば一緒にやれる。彼は非常にいいキヤッチャーミットを持っていたんですよね。菅沼が受けるといい音がしてね。それで彼が、おい、こんなに少くちゃしょうがないぞ、お前、一緒に野球やれよって言って、それで、いわゆるマネージャー兼プレーイングを。

 司会 その選抜出場を決定した当時の話で、初出場のときと二度目のときは扱い方がまるで違ったと聞きますが。
 牧野 いや、それはそうかもしれん。選抜というのは、僕は随分苦労したんだけれども、結局、時習館っていうのは進学校でしょう。夏の大会と違い、選抜の場合は、県大会を経て東海大会、そして、優秀な学校、上位学校が選ばれる。岡田君のときには、県では二位だったんです。それで、東海大会へ行って中京よりも上へ行ったんですが、県の理事会がどれを一位にして推薦するかということでもめまして、それで結局、選抜大会に近い時期を選べということが東海大会ですから。今、シリーズ戦になっていますけれども、だから、あのころもそうですけれども、十一月で切れちゃうんですね。だから、それまでに甲子園に近い時期に優秀な成績ということになると、時習館が上なんですよ。ところが、県大会の場合は名古屋の理事が多いし、推薦の場合、中京と時習館と、二つとも一位で推薦しちゃったんですよ。だから、選択を選考委員の方へ任せちゃった。

 司会 政治的に動いたわけですね。
 西崎 渥美監督は選抜を狙うということになって、内藤治夫なんていうピッチャーはいったのもこのころ、飛躍的に成績も伸びていった。結局、選抜を狙うには、県大会に必ず出て行くと。それから、東海大会へ出ると。これより道はないぞということで、何とかたたこうと思って呼んだのが、さっき岡田君が話をした県外の対外試合です。三河相手の連中はしょっちゅうやっているもんだから大体レベルはわかるんですけれども井の中の蛙じゃいかんから、県外から呼べって、あのころは浪商を呼んだりね。
 竹内 飯田から光沢君なんかも呼んだね。小さな大投手でね。
 牧野 あいつは面白かったよ。豊橋へ来たから、何が見たいって聞いたら汽車と海を見せてくれって言ったよ。飯田じゃ汽車は走っておらへんと(笑い)。細谷まで連れて行った(笑い)。
 牧野 今みたいにバスが動いていないからね、飯田線でやって来た。それで甲子園で優勝(飯田長姫高が昭和29年選抜大会優勝)して帰って来たときに、駅でちゃんと出迎えてやった。豊橋で乗り換えですからね。
 竹内 西崎君も覚えているかどうか知らんけど、僕らが招待されて飯田へ行ったら、飯田の駅で花火がボンボン出てね。東海の雄、時習館来たるって。(笑い)
 西崎 ちょっと先輩諸氏から出ていましたけれども、私も時習館の思い出を言うと、同期には、中西克哉君とか、菅沼光春君とか小柳津正佐原博巳芳賀一郎とか山本和伸ね、これは前にしゃべったけど、こういう連中は先輩とのつながりがあって、多分、先ほど、入学前から練習に行くとかがあったと思うんですね。

 司会 スポーツによらず、何でもライバルというのがありますね。四中時代は、愛知一中、また、愛知二中と熾烈な争いをし、中期に至っては、中京商業ですか、そして、現代になるとどこなんでしょうか、当面のライバルというのは。
 西崎 愛知私学四強といわれる中京、東邦、享栄、名電のほか公立も強いのが増えてきた。

 司会 金属バットが出たのは、何年なんですか。
 山口 練習でマシーンを使うときには竹バットで練習しましたけれども、金属バットの方が、真に当たっても先っぽに当たっても力で飛んでいっちゃうので、竹バットですと、やっぱり真を外すと痛かったりしますからね。

 司会 そうすると、練習用には竹バットの方がかえっていいかもしれないですね。
 山口 金属バットよりも、そうですね、木だとか竹バットで打った方が、バッティングの技術は向上すると思うんですけれども。振るのが怖いですね(笑い)。夏はいいですけど、冬場は素手ではなかなか打てないです。

 司会 中野さんの時代は、菰田俊英監督さんですが、当然時代が変わってきて、昔はピッチングマシーンとかそんなものはなかったわけですが、練習機器の整備はかなりされてきたんでしょうか。
 中野 お金がなかったので、ボールとかもすぐにだめになっちゃって、革が剥がれてしまったのを私たちが練習を見ながら縫ったりしていたんですけれども、もう、一つのボールを何回縫っても、もうマシーンに入れると、すぐまた破れちゃう。もうこれは駄目だって言う、革がべろんと剥がれたら、あとはビニールテープをぐるぐるに巻いて、ティーバッティング用の球にするんです。

 司会 山口さんの場合は、近藤至彦監督さんですが、監督さんにはどんな思い出がありますか。
 山口 本当に、練習も試合も、選手の好きなようにと言ってはあれですが、本当にのびのびとやらせてもらった思い出がある。そのために僕らのせいで負けたというのか、自由にやらせてもらったせいで僕らの力がそのまま出ちゃって、実戦を思い切ってやらせてもらったというのがあります。そのお陰で、大学でも続けようと思ったんですね。まあ、社会人でもやることになったんですけれども。でも野球を続けたいという重いが強くなったのは、やっぱり高校で近藤先生にご指導してもらったお陰だと思っています。

 司会 朝日新聞が、夏の大会の八十周年を記念して、八十年欠かさず参加した学校を表彰したといううことで、時習館も出たわけですね。愛知県では、今の旭丘ですが、旧愛知一中と二校あって、これはすごい伝統ですね。ただ伝統だけで喜んでいてはいけないという声もありますね。百年の歴史の中で甲子園は、計三回ですか。甲子園っていうのは遠いですね。
 山口 そうですね、僕の一年生や二年生のころには県大会に出るということはなかった。甲子園へは出たいという気持はありましたけれども、試合をするのは、実際、戦う相手が、やっぱり最初に戦う強いチームを倒さないと県大会へは出れなかったんですよ。
 竹内 優秀なピッチャーガ三人もおれば別だけれどもね、だから選抜がえらいもん。選抜は、もう、岡田君や西崎君のときの経験から考えると、それはもう、えらいことです。
 大澤 ところで、山口君が慶応でやっているときに、練習用のユニホームとか、自分の持っているユニホーム姿で時習館の野球部の練習に加わったことってあります。
 山口 練習用のユニホームで練習に参加したことがあります。
 岡田 僕らは昔、西崎さんはまだ三年生のころだったと思うけれども、内藤さんが、実際に慶応のユニホームを着てね。
 西崎 うん、格好よかった。そりゃあ、慶応は憧れだよね、本当に。

 司会 百年を節目に、今ここで高校野球はどうあるべきかといううことをそれぞれのみなさんにご発言ねがいたいと思いますが、牧野さんからお願いします。
 牧野 これはやっぱり一般的なことですけれども、スポーツをやって何か発達するかというと、本人なんですよ。まず、礼節を重んじますし、もちろん体力、忍耐力、そういうふうなものが自然と養われていくわけですね。そういうふうなことが将来、卒業した後、社会的にどれだけプラスになっていくか。技術的ことは、どんどん立派な指導者がこれから出てきますから、それはもう、練習でこれを教えていくということができるだろうし、いろんな形でもってこれをやっていくということはできると思いますから、やっぱり指導者と選手のコミュニケーションということですが、そういうものを大事にしてもらわないといけないと思います。
 竹内 高校野球全般ということになるとちょっと分かりませんが、時習館の今後ということで、やはり、時習館というんですか、豊中からつないだ、今現在の時習館のその伝統を続けていってもらいたいというのが、後輩たちに、やっぱり、文武両道ということをよく選手にこれからわきまえていってほしいと。今ちょっと出た、クラブ活動の一部じゃないかっていうような監事でおるので、それはそうかもしれませんが、豊中から時習館へ受け継いできた伝統ある野球部というのが、文武両道ということで、そういった面できちっといってもらいたいとねがっています。
 岡田 僕は、まさに幸運だったわけですが、青春、野球、甲子園、そういううものが僕の人生にものすごくプラスしているんです。それで、渥美先生が、僕が一年生に入ったときに、お前たちに甲子園の入場式を一遍味あわせてやりたいと。そうすれば、世の中の見方が全然変わるぞという、そういうことを言われましたけれども、まさに僕はそのとおりだと思っていますので、野球をやって、とにかく勝つと言うこと、それがやっぱり大事なことじゃないかなというふうに思います。ただやったということだけじゃなくて、それにプラス、勝つということですね。
 西崎 私も、やっぱり勝つということが一番大事じゃないかと。たまたま立教の今の六大学の役員を仰せつかっているんですが、去年が立教の九十周年だったんです。それで、最後の秋のシーズンに優勝したんです。これはたまたま、また監督が最後のシーズンだったんですよ。ここでまた優勝しちゃったわけですよ。まあ、その過程にはいろいろありましたけれども、やっぱり、何て言うんですかね、指導者のあり方というのは意外と大事だなと思っています。先ほどいったように、やっぱりちょっとした理論をもちながらちゃんとしていかないと、今の学校の先生がどなたかはちょっとわからないですが、本当に勉強して、やっぱりリーダーとしてうまく分かりやすく説明しながらぴしっとやっていかないと、なかなか上達しないだろうなと、立教もいい選手も結構いるんだけれども、どちらかというとクラブ活動的になる。それで、恐らく、これから変わるというのは、勝ったと、やっぱり十八シーズン、九年ぶりに優勝したと。あの味っていうのは、やっぱり忘れられないということです。やっぱり、勝つということをやっていかないと、なかなかどうやっても、まあ、その過程は長いと思いますけれども、そういうことが非常に大事じゃないかなと思っております。
 山口 まだ現役の立場から、高校野球全般にはなかなか言えないですけれども、東三の高校生というか、時習館の高校生に言いたいのは、甲子園を目指すのは当然だと思うんですけれども、甲子園で終わりじゃなくて、また大学、社会人、一番上で言うとプロになるんですけれども、やっぱり上のレベルで野球を続けてほしい。僕が、たまたま慶応を選んで行ったんですけれども、時習館の今の現役の生徒も野球だけで高校に入ったわけじゃないと思うんで、努力をすればいろいろ道は開ける、僕はたまたま関東を選びましたけれども、関西とか、全国いろいろ野球をする環境というのはあると思うんで、ぜひ上のレベルでやってもらって、全国いろいろ人が集まるんですが、そういう人との出会いというか、先輩、後輩、またいろいろ同期と出会うので、ぜひ上のレベルで、そういう人間関係もありますけれども、挑戦していただきたいなと思っています。
 中野 大学野球の取材をさせてもらって、先ほど西崎さんがおっしゃられたように、やっぱり勝つ喜びを知ったことによってすごく選手自身が欲が出てきたというか、自分たちも頑張ればできるんだという意識改革がすごく大きかったと思うんで、時習館も進学校ですけれども、全国を見渡すと、今年も奈良の智弁高校とか、進学校でも文武両道で甲子園へ出てきている学校があると思うんで、愛知県はレベルが高いと感じています。やっぱり先輩が上で、大学でやったり、社会人でやったりしていると、後輩も続きやすいと思って、今までそういう前例がなかったので、なかなか高校でやめてしまって上でやらない子っていうのがいっぱいいたんですけれども、そういういい前例をまたつくって野球を広げていってもらいたいと重います。学生のときに出会った人たちというのは、すごく今でもつながりがあるので、そういう先輩方とも、野球部というだけで、こう接する機会がありますし、そういうのはすごく貴重だと思うので、大事にしてほしいなと思います。
 大澤 私自身もやっぱり、その人間形成に文武両道のスポーツというのは大きな役割だと思うんですね。それに甲子園というのが、ゴールに一つあるにはあるんですけれども、甲子園を目指すのがすべてじゃない。ですから、もう指導者が一番だと思うんですね。結果を見ますと、指導者のいいところは必ず結果が出ているんですね。時習館は、いい指導者を目指すような教育をまずしていただく。いわゆる継続することが大事なんだよ、その周りからいろんな友達ができ、人間の和が広がっていく、これがスポーツの一番いいところだと思いますね。
 百周年の実行委員長を受けたころ六十歳だった。二月十三日に記念講演会と祝賀会をやり、そして、三月の十九日に記念試合ということで、まあ、いろいろな議論の末に、時習館が記念し合いをやるならきゅう愛知一中という声があって、昨年、この二校が甲子園に、八十周年の記念大会に招待された。もう、ぜひ声をかけてお願いしようじゃないかということになり、快く引き受けていただいた。実行委員会としては、いろんな皆さんの協力で百周年の記念事業ができる。今回の座談会についても、とにかく牧野先輩、私は、実に八十歳になられるれるとは知らなかったんですけど、とにかく、ずっと若い人まで網羅できた。
 座談会のメンバーを決めようというようなことを言って、現役の山口君にも参加してもらい、記念に残る座談会が実現できた。やっぱりこう、次につながる百周年をやって、これからの若い人たちに、我々はいわゆる橋渡しをする役割だと考えております。



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